14.12.28 聖霊の助け

1228週報タイトル.tiff
「ローマ人への手紙 8:26-28 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

2014年を感謝します

2014年も今日を含めてあと4日ということです。今年も恵みのうちに歩ませていただき、神様に感謝します。
毎週の礼拝は感謝ですが、特別な行事の時も楽しく記憶に残っています。オイコス休暇やキャンプ。遠い昔のような、あるいは昨日のような。楽しいだけでなく、私たちの信仰に多く実を結ぶきっかけとなったことを感謝しています。
私たちは、常に神様から教えられ、導かれていなければ、決して生きることができない存在であることを教えられたことです。準備のために、また交わりのために、祈らされて、神様に助けられて、前進させられました。このようなことでもなければ、決してここまで祈ることはない、と思えることでした。夜通し祈ったこともあります。みなさんの祈りを心から感謝します。
聖会、ラブ名古屋、バザー、とめまぐるしく月日が過ぎて行く感じでした。そして、クリスマスのこの12月、あっという間に、今日になってしまいました。すべては、クリスマスのために、働きを集結させていただいた感じがいたします。
今年のクリスマス集会は、日曜礼拝、コンサート&メッセージ、に加えてリバイバルクワイヤーのクリスマスマーケット出場がありまして、大変恵まれたことです。クワイヤーにおいては、一般デビューを果たすことができたことでした。みなさん、いとわないで、進んでご奉仕してくださったことを感謝します。
クリスマス集会のチケット売り上げは、全額、名古屋市の歳末助け合いに寄付させていただきました。予定以上の金額になったことを主に感謝します。ただただ神様の助けの中にあることを、喜ばずにはいられません。

聖霊のとりなし

私たちにとって、一番大切なことは祈りだと思います。ですから、その祈りを聖霊様が助けてくださるのだ、と聖書は教えています。どのように祈ったら良いかわからない私たちの祈りを、聖霊様は、「深いうめき」をもってとりなしてくださるのだと説明されています。
祈りは、父なる神様に対して祈ることですが、私たちはイエス様の名によって祈るようにすすめられています。イエス・キリストを通して、でなければ祈りが聞かれることはありません。その祈りを最善にするために、聖霊様が助けてくださるということです。祈りの中に父・子・聖霊の三位一体の神様の働きがあるのです。
何を今祈るべきか、どういう言い方で祈るべきか、その最善を「深いうめき」によって助けてくださるのが聖霊様の働きなのです。このことは、異言の祈りのことと解釈されていることですが、知性の祈り、つまり私たちにとっては日本語の祈り、においても神様は助け導いてくださり、最善の、最高の祈りをさせてくださると理解できることです。

神様の支配に生きる生活

私たちが神様のご支配の下に生きるなら、平安があり、必ず恵まれ、神様からの語りかけを受けます。人は神様の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのです。(マタイ 4:4)
ですから、イエス様を信じたということだけでなく、イエス様の支配下に生きることを日々、選び取らなければなりません。それは自分の考えを捨てて、神様の考えによって生きるということです。このことは、すでにイエス様を信じたときに決意したことです。私たちが自分なりに生きるなら、もはや神様のご支配から迷い出てしまっていることです。そこには確かな平安はないでしょう。いつも気が付いたら戻ることです。
祈りは、自分の考えを捨てて、神様の考えで、神様のことばで、祈る絶好の機会です。自分の考えを捨てて、与えられることばで、祈ることができます。私たちが自分の考えを捨てる決意をするなら、神様の語りかけが明確にわかるようになります。(ヨハネ 7:17)
聖霊様は、私たちの心の中を「探り窮める方」であると説明されています。日本語の祈りでも、何をどのように祈るのか、教えられて、神様の与えてくださることばで祈るなら、そこには平安があります。神様のご支配下にあるからです。
この一年も神様のご支配下にあって過ごし、新しい年も、神様のご支配下にあって過ごせることを感謝します。平安であり、祝福の一年が約束されています。神様に感謝します。

14.12.21 クリスマスおめでとうございます

12.21週報タイトル.tiff
「マタイの福音書 10:32-33 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」

イエス・キリストは、私たちの救い主として、お生まれくださいました。神であられる方が人としてお生まれくださったのです。その目的は、私たちを罪から救い出すためです。私たちの受けるべき罰を、代わって受けてくださり、十字架で死んでくださいました。誰でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神様との関係が生まれて、新しく生きることができます。
このようにして、救いの道を開いてくださる救い主が、お生まれくださったことをお祝いするときが、クリスマスなのです。
多くの人は「そうなんだ。クリスマスはキリスト教から出た、お祭りなんだ。それが世界に、広まったんだね。」と理解しています。そして、「クリスチャンは、神が存在して、イエス・キリストが人となった神だと信じているんだね。そんなふうに考えているんだ。」と、言います。
しかし、我々がそう考えるのではなくて、事実がそうなのです、と申し上げたいのです。その事実を知ったから、クリスチャンになったのだ、というのが私たちの思いです。このことをどのようにしたら、わかっていただけるかと、いつも悩んでいるという人も多いのではないでしょうか。
クリスマスをお祝いしつつ、神の存在について、少し考えてみましょう。

神は死んだのか

「神は死んだ」とは、19世紀の哲学者ニーチェのことばです。神は存在しないのだ、という意味なのです。もともとは牧師家庭に生まれ、クリスチャンとして育った人ですが、他の思想に影響され、信仰から離れて行きます。神を信じていた者が、神は存在しないのだ、という考えになるときの表現として、神は死んだという言い方になるのでしょう。
このニーチェのような考え方が、世界に広まって、特に哲学者、科学者は真剣に神の存在を否定しています。そんなことを題材にした映画「神は死んだのか」を見ました。その内容がとても良かったので、結末に触れない範囲でお話ししてみたいと思います。

将来を捨てるかイエスを拒否するか

大学に入学した青年が、ある教授のクラスを受講したいと決めました。その講義の初日、教授は約80人の学生たちに、神の存在について議論するのを省くために、まず「神は死んだ」と一行だけ書く論文を提出させます。しかし、全員が用紙を提出する中、青年は、それを書けないと言います。「部屋で祈るのは一向にかまわないが、ここでは、神は死んだと書け。そうでなければ、授業はできないので、他のクラスに変えるか、落第点を覚悟せよ。」と迫られます。しかし、それでも、そうしようとしない彼に対して、教授は、これからの三回の授業の最後にそれぞれ20分ずつやるから、「神の存在を証明せよ」と迫りました。結局、二回目の授業から、青年の神の存在についての証明が始まります。クラス全員が教授の言うことに従っているのですが、それを覆さなければ、青年の言い分は認められないことになります。

イエスは友だから

親にも反対され、恋人にも愛想を尽かされ、一人でとにかく教授の言い分を、科学的な論証をもって覆そうと、勉強を始めて行きます。「どうして、そこまでするの。」クラスメイトからの質問に対して、「神様が自分にこのことをせよと言われているのだと思う。」と答えます。また、「イエスが友だから」拒否することができない、とも言います。「わたしを人の前で認める者」を実践して生きようとするのです。このみことばは、彼が牧師に助けを求めたとき、示してくれたアドバイスでもありました。
「イエスを人前で拒否してはいけない」と少しでも感じるとき、神様が、人前でイエスを現そうとして、自分を使ってくださろうとしているときなのだ、ということなのです。

存在される神に導かれている

結局のところ、見えないけれども神様はおられ、その見えない神様が全てを支配しておられ、人に自分に働いて、神様のなさりたいことをなさっておられるのです。人を動かし、神様の存在されることを示し、また、人を助け、本当に必要としているものを与える、ことなどを神様がされているのです。
神様は、人がご自身を認めることを望んでおられます。あなたが今日ここに来ようと思ったのも、あなたの心に神様がその思いをお与えくださったからです。あなたが友だちや家族を誘いたいと思ったのも、神様がその思いをお与えくださったからです。
人の問題は、自分の心をコントロールできないということです。意識しない心の奥底で、なぜ怒っているのか、なぜ恐れているのか、わからないで生きています。私たちは、神様に、何を信じるべきか、何を考えるべきか、何をするべきか、教えられなければならないのです。
そのために、私たちの内に住むことのできる神、イエス・キリストがお生まれくださったのです。クリスマスを心から感謝します。

14.12.14 何から逃げているのだろう

12.14週報タイトル.tiff

「創世記 3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

今年もわずか

今年ももう残りわずか、というときになりました。毎年、クリスマスや年末年始の準備で、忙しくしていますので、今年もわずかと感じる余裕もないのが実情です。しかしながら後二週間ほどで、新年を迎えるのです。立ち止まって、何をしているのか、考えてみたいと思います。
多くの人は、何かに追われて生きています。特にこの時期に、追われていない人がいるなら、その人は、かえって何か、沈み込んでいるか、期待なく過ごしている人ということになります。
この時期には、追われていることが、当たり前であって、むしろこのあわただしさで、日常を忘れられる、という面すらあるように思うのです。年末などの特別でない時期の日々は、では追われていないのかというと、そうとは言い切れません。多くの人は、普段、無意識のうちに、何かに追われて、そこから逃げようとしているのではないかと考えられるからです。

気付けない心の中

あなたは、自分では何が起きているのか気付けないけれども、自分の思いの中に、意識できないあるものを恐れ、それを避けようとしているのではないか、と考えられませんか。何か恐いもの、苦手なものを避けて生きている、ということです。これは、追われて生きていることではないでしょうか。
たとえば、面倒くさいと感じることがあります。これを感じさせるものが近づくと憂鬱になり、不機嫌になったり、やる気をなくしたりします。そして、その憂鬱な思いになることが嫌で、問題を忘れようとするわけです。面と向かう必要のあることを、後まわしにするということです。面倒くさいことを突きつけられると、それに追われて、逃げ出すのです。つまり追われて生きています。
それでも、その面倒くさいことを避けるわけにはいかないという事情もあります。働くことは面倒くさくても、働かないと生きて行けないので、働くことになります。多くの人がそうでしょう。しかし、このときもまた追われています。実際、面倒くさいという感情よりも、生きて行けなかったらどうしよう、という恐怖が勝っているので、その恐怖に追われて働くのです。追われて生きています。

暮れには、普段を忘れられる

気付けないことですが、人生を追われて生きているのです。暮れの時期に、追われることは、普段よりはむしろ積極的に追われていることです。ですから、普段の追われている気持ちを、少し忘れることができます。「大変だ」「あとわずかだ」と言いながら、少しは希望を持って、追われることを楽しんでいます。
しかし、正月が終われば、みんなに共通であった、年末年始の追われる時期も終わります。みんなで追われているので、恐くなかったのです。そして、またいつもの恐怖に追われる日々が始まるのです。無意識にです。

悪魔にあやつられて

悪魔は、あなたが恐れるものを知っています。あなたの無意識の心に、あなたが恐いと思ったり、面倒くさいと思ったりするものを突きつけます。すると、あなたは磁石のN極とN極、S極とS極が反発するように、まるではじかれるように、恐れから逃げ出します。問題に面と向かうことが必要なのですが、避けて忘れようとします。
あるいは、わかっているけど後にしよう、と先延ばしにするのです。愛することが必要なのですが、神様を第一にすることが必要なのですが、意識できない何かを恐れて、追われて生きています。悪魔の思うつぼではないでしょうか。悪魔にあやつられているのです。

主への恐れは、引きつける働き

しかしながら、神様に対する恐れは、私たちを引きつけます。悪魔はあなたを追いやることはできません。あなたが、神様を恐れるなら、あなたの心の根底で起こっている、得体の知れない恐れは、存在しえなくなります。問題に面と向かうことが、勝利だと理解できるのです。
逃げないこと、愛に向かうことが、あなたのやりがいになります。避けたい思いは残っていても、人生で、この方向にしか、幸せはないのだと、主の導きに信頼できるのです。「私は一体何を恐れているのだ」と立ち止まって考えてみる必要はありませんか。

14.12.07 アドベント

12.7週報タイトル.tiff

「マタイの福音書 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

アドベントとは待降節とも言い、主の誕生された日、クリスマスを待ち望む、クリスマス前日までのおおよそ4週間の期間のことです。4回の日曜日を含みますので、今年は11月30日から12月24日までの期間ということになります。
教会の行事として発生し定着して来たことです。私たちもクリスマスを特別な伝道の機会として捉え、毎年、その準備をしています。今年は、同じ会場を使用しまして、連続三日間の催しを計画しています。それに加えて、東海テレビ主催のクリスマスマーケットに、リバイバルクワイヤーが出演することも予定されています。大いに主のご降誕を喜んで、クリスマスを待ち望んでまいりたいと思います。

名古屋クリスマスマーケット

東海テレビが、昨年から始めた催しです。今年はリバイバルクワイヤーへの出演依頼がありましたので、参加させていただくことになりました。12月13日から25日まで期間で、久屋大通公園 久屋広場で行なわれます。
リバイバルクワイヤーの出番は、
12月14日(日)午後6:30〜7:00
21日(日)午後6:30〜7:00
23日(火)午後8:00〜8:30 です。
販売や勧誘をしてはいけないとの条件がありますが、30分間の進行はすべて任されています。「みことばを歌声に乗せて」のリバイバルクワイヤーの働きの場が拡げられたことです。「詩篇 16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」リバイバルクワイヤーが用いられますように、是非お祈りと応援をお願いします。

