17.06.25 心を注ぎ出す祈り (5)納得を捨てて

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「ルカの福音書 5:5 するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』」

心を注ぎ出す祈り

 心を注ぎ出して祈ることは、心の中にある思いを、全て口に出して神様に告白する祈りです。その目的は、心の中の会話を悪魔を相手にしてすること、がないようにということです。
 口に出して祈っていることが神様との会話であるなら、そして祈りながら、全く違うことを考えていることがあるとすれば、そのときの心の中の相手は、神様でないことになります。口も心も同じ内容の会話があるなら、問題ありません。口でも、心でも、同じ神様相手に会話をしているからです。しかし、会話の内容が違うとなると、全く別の相手と話していることになります。
 口では「イエス・キリストの御名によって」祈っていますから、神様相手であることは間違いありません。であれば、心の中の会話が、神様以外であることがわかります。
 私たちの心の中には、様々な会話がありますが、この会話の相手が、神様相手であるなら、たとえ良くない内容であっても、問題ありません。助けてくださる神様からの、助言を受けるからです。罪ある私たちでも、正しく取り扱われていくことになります。
 心を注ぎ出す祈りは、私たちの心の中の憂さを晴らすためなどではなく、私たちの心を、すべてのことを知っておられる神様のところに差し出すことです。ゆめゆめ思い違いをしてはいけません。

心を注ぎ出すときに気づかされること

 私たちの心には、多くの不平不満があるものです。その傾向が特に強い人もいるでしょう。ですから、祈りの時にも、心の中では、何か他ごとを考え、人や状況に対する不満をよぎらせていることが多いでしょう。そのような時、これを心の中のことと放って置かないで、口に出して、神様に差し出して行きます。
 そのようなとき、どんなことが起きるのでしょうか。このとき、祈りは、まことの神様相手であるので、その会話の中で、みことばが示されます。主は、みことばによって語ってくださるのです。
 みことばは「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル 4:12)」。それで、示されるみことばによって、不平不満の正体が、判別され、心注ぎ出す祈りの最中に、教えられることになります。どんな思いを差し出しても、必ず神様の取り扱いがあるということです。
 例えば、そのときの祈りの中で、示されることは、不平不満の思いの正体は「承服できない」という思いであるということではないでしょうか。どんなことであれ、「受け入れられない」という思いで憤っているときには、不平不満の思いが募るのです。

不平不満が取り扱われる

 賛美とは、神様をほめたたえることです。そして賛美は、私たちの力となります。賛美は「賛成」「賛同」を意味します。神様のなされることに、賛成することです。
 神の宮として、神様がうちに住んでいてくださっている私たちは、すでに「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある(ヨシュア記 1:9)」という主のみ声を聞いています。私たちの行く所、いる所はどこでも、神様がともにおられます。ですからたとえば、体はしようがなくそこに置きながら、心は「いやだ、いやだ」と逃げ出しているようなことは、み心でないことを知っています。そこで、体がその場所にあるように、心もその場所にあろう、と決意するのです。「私はここにいる」という決意が信仰を生みます。心が嫌がろうが、好もうが、体のいる場所は同じなのです。逃げ出そうとする心が、敗北を招いています。一旦「体がここにいなければならないなら、心もここにいる」と決意するなら、戦いは止みます。悪魔は、私たちを、恐れで動かすことはできなくなります。このように主に賛成することが、私たちの問題を解決します。
 不平不満は、神様に対する不賛成以外の何物でもありません。主はこれを取り扱われます。私たちの問題を放って置かれないのです。

自己中心の最先鋒、納得できない

 私たちの生まれながらの性質を「肉」と言いますが、「肉」は罪を好むという特徴を持っています。罪の実態は「わがまま」であり、自己中心でないと気が済みません。つまり、自分の思いが納得できないことに、怒りを覚えるのです。
 私たちが神様を信じて、神様のみことばに照らして、納得できない、ということであるなら、それは神様の基準によって、良し悪しを考えていることですから、そこには神の義があります。たとえば、誰かが「教会に集わないでも、神様を信じていれば、それで良いのだ」と言ったとします。そのとき、あなたは「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル 10:25)」のみことばによって「それは納得できない」というでしょう。これは正しいことです。
 問題は、私たちの自己中心から、納得できないと言うときです。神様の言われることでも、いちいち、自分が納得しないと、従おうとしません。そのようなことは、もはや信仰ではありません。自分の判断こそが正義であって、神様に対する信頼はそこにはないからです。世の中的には、自分が納得することをする、というのは正しいことのように見えますが、神様の前では、ただの自己中心です。神のみ心にでさえ、自分の納得という許可を得ていないものは、否定していることになります。まるで自分が神なのです。
 私たちは、神のみ前に、自己中心が徹底的に砕かれる必要があります。たとえ納得できなくても、ペテロのように「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言わなければなりません。
 心を注ぎ出す祈りは、私たちの心を判別される主によって、私たちの心の思いの正体が明らかにされ、解決されて行くのです。心の中で、悪魔を相手に話しているうちは、一向に解放されない自分でしたが、神様相手に会話するなら、たとえ不平不満の思いであっても、根本的な解決に至らせていただけるのです。

