25.08.03 主の道

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2025.08.03週報.pdf
「詩篇18:21 私は主の道を守り 私の神に対して悪を行いませんでした。」
主の道は正しい道
この詩篇の作者ダビデは、サウル王に追われ、命の危険にさらされる中で、主の道をまっすぐに進んで行きました。「主は、私を必ずこの危機的状況から救い出してくださる」という主への信頼を持って歩み、その信頼は揺るぐことがありませんでした。「主の道」とは、主が示される正しい道のことです。その正しい道は、イエス・キリストです。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」と言われました。私たちが真の神様を知ることができるためには、イエス・キリストを信じて従う以外に道はありません。イエス・キリストを信じて従う決意をするとき、正しい道がどのような道なのかがハッキリとわかるようになります。
主の道は時に険しく見える
ダビデの歩みは、常に危険と隣り合わせと言っても過言ではないものでした。彼はその険しく見える道のりの中で、「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる。(詩篇34:19)」「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから(詩篇23:4)」と告白しつつ歩んでいました。
私たちも、正しい道、主の道を進もうとするとき、その道は、時にとても険しく見えるかもしれません。神のみこころを行いたいと願えば願うほど、みこころを行おうとすればするほど、不義や悪に面と向かわされることになったりします。たとえば、子どもが平気でうそをついたり、人の悪口を言ったりしているのを見るとき、親は子どもがしていることを見て、注意をし間違いを正そうとします。しかし、それでも子供が親の言うことを聞かずに反抗的な態度をとる時、親は反発する子どもの態度に面と向き合わざるを得なくなります。親は、我が子を愛するがゆえに、子どもが間違った道にそれてしまわないように、厳しく叱責します。主の道を貫こうと決意する時、たとえ自分が嫌われても、ののしられても一向に構わない、犠牲を払う覚悟を決めて、そのことに面と向かう勇気が与えられます。
たとえば、家族に福音を伝えるとき、反論されたり、拒絶されたりすることがあったりします。しかし私たちは、たとえ反論されたり、誤解されたり、拒絶されたとしても、愛する家族がイエス・キリストを信じないで滅んでしまうことはとても忍びないので、何としてでも罪から救われてほしいと願うその一心で、福音を伝えようとします。主のみこころがなされることを切に願うがゆえに、私たちは悩み苦しむかもしれません。
主の道を守り抜く時、救われる
しかし、主の道から離れず、守り抜くとき、主は私たちをその苦しみから救い出してくださいます。ダビデは主の道から離れることなく、主に従い通しました。その結果、主は彼をサウルの追っ手から救い出してくださいました。
私たちも、主の道、正しい道を進み、主に従い通す時に、主は私たちをその苦しみの中から必ず救い出してくださいます。私たちは、主に信頼をして決して失望させられることはありません。主の道をまっすぐに歩んでまいりましょう。(岩下 栄作)
心を尽くしたキャンプ 感謝!
先週は、先々週のキャンプに続いて、二回目の夏季キャンプが行われました。今回も「心を尽くして」がテーマでした。開始礼拝の中で、「心を尽くして愛することは、愛することに徹すること、愛し抜くこと」と語られました。二日間のキャンプの中で、心を尽くして愛することを実践し、心を尽くして愛することの喜びを経験することができたのではないかと思います。主に感謝します。



25.08.03 主の道

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「詩篇18:21 私は主の道を守り 私の神に対して悪を行いませんでした。」
主の道は正しい道
この詩篇の作者ダビデは、サウル王に追われ、命の危険にさらされる中で、主の道をまっすぐに進んで行きました。「主は、私を必ずこの危機的状況から救い出してくださる」という主への信頼を持って歩み、その信頼は揺るぐことがありませんでした。「主の道」とは、主が示される正しい道のことです。その正しい道は、イエス・キリストです。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」と言われました。私たちが真の神様を知ることができるためには、イエス・キリストを信じて従う以外に道はありません。イエス・キリストを信じて従う決意をするとき、正しい道がどのような道なのかがハッキリとわかるようになります。
主の道は時に険しく見える
ダビデの歩みは、常に危険と隣り合わせと言っても過言ではないものでした。彼はその険しく見える道のりの中で、「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる。(詩篇34:19)」「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから(詩篇23:4)」と告白しつつ歩んでいました。
私たちも、正しい道、主の道を進もうとするとき、その道は、時にとても険しく見えるかもしれません。神のみこころを行いたいと願えば願うほど、みこころを行おうとすればするほど、不義や悪に面と向かわされることになったりします。たとえば、子どもが平気でうそをついたり、人の悪口を言ったりしているのを見るとき、親は子どもがしていることを見て、注意をし間違いを正そうとします。しかし、それでも子供が親の言うことを聞かずに反抗的な態度をとる時、親は反発する子どもの態度に面と向き合わざるを得なくなります。親は、我が子を愛するがゆえに、子どもが間違った道にそれてしまわないように、厳しく叱責します。主の道を貫こうと決意する時、たとえ自分が嫌われても、ののしられても一向に構わない、犠牲を払う覚悟を決めて、そのことに面と向かう勇気が与えられます。
たとえば、家族に福音を伝えるとき、反論されたり、拒絶されたりすることがあったりします。しかし私たちは、たとえ反論されたり、誤解されたり、拒絶されたとしても、愛する家族がイエス・キリストを信じないで滅んでしまうことはとても忍びないので、何としてでも罪から救われてほしいと願うその一心で、福音を伝えようとします。主のみこころがなされることを切に願うがゆえに、私たちは悩み苦しむかもしれません。
主の道を守り抜く時、救われる
しかし、主の道から離れず、守り抜くとき、主は私たちをその苦しみから救い出してくださいます。ダビデは主の道から離れることなく、主に従い通しました。その結果、主は彼をサウルの追っ手から救い出してくださいました。
私たちも、主の道、正しい道を進み、主に従い通す時に、主は私たちをその苦しみの中から必ず救い出してくださいます。私たちは、主に信頼をして決して失望させられることはありません。主の道をまっすぐに歩んでまいりましょう。(岩下 栄作)
心を尽くしたキャンプ 感謝!
先週は、先々週のキャンプに続いて、二回目の夏季キャンプが行われました。今回も「心を尽くして」がテーマでした。開始礼拝の中で、「心を尽くして愛することは、愛することに徹すること、愛し抜くこと」と語られました。二日間のキャンプの中で、心を尽くして愛することを実践し、心を尽くして愛することの喜びを経験することができたのではないかと思います。主に感謝します。