クリスマス日曜礼拝

今年のクリスマス日曜礼拝は、
12月21日(日)国際センターホール、午前11:00〜12:30
翌、翌々日とクリスマスコンサート&メッセージが同会場で行なわれますので、三日間連続の催しとなります。
前日20日(土)の夜6:00から設営準備
をすることになりました。飾り付けやイス並べ、機器配線などのご奉仕を皆さんにお願いをしております。できる方は、よろしくお願いします。
三日間とも午前8:45分に会場入り
その他の準備とリハーサルをして行きます。
礼拝の後、今年は、国際センターホールでの食事が許可されていますので、クリスマス愛餐会を行ないたいと計画しています。準備の負担が少ないようにと、仕出し料理を提供する予定です。リバイバルママズが担当してくださっています。なるべく正確な出席人数を知りたいと思っていますので、ゲストの方などの人数をお知らせください。
日曜礼拝の後、テーブルを準備して、配膳を行なっていただきますので、係の指示に従って、素早いご奉仕を全員にお願いしたいと思います。
愛餐会は1:00〜2:30くらいの予定
その後クワイヤーのクリスマスマーケット出演が控えています。練習や翌22日の準備がありますので、よろしくお願いします。

クリスマスコンサート

今年のクリスマスコンサート&メッセージは二日間に分けて行なうことにしました。夜の部だけでなく昼の部の参加希望があったからです。
今年はテーマとして「映画の中の賛美歌」掲げました。なつかしく思い出してくださる方もおられると思います。その他、ゴスペル、クリスマス曲、二日間の内容を変えてお送りします。是非ご家族やお知り合いをお誘いください。
22、23日ともに朝8:45に会場入り
練習やご奉仕をお願いしております。
22日は午後5:30開場、8:30終了
23日は午後2:30開場、5:30終了
23日は、その後、片付けです。素早いご奉仕をお願いします。クワイヤーはクリスマスマーケットに出かけますので、皆さんのお祈り、応援をお願いします。

メッセージ

今年は、メッセージの内容を三日間の連続で、シリーズでお届けしたいと考えております。テーマを「恐れ」に絞りました。人々は、恐れています。恐れていない人はいないでしょう。「失敗」「孤独」「別れ」「嫌われること」「苦しみ」「老い」「病」「死」「失うこと」などの恐れが日常付きまとっていることです。イエス・キリストがその恐れをどのように解決してくださるのか、お伝えしたいと思います。 21日「平安を与えます」、22日「どうしてそんなに恐がるのですか」、23日「恐れが砕かれるとき」のテーマでみことばをいただきます。
具体的に、私たちの人生にある恐れが砕かれることは、私たちにとって最優先の望みではありませんでしょうか。何も要りません。恐れがない人生を歩むことができるなら、すべてを手に入れたのと同じです。「罪から救ってくださる方」に心から感謝します。

14.11.30 自分を捨てる

1130週報タイトル.tiff

「マルコの福音書 8:34 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

いのちを救おうと思う者

普通、人は何とかして自分を価値ある者だと思いたいものです。自分に自身がないこと、自分が情けないと思うこと、恥ずかしいと思うこと、それらの感情を抱くときに、全く気力を失ってしまいます。ですから、一生懸命に、自分が価値ある者だと思おうとします。つまり自分で自分を救おうとするわけです。 そのためには、人が認める価値を身につけようと必死です。自分が役に立つ者、能力のある者、きれいな者、力のある者、と認められるために努力をするのです。自分には「大丈夫だ」「私はできる」「必ずうまく行く」と言い聞かせます。
しかし、そうでありながら、批判や責めに対してはひとたまりもありません。「ダメな人ね」「こんなこともできないのか」「ダサい」と言われたりすれば、とても傷つきます。
人だけでなく、自分でも自分に言います。「そんなことじゃダメだ」「ちっともできていないではないか」「情けないやつだ」「私はダメだ」。自分で自分を救おうとしながら、実際には、悪魔の声に完全に敗北して自分を失っているのです。実際の自分のありのままを指摘されれば、全く立ち行かないのです。 「いのち」とは、魂であり、「自分が自分である」ということです。「私が私である」ということです。「いのち」を救おうとすることは、自分が自分であろうとすることに他なりません。しかし、それなのに、自分であることができなくなってしまうのだ、と言われたことです。

自分を捨てる者

一方、イエス様が言われたことは、「自分を捨て」なさいということです。「いのちを失う」とも表現されています。「自分を捨て」るとはどういうことでしょうか。自分を捨てるとは、自分であることを捨てることですから、自己否定、すなわち自分を否定することです。おそらく世の中の人々が言っていることとは、正反対のことです。私たちもそうでしたが、世の人々は、自分を肯定すること、に必死です。救おうとしているのです。
ここで言う、自分を失う、自分を否定するとは、自分が大丈夫な者ではないと認めることです。自分が罪人である、と認めることです。このことは、自分を嫌うことではなく、自分の真実の姿を認めることです。自分を認めることは、つまりは自己肯定、となります。
世の人々は、自分を良く見ようとすることが、肯定である、と思っていますが、それは違うということが分かります。肯定とは、自分が自分であることを認めることです。そして、自分は罪人なのです。これはそう考えるとか、そう思い込むとか、ということではなくて、事実なのです。
この事実の自分を神様は、愛してくださっているのです。そして、事実であるが故に、救われない存在なのですが、主の十字架が、この罪人である自分を救うことができるのです。これこそが、いのちを得る方法なのです。
であれば、すすんで、喜んで、自分を否定し(捨て)なければなりません。それは、すなわち、真実自分を認める(肯定する)ことなのです。自分を否定することを、恐れてはなりませんし、自分を肯定することを間違ってはならないのです。

そのとおりだ

悪魔は、私たちのありのままの事実を責めます。私たちが、神様の戒めの通りには生きられていないからです。できていません。「愛せていない。守れていない。きよくない。悪い者だ。情けない者だ」と責めるのです。そのとき、人は、自分を救おうとします。否定の声に対して、肯定の声で戦うわけです。「そんなことはない」「大丈夫だ」。しかし、前述の通り、実際は、自分を救うことができません。自分を失うのです。「いのち」を失うということです。
私たちがすることは、心の中の責めに対して、「そうだよ。できない者だよ」と認めることです。そうすることが、自分を捨てることです。これは事実ですから、悪魔は、これ以上私たちを責めることはできません。この事実を主の十字架が救ったからです。悪魔は、私たちの内に住まわれる主を見て、逃げ出すのです。
自分のことを「そのとおりだ」と言うなら、私たちは「いのち」を得ることができるのです。自分が自分であれるほど、自由なことはありません。

14.11.23 真実に生きる

1123週報タイトル.tiff

「ヨハネ 15:5 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」
今週は、私たち自身の真実の姿について考えてみたいと思います。私たちの真実の姿は、どういうものであると神様は語っているでしょうか。また、私たちは、私たち自身を、実際にはどう見ているのでしょうか。神様と私たちの見方には違いがあるのでしょうか。そんなことを考えてみましょう。

罪人であるという指摘

神様は、私たちに対して、「あなたは罪人である」(ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず)と指摘しています。その結果、神様から離れているので、何もできない存在であると説明しています。
たとえば、イエス様が「ヨハネ 15:5 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われましたが、あなたはあなた自身では何もできないと、信じていますか。人がどんなに熱心に求めても、結局は、神様のお考えだけがなされて行くのだと信じますか。「詩篇 33:10 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。」「箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」 私たちは自分の人生で、自分ができることをしていると考えていますが、実際は、神様のご意志だけが実現していることなのです。そういう意味で、私たちが、できることは何もないということです。
熱心に目標を目指している人でさえ、それは神様に使われているに過ぎないことなのです。「ピリピ 2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

考えとことばで自分を守ろうとしている

私たちは、心の中に、「自分はダメだなあ」とか「何にもできていないじゃないか」という考えがよぎるとき、無意識に、反論することばで自分を励まそうとします。自分のことばで、自分を守ろうとするわけです。「いや。少しはできている」「十分にやって来ているではないか。」「他の人よりも少しはましだ」「大丈夫。できる」などです。
しかし、正直に考えてみますと、聖書の指摘通りならば、反論していることばには真実はありません。実際にはできる存在なのに、できていない、と多くの人は考えます。だから、「本当はできるんだ」と考えられるようになることが、救いだと、考えているのです。
真実は、できない者が、イエス・キリストを信じて救われる、のです。イエス・キリストを信じて、そのことばに留まるので、主によって、できる、ということです。私たちの能力によりどころはありません。私たちは、勘違いして、高ぶって、自分の思いで、自分を守ろうとしがちです。

自分の思いの背後に

私たちの考えの背後には、悪魔の働きがあります。私たちの破綻した状況に対して、それを指摘して、私たちを責めます。真実を言い当てられると、私たちは、残念に思います。指摘によって、私たちの心に「自分はダメだなあ」という考えがよぎります。考えているのは、私たち自身ですが、プレッシャーを与えているのは、悪魔です。
私たちは、真実の自分を言い当てられると、ひとたまりもありません。とても残念な気持ちになります。そこで、自分を励ますことばを、用いるのですが、これが問題です。真実ではないからです。
何をしていることになるかと言うと、私たちは、虚偽のことばをもって、自分を守ろうとしているのです。しかし、私たちを守られるのは、主でなければなりません。
私たちはイエス・キリストを救い主と信じたのです。悪魔は、責めるものであって、検察の役割を果たしています。律法に照らして、真実の姿を指摘して、私たちを訴えて、罪に定めようとします。しかし、私たちの主は、私たちの内に住まわれ、私たちを守られる、弁護者です。
確かに、私たちは罪ある、ダメな者ですが、イエス・キリストを信じて、罪なしとされるのです。それなのに、悪魔の誘惑に従って、自分のことばで、自分を守ろうとするなら、悪魔の思うつぼになっていることです。悪魔は、いくらでも、私たちを合法的に縛ることができてしまいます。

悪魔が逃げるとき

私たちが真実の姿で生きるなら、悪魔は逃げ去ります。私たちの内には、主が住まわれていますが、このお方は神様ご自身であり、悪魔に完全に勝利される方です。「Ⅰヨハネ 4:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
もし私たちが、自分の真実を認めないで、かえって、自分のことばで、自分を守ろうとするなら、その虚偽のことばが、私たちを包むバリヤーとして働いています。悪魔は、私たちが主に信頼していないので、私たちの内に住まわれている主を恐れなくて住みます。
実際に、私たちは、悪魔の言うことに対して、「そんなことはない。私は大丈夫だ」と言って、戦っているのです。しかしその戦いには勝てません。悪魔は私たち以上の力のある者です。私たちは、主を離れては、何もできないのです。
しかし、一旦、自分の真実を認めて、それが自分であることを知り、その自分が主に愛されていることを認めるなら、虚偽のバリアーはなくなります。私たちは裸になるのですが、悪魔には、私たちの内に住まわれる主が見えることになります。悪魔はたちどころに逃げ去ります。私たちの心に瞬時に平安がやって来ます。私たちは勝利したことを知るのです。
私たちは真実に生きることができ、それが自由であることを理解しなければなりません。 「ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

14.11.16 権威を受け入れて幸せになる

1116週報タイトル.tiff

「ローマ人への手紙 13:1-4 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」

世にある権威

権威とは、人やものを服従させる力のことです。私たちの周りにはどのような権威があるでしょうか。たとえば、身近では、親の権威があります。父親の権威、母親の権威、これらの下で子どもは育ちます。学校では教師に権威があります。職場に行きますと、上司の権威、社長の権威などがあります。部下、従業員はその権威の下で働きます。
また、国家の権威があり、その権威は国民の総意でもって成り立っています。その国家の権威によって法律が定められ、国民である私たちは、その権威の下に生きています。行政の権威があり、その権威の代理執行者として、警察があり、私たちはそれに従わせられます。
教会にも権威があります。牧師やリーダーに権威があり、そして最高の権威者は神様であることは、みなが認めるところです。

神によって立てられた権威

聖書は、それらすべての権威が、神様によって立てられた権威であると、教えるのです。親にしても、教師にしても、経営者にしても、総理大臣にしても、あるいは警察にしても、その権威は人が勝手に決めたのではなく、神様が決められたことであると言います。
子どもは親を選べない、とよく言われますが、神様は親を選んで、私たちをその両親の間に生まれさせました。そして、人は結婚するまで、その親の権威の下で、親に服従して生きることを、聖書は教えています。親の権威は、神様がお与えになったもので、親が自分で手にしたものではありません。神様が「立てられた」権威であるので、子どもは従わなければならないのです。
国家に服従するのも、それが神様によって「立てられた」権威であるので従わなければならない、ということなのです。国民だから、決まりだから、というのが世の理解ですが、聖書は神様が「立てられた」権威であるから、という理由を説明しているのです。
学校でも職場でも同じことです。教師や上司が権威を振るいますが、仕方がないから、自分が下だから、という理由でなく、神様が「立てられた」権威であるから、従わなければならないのです。