17.06.18 心を注ぎ出す祈り (4)わたしの霊によって

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「ゼカリヤ書 4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。』 」

神の霊によって

 捕囚から帰された民は、破壊されていたエルサレムの神殿を再建しました。ゼルバベルは、その再建工事を指導したリーダーです。この工事は様々な障害の中、困難を極める大工事でした。ゼルバベルの神殿再建に対する貢献は相当大きなものであったようです。
 神様はゼルバベルを選び、彼に主の霊を注ぎ、神殿を再建させるのだ、と言われるのです。人の「権力によらず、能力によらず」、神様の霊によって完成されるのだ、と言われているのです。
 人はときに、大きな能力を発揮する働きをしますが、神様を信じる者には、神様が霊を注ぎ、人にその能力を発揮させるのだ、と教えられます。
 イエス・キリストは、「わたしの上に主の御霊がおられる(ルカ 4:18)」と言われましたが、主の上にとどまられた御霊は、「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知 る知識と主を恐れる霊(イザヤ 11:2)」です。私たち主を信じる者には、このような主の霊の働きがなされることを信じなければなりません。

信仰によって

 私たちクリスチャンは、神の御霊を宿す者です。うちに神様がお住まいくださっています。その神様の「知恵と悟り」「はかりごとと能力」「主を知る知識」「主への恐れ」は、すでに私たちのうちに存在しているのです。
 私たちは、神様がお住まいになっている神の宮であると同時に、その神様の働きが、外に現れる管でもあります。神様の働きは、私たちの信仰を通して、外に現れます。
 ゼルバベルから出た能力は、ゼルバベルが信じるまことの神様からのものでした。彼は強い信仰を持ち、行動的な人間でしたが、彼の働きは、神様の霊によって動かされた結果であったことがわかります。
 知恵は、神様が、信じる者の信仰を通して、与えてくださるもので、私たちはそれを持つことができます。悟ることも同じです。信仰とは主に対する信頼に他なりませんが、主に賛成する心の向きであると言えるでしょう。主の言われること、なされることを、無条件で受け取ること、これが信仰です。そして、そのように受け取って安全な方であると知っている、これが信頼です。
 計画やそれを成し遂げる能力も、主を知る知識も、主への恐れも、みな私たちの信仰を通して、現れる主の霊の働きなのです。

納得を求める自己中心

 肉は、生まれながらの私たちの性質ですが、その実態は自己中心です。そこには主の霊の働きはありません。それでは、生まれながらの罪人の私たちは、どのような力の源泉で生きてきたのでしょう。自己中心の性質が求めることは、「納得」です。「納得」できることを求め、納得できなければ動きません。当然、恐れがあれば、それが消え去るまで、萎縮の状態を壊すことができません。見えない神様が働いておられる、と言われても信じることができません。神様が、愛してくださっている、と言われても、それを感じることができるまで、受け取ることができません。
 自分の真実の姿に面と向かうことが「納得」できないので、逃げ出します。目の前のみことばに「納得」できないので、他のみことばや解釈、ミニストリーに「納得」を求めて探します。これらは、悪いことではないにしても、逃げてそれらを求めるということが自己中心の現れです。私たちは「神中心」でなければならないのです。

父ちゃんが中心にいる

 信仰によって生きるとは、うちに住まわれている、父ちゃんである主を中心に、会話と交わりをもって生きることです。父ちゃんと呼べるのは、特権です。主イエス・キリストは、神様が父であることを示してくださいました。「それは冒涜である」との声をさえぎって、神様は父ちゃんであることを啓示してくださったのです。父であることで、神様が近しい方であることが理解できますが、「父ちゃん」と小さな子どもの呼ぶ呼び方で呼べることで、さらにその距離が縮まる感じがします。
 「納得」を捨てることです。父ちゃんと呼べる方は、偉大なる神様です。ゼルバベルに働いて偉業を成し遂げさせた方が身近におられるのです。

17.06.11 心を注ぎ出す祈り (3)心の中には常に神との会話があるように

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「詩篇 16:8-11 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

心の中の会話

 口で会話する以外にも、心の中に会話があることを、検証しました。心の中で祈ること、考えること、つぶやくこと、感じること、みな、何者かを相手にしての会話で成り立っています。もちろん、心の中で祈るときは、心の中に神様を見て、心の中で話しているわけです。
 一方、考えるときは、ほとんどの人がそうだと思うのですが、自分自身かあるいは何者かを相手に話しています。つぶやく時も同じようです。あるいは、感じるときは、同じように心の中で、ひとりごとのように感嘆の声や、嘆きの声をあげたりしています。
 今回は、この心の中の会話の相手が、神様であれば、どれだけ助けられ、恵みを受けるかについてお話ししたいと思います。
 私たちの敗北は、心の中で起こります。心の中に絶望感や、自分を否定する心、押しつぶされそうな心配や恐れ、孤独で寂しい思い、怒りや苛立ち、がまず起こります。そして、このような思いが私たちを壊して行きます。
 順番として、私たちの心の中に敗北が起こり、そして私たちの行動がそれに続いて行きます。自信のない行動や、人を近付けない荒れた態度、人の愛を疑う態度、制御できない破壊的な言動、などが出てくるわけです。
 しかし、これらの思いや行動を抱えている私たちでも、心の中に神様との会話があるなら、打ち勝つことができるのです。

ダビデの喜び

 ダビデは、いつも自分の「前に主を置いた」と言います。神様がいつも自分の前におられることを認めて生きました。いつも神様との交わりがあり、交わりつつ生きたということです。
 神様との交わりとは、神様との会話に他なりません。その結果、どうであったかというと「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる」と告白しています。ダビデの心は喜び楽しんでいるのです。そしてその心の中に湧き上がる希望は「私の身もまた安らかに住まおう」でした。ダビデの心の外側つまり、自分の体、自分の生活、人生も平安であるであろう、ということです。心の中に勝利があれば、行動や将来には勝利があります。心の中に喜びがあってこそ、将来に希望を持つことができます。
 彼の思いには、恐れがありません。サウル王による迫害の中、攻撃され、苦しめられ、客観的には絶望的な状況です。しかし、ダビデの心は勝利しています。その心から出てくるものは、希望です。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」とは、決して自分の将来において、倒れること、滅ぼされることなど起きるはずがない、と言い切っていることです。そしてさらには「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます」と、自分が生きる道を神様が必ず開いてくださると、確信を得ているのです。そして「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と、いかに主との交わりが、喜びと希望に溢れたものかをしみじみと感じているのです。主との交わりがあれば、心に勝利があります。

繰り返す自分

 毎回反省をし、そして同じ失敗を繰り返して行なってしまう、そんな自分に気がついてはいませんか。ここには自分という者の、どのような本質が隠れているのでしょうか。おそらく多くの人は、自分の本質は「毎回反省をしつつ、正しい方向を目指し、また、常にできていないながらも、あきらめず頑張っている人」などという評価を、自分に下しているのではないでしょうか。そして、その都度、残念な気持ちの中、悔い改めて「次はちゃんとやります。どうか、できるように助けてください」と告白しているのではないでしょうか。しかし、一向に主の助けがやって来た試しがない、と思う人も多いでしょう。
 自分の本質とは、何でしょうか。改めて考えて見ましょう。敗北はどこで起こっているのでしょうか。心の中でしょうか、それとも行動なのでしょうか。心の中です。ですから、心の中でまず何が起きているのかを知ることが、自分の本質を知ることです。主は、この繰り返す自分を、どのように助けてくださるのでしょうか。

助け主が住まわれる

 私たちの罪や敗北の問題は、私たちのうちに主との交わりがないことです。「主との会話だけがある、他はない」となっていないなら、必ず心は敗北するのです。御霊の主が、うちに住んでくださっているのは、ひとつには、私たちの会話の相手となり、私たちを助けるためです。
 私たちの本質は「心が主との会話だけになっていないので、必ず心の中には敗北が起こり、敗北の行動がそれに続いて、繰り返し敗北する、という現状を抱えた者」ということです。
 もし、悔い改めの思いがあるのなら(繰り返し悔い改めをしているなら)、反省をするなら、心の中に主との会話を持ち続けなかったことを、悔い改めることです。助け主の助けを退け、自分勝手に心の中で、したいようにしているなら、それは罪です。自己中心を侮ってはなりません。
 もし、主との会話に、1秒でも間隙(かんげき・すきまのこと)があるなら、敗北の思いが襲って来るのが事実だと知りましょう。ここにこそ、主の助けを求めなければなりません。主との会話だけに生きることです。いつも自分の前に主を置いて生きましょう。
 考えることは主との会話。感じることも主との会話。悩むことも、怒ることも、心配することも恐れることも主との会話。すべてがそうなっていなければなりません。自分の行いが失敗していることよりも、主との会話に間隙を作ってしまったことを悔やみましょう。

17.06.04 心を注ぎ出す祈り (2)心の中と外の会話

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「ガラテヤ人への手紙 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