権威者は神のしもべ

権威があるとされる人が、知っていようと知るまいと、聖書は、その人は「神のしもべ」であると言います。それはどういう意味なのかと言いますと、あなたを祝福するために、権威者が神様によって、使われて行くのだということです。つまり、従っているあなたを、上に立つ権威者が認めて、良くしてくれるのです。良くする、つまり「益を与え」られることは、神様がなさることです。
権威者に神のしもべであるという自覚があるなら、幸いです。その権威者自身は神様に用いられる喜びを味わいます。また、その権威を受入てその下に服従する人あなたは、神様によって幸せな人生を歩むことになります。権威者が、自分の権威が、神様によって「立てられた」ものであることを自覚しなければ、権威者自身、空しく喜びのないことでしょう。しかし、その権威の下に生きるあなたにとっては、そのこととは全くの無関係であるのです。あなたは、権威者に自覚があるかどうかに関わらず、その権威は神様によって「立てられた」権威であることを受入れ、へりくだることで、祝福されるのです。「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです」

権威を受入ることが管となる

神様が「立てられた」権威であることを受入るということは、上に立つ権威者自身を受入ることです。その人を愛し、尊敬すること、です。受入るあなたは、神様によって祝福を受けます。権威を受入ることが、神様とあなたをつなぐ管となり、神様の恵みがあなたに注がれるのです。
親の権威を受入て服従するなら、あなたは平安と祝福を得ます。聖書は、父母を敬うものは、長生きをする、と約束しています。教師の権威を受入れて、成績が向上しますし、将来の可能性が広がります。上司の権威を受入て、あなたは昇進しますし、昇給の恵みにあずかるのです。社会の権威に服従することによって、平安で幸せな人生を生きることができます。
しかし、権威者に、神様によって「立てられた」者であるという自覚がないというのが多くの実情でしょう。そこで、あなたには心配があるかもしれません。上司などの権威者に盲従することで良いのか、ということです。
もし権威者が、たとえば、偶像礼拝を強要したり、神様を第一にすることを妨げたりするとき、あるいは法律に反する指示のあるときは、どうすれば良いのでしょう。そのようなときは、その上に立つ最高権威者である神様に従わなければなりません。ですが、このようなことは、明確に判断がつきます。間違うことはないと思いますから、問題ありません。
問題は、あなたの好みによって、判断が変わるようなことがらにおいて、出て来ます。「これをやれ」「あれをやれ」と言われるとき、自分がやりたくなければ「こんなことにも従わなければならないのか」と思うことになるでしょう。あるいは、言い方によって、受け入れがたいと感じるかもしれません。
神様の命令は「愛しなさい」であることを思い出してください。もし仮に、上に立つ人をあなたが愛しており、大好きである場合には、当然従いたいし、聞いてあげたいと思うと想像できるなら、あなたは服従するべきです。あなたは幸せになります。あなたを幸せにするのは、その権威者ではなく、神様であることを思い出してください。

14.11.09 権威によって守られる

1109週報タイトル.tiff

「詩篇54:1 神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。」

権威

権威とは、辞書によると「服従させる力」とあります。つまり権威とは、他の人やものの上に立ち、それらを支配し、従わせる力のことです。その権威の下にあるものは、その権威に対して必ず従うことになります。権威とは、わかりやすく言うと、逆らうことのできない力のことです。
ですから、もし逆らうことができるなら、その権威はもはや権威をなくしていることになります。決して逆らうことができないこと、それが権威です。
このような理解をしますと、権威はとても恐ろしいもののように感じることです。望まないのに、強制的に捕われ、まるで奴隷のように縛られることを想像するからです。しかし、権威が私たちの味方であるとき、その権威によって、私たちは大きな恵みを受けることになります。その権威に力があるので、とても頼りがいがあり、安心できるからです。

神の権威

神様には権威があります。神様の権威は絶対的な権威です。すべてのものの上に立つ権威であり、これ以上の権威はありません。
たとえば、神様のことばには権威があります。一旦、神様がことばを発すれば、そのことばの通りになります。神様のことばに逆らうことができるものは何ひとつ存在しません。
創世記を見て見ますと、神様はそのことばの命令によって、すべてのものを造られたことが分かります。「創世記 1:3 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」神が言われると、存在しないものでも存在しなくてはなりません。これが神の権威です。そんな権威があるものか、と思われるかもしれません。しかし、そのような権威があるはずがないというなら、逆に、もはやそのような権威のないものは神とは言えないということになるでしょう。信じるに価しないのです。
私たちの信じる神様は、「あれ」と言えば、必ずないものでも「ある」ようになる、そのような権威をお持ちの方なのです。

権威によって守られる

詩篇の作者は、「あなたの権威によって、私を弁護してください。」と言っています。苦難をもたらす敵に対して、その敵を退ける権威をお持ちの神様が「自分を助けることができる、唯一のお方である」と告白しつつ嘆願しているのです。神様に権威があるからこそ、すべての苦難から私たちをお救いくださることが期待できるのです。
百人隊長は、自分の僕の病気のいやしをお願いするときに「ルカ 7:7 おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」と告白しました。そして、その信仰がほめられました。イエス様のことばには権威があるので、来ていただくには及ばず、ただことばだけをいただいて、それを自分が伝えれば、しもべは必ずいやされると信じていたのでした。
神様に権威があるからこそ、たとえそれがどのような病気であれ、わずらいであれ、服従させられて、去って行くことになります。私たちは、神様の権威によって守られるのです。権威が味方であるなら、私たちは守られます。
「ローマ 8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 神様の権威に服従することが、私たちが恵まれるために、絶対に必要なことです。

14.11.02 思い起こさせてくださる主

11.02週報タイトル.tiff

「イザヤ書 46:9-11 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。 わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。」

思い出せ

神様は、神様を信じない者に対し、「思い出せ」と言って呼びかけられています。神様以外の偶像を信じる者、神様以外のものを頼りにする者に、語られています。
大昔から今日に至るまで、起きた出来事は、すべて神様のはかりごとであり、行なう者を必要なところに呼び寄せて、これを行なわせられたのだ、と言われています。神様が語られると、すぐにそれは起き、すぐに人が動くと言われているのです。
「以前のことを思い出してみよ、みなわたしがしたことではないか。私の他に神はいないのだ。わたしに信頼せよ」と言われていることです。
神様は、私たちに思い起こさせる、ということによって、神様のみこころを示されるお方なのです。私たちが必要なときに、思い出させるという方法により、神様のメッセージを受け取らせるのです。

もうひとりの助け主

イエス様は「ヨハネの福音書 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」と言われました。イエス・キリストを信じる者には、(イエス様と同じ)もうひとりの助け主」が与えられています。そのお方は、聖霊の神様であり、私たちの内に働いて、思い起こさせてくださるのです。
イエス様は、弟子たちに対して、「ヨハネの福音書 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とさらに説明されました。聖霊様のお働きのひとつは、「思い起こさせ」るということなのです。

最善のタイミングで

私たち人間は、思い出したり、ひらめいたりする者です。それは人間の機能の一つです。神様が語られる方法のひとつに、私たちのその機能に働きかけて、思い起こさせて伝えるということがあるのです。そのとき直接、必要なことをお語りくださっていることになります。
思い出せたことは自分の働きだ、と考えるかも知れません。しかし、ある場面で、もっとも必要なときに、思い出すことができたのは主の働きであることを知らなければなりません。神様が語ってくださることを信じ、聞こうとしている者には、このようにして教えてくださることがあるということです。
私たちが自分の力で思い起こすときには、わかってはいるものの、それを行動に移すことができなくて、チャンスを逃したりすることがあります。あるいは、必要が過ぎてから思い出したりして、役に立たないことがあります。
主が思い起こさせてくださるときは、まさに今そのとき、私たちが行動を起こすのにもっとも必要なときであり、ちゅうちょしないで、行ないたいと思うタイミングなのです。
たとえばあなたは、「こんなことをしていてはいけないな」と考えながら、日々を過ごしているかもしれません。わかってはいても、罪から離れることができないでいるかもしれません。思い起こしているのに、それが役に立っていないことです。しかし、神様の働きは、私たちが我に返り、すぐさま罪を捨て、悔い改めて、主に立ち返ることになるのです。そのような行動に移させるタイミングで、語られることです。
放蕩息子(ルカ15章)は、家にいるときも、家を出てからも、お金のあるうちも、お金を失って途方に暮れているときも、父の家のことは頭にありましたが、方向転換には至りませんでした。それは、彼が自分で考えているだけであったからです。
しかし、彼が豚の餌でも良いから食べたい、と考えるようになったタイミングで、彼は思い起こしました。それで、彼は「家に帰ろう」と決心して、家に向かったのです。それは、彼が本当に砕かれて、どんな助言であろうと、聞く気になったときであったのです。神様の働きは最善のタイミングでの働きなのです。

常に思い起こさせられて生きる

日々、私たちが思い出すことがあって、ひらめくことがあって、そして、それが主がしてくださることであるなら、本当に幸いなことです。思い出して、後悔するのでなく、思い出して悔い改めに至ることができるでしょう。ひらめいても、行動に移すやる気がなくて、チャンスを逃すことはないでしょう。主の働きに使われて、人や自分が建て上げられて行くこと、いやされて行くことになるでしょう。
そのために必要なのは、常にへりくだりだけなのです。神様の恵みは、低いところに流れます。思い出すこと、思い起こすこと、ひらめくこと、も主がされるなら、特別な力となることを知ることです。

14.10.26 心の中をみな話す祈り

10.26週報タイトル.tiff

「詩篇 42:6-11 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。 私は、わが巌の神に申し上げます。『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。』 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、『おまえの神はどこにいるか。』と私に言っています。 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」

祈りは主との会話

詩篇の作者は、上掲のみことばの中で、感じることのできない神様に対して、訴えて祈っています。彼は、自分の周りに起きている窮状を「なぜ」なのかと、見えない神様に問いただしています。敵が、自分と自分が信じている神様をあざけるので、自分は弱り果てていますと訴えているのです。
祈りは、神様との会話であって、自分の思いを神様に申し上げることであり、また神様のみこころを聞かされることです。
彼は、いかに自分が絶望しているか、を神様に話すのです。そして、自分がどのようにして神様を慕い求めているかについても話しています。そして、自分の苦しさ、起きている現状について説明しています。さらには自分の心の中のことを告白しています。
私たちも、神様と会話することができることを感謝しなければなりません。

考えることは心の中の会話

一方、私たちが日常、心の中で考えることは、会話で成り立っていることです。ひとり言のように「どうしようか」「一体なぜなんだ」「よくあのようなことが言えたもんだ」などと自分自身に話しかけ、そして自分で答えて、自分の考えを具体的にしようとしています。いかに自分のしていることが、「正しいこと」か、「人間としてこうでなければならない」とか、会話でもって考えをまとめているのです。
自然に行なっているひとり言ではあるのですが、ひとり言以上のことが起こってはいないでしょうか。確かに意識すれば、もうひとりの自分がいる、と明確にわかる人もおられると思います。
自分ですから、自分の味方であると思いたいものです。しかし、よくよく吟味してみると、あるもうひとりの自分は自分のことを応援したり助けたことがない、と気付かされるのです。それはひとり言の範囲を超えているものです。決して、自分を励ましたり、ほめたりするのではなく、自分を責めています。自分の決意を鈍らせ、破壊や憤り、あるいは恐れや心配の方向、に誘惑しているのです。味方ではありません。あきらかに敵です。もうひとりの自分の背後には、私たちの考えに影響を与える見えない敵が存在しているのです。聖書は「Ⅱコリント 11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」と教えています。
悪魔がその手下の悪霊により、私たちの考えの背後に働いて、私たちの考えに影響を及ぼしていることがあるとしても不思議ではありません。神様の働きのないところには、悪魔の働きが当たり前のようにあることを知らなければなりません。
考えることが、会話となっており、その会話の相手がもう一人の自分なのですが、そのもうひとりの自分の背後には見えない敵の働きがあり、考えが敗北的になっているということが考えられるのです。祈りがそうであるように、心の中の会話も神様が相手である必要があります。

祈るとき別のことを考えているなら

祈っているとき、口では神様をほめたたえることを告白しながら、心の中では並行的に、違うことを考えていることはないでしょうか。口でも心でも、同時に神様を相手に会話するのに、違う内容であることは、まずあり得ないことです。声に出す祈りのことばが神様に対してであるにも関わらず、さらに心の中では、神様相手に違うことを言っているということなのです。それはあり得ないことだとわかります。
「信頼します」と口で神様に言い、心では「どうしたら良いのだろう」と神様に言っているようなことです。同じ相手にそのようなことは考えられません。祈りは確かに神様を意識して申し上げている。では、心の中で、違う内容を、誰を相手に話しているのか、ということなのです。確かにもうひとりの自分を相手にしていることなのですが、吟味すれば、その背後にあるものは神様以外のものであるとはっきり理解できます。