祈りは主との会話である

 私たちは、イエス・キリストの名によって祈ります。そう命じられているからです。イエス様は「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ 14:13)」と言われました。イエス・キリストの名を通しての祈りだけが、真の神様に届く祈りです。
 祈りは真の神様との会話です。私たちが言わなくても、神様は私たちのことを全て知ってくださっています。しかし、私たちを愛される神様は、私たちが口を開き、神様に直接申し上げることを求めておられるのです。私たちと会話をなさりたいということです。そして、私たちは会話である祈りの中で、神様のみ心を示され、神様からの語りかけを受けることができます。そのほとんどは、私たちが元々知っていることです。例えば、聖書で読んで知っていること、あるいは、メッセージや交わりの中で聞いたこと、などですが、それらを思い起こさせられることにより、神様から語りかけられているのです。祈りはこのように、双方向のコミュニケーションとなっています。私たちが、イエス・キリストの御名により祈っているとき、確実に真の神様を前にして、会話をしていることになります。
 私たちは、いつも口で会話をします。人と会話をするときは、直接その見える相手と会話をします。電話のように相手が見えなくても、心の中では相手を見て、口を使って話をします。真の神様に祈るときは、見えない神様に対して、お話しをすることになります。神様は見えないですが、心の中では神様を見て、そして口では声に出して、お話をするのです。これが実際の祈りです。
 人と話をするときに口を使って話し、その同じ口を使って、真の神様にもお話をします。同じ口を使ってはいますが、決定的に違うことがあります。それは、真の神様にお話をするときには、イエス・キリストの御名を通して、お話をするという点です。このことによって、相手が真の神様であるということが決定的になるのです。これが、聖書の教えていることです。イエス・キリストの御名を使って祈るということで、私たちの会話は、確実に真の神様とのものとなっています。

心の中にも会話がある

 私たちは、心の中で考えます。このときは、当然、口は使いません。心の中だけの行為です。思ったり、感じたり、答えを求めたり、歌ったりと、様々なことを心の中でしています。そして、この心の中の活動が、会話で成り立っていることが、観察するとわかると思います。つまり誰か架空の相手を前において、あるいは特定の相手を想定して、話しかけたりしているのです。その相手は、誰か一人の人であったり、クループや群衆であったりです。自分が自分に言って聞かせているときもあります。自分が自分に得意になって示して見せていることもあるでしょう。何かを考えるとき、このようなことが心の中で起きています。
 会話で成り立っているというのは、たとえば「どうしようか」と答えを求めているときに、「どうしよう」と心の中で答えています。明らかに自分自身を含めた誰かに訴えているのです。そして、もう一人の自分が「そうだな。こうしようか」と答えています。考えるというだけなら、算数の計算をするように、いきなり答えを考えて「こうやって、こうやって、こうする」と結論付ければ良いわけです。しかし、答えを求めて考えるとき、まず「どうしようか」との呼びかけが必要とされ、そして「こうしようか」と答える反応が必要となって来るのです。私たちは、そんな心の中の会話をもって、考えるという行為をすることが多いのではないでしょうか。

ひとりごとも会話

 私たちが、誰もいないところでつぶやくとき、自分を含めた誰かに話しかけています。口に出す時もありますし、出さない時もあります。出さないときは、頭の中で話しています。頭の中で発音しています。
 何かを感じる時もそうです。「いいじゃない」「何やっているんだ」と一人でいるときにも、心の中では呼びかけているのです。その相手が自分自身であるのか、それとも自分の空想の相手なのか、いずれにしても、何かを相手に話しかけているのです。
 ひとりごとということではありませんが、黙って心の中で祈るときがあります。このときは、確かに、イエス・キリストの御名によって、祈っていますから、心の中で真の神様相手に話しかけているのです。このように見て来て、わかることは、私たちの心の中には会話があるということです。

敗北は心の中で起こる

 心の中に会話があるという事実を観察するときに、人が何を考えているかは、この会話がどのようなやりとりで構成されているか、によることだということがわかります。人の考えとは、心の中の会話の結果であると言えるでしょう。
 私たちが勝利するかどうかは、私たちがこの心の中の会話に打ち勝つことができるかどうかにかかっているということになります。たとえば、先行きが不安で、恐れに押しつぶされてしまいそうだと感じているとき、「大変だ。この先どうなるのだろう」という声があり「大丈夫だ。必ず、うまく行く」と確信を持って答えているなら、その人は恐れることなく、前に向かって進んで行くことができます。ところが、ほとんどの人は、ここで終わらないで、次に「本当にそうだろうか」という声を聞きます。「もしうまく行かなかったら、どうするんだ。破産してしまうぞ」とたたみかけられるように心配の声を聞くのです。それでも必死に抵抗して、「いや。とにかくやるぞ。やらなきゃどうするんだ」と戦います。こんなことが際限なく繰り返されて、日を、時間を追うごとに、恐れは確かなものとなり、やる気はしぼんで行くのです。
 それでも、また日が経てば、思い直して自分を奮い立たせます。しかし、また負けて行くのです。悩んでいるときは、大抵このような繰り返しが起きているものです。その内容は、経済的なこと、人間関係のこと、健康のことなどでしょうが、敗北するメカニズムは、同じようなことです。

祈る時に起こる両刀使い

 祈りは真の神様との会話であることがわかりました。また心の中にも会話があることがわかりました。私たちが祈るときに、陥りやすい一つのことがあります。口では神様に祈っているのに、心の中では別のことを考えている、というようなことです。祈りに集中できない状態、と言えば良いでしょうか。もうまったく、心は神様に向かっていないのです。このようなことが起こっているとき、私たちは何をしているのでしょう。
 口で話すことも会話です。また心の中で考えることも会話です。祈りながら考え事をしているとすれば、口では真の神様と会話をし、心の中では神様以外の何者かを相手に会話をしていることになります。心の中で神様と会話をしているなら、何も問題ありません。しかし、心の外と中の両方が同じ相手であることはありません。心の中は、神様以外の何者かということです。この心の中の相手が問題です。「いいえ、それは、自分自身です」と言えるとしても問題です。神様に失礼なこととなっています。
 もう一人の自分の背後には、霊的な敵の存在があり、私たちは常に影響を受けています。これが、私たちを打ち負かす、敗北の原因となっています。いつも言い負かされて、勝てないことです。

主は助け主

 主は私たちのうちに住んでくださっています。誰でも、イエス・キリストを信じるなら、その人のうちには神の御霊が住まわれます。そのお方は助け主です。主は、私たちのうちに住まわれて、私たちの話し相手となってくださり、心の中でも、私たちは日々主との会話の中に生きることができます。
 心の中で、もう一人の自分という存在や得体の知れない何者かとの会話には、何一つ自分を助けるものがあるわけがありません。常に、自分を否定的に導き、せっかく築いた決意も壊されて行く始末です。
 このような中に、主は来てくださいました。私たちが他の何者も相手せず、ただ主とだけ会話をするなら、いつも勝利であるのです。どんな、情けない自分でも、どんな否定的な自分でも、どんなにできない自分でも、主との交わりに生きるなら、いつも励まされ、助けられます。それは、常に、どんな症状にも、みことばが語られるからです。
 考えることは会話ですから、主を内に住まわせている私たちにとって、もはや考えるとは、主との会話のことだ、と言うことができます。決して、このお方との会話を逃してはなりません。どんな考えが湧き上がるにしろ、どのような思いがよぎるにしろ、全て主に差し出して行かなければなりません。心を注ぎ出す祈りは、それを可能にする祈りです。

17.05.28 心を注ぎ出す祈り (1)心の中をみな主に話す

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「詩篇 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」

祈りの時に起きていること

 祈っていて、こんなことに気が付かれることはありませんでしょうか。口では一生懸命祈っているのに、心の中では、別のことを考えているようなことです。たとえば、自分が祈っていることについて、どう口に出せば良いかと考えている時もあります。色々な思いがある中、それらを選別して、こう言えば良いだろうと考えて、口に出している場合のことです。
 あるいは、祈っている時のことばから、連想が始まっていくこともあります。次から次へといろんな考えが出てきます。さらには、祈っていることとは全くかけ離れた、違うことを考えていることもあるのではないでしょうか。
 このような時に、ふと気が付かされるのです。
 祈る時には次のようなことを前提として祈っています。「まことの神様が存在していることを、私は信じている。」「まことの神様は、私の心を見透されるお方であって、私は何も隠すことはできない」「今、私は、まことの神様の御前に出て、祈りをささげている。」「祈りは、まことの神様との会話である。」など、このようなことを信じて私たちは、イエス・キリストの御名によって、祈っているのです。
 この前提は次のようなことを示しています。「神様の前には、私たちの存在は全てさらけ出されている。」「口で言うことや見た目はもちろんだが、心の中だけでなく、過去のこと、すでに私たちが忘れていること、など全てが主の前にさらされている。」
 祈りは、何もかも分かっておられる神様とのコミュニケーションです。であるのに「心の中では、全く神様に知られていないかのごとくに、口とは別のことが存在している。」ということに気づけるはずです。

心を注ぎ出す祈り

 ここで言う、心を注ぎ出す祈りとは、心の中にあることをみな口に出して祈ることと理解してください。何もかも知っておられる主に全てを申し上げるということです。神様の御前に隠し立てすること、嘘偽りがあってはならないからです。私たちは心から主を愛します。聖書は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記 6:5)」と命令しています。全てを知っておられて、私たちを愛してくださっている主に、全てをさらけ出して、心の中にあることを余すところなく告白することは、主を愛することではないでしょうか。嘘偽りのない態度こそ、主が私たちに求められていることです。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける(箴言 28:13)」と聖書の教えているとおりです。
 とにかく、恥ずかしくても、辛くても、恐ろしくても、申し訳なくても、言うことです。
 「尽く」す、ということは、無くなるまで、ということです。燃え尽きると言う場合、燃えてなくなることを意味します。もう残っているものは一つもない、と言えるまで、告白することです。心の中に留め置くことによって、神様以外のものを相手にしてしまわないためです。