心の中をみな話す

では、どうすれば良いのでしょう。口で祈ることばは、神様に対してであると、明確ですから、心の中にあること、よぎることをそのまま悪魔相手の会話にしておかないで、口に出してしまえば良いのです。 でも、自分の心の中にあることは、「不信仰なこと」「汚れたこと」「消極的なこと」「敗北的なこと」などであるから、「とても口に出して神様に言うことはできない」と考えるかもしれません。しかし、よく考えてください。そうしなければ、結局、心の中では悪魔と会話をし続けることになるのです。そうさせないためには、あえて、心の中で並行的に考えてしまうすべてのことを、神様に向ける必要があるのです。
悪魔はあなたを助けません。しかし、神様はあなたを助けます。罪ある、弱い私たちを助けるために、主は私たちの内に住んでくださいました。
祈りのときに心をよぎることはすべて、口に出すことで、心の中でもすべて神様に対して言うように訓練されます。心の中をみな話す祈りが、心を注ぎ出す祈りなのです。
私たちの敗北は心で起こります。勝利するためには、まず心の中をみな話す祈りが、必要なのです。

14.10.19 方向転換(悔い改め)

方向転換(悔い改め)

1019週報タイトル.tiff

「ルカの福音書 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

走って迎える父

父親の家を出た息子は、分けてもらった財産を湯水のように使い果たし、落ちぶれ果てて帰って来ました。そのとき、父親は、遠くに息子を見つけると、走って迎え入れてくれたのです。父親は息子が帰って来たことを大変喜びました。
「15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
父親は、死んだ息子が生き返った、と大喜びしたのでした。
息子が、家を出るときは、父親は止めることはできませんでした。もし止めたとしても、息子の心を変えることはできないことだからでした。しかし、息子が心を変えて、家に帰ろうとしたとき、父親は無条件で、走って迎え入れたのでした。

方向転換

天の父なる神様は、私たちが、みこころに反抗している間は、私たちをなすがままにさせます。しかし一旦、悔い改めをするとき、ご自分の方から近寄ってくださるのです。
神様は、反抗する私たちを強制的に変えようとはなさいません。私たちが自主的に、心の向きを変えて神様のみこころに賛成するとき、神様は全力を持って私たちが悔い改めに至ることができるように、助けてくださるお方なのです。
悔い改めとは、方向転換を意味します。私たちが方向転換をすることができるまで、神様は忍耐強く待っていてくださるお方です。それは、やむなく家から出て行くのを見守った父親が、帰って来るのを毎日待ち続けていたようにです。

父の願い

落ちぶれ果てた息子は、もはや、自分は息子としての資格がないと思いました。それで、雇い人のひとりとして受け入れていただこうと思いました。そうすれば、受け入れてくれるかも知れないと考えたのです。
しかし、彼が受け入れられたのは、戻ろうとしたからなのです。自分で資格を満たすことをしたとしても、それが父を納得させることにはなりませんでした。自分を今までとは少し落として、雇い人としてであってもです。
父が望んでいたのは、息子が、家に戻ろうとする思いを持つようになることだけでした。

私たちにできる唯一のこと

私たちがしなければならないこと、できることは、ただ一つです。それは、心の向きを変えることです。神様に受け入れていただける、良い者、立派な者に自分でなることはできません。ただ心を変えて、神様のところに戻ろうとすることだけなのです。
神様のみこころは、私たちをご自分の子どもとして、受け入れることです。戻ろうと決意するだけで、受け入れられることを知らなければなりません。
イエス・キリストの十字架が、私たちが戻ろうとするときに、私たちがありのままで、受け入れられることを可能にしているのです。そこに、神様の犠牲が払われていることを知らなければなりません。まさに、走り寄って、抱きしめてくれる父親の姿が、十字架の愛なのだと知ることです。
神様は、私たちが戻れるように、御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、十字架に付けてくださいました。そして、待っていてくださっているのです。この走り寄る父親のように。
神様は、あなたが「そうだ父の家に帰ろう」と決意することを願っているのです。

14.10.12 探しておられる主

探しておられる主

1012週報タイトル.tiff

「ルカの福音書 15:7あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」

捜す羊飼い

イエス様は、迷子になった羊のたとえをもって、神様の私たちに対する思いを明らかにしてくださいました。100匹の羊を飼っている羊飼いは、そのうちの1匹がいなくなったときには、99匹を残して、1匹のために命がけで捜しに出かけるというのです。そして、その1匹を見つけたときには、大喜びするということです。そして、それと同じように、一人の人が悔い改めるなら、神様は大喜びされるのだ、と言われました。
羊は弱い動物であり、ひとりでは生きて行けません。えさ場を探すことも、羊飼いに導かれてのことですし、狼などの外敵から守られることも、羊飼いなしではかなわないことです。
草を食べるのに夢中になっている羊が、ふと気が付くと、群れからも、羊飼いからも離れて、ひとりぼっちになることがよくあるそうです。中には、崖の下の方に行き、途中で動けなくなるものや、疲れ果ててしゃがみ込んでしまうものもあるようです。
そんな羊を、羊飼いは熱心に捜し歩いて、見つけると、大喜びで肩に担いで帰って来るのです。ときには、危険な崖を降りて行く必要があるときもあります。それを助けるときには、命がけとなるわけです。

捜しておられる神様

このたとえで語られていることは、私たちは生まれたときから、失われており、神様は必死になって、私たちを捜しておられるということなのです。人は神様に造られた存在であるのに、それを認めません。全く神様とは無縁の生活をしています。まさにこれが失われた状態であるわけです。私たちは神様のふところから迷い出て、迷子となっているのです。
人は自分の草を食べるのに夢中になっています。ふと気が付くと、今自分がどこにいるのか全くわからなくなっている、のです。まさに失われた存在であり、神様はそんな私たちを必死で捜しておられるのです。悔い改めて、主に立ち返ること、これが見つけ出されることですが、ひとりの人が悔い改めるなら、神様は大喜びをされるのです。

何をしているかわからないでいる

私たちは神様に捜されている存在であることを知らなければなりません。イエス様は、十字架で死なれるときに、「ルカの福音書 23:34 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。本当のところ、私たちは自分で何をしているのかわからないでいるのです。
実際人生の幸せを求めて、夢中で生きています。成功を求めて、夢中で生きているのです。それはまさに、ひとりで、自分のことだけを追求して、人生の本当の生き方から、遠く離れていることなのです。何のための人生なのでしょう。なぜ生きるのでしょうか。そんなことを考える余裕はありません。少しでも目の前の草から目を離せば、生きて行けないと感じています。今日生きることに夢中で、実のところ必死で生きているのです。そんなことを繰り返して、今どこにいるのかさえわからなくなっていることです。
意味あることをしている、重要なことをしている、と自分で考えていながら、真実の人生からかけ離れているのではないでしょうか。自分で何をしているのかわからないでいることです。

こんなにも喜んでくださるとは

そんな私たちを捜してくださる神様は、見つけると、誰よりも大喜びをして迎え入れてくださるのです。私たちは、自分が神様に必死で捜されている存在、見つけ出されて大喜びされる存在であることを知らなければなりません。
このことを知るなら、自分は神様からの特別な取り扱いを受けている者だということがわかるのです。そして、見つけ出したときの神様の喜びようを知るなら、こんなにも神様は私のことを思っていてくださり、特別な関心を寄せてくださっているのだということがわかるのです。
このことは私たちにとって驚きです。神様を信じるという者でさえ、これほどまでに自分が愛されていることを知る者は多くはないかも知れません。何の取り柄もない、しかも神様に反逆する者であるにもかかわらず、神様は私たちを、熱心に捜し求めて、愛してくださっているのです。
神様に愛されていることが、私たちにとって力です。生きる勇気であり、人生の答えです。人の価値は、その人の行いや能力にあるのではありません。神様に愛されていること、これが私たちの価値です。
神様に見つけられるときは、神様がこれほどまでに、自分のことを愛してくださっているのかと、知るときでもあります。羊は見つけられてはじめて、羊飼いの熱心さを見ることになるのです。
これほどまでに、自分は神様に喜ばれているのだと知る者に落胆はありません。これほどまでに愛されていると知る者には、生きることそのものが希望であり喜びなのです。人生の答えは、ここにあります。

14.10.05 赦す心が山を動かす

赦す心が山を動かす

1005週報タイトル.tiff

「マルコの福音書 11:22-26 神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。 {しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません。}」

恨み

あなたは、人からひどいめにあわされたことがあるでしょうか。心に「決して赦さない」と誓ったかもしれません。相手に完全に非があることですから、自分が責められることは何もないでしょう。あなたは、このことを友だちや家族に話して、怒っていることを伝えたかも知れません。
今日の聖書のみことばは、そのような、決して自分は悪くなく、相手が悪いという状況で、恨みを持つ私たちに対して、語られたものです。

赦しなさいそうすれば赦されます

聖書が私たちに教えるのは「赦してやりなさい」ということです。自分が悪くもなく、責められるべきは相手なのに、赦すことが必要である、と言うのです。
祈るということは、神様の前に出て、お話をすることです。そのとき、自分の内に恨みがあるのに気付いたら、まず赦すことをしなさいということなのです。
私たちと神様との間を隔てるものがあるとすれば、それは私たちの罪です。そして、それは誰にでも、確かにあるのです。それで、祈るとき、まず神様との間にある隔てを取り除いていただくために、悔い改めの祈りをするのが普通です。
今日のみことばの「赦してやりなさい」は赦す方に強みのある言い方です。いわゆるアドバンテージがある言い方となります。
神様は「あなたを赦してやったのだ」と言われていることです。私たち自身が、一方的に赦していただいた者である、ことを知らなければなりません。そうであるにも関わらず、私たちが赦そうとしなければ、私たち自身も赦されないのだと言われているのです。

神様との関係をつなぐために

私たちは確かに、愛することができなかったり、赦すことができなかったりする者ではあります。神様はそんな私たちを赦し受け入れてくださいました。しかしそれは、あくまでも、しようとしてできない私たちを、ということなのです。
赦そうとしないことは、神様のみこころに反対することになります。私たちが神様と同じ考えを持つこと、これが神様の要求されることです。私たちにとって、難しいことかもしれませんが、神様と同じあわれみの心を持って、赦そうとしなければなりません。そうすれば、神様は私たちが赦すことができるように、助けてくださいます。
神様に反対しないで、同じ心の方向を持つ(赦したいと考える)なら、神様とのつながりは失われません。このことが大変重要なのです。

信仰が山を動かす

イエス様は、私たちが信じるなら、山を動かすことができるのだ、と言われました。私たちが動かしたい山は、私たちの抱えている現実的な問題のことであり、願っていることがらの実現のことではないでしょうか。
家庭の回復や、夫婦の回復、親子の回復、あるいは経済の回復、事業の立て直し、莫大な借金の返済、また病の癒しや健康の回復、などのともすれば、あきらめかけていること、無理かもしれないと考えていることなどが、私たちが、動いてほしいと考える山のことになるでしょう。
真の神様を信じる信仰があれば、山は動くのです。そのとき、人に対する恨みがあれば、神様との関係を損なうことになります。そうであれば、山は動かないのです。
私たちが山を動かすほどの信仰を持とうとしても、赦さない心が、神様の働きを妨げることになるのだ、と知らなければなりません。

14.09.28 おおいが掛けられた心

おおいが掛けられた心

0928週報タイトル.tiff

「2コリント 4:1-4 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」

福音におおいが

パウロは、自分たちは伝道の働きに召されていて、神様に従って聖い生活を送り、イエス・キリストを宣べ伝えているのだ、と言っています。そして、そのようにしてもなお、人々が福音を受け入れず、救われないことがあるならば、見えないおおいが掛かっていることなのだ、と説明しています。
そのおおいを掛けているのは、この世の神、すなわちサタン(悪魔)だと言います。サタンによって不信者の思いがくらまされているのだということです。

福音の素晴らしさ

誰でも、無条件で、罪が赦され、神様に受け入れられ、神の子どもとして、新しく人生をやり直すことができます。これが良き知らせ、福音です。
イエス・キリストに出会った人は、この素晴らしさに喜び、心から悔い改め、これからは神様に従って生きて行きたいと決心したのです。そして、ぜひともこの素晴らしいお方、イエス・キリストをお伝えしたいと願っているわけです。

神様の願いと悪魔の願い

神様の願いは、私たちが一人も滅びることなく、救われて永遠のいのちを持つことです。神様がしてくださったことは、御子イエス・キリストのいのちと引き換えに、私たちを救い出してくださったことです。一人も滅びないでほしいという神様のみこころを、私たちは理解しなければなりません。
悪魔は、神様の栄光を汚そうと全力を尽くして、神様に反抗しています。アダムとエバを誘惑したのも、神様の栄光の現れである人間を汚したい、と願ったからでした。それにはみごと成功したのでしたが、神様は私たちをそこから回復させてくださり、サタンに勝利してくださり、信じる者を神様の栄光の輝きの中に置いてくださったのです。
悪魔の願いは、一人でも多く、人を地獄へ道連れにすることです。そのためには、人の心におおいを掛けて、福音が伝わるのを妨げるのです。