さあ注ぎだして祈ってみよう

 心の中には、具体的な人や事柄が、イメージとして存在しているものです。ですから、口に出す(祈る)ときは、具体的な表現で祈ることです。抽象的な言い方で、心の中と口にギャップを作ってはいけません。例えば、憎んでいる人がいて、心の中にそれがよぎっているなら、具体的に名前を挙げて、何を赦せないと思っているのか、を言い表すことです。また、前向きに祈ろうとしていながら、祈りのことばとは裏腹に、その背後に、なんとなく恐れが、存在しているなら、その祈りに割り込ませて(中断して)その内容を具体的表現をもって告白します。
 心を注ぎ出す祈りは、多くはおそらく一人の時にすることになるでしょう。そして、一日何回も繰り返して祈ることになるでしょう。私たちは勝てるのです。敗北(心の中が主一辺倒になっていないことによる憂鬱)の人生から脱出したいものです。
 喜びがない、やる気が起きない、希望が持てない、などのことは全て、主との交わりを欠いているからこそ起きていることなのです。「私は主とともに歩んでいる」と胸を張っていても、一日の大半に、心の中に主以外のものとの交わりがあるとすれば、敗北の心境になるのも当然のことです。

平安がやってくる

 心を注ぎ出して祈ると、誰もが手にする結果があります。平安が訪れるということです。この平安は、私たちが、心にある否定的なことをぶちまけて、憂さ晴らしができたので、訪れたわけではありません。
 主は平安です。そして主の願いは、私たちが平安であることです。イエス様は、怖がっている弟子たちに「平安があなたがたにあるように(ヨハネ 20:19)」と言われました。主との交わりが、しかもそれだけがあれば、平安が訪れるのは当然のことです。
 主の平安こそが全ての原動力です。平安がなければ、やる気も、ビジョンも、愛する想いも、働く気力も、学ぶ気力も、成し遂げる気力も、全く奪われていくのです。
 心を注ぎ出して祈る祈りは、私たちを勝利に導きます。

17.05.21 ありのままが勝利

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「ルカの福音書 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」

受け入れられた人

 ご存知、取税人の祈りです。彼は、自分のありのままの姿で、神様の前に出て、あわれみを乞いました。神様のあわれみにすがるしか、生きる道はない、と思ったからです。
 彼は、必死でした。自分のあわれさに、打ちひしがれておりました。自分が情けない。人々の視線が痛い。こんな自分が恥ずかしい。その思いは、長年の彼の心の内が、あふれ出たものでした。
 もうたまりません。ただ、こんなあわれな自分を「あわれんでください」と、懇願するしかないところに追いやられていました。この祈りが受け入れられました。
 彼は、自分のありのままの姿で、生きられるということを知りました。自分を恥じたり、情けないと思うことは、まったくぬぐい去られました。神様に受け入れられるとは、ありのままの自分が認められるということです。人々の視線も、自分の心の中に溢れる、自分を否定する声も、自分を打ち負かすことはできません。「こんな私」で、喜んで生きていかれるのです。神様に受け入れられるとは、そういうことです。

自分を覆うという戦い方

 もう一人の人の祈りがありました。パリサイ人です。パリサイ人は、自分が恵まれていることを神様に感謝して祈りましたが、受け入れられませんでした。彼の、自分の生き方、在り方、していること、その考え、全てが否定されたのでした。
 人には隠していますが、常に、彼の心の中には敗北の思い「こんな私」が漂っているのです。口では、打ち勝てていますが、心は敗北です。神様に受け入れられないとは、こういうことです。
 彼は、自分に打ち勝ち、人々の評価を得るために、ありのままの自分を覆い、本当の自分を否定する生き方をしている人でした。この世のほとんどの人が、この生き方をしています。
 「こんな私」を努力で包むのです。行いに励むのです。良いことを積み重ねるのです。これらは、良いことであって、否定されることではありません。しかし、本当の自分に勝利をもたらすこと(神様に受け入れられること)は、できないのです。本当の自分では生きられず、常に敗北の思い「『こんな私』ではいけない」という思いに支配されているのです。
 自分を覆うという戦いに、勝利はありません。いくら良いもので覆っていても、心の中にある敗北は消えていないのです。こんな自分じゃ生きられません。もっともっと、覆いを重ね続けていかねばならないのです。いい加減、疲れているのではないでしょうか。

神様の求めること

 私たち人間の真の姿は、すべての人が罪人である、ということです。この罪という縄目からは、神様のあわれみ無くしては、逃げられません。神様が、私たちに求めておられることは、決して、自分を覆うという戦いに生きることなどではなく、神様のあわれみに生きる、ということです。私たちは神様のあわれみを求めなければなりません。
 本当の自分、ありのままの自分、を知る人は神様のあわれみを求めるでしょう。「『こんな私』を受け入れてほしい」、「『こんな私』を認めてほしい」と。しかし「こんな私」を知らない人は、そうは言えないことです。「こんな私」を認めることには、耐えられないからです。
 だから「ありのままの私をあわれんでください」とは情けなくて言えません。しかし、そうであれば、いつまでも、いくら覆いをかけて守ったとしても、内に秘める「敗北感」は消え去ることがないのです。
 なりふり構わず、神様のあわれみを求めることです。そこにこそ、イエス・キリストが十字架で勝ち取ってくださった勝利があるのです。

ありのままが勝利

 「ありのままの自分」で生きられることほど、嬉しいことはありません。「ありのままの自分を恥じる必要はないのだ。私は神様のあわれみを受けているのだ。このありのままの自分が受け入れられたのだ。」と言えるのです。
 あわれみを求めるなら、まず自分が自分のありのままを受け入れる必要があります。ありのままの自分から、逃げ出さない決意なのです。そうでなければ、決して「神様のあわれみを、このありのままの自分に注いでください」とは言わないでしょうから。

17.05.14 脱出の道

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「第一コリント人への手紙 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

先人たちの知っていること

 人生には、苦しみがあります。古来から、人はこのことに対して、答えを求めて来ました。そして、いろいろな宗教や哲学が生まれて来ました。苦しみの中にある人生をどのように捉えたらよいのか、考え尽くして来たのです。しかし、おそらく、誰もが納得できる、その答えには至っていないだろうと思います。
 ある人は、人間は自然淘汰の世界で、その知恵を以って苦しみを可能な限り克服しつつ生きている、と考えます。ある人は、人間の苦しみは、人間が欲望を持つがゆえに生じることだから、その欲望を捨てることが、解決を得る答えだ、と考えます。しかし、それでも、人には完全な平安を得られる答え、あるいは確信が持てる人生、を手にしてはいないのです。皆、大なり小なり悩みつつ生きてます。「大丈夫だ。負けてはいけない。必ず良いことがある」と自分に言い聞かせながら。
 イエス様は言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ 16:33)」と。「人生には、人が苦しむようなことが満ちている。しかし、そうであっても、その苦しみに勝って生きられる。わたしはすでに世に勝っている。わたしに従って付いて来なさい」という意味です。
 そしてこのことを、イエス・キリストを信じた先人たちは、すでに知っていたのです。だから、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです(Ⅰペテロ 5:9)」と聖書は言っています。私たちの「会った試練はみな人の知らないようなものではありません」

この世という現実

 このように、この世に生きるということは、「患難」がある人生を生きるということです。苦しみがあるのが、この世の現実だ、と知らなければなりません。ですから、この世に生きるとは、決して、苦しみを無視したり、そこから逃げたり、忘れたりすることではありません。むしろ、この苦しみに向かって生き、この苦しみに打ち勝って生きることなのです。その打ち勝つ方法とは、すでに打ち勝ってくださっているイエス・キリストに従って生きること、なのです。
 イエス様は、この世という現実の中に、私たちと同じ人間の姿をもって生きてくださいました。つまり、人として世に勝って生きてくださったのです。私たち以上の「患難」を味わう中に生きてくださいましたが、全く罪を犯しませんでした。ですから、主がともにおられれば、私たちも主と同じように生きられるということなのです。
 このように、この世に生きるとは、この世の現実から逃げない、ということです。主とともにあれば、逃げ出さずに生きられるのです。「生きるとは逃げ出さないことである」という勝利の生き方に、主にあって感謝します。

神は真実

 さて、聖書は「神は真実な方です」と言っています。神には嘘偽り、間違いや失敗、はないということです。主が「私たちは、主にあって勝利する」と言われれば、そのとおりであって、敗北なんかしない、ということなのです。そうでなければ、そう約束してくださっている神は「真実」とは言えないことです。
 もし、私たちがこの世の「患難」の中で、苦しみの中で、これに耐えきれないということがあるなら、「神は真実」とは言えないことになります。「神は真実な方ですから」当然、私たちが「耐えることのできないような試練に」会うようなことはないのです。神が「会わせるようなことはなさ」らないからです。
 この世の全ては、神の御支配の下にあります。神の許しがなければ、何事も起こりません。私たちが「試練」に出会うことも、苦しみに会うことも、神が許されなければ、起きることはありません。すべてのことは、神が許されたこと、つまり神の御意志があって、起きていることなのです。必ず耐え抜ける「試練」であり、耐え抜いて勝利することが、神の私たちにさせたいことです。
 想像してみてください。あなたが、この世でどんなことに出会おうとも、それを克服し、喜びにあふれている姿を。あなたは思うでしょう。「人生は、このようにして生きていけば良いのだ。もう何も恐れることはない」と。神は真実なので、このような勝利を、私たちはこの世の「患難」から、逃げ出さないで、次から次へと、打ち負かして生きていけるのです。