おおいが掛けられると

悪魔の目的は、人の心におおいを掛け、人が福音に近づかないように、また、近づきたくないようにさせることにあります。そのためには、人の心がイエス・キリストに向かないようにさせます。
イエス・キリスト以外に人が心を向けてくれるなら、何でもさせます。人はこの世の欲に引かれて、イエス様以外に幸せがある、と思い込んでしまいます。
経済的に成功すること、社会的な名声を得ること、いやされたり、満たされたりするためには、偶像の神々を信じることに夢中になります。すべて福音におおいが掛かっていることであり、不信者の目がくらまされていることなのです。

私たちにもおおいが掛かる

一方、福音を伝えたい側である私たちの場合にはどうなのでしょう。悪魔は、すでに救われてしまったクリスチャンを引き戻すことはできません。神様の守りの中にあるからです。もっとも、私たち自身が、すすんで信仰を捨てることがなければのことですが。
そのような私たちに対して、悪魔がすることは、私たちを恵まれないようにすることです。私たちが恵まれなければ、私たちから他の人に福音が広がって行かないからです。
私たちの福音理解におおいが掛かっていると、私たち自身の思いがくらませられることになります。私たちの生活に証が生まれないことになります。また、私たちが神様と同じ思いを持つことに熱心でなくなります。神様のみこころは、一人も滅びることがないように、ということです。
もし、私たちに、人が救われなくても構わないとか、救われてほしくないと思うことがあるなら、神様と同じ思いにはなっていないことです。そればかりではなく、実はこれらの思いが、悪魔が熱心に願っていることだと、わかることです。もしそうであれば、自分の心は、悪魔の心だ、ということに気づかなければなりません。
私たちが、本当に祝福され、恵まれたいならば、すべての人が救われることを願わなければなりません。人をのろったり、悪く思ったりしてはならないのです。
自分が恵まれていないのは、自分の祈りが聞かれないのは、人を憎んだり、恨んだりしているからではないか、あるいは無関心でいるからではないか、とへりくだることは大切なことです。
悪魔におおいを掛けられれば、私たちは恵まれないのです。

14.09.21 恐れに飛び込む

恐れに飛び込む

0921週報タイトル.tiff

「マルコ 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」

罪そのものとなってくださったイエス様

イエス・キリストは十字架に死なれました。それは、私たちの罪の身代わりとしてでした。イエス様は、神が人となられたお方でした。罪は全くありませんでした。
そのお方が、私たちのために、罪をご自身の身に負ってくださいました。「Ⅰペテロ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」このことは、イエス様ご自身が私たちの罪そのものとなってくださったことです。
イエス・キリストは、父なる神に従って、地上を歩まれました。いつもイエス様は、父のみこころによって生きられました。十字架に付かれることも父のみこころでありましたから、従われました。そのご生涯に罪は一切ありませんでした。
しかし、十字架に死なれる目的は、私たちの罪の身代わりとなることでしたから、その十字架の上では、ご自身が私たちの罪そのものとなってくださったことなのです。

イエス様の叫び

そこには、(私/あなた)が十字架に付けられているのです。神様は、これを見て顔をそむけられます。罪は、神様に完全に拒否されることです。罪あるものが決して、神様に受け入れられることはありません。神様は、私たちを愛してくださっていますが、罪ある私たちを受け入れることはできません。私たちは、愛されていながら、顔をそむけられる者なのです。
十字架で、イエス・キリストは、私たちの罪そのものとなってくださったということは、そこに(私/あなた)がつけられているということを意味します。(私/あなた)に対しては、神様は顔をそむけられます。ですから、イエス・キリストが私の罪そのものとなってくださった瞬間、神様は顔をそむけられたわけです。

耐えがたい恐怖

神様から顔をそむけられるということは、イエス様にとって、耐えがたい恐怖でした。十字架に付く、その際までイエス様は、苦痛がありながらも、父と一緒でした。恐怖はありませんでした。
しかし、罪そのものとなってくださった瞬間、父は顔をそむけられたわけです。つまり、父との交わりは完全に絶たれたわけです。それは、今まで味わわれたことのない恐怖であったのです。おもわず「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばが出ました。それほど現実的な恐怖がイエス様を襲ったことでした。
ここに、私たち人間が、なぜ恐れを感じるのかという答えがあります。人は神様から離れて、恐れを感じるようになりました。アダムとエバは、罪を犯した後、神様に呼びかけられて、恐れを感じました。それで、隠れてしまいました。それ以来、人類は、常に恐れの中に生きるようになりました。
罪は、神様と私たちを完全に切り離し、私たちの人生には恐れがあふれていることです。私たちは実際、耐えがたい恐怖の中に生きているのです。生活の恐怖、年をとる恐怖、病の恐怖、死への恐怖、などがいつも取り巻いています。

顔を向けてくださるために

神様は、私たちを愛しておられ、私たちに顔を向ける関係になりたいと切に願われておられます。イエス様の十字架は、その神様の願いが達成されるためでした。誰でも、イエス・キリストの十字架が自分の罪のためであることを信じ、イエス・キリストを、自分の救い主であることを信じて、受け入れるなら、その人の罪は赦されます。神様は、罪のない私たちに顔を喜んで向けることができるのです。
そして、私たちにとっては、神様に近づき、つながることができますから、今まであった恐れから、解放されるのです。
もし、私たちに制御しがたい恐れがあるなら、私たちが神様から離れているからではないかと、へりくだる必要があります。離れている原因は、自分に罪があるから、わかっていて罪を捨てようとしていないから、だと認めなければなりません。
恐れがなくなるのを待つのではなく、罪を捨てて、主に従おうとすることです。悪魔は、私たちに真の悔い改めをさせようとはしません。いつまでも、恐れに縛りたいからです。
主に信頼して、目の前にある恐れに突進して行くことです。罪を捨てる者が、守られないはずがありません。イエス様は、罪の恐怖に飛び込んで行ってくださいました。そして、勝利してくださったのです。
私たちのすることは、苦しむことではなく、ただ、主に信頼することだけです。それは、ただ、罪をかなぐり捨てて、恐れに飛び込んで行くことです。そうすれば、実際に恐れがなくなっていることに、気が付きます。

14.09.14 人の反応を恐れる

人の反応を恐れる

0914週報タイトル.tiff

「箴言29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」

人が恐い

一般的に、人は人を恐れます。たとえば、すべての人が恐い、というわけではなく、ある特定の人が恐いということは、普通によくあることです。今回は、特定の人を恐れることについて、学んでみたいと思います。
聖書は「人を恐れるとわなにかかる」と言います。はたして、私たちがどのようなわなにかかってしまうと言うのでしょうか。

逃げ出す

人の反応が恐いと思うことがあります。この場合、どのような不具合があると言うのでしょう。
一般的な反応は「逃げ出す」ということです。相手に対して面と向かわないのです。避ける、後まわしにする、偽る、攻撃する、などの行動が出て来ます。そうすると、本当に必要な行動を取ることができません。

避ける

「避ける」というのは、文字通り、人から遠ざかることです。その人との交わりはまったくしないことになります。口をきかなかったり、目を合わせなかったり、距離を置いたりすることになります。

後まわし

「後まわし」にするとは、本当は面と向かわないといけないとわかっているのですが、時期が来たらそうしようと考え、すぐには面と向かわないことです。
正しい解決は、直接、説明することとか、注意をすること、お願いすること、などです。それをわかっているのですが、相手が怒るかも知れないと恐れるあまり、すぐには行動を起こせません。結局、そのままになってしまい、問題をさらに難しくしてしまうことです。

偽る

「偽る」とは、本心を明かさないことです。本当は、意見があり、伝えたいことがあるのですが、笑って、他意がないことを示そうとします。問題がないことを装うのですが、問題は心の中にいつまでも、残り続けています。
人が怒ることを恐れて、本心を悟られまいとするのですが、いつまでも表面的な交わりに留まり、真実の愛を知ることがありません。

攻撃する

「攻撃する」とは、相手の反応を予測して、先制攻撃に出ることです。それは、不機嫌であったり、強い口調であったり、まくしたてたり、ことばを多くして過度の説明をしたり、という対応になります。あるいは、キレるということもあります。
恐怖を前にして、勢いをつけなければ、自分の思いを伝えることができません。

妄想

以上の反応には、少なからず、想像力が働いています。つまり、相手の反応を予測するということです。そして、それは真実でないものが、多いのです。いわゆる妄想ということです。
上記の様々な対応は、わなにかかっていることです。落ち着いて考えれば、これらの対応が、いかに不毛な行動であるかは、実際誰が考えてもわかることです。
相手の反応を正しく想像することができれば、おそらく、誰であっても、逃げ出すのではなく、面と向かうという対応を取ることができます。
恐れは、真実が見えない、暗闇の中にこそ存在します。人が自分を傷つける存在であると思いますと、その恐れから、面と向かうことができません。小さい犬が誰構わず吠えるのは、恐いからです。
相手の真実がわかりますと、たとえ、大変であっても、恐さがよぎることがあっても、面と向かうことが最善であることがわかります。

人の真実

人は、良くなりたい、幸せになりたい、愛されたい、受け入れられたい、理解されたい、と思っています。たとえ、心を固く閉ざして、これらを拒否する人でも、その実現性を信じられないからに他なりません。今までの経験から、人から愛されることなどは、期待できなくなっているだけです。本当は良くなりたいのです。
人の真実を知れば、人の考えの傾向、その振る舞いは、理由あってのことだとわかるのです。
そのような人に対して、注意することが必要なとき、シンプルに一言、恥をかかせないように、注意すればわかってくれるでしょう。自分で考えてくれるはずです。
たとえ怒っている人でも、落ち着いた態度で話しかければ、相手の怒りを吸収することができます。相手も落ち着いて、話すようになります。
逆に、こちらが、おびえたり、怒ったり、の態度で接すれば、相手はとても気を悪くすることです。人とはそういうものです。

主に信頼する者は守られる

わなにかかるとは、人の真実を知らないでいることです。そして、人を恐れて、問題はその恐い人にある、と錯覚するのです。これこそわなです。
あなたが主に信頼するなら、人の真実を見て、生きることができます。人に問題があるのではなく、人を恐れて、真実を見ないでいる自分、に問題があるとわかるのです。

14.09.07 犠牲を払いたいという生き方

 犠牲を払いたいという生き方

0907週報タイトル.tiff
「第一ヨハネの手紙 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

犠牲を払う

イエス・キリストは、私たちのために、十字架に付けられました。十字架は刑罰の場所であり、イエス様がそこで私たちの身代わりとして、苦しみ、死んでくださったのです。
本来私たちが受けるべき罰を、代わって受けてくだっさったのです。まさに御からだを犠牲として差し出してくださり、私たちを救い出してくださったことでした。十字架は、神の愛が現された場所であると聖書は説明しています。愛とは与えることであり、十字架は無条件で犠牲を払うという愛が、示された場所であるのです。
キリストは、私たちのために苦しまれましたが、その犠牲の傷跡を見て満足されました。神様は、ご自身が犠牲を払って苦しまれることを喜ばれているのです。それは、私たちを滅びに向かわせないで、救い出すことに、ためらわず犠牲を払いたいと願っておられることなのです。
愛とは、無条件で与えるという犠牲、を払うことに喜びを感じることに他なりません。

犠牲を払わない生き方

人は、本来犠牲を払うことを喜びません。しかし実際には、犠牲を払うことなしに、人生で幸せになることはできないでしょう。生活するためには、働かなければなりません。そして、それは苦しみである、と神様は言われました。「創世記 3:17 あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」
同じように、学生が成績を上げるには、勉強するという犠牲を払わなければなりません。人を愛することも、結婚も、子育ても、みな何らかの犠牲を払うことが求められます。そうしなければ幸せにはなれないのです。人は、失敗するには努力は要りません。不幸せになるために、あえて努力した人はいないでしょう。幸せになるためには、犠牲を払うということがなければならないのです。
犠牲を払いたくないのが、私たちなのですが、犠牲を払うことを余儀なくされているのです。このような人生に、主が救いを与えてくださっているとしたら、その答えはどのようなことなのでしょうか。

二通りの生き方がある

人生には二通りの生き方があります。一つは、イエス・キリストを信じないで生きるという、生き方です。そして、もう一つは、イエス・キリストを信じて生きるという生き方です。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて生きるという生き方を選んでいるわけです。(あなたは、そう決断をしましたか。)
そして、さらにこの二つの生き方を、それぞれもう少し詳しく説明して行きますと、神の子どもでない生き方と神の子どもとして生きる生き方、と言うことができます。
さらに、詳しく説明しますと、それは、イエス・キリストにならわないで生きる生き方と、イエス・キリストにならって生きる生き方と言うことができます。「エペソ 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」そして、さらに、それは肉欲に生きる生き方と、愛する生き方と言うことができます。それは、奪う生き方と、与える生き方の二通りであるのです。
ということで、犠牲を払いたくない生き方と、犠牲を払いたい生き方の二通りになるわけです。イエス・キリストを信じる者は、犠牲を払いたいという生き方をしている者なのです。私たちは、犠牲を払いたいという人生の道を歩んでいるはずです。

犠牲とは努力ではないのだ

犠牲を払いたくないという生き方をしていても、犠牲を払うということはできます。そうしなければ生きてはいけません。成績も上がりませんし、収入も得られません。犠牲を払いたくない(イエス・キリストを信じない)という人生では、その生活において、成績、成功、経済、恋愛、などで頑張って奪い取るということを余儀なくされます。そして、その結果は常に満たされないものであるのです。「ヨハネ 4:13 この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」
世の誰が満足しているでしょうか。たとえ満足していると言う人がいたとしても、自分より低い人たちを見て、満足しているだけです。成績でも、生活でも、自分より高い人たちの中に行けば、途端にみじめさを味わうことになります。このように、犠牲を払いたくないという生き方の中にも、犠牲を払うことは余儀なくされますし、その犠牲は、奪い取るという努力なのです。

どの道を生きるのか

人生でやる気をなくしている人の原因は、幸せになりたいと願う反面、そこに伴う努力に嫌気がさして、気がめいっていることです。つまり、面倒くさい、という感情に他なりません。ある人は、愛せませんし、ある人はうつ状態になっています。そのような人たちに対して、愛しましょう、信じましょう、犠牲を払いましょう、と説いても、それは、奪う道を歩く者に対して、努力を強いることになるだけです。結局、面倒くさいことをさせることに他なりません。
人生には、二通りの道があるのです。生き方を変えなければなりません。方向転換です。イエス・キリストを信じていると言っても、面倒くさい、愛したくない、犠牲を払いたくない、ならば実際は、信じない道を歩んでいるのではないでしょうか。
イエス・キリストを信じる道を選び直すことです。「私は一生、与える生き方をするのだ」、「私は一生の間、肉欲ではなく、愛に生きるのだ」、「私は一生の間、犠牲を払う生き方をするのだ」と選び直しましょう。それがイエス・キリストを信じるということなのですから。
もしかして、あなたは、イエス・キリストを信じるという道を歩むことについて、勘違いしていたのかもしれません。イエス・キリストを信じるという生き方は、犠牲を一生の間、払いたいという生き方なのです。
「私は犠牲を払いたい」という道を歩んでいるのだという自覚に生きることです。そこには、「犠牲を払わなくてはならない」という努力はありません。そのためには、まず方向転換、悔い改めをして、生き直すことが必要です。

14.08.31 思いやることができる

 思いやることができる

0831週報タイトル.tiff
「ヘブル人への手紙 5:2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。 」

聞きたくない

ほとんどの人は、人から口うるさく言われることに、抵抗があるのではないでしょうか。小さいとき、親からあれこれと口うるさく注意された経験のある人は多いと思います。(一般的に母親からの場合が多いことですが。)そのとき「わかっている。そんなに言わないでほしい。もう聞きたくない」と思ったことでした。
あるいは、恐い父親から、異常に、激しく怒られるという経験をした人もいます。そのように厳しく怒られるとき「早く終わってほしい。逃げ出したい。もう聞きたくない」と思ったことでした。
「もう聞きたくない」と思い、親の気持ちについて、理解しようとはしませんでしたし、理解できる状況ではなかったかも知れません。聞こえないことが、平安であり、幸せと感じたことでした。そして、それを求めました。しかし、ここには「私たちの人生の土台に影響を与える」という問題が潜んでいるのです。

言われることがありがたい

親から注意されたり、叱られたりしたことのない方もいます。たとえば、自分がまだ小さいときに、親が亡くなった場合です。他にも、親の離婚や、単身赴任、などで不在の場合もあります。その人たちは、口うるさく、あるいは激しく怒られた経験がないか、あるいはほとんどない、ということになります。
このような場合、逆に「言われることを求める思い」があることが興味深いことです。「もう聞きたくない」と思う人がいる反面、「聞きたい。言われたい」と思っている人もいるということなのです。
人は神様から、子育てを託されますが、親の役目のひとつに子を「しつける」ということがあります。年代に応じたしつけをするということです。このことがなされないと、子どもは傷つきます。心の中に、「きちんと注意してほしい」という思いが残るのです。善悪の基準、確乎とした判断の基準、というものが育ちません。
私たちの心は、その奥底で「注意されたい。指導されたい」と無意識に望む所があるということです。もし、このことが満たされなければ、「自分は、教えられていないからわからない。指導されていないからできない」と考えるようになります。「自分はダメだ」と考えが根強く存在してしまう、原因となることがあります。
人は無意識ですが「注意されたい。言われたい」と望んでいるものなのです。うるさく言われたり、激しく怒られたりしたことを、恨んでいる人でも、親を見直したりすると、「言われたことは、ありがたいことだ」と感謝するものです。

弱さを身にまとっているので

私たちには、自分のことを考えてみると「自分で自分のことをどうすることもできない」と認めざるを得ないところが確かにあります。「本当は、もっと良い人間でありたいのだ」ということです。親もまた同じであったことです。「良い父親でありたい。」「良い母親でありたい。」と願っていたに違いないのです。
しかし、それが十分にはかなわなかったことでしょう。言い方が悪かったかもしれません。生活のことや、他の問題で、子どもに十分に気を配るどころではなかったかもしれません。私たちは、自分の弱さを自覚するとき、両親の弱さもまた思いやることができるのです。
上記には「うるさい親」と「恐い親」の問題をあげたわけですが、そのいずれでも、子どもは傷ついてしまっているものです。この問題から解放されるためには、私たちは、親を思いやるところから、始めなければなりません。イエス・キリストは、私たちを思いやってくださいました。信じる者を、赦し、受け入れてくださっているのです。私たちも主の助けを得て、赦し、受け入れることができます。

思いやることができれば

言われたくなかった人も、言われたかった人も、親の心を思いやるときに、むしろ、私たち自身が、親を解放してあげなければならないことに気付きます。傷つき、恨み、裁いていたのは、私たち自身であることを認めなければなりません。つまり、私たちがつかんで離さないでいることなのです。
もしかしたら、あなたは親より先にクリスチャンになった人かも知れません。そうであるとすれば、あなたは信仰の先輩なのです。すすんで相手を思いやることができるのではないでしょうか。あなたの親が先にクリスチャンになっているでしょうか。その場合でも「思いやること」の先輩となれるのではないでしょうか。
そうせざるを得ない、そう言わざるを得ない、などの事情のあったことを思いやりましょう。あなたは相手に対して「いくらでもそのように振る舞っても構わないよ」と許可を与えることができるのです。
そのとき、あなた自身が自由になります。真の父である神様の、指摘や教えから逃げ回る者でなく、御声を歓迎し、主の教えを歓迎して、大喜びで生きる者となるのです。

14.08.24 それって悔い改め?

 それって悔い改め?

0824週報タイトル.tiff
「マタイ 23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

苦しいから悔い改める?

以前にも取り上げたことですが、悔い改めとは何かについてもう一度確認をしましょう。人は罪を犯します。そしてその結果は、大変悲惨なことです。平安がなく苦しくなります。「こんなんじゃいけない」と考えますが、やる気が持続せず、消極的な思いにかられます。自分が愛されていないと感じますし、こんな自分には価値がないと考えます。何よりも人が自分のことをどう思っているかが、とても気になります。
そこで、自分が罪を犯していること、人を愛せないこと、赦せないこと、などについて考えます。その苦しさのゆえに、逃れたいがゆえに、悔い改めなければ本当にダメなんだな、と考えさせられて行きます。へりくだりを余儀なくさせられるということです。
そして、思い切って悔い改めるわけです。やっと、罪の行為を捨てる決意をし、人を赦す決意をするのですが、その動機が「苦しいから」というのが、多くの方のしていることではないでしょうか。

逃げ出すという問題

ここには何か問題があるのでしょうか。悔い改めて、楽になることがいけないとしたら、何がいけないのでしょうか。
そもそも、悔い改めとは、方向転換です。人生の生き方を変えることです。今までは自分なりに、良かれと思う判断で生きて来ました。しかし、それが間違いであって、神様に服従して生きることが必要であり、正しいことだと理解したのです。そこで今までの生き方をやめて、主の言われる道に踏み出そうと決意したことです。そこには、今までの生き方が、主に対して本当に申し訳ない、という思いのあることでした。
ところが、苦しいので悔い改める、というのはきっかけとしてはあって良いのですが、本当に申し訳ないことをした、という次の段階がなければ、方向転換には至らないことだと、言わざるを得ません。
あなたの今までの人生で「苦しいから、とにかく逃れたい」ということが問題だったと思い当たる節はないでしょうか。おそらく何かをやり遂げるときに、逃げ出す思いが障害となったはずです。
コツコツと地道に働くことや、学ぶことが必要であったかも知れません。夫婦や子どもあるいは親との関係で、わかっていながら、面と向かうということから逃げて、問題を後まわしにして来たかもしれません。問題の向こう側にある解決や幸せをつかみ損ねて来たことです。信仰生活に入りましたが、主に信頼する、その向こう側にある主の働き、奇跡を見ることなく来たかもしれません。
逃げ出したいという問題は、悔い改めを利用して苦しみから逃れるように働きかけます。とすれば、実際には、方向転換がなされていませんから、また同じように問題が起こり、苦しむ、ことの繰り返しとなるわけです。

本当に申し訳なかった

悔い改めは、相手に対して、本当に申し訳ないことをして苦しめたことだと、わびることにあります。自分が苦しいから楽になりたいためにではなく、自分のしたことで相手が苦しんでいることですから、相手を楽にしてあげたいと願うことが、悔い改めの動機なのです。
自分が罪を犯したのですから、自分が苦しむことは当然のことです。この思いがなければ、真の悔い改めにはなっていないことです。イエス様と一緒に十字架に付けられた強盗の一人のことばを思い出します。「ルカ 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」。

相手の心を思いやれば

主は神の都、エルサレムを眺めながら「ああ、エルサレム、エルサレム」と言われました。主は預言者を遣わし、幾度も人々を御もとに引き寄せようとしました。私たち人間は罪を犯しています。神様から遠く離れているのです。そのことで人は、人生の苦しみを得ますが、最も苦しまれているのは、主ご自身であることです。苦しみ滅びに向かう私たちを、まさに断腸の思いで「帰って来い」と待たれていることなのです。
悔い改めの出発点は、相手の心を思いやることにあります。主が苦しまれていることを思うならば、少しでも安心していただきたいと願うものです。それでこそ、方向転換させていただきたい、という悔い改めに至ることができます。
私たちが人に対して罪を犯すときも、思いやる心を持つならば、自分が楽になるためではなく、人を楽にしてあげたいと願い、悔い改めわびることになるのです。
相手を思いやる心が、すべての人間関係、家庭家族、経済活動、など人生のあらゆる分野における祝福の、出発点となります。
相手を思いやることに魅力を感じないという問題を抱えてはいませんか。

14.08.17 あわれみによって

 あわれみによって

0817週報タイトル.tiff
「ローマ人への手紙 9:16したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

評価されて受け入れられたい

一般的に人は、自分の価値が、人の評価にあると考えます。ですから、人から評価されることを必死で求めるものです。人生の苦しみも、このことが満たされないことによって生じることが多いものです。
愛されることは、自分が評価され、価値ある者とされたあかしであったりします。自分の良いところを好きになってくれた、ということが、とても嬉しいものです。
一方、自分にまったく良いところがないと思っている人でも、人に受け入れられたとき、嬉しくなるのは、何かが評価されたと感じるからに他なりません。自分には良いところもあるのだ、と感じるのです。
しかし、自分には良いところがなく、悪いところだけしかないというのに、人が受け入れてくれても、それが事実であれば(良いところがないけれど受け入れてあげるというのであれば)、嬉しくありません。これは同情あるいはあわれみということになるからです。
人は、評価された結果、受け入れられたいので、成長の努力をするにしろしないにしろ、常に評価してほしいと、心の底では要求しています。自分が価値ある存在でありたいと願っているからです。

評価されるものは何もない

大切なことですから、今回も繰り返し言いますが、私たちの中に評価されるものは何もないと聖書は言うのです。「エペソ人への手紙 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
パウロは「第一テモテ 1:15 私はその罪人のかしらです」と言い切っております。そして、それは喜んで告白していることなのです。ダビデは「詩篇 22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです」と告白しました。故万代恒雄牧師は自分のことを指すのに「イザヤ 41:14 虫けらのヤコブ」を好んで使っておられました。
すべて、神様を前にして真実が明らかになることですが、私たちは評価される良いものを何一つ持ち合わせていません。気付かなければならないことですが、一生をかけて追求したとしても、私たちが評価されて受け入れられることはないのです。せつなせつなに愛されていると感じても、それはとても危うい感情であり、いつもすぐに壊れて、満たされない飢え渇きの状態に置かれることになります。
人のせつな的な評価によって人は生きています。しかも、評価されたと思っても、それはすぐに遠い過去のこととなってしまいます。嬉しくないことですが、大切なことは、評価される者ではないという真実に目を向けることです。

あわれみによって受け入れられる

では、私たちは、人にはともかく、神様にはどのようにして受け入れていただくのでしょうか。それは、「あわれみ」によってなのです。
実際に本気で「自分には評価されるものはない」と、気づけない人にとっては、あわれまれるということは大変屈辱に感じることではないでしょうか。しかし、本当に生まれながらの罪人であることを悟るとき、主のあわれみこそが、最高の喜びとなります。
このことを妨げるものが「自分は悪くない」という真理なのです。私たちの多くは「失敗したら愛されない」と感じて生きて来ました。親の「なぜこんなことをするのか。こんなことをする子は嫌いだ」ということばに傷つき、失敗を否定することに一生懸命でした。謝りません。認めません。小さな嘘や言い訳によって自分を守ろうとします。「自分が悪いのではない」「自分はしていない」。という具合です。
このことは大人になっても変わりませんから、注意しにくい人間、指摘しにくい人間になって、可能性が止められて行きます。神様に対しても、同じように振る舞います。「罪人」「虫けら」「良いところのない者」ということを本気では認めませんから、「あわれみ」の必要がわかりません。あわれみによって受け入れられていることがわかりませんから、愛されていることが分かりません。神様からの評価を求めて、一生懸命になるのです。しかし、私たちは評価はされないけれども、初めから愛されているのです。あわれみによって私たちにその愛が届くようになりました。

実は評価の対象が一つある

評価はされないと言いましたが、神様が私たちに求める基準が全くないということではありません。ただ一つの評価基準があります。それは「イエス・キリストを救い主と信じたか」というものです。
私たちは救われない罪人であり、滅ぶしかない者でありながら、主のあわれみによって、イエス・キリストを信じて受け入れていただきました。変わらない無条件の愛で、愛されているのです。私たちの価値は「神様に愛されているほどの者」というところにあります。「神に愛されて価値ある者」という事実が人生を生きるすべての原動力であることを知りましょう。本当に愛されていることを知れば、人生は全く変わるのです。

14.08.10 トータルに祝福される人生

 トータルに祝福される人生

0810週報タイトル.tiff
「出エジプト記 34:6-7 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

主の栄光を拝して

モーセは「出エジプト記 33:18 どうか、あなたの栄光を私に見せてください」と神様にお願いしました。神様は、モーセに現われてくださいましたが、それは、まばゆい光でもなく、大きな音でもなく、ただ主の宣言があるのみでした。神様はご自分の御性質(栄光)を、みことばによって現してくださいました。
モーセは神様のご命令に従って、民を率いて荒野を旅するにあたり、神様がどのような方かを知りたいと切に思ったのでした。神様のみこころにかなうためには、神様がどのような方かを、ぜひとも知りたいと願ったからです。
神様の栄光を拝したときに、モーセは伏し拝みました。これよりも以前のことですが、モーセが神様と会見している間に、民は金の子牛を造って、それを真の神様だと言って、拝むようなことをしてしまっておりました。しかしそのような者である、イスラエルの民全般に示された神様の御栄光は、モーセの思いをはるかに超える、冒頭のみことばのような、圧倒されるものであったのです。

あわれみ深い神

神様は祝福の神様であられ、基本的に民を祝福したいと願われているお方でした。そして、その恵みは、そのときの瞬間だけではなく、子々孫々(千代)にまで及ぶほどのものであると宣言してくださったのでした。
そのためには「咎とそむきと罪を赦」そうとしておられる方であること、たとえ罪を犯す者があっても、怒りを「おそく」してくださって、人々が、恵まれるところに立ち返るのを待っていてくださるお方、であることを示されたのです。そして、立ち返ることのないものには、その罰を三代、四代にまで報われるお方であることも示されました。
モーセは、この壮大な神様の御性質を知り、神様を伏し拝んだのでした。出来事のひとつひとつだけに、神様のお働き、つまり、恵みや報いが施されるのではありませんでした。神様は、民の全行程、全旅程に、全時間、全人生に、壮大なご計画とご栄光を現そうとしておられることでした。
それゆえに、民は、神様を恐れて、神様のご栄光とともに、歩む必要がありました。

人生はトータルに祝福される

トータルに祝福されるというのは、人生を全部、包括的に見るとき、結果として祝福されている、と言える祝福のことです。神様のなさりたいことは「恵みを千代も保」って、民を祝福くださることでした。そのために、いつも主の栄光とともに歩めと言ってくださっているのでした。
たとえ罪を犯すことがあっても、あわれみをもって、人々が恵まれるところに立ち返るのを待たれています。罰せずには置かない神様が、かえって怒りをおそくして、立ち返るのを待っていてくださるのでした。
私たちは本当に不完全な者です。私たちから見ると、人生には浮き沈みがあります。そのような中で、主のご栄光を教えられて、ご栄光とともに歩むようにと求められています。

罰せられているのではないのだ

人生において、苦しみがあります。痛み辛さに耐えきれないと思うことがあります。失敗に意気消沈させられることがあります。そのようなときでも、決して、顧みられていないのでもなく、裁かれ捨てられているのでもありません。かえって怒りをおそくされる神様が、あわれみによって包んでくださっているときなのです。
「あなたは、わたしを恐れているか」と問うてくださっていることです。主を恐れて、神様のご栄光の中に引き寄せられなければなりません。
主を恐れて、罪から離れること、悔い改めること、愛すること、謝ること、供え物の前に仲直りをすること、を自分から進んですることが待たれています。人生がトータルに祝福されるためにです。

14.08.03 すべては主がおられることを教えるために

 すべては主がおられることを教えるために

0803週報タイトル.tiff
「マタイの福音書 28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

栄光の主がともにおられる

クリスチャンとして、新しく生まれた者は、もはや以前の様ではありません。全能の神様が内に住んでくださっておられることです。新しい自分は、以前の自分が生きている自分ではなく、キリストが内に生きている自分、なのだということです。繰り返し申し上げていることですが、このことの理解がなかなか進みません。でも、それでもなお、この事実の下に恵まれて生きてほしいと願うのです。
この極めて不思議であり、素晴らしい事実、を知って一日中、一秒たりとも忘れることなく、生きることが必要です。主が内に生きておられることを意識して、生き続けるとき、私たちは、日常起きていることが、すべて主がそれを起こされている(許されている)ことだということが、本当に良くわかることです。

最善とは

主を内に住まわせて生きている私たちにとっての最善とは、世の中的な御利益に恵まれることを指しません。つまり、「無病息災、商売繁盛、家内安全」のことです。これらは私たちの望みではありますが、神様は祝福の神様でありますから、神様を信じる者に神様がこれらを与えてくださることは当然のことです。そのことよりももっと大切なことがあります。それは、私たちが「栄光の神様が私たちの内に住んでおられること」に気付きつつ、主に生きていただく人生を歩むことです。そのためには、私たちが、一秒たりともそのことを忘れることなく生きること、です。せっかく与えられたこの恵みを、たとえ一秒でも忘れて生きるなら、全く愚かな生き方となってしまうことです。
内に主がおられることを意識して生きますと、目の前で繰り広げられている(起きている)ことが、なるほど、主が内におられることが事実ならば、このことが起こされるのは当然であると分かるのです。
神様を信じる私たちが、経済に困窮するとき、必死に主に願い求めるでしょう。病のとき、家族に問題が生じたときも同様です。これらすべての出来事によって「わたしがあなたの内に生きていることを忘れるな。わたしに生きさせよ。いつもこのことに気付け」と主が言われていることだと、教えられるのです。なるほど、一番必要なこと、最善がなされていると、納得させられます。

主を見て生きる

このように、私たちの人生の答えは、主イエス・キリストただお一人ですから、このお方の御存在にいつも目を向けて生きなければならないことです。「主を意識して生きる」とか「主を前に置いて生きる」とか、繰り返しその恵みを分かち合って来ました。最善とは、このことに気付けることです。
実際、私たちは見ているものに影響されて、思いを抱きます。たとえば、人が自分を非難するような、落胆してしまうことが起こったとします。そのとき、その出来事に影響されて、思いを持つのです。辛かったり、恐れたり、するわけです。そこで、一般的には、別の思いでもって、この落胆の思いに打ち勝とうとします。しかし、私たちが理解しておかなければならないことは、自分の思いによって、自分の思いに打ち勝つことはできないということです。恐れの思いに対して、勝利の思いを持ち、振り払おうとしてもダメなのです。消極的な思いに対して、積極的な思いを持つことによって、打ち勝とうとしても実際はできないことです。誰でも覚えがあることだと思いますが、根深く打ち込まれた失意のくさびは、そう簡単に抜けるものではありません。この失意に打ち勝つことができのるは、主イエス・キリストだけであり、主のみことばだけなのです。ですから、事実である主の御存在を見ようとしなければなりません。

見えているのに気付いていないだけ

私たちは、実際、目でものを見ているのではなくて、心(脳)でものを見ています。目は単に情報を伝えるだけの器官です。盲点は網膜上にある視神経のあるところですが、実際にはそこには映像は映りませんが、脳はそれを推測によって補って、私たちに見せています。目は実際のものを見てはいないのです。嫌いなもの、興味のないもの、は実際に除外します。人でも物でも、実際にあるのに、見てはいないことが多いものです。逆に、見たくない人のことを意識しすぎて、それ以外の人のことが見えなくなる場合もあります。とにかく、見るのは心なのです。
「内にキリストが生きておられる」というみことばによって、私たちがイエス・キリストを見るとき、そこには、主がどのようなお方か、という声が聞こえて来ます。この声によって、否定的な思い、失意落胆の思いは、消え去るのです。ですから、実際におられるイエス・キリストに気付かなければなりません。実際に見るものによって、思いが変わることを知らなければならないのです。

14.07.27 神を恐れる

 神を恐れる

0727週報タイトル.tiff
「箴言 1:7 主を恐れることは知識の初めである。」

神を恐れる

キャンプの恵みを心から主に感謝します。きれいな海で心ゆくまで楽しむことができました。キャンプの礼拝では、「主を恐れる」ことを学びました。大変恵まれたことでした。
エジプトから脱出したイスラエルの民は、神様を信じていました。出エジプトにおいて、たくさんの神様がなさる奇跡を見せられていました。シナイ山で、モーセが神様と会見するために山頂にいる間、民はふもとで待っていました。そのとき、彼らはアロンとともに、金で子牛を造り、それを神様として拝むということをしてしまいました。神様の栄光を金の子牛に引き下げたのです。学んだことを以下にまとめてみます。

神の栄光とともに歩む

イスラエルの民は、神様によってエジプトから救い出されました。その目的は、神様のもとに引き寄せられるためでありました。神様の栄光の中に、神様とともに生きるためであったのです。
私たちは、この世から救い出されましたが、それは神様の栄光とともに歩むためでした。神様の栄光とは、神様が神様であることを現すすべてのことを指します。神様の御性質が現されることです。神様は、ご自身を現したいと願っておられます。多くの場合、私たちは、神様のお考え、ことば、神様のなさる働き、奇跡、ビジョンを見ることはあっても、神様の御性質に直接触れることのお証については、あまり聞かされません。
私たちは、毎日を神様の栄光とともに歩むということが、どのようなことなのか是非とも経験したいことです。

栄光の中で

イスラエルの民は、神様が降りてこられると聞いて、喜びました。しかし、実際に降りてこられたとき、たじろぎ、遠く離れて立ったのでした。つまり神様の栄光が来られるとき、民はそこから逃げ出したのです。イスラエルの民は、神様の奇跡を多く見ましたが、栄光の中では、神様から離れて行ったということです。
このことは、何を表しているかと言うと、奇跡の中では、人に罪があっても、隠していることができます。しかし、神様の栄光の中では、すべてが明らかにされますから、罪を隠していることはできません。そこで、民はそれを恐れて、遠く離れたのです。私たちも同様ではないだろうかと問われていることです。
神様の奇跡や良くしてくださること、語ってくださることを喜びますが、果たして、神様の栄光に触れるとき、逃げ出さないでいられるでしょうか。

神を恐れる

神様を恐れることは、神様の栄光とともに歩むその入り口です。多くの、いえ、すべてのクリスチャンは、神様を愛していると答えます。しかし、神様を恐れているかと言えば、そうではないのです。神様を恐れることが、唯一罪から離れる道です。神様を恐れなければなりません。神様を恐れる人は、何ひとつ神様の前に隠さなければならないものはないのです。
神様の奇跡を見、まことの神様を知っていながら、イスラエルの民が神様の栄光を金の子牛に引き下げたように、クリスチャンもまた、自分と同じようなイメージに神様の栄光を引き下げていることと教えられました。
よくありがちなことと思いますが、私たちは、イエス様を愛しています。そして、イエス様が自分と同じようであることをイメージしてしまうことになるのだ、ということです。イエス様が、私たち自身を理解し、私たちの反抗を理解してくれており、私たちの罪に対して冷静である、というようなイエス・キリストをイメージして、それを礼拝している、という具合だと教えられました。イエス様がどういう方かを知ることを熱心に求めなければなりません。
私たちが知るべきことは、神様が何をしてくださるかではなく、神様がどういうお方か、ということです。つまり、神様の御性質を求めなければなりません。それは神様を恐れることなくしては始まらないことなのです。きよさを全うすることが、神様のみこころです。

14.07.20 キリストに生きていただく

 キリストに生きていただく

0720週報タイトル.tiff
「ガラテヤ人への手紙 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

聖霊の宮

イエス・キリストを信じて、新しくされたクリスチャンには誰でも、その人のうちに聖霊の神様が住んでくださる、と聖書は約束しています。さらに聖書は、私たちクリスチャンはみな、神様が住まわれている聖霊の宮であると、説明しています。「Ⅰコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちが明確に理解しなければならないことは、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きている、ことです。
神様に主導権をとっていただいて生きるなら、どんなにか素晴らしい人生になることでしょう。そこには思いわずらいは存在しないでしょう。間違った判断もなくなるのではないでしょうか。神様が自分を使ってくださるので、集中力が生まれ、ものごとが成就する方向に向かうのではないでしょうか。
何より、地上でイエス様がなされたのと同じ、またそれ以上の働きを、させていただけることが恵みです。イエス様のうちに働かれた聖霊の神様が、私たちの内にも働いてくださるのです。「ヨハネの福音書 14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」

信じているように生きる

しかしながらです。自分のうちに神様が生きていることを知りながら、このことを無視して、なんと多くの時間を、生きてしまっていることかと、自分でも思うのです。思えば、私の信仰生活は、うちに生きておられる神様に渇いて、求める連続であったように思います。出来事のすべてに主を見て、主のなさることを感謝しようとして来ました。しかし、思いわずらいに走ってしまうという、主を見ていない時間が繰り返し続きました。そして、その都度、悔い改めさせられました。
悩んだり、思いわずらったりしていないで、いつも主の主権の下にあることを、思い出せと迫られました。心が悲しみに沈む時でも、外では元気に神様を讃美させられました。涙を流しつつ神様をほめたたえている自分がありました。そのような者に幾度となく神様は答えてくださいました。ものごとがうまく行くことではなくとも、なぐさめを受けるのです。それは、まるでものごとがうまく行くことに安心するという偶像、を捨てさせられて、信頼するべきはイエス・キリストであると教えられたことでした。
まさに、信じているように生きるとは、主に生きていただくことの実践であって、自分自身がなくなることの痛みを恐れないことを、教えられたことでした。今なお、そのことの連続です。

主に生きていただく

イエス・キリストを信じる人生に完全な解決があります。もし、主に生きていただくことが難しいことと感じるなら、心の根底に潜む問題が邪魔をしているのではないでしょうか。自分ではなくキリストが生きてくださる生き方、を理解するためには時間がかかる場合があります。
人は、人に分かってもらおうとする傾向があります。つまり愛されようとするのです。兄弟姉妹に「そんなことをしなくても、私は愛しているよ」と思わず説明したくなることが、良くあります。
愛されていることを確かめなければ、とても不安なのです。しかし、この不安からの解放は、イエス・キリストにだけあります。残念なことに、人に求めて受けたとしても、相変わらず、満たされては確認し続けることになるのです。
人に愛されていることは、その都度、説明されれば分かって、安心できます。しかし、イエス・キリストから受け取ることは妨げられます。
この解決を、本人がイエス・キリストに求めていただくためには、とりなす者が忍耐を持って祈って待つ、ということが必要となってきます。人のとりなしに立つ場合、神様はこのことを私たちにさせます。
複数の人々を同時に建て上げて行くためには、誤解されることはしばしばです。そのとき、人それぞれの状況を説明すれば分かってもらえるでしょう。しかし、問題の解決に導くことや、キリストに生きていただく人生に導くことはできません。天国まで持って行くことが使命です。
キリストに生きていただくためには、キリストに分かってもらえている喜びを知っていることが入り口です。
「ヨハネの福音書 3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と言ったヨハネの心境になることは、さすがに難しいことです。しかし、そのようにして、キリストに生きていただくことが、計り知れない恵みの人生であるのです。

14.07.13 なぐさめはイエス•キリストにあり

 なぐさめはイエス•キリストにあり

0713週報タイトル.tiff
「ルカ 9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。」

変貌の山で

イエス様が、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、山に登られました。山の上でイエス様が祈っておられると、イエス様の御衣が白く光り輝きました。神様のご計画は、イエス様が十字架に掛かられて、救いの道を開かれることでした。そのことを、光り輝くイエス様とモーセとエリヤと三人で、話し合っておられる様子が突然現されたのです。弟子たちは恐くなりました。そして、天から「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という声がしたのです。しかし、そのときイエス様の他には何も見えませんでした。
神様は、弟子たちに、イスラエルの人々が永年求めて来た救いが、イエス様によって実現されると、示してくださったのでした。旧約聖書を代表するモーセでもエリヤでもなく、「イエス様の言うことを聞きなさい」と言われたのでした。弟子たちは、周りを見渡しましたが、イエス様だけしか見えませんでした。

イエス様だけが人生の答え

モーセもエリヤも神様に直接出会った経験がありました。同じように弟子たちは一時的にせよ、神様の現われ、顕現を経験させられたのです。そして、神様の約束(救い)を受け取るために、イエス様だけを見上げ、イエス様の言われることを聞くようにと教えられたのでした。人となられた神様、イエス・キリストは、ごく普通に人々の間で生活をされておりました。そのお方がどのようなお方なのか(不可能のない神様であり、私たちを救うために十字架に死なれる救い主である)を示してくださったことなのです。
イエス様だけが人生の答えであるのです。それで、イエス様の他には何も見る必要がなく、イエス様だけが見える人生を送ることが、人生の全てを手に入れることだと教えられているのです。このみことばによって、イエス様が答えなのに、なんとイエス様以外の多くのものに、私たちの目が行っていることではないかと気付かされるのです。

イエス様がすべてのなぐさめ

イエス様は「ヨハネの福音書 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われました。イエス様にだけ、世が与えるのとは違う平安があるのです。
私たちは、なぐさめを必要としています。それで、なぐさめを求めます。辛い思いで仕事をこなし、勉強をし、人間関係に傷つき、それで自分をなぐさめるために、他のことで自分をいやそうとします。カラオケやパチンコ、その他のギャンブル、テレビやゲームそしてポルノ、インターネットショッピング、携帯やパソコンでおこなうweb上のコミュニケーション(SNS)、ブログ、これらになぐさめを求めて、夢中になっています。世が与える平安をむさぼっているのです。
このように、なぐさめが必要となっている原因は何なのでしょうか。それとも、人生にはストレスがあって当たり前のことなのでしょうか。

イエス様だけしか見えないなら

確かに、人は罪を犯して、苦しんで働かなくてはならなくなりました。苦しんで子育て、家庭生活を営まなければならなくなりました。(創世記3章)しかし、イエス・キリストの救いとは、そこからの救いなのです。イエス様だけしか見えない生活をするなら、仕事、働くこと自体がなぐさめとなります。子育て、家庭生活自体がなぐさめとなります。なぐさめ主であるイエス・キリストを知っている私たちは、なぐさめられるのです。仕事や勉強、その他の生活の営みで、確かに休息は必要です。しかし、なぐさめは必要ありません。
あなたがもし「十分ななぐさめが与えられていますから、なぐさめられる必要はありません」と言えないなら、イエス・キリストだけしか見えないという生活をしていないからに他なりません。
「一日の内ほんの数分しか、あるいは一週間の内ほんの数回しか、イエス・キリストを思い出せませんでした」という報告を良く聞かされます。これはとても不思議なこと、かつ恐ろしいこと、です。そんなことでは、仕事や勉強は辛いことになるでしょう。それでは、なぐさめが必要になるのも当たり前のことです。趣味や遊びは、なぐさめのためにあるのではありません。楽しむためです。
あなたがなぐさめを求めて、友だちとのやりとり、テレビやゲーム、インターネットに夢中になっているなら、その原因はただ一つです。「イエス様だけ」になっていないのです。
世のなぐさめは、私たちの人生をむしばんで行きます。イエス・キリストの本当のなぐさめを経験しなければなりません。

14.07.06 すべてがはぎ取られて

 すべてがはぎ取られて

0706週報タイトル.tiff
「マルコの福音書 5:26-28 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。」

万策尽きて

12年の長血をわずらう女性がいやされた聖書のお話です。彼女は色々な医者にかかって来ましたが、全く良くなりませんでした。医者にひどいめに会わされたとありますから、いい加減な治療や投薬を施されたのでしょう。それもお金のあるうちは、何とか続けられましたが、今や全財産がなくなり、どこにも頼ることができない状態になっていました。悪くなる一方である体調は、彼女を苦しめ、死を予感させ絶望的な思いにさせていました。
そのようなときです、イエス様のことを耳にしました。そこで彼女が思ったのは「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」でした。長血という表現がされていますが、当時、この病は一般的なものだったのでしょう。数多くある病人の中で、彼女だけがいやされたのだと思われます。というよりは、彼女だけがイエス様のところに行ったのでしょう。
他の同じような長血の病人はどうしたでしょうか。おそらく、まだ余裕があって、医者の治療を受けて行けば良いことだと思って、あえてイエス様を求めることはしなかったと思います。イスラエルの社会では、出血は身の汚れであるとされていましたので、礼拝や人との交わりは禁じられていたことです。汚れた体で神様に近づいてはならないことですし、汚れた体で人に触れれば人をも汚してしまうことになります。そのような思いから、表立ってのいやしを願うことは、避けたいことだったと思われます。
しかし、この女性は、もう万策尽きておりました。お金のない彼女を誰も相手にはしてくれません。長血の病人に親切にする人もいません。とにかく頼る人、物は何もなかったのです。後は死を待つだけの心境だったでしょう。そんなときイエス様のことを聞きました。彼女の切羽詰まった状況が、彼女を動かしました。イエス様のことを信じました。人々に気付かれないでいやされるためには、と考えたときに「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」という信仰が湧き上がったのです。イエス様の着物にさわって、彼女はいやされました。

すべてがはぎ取られて

イエス様に信頼することを妨げるもの、それはイエス様以外の、私たちが無意識に、つい信頼を置いてしまう存在のあることです。聖書は「箴言 29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。」と言います。私たちは、神様に信頼すれば、大丈夫と信じはします。しかし、結局、お金に信頼してしまうものです。人に信頼してしまうものです。大丈夫だと思われる状況や人の反応があって、安心できるところがあります。これらのことに安心してはいけないということではありませんが、安心できる状況が、イエス様に対する信頼の思いを弱めているのではないでしょうか。
長血の女性にまだ財産が残っていたらどうでしょうか。危険を冒してまで、イエス様のところに行こうとはしなかった可能性があります。少し体調が良かったらどうでしょうか。おそらく真剣には求めなかったことでしょう。わかってくれる友だちがいて、いつも励ましてくれていて、「私には、わかってくれる友だちがたくさんいるので大丈夫だ」と思っていたらどうでしょうか。やはり、あえて真剣にイエス様に向かおうとはしない思いが、働いたのではないかと思います。
イエス様にだけ信頼するという信仰は、すべてがはぎ取られて、生まれて来るものです。お金がある、助けてくれる人がいる、考えや知恵がある、技術や資格がある、これらはあって良いことです。しかし、その中でイエス様に、全面的に信頼しなければなりません。もし、私たちが本当に主に信頼することを学ばないならば、神様は私たちが真剣に主に信頼したい、と思うような状況に導いてくださいます。長血の女性は、すべてがはぎ取られて、イエス様にだけ信頼しました。そして、いやされました。いやし。彼女が何にもまして求めていたことです。お金や財産と引き換えにしてでも欲しいと願ったことでした。その完全ないやしがイエス・キリストにあるのです。いえ、イエス・キリストにしかありません。

イエス様だけ

答えは本当にイエス様だけ、と知ることは、何にも増して幸せなことです。お金や人や状況がうまく行って、安心していても、常に先の不安に襲われるのが私たちの人生ではないでしょうか。「私はすべての答えをもっている」と主に信頼できることこそが、最終的な勝利です。
以前に申し上げましたが、イエス・キリストを信じる信仰は、何かを身に付けて行くことではなく、逆にはぎ取られて行くことであるのです。その過程で、うまく行かないこと、悪いことが起こっていると感じても、それは私たちが最初から持っている隠れた罪の結果です。イエス様に近づいて行くことで、それが明らかになっているに過ぎません。悪いものが出て来るのです。一枚一枚はぎ取られて行くことで、イエス様にだけ信頼することに向かわせていただいているのです。最終的には、イエス・キリストにだけ信頼することを、目指させられているのです。

2019年 テーマ
「イエスだけ」

マルコ 9:8
自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。