脱出の道

 人生には、入口があり出口があります。患難にも、入口があれば、当然出口があるのです。神は「むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださ」っています。
 八方塞がりのように感じさせるのは何者でしょうか。「苦しみは、嫌だ」と気落ちさせ、投げやりな気持ちにさせるのは何者でしょうか。早くこの道から逃げ出したいと、あせらせるのは何者なのでしょうか。確かに見えない敵がいます。
 私たちは脱出の道があることを知っています。私たちが苦しんでいるのは、脱出の道があるかないか、確信が持てないからです。希望を持ったり、気落ちしたりを繰り返していることです。必ず解決されると知っている問題、必ず喜びの結果に終わると知っている苦しみであるならば、苦しみは苦しみではなくなります。
 勝利してくださっている主を見上げましょう。私たちはこの方にあって、必ず勝利の人生を歩むのです。

17.05.07 誰が私を打ち負かすと言うのか

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「ローマ人への手紙 8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

神の愛によって救われた

 私たちは神様の愛によって、救われています。神様が私たちをまず選んでくださいました。私たちが造られる前から愛されていたのだと聖書は言います。生まれる前どころか、天地が造られる前から、神様は私たちを選んでくださっているのです。私たちがイエス・キリストを信じて救われることは、天地が造られる前からの、予定されていた神様の計画なのです。
 その計画は、神様自らが人となり、十字架で、私たちの身代わりとして、死んでくださるというものです。この計画を信じる者、すなわち私たちを、信仰によってきよめて救うということなのです。そして、救われた私たちのうちに住まわれるという計画です。神様は、信じる者といつまでもともにいてくださると言うのです。
 このような壮大な計画が、私たちが生まれる前、天地が造られる前に、すでに決められていたのでした。この神様のご計画の、その動機は、「神様の愛」なのだと聖書は言います。神様の愛によって、私たちは愛され、選ばれ、神様の愛によって十字架という救いの道が開かれ、神様の愛によって信じる者と一緒にいてくださるのです。

神は味方なのか

 救いのシステムにおいて、私たちに拠り所が求められることは何一つありません。私たちの良し悪しに関わらずということなのです。出来不出来に関わらずです。全て神様の側に依存していることです。
 問題は、神様が私たちを愛しているか、私たちの「味方」であるか、神様にそのようなことができるのか、すなわち神様は全能か、ということだけです。答えは全てイエスであると聖書は証言しています。イエス・キリストを信じたなら、神様は私たちの「味方」であって、私たちのうちにいつまでも住んでくださっているのです。「味方」である神様がいつも私たちについているということです。全てが決して変わらない神様の愛によって、成り立っているのです。

私に勝とうと思うなら

 このような神様とともににいるのが私たちです。神様の愛がなくならない限り、神様は私たちから離れていくことはありません。ですから、「では、これらのことからどう言えるでしょう神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」ということになるのです。つまり「私に勝とうと思うなら、キリストの愛から私を引き離すことが必要だ。そんなことができるものがあると言うのか。あるわけがない。どんなことをしても、私をキリストの愛から引き離すことはできないことだ。だから言えるのだ。誰が私を打ち負かすことができるというのか。できるものか」と聖書は言っているのです。

私たちを神の愛から引き離すように見えるもの

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と聖書は問いかけています。私たちが「苦しみ、そしてくじけて、投げやりになること、信仰を失うこと」になるような出来事、そのようなものが挙げられています。
 人生の中で出遭うさまざまな苦しみ、もうどうしようもないと思えるような、絶望的な思いになせられること、が確かにあるでしょう。人間関係が壊れて孤独になる、誰もわかってくれない、という経験はありませんか。家族がいがみ合って、バラバラである、と感じたことはありませんか。経済的に破綻して、あるいは破綻しそうで、とても辛いと思った経験はないでしょうか。体の調子が悪く、死を予感させられた、ということはありませんか。しかし、このようなことがたとえあったとしても、依然として神様は私たちを愛してくださっていて、私たちとともにいてくださるお方です。
 そして、神様は私たちの「味方」なのです。苦しいからと言って、完全に壊れたように思えるからと言って、神様が変わったわけではありません。私たちを祝福する神様のご計画は連綿と続いているのです。こんなことが、私たちを神様の愛から引き離すことなどできないのです。むしろ「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」

誰が私を打ち負かすことができると言うのか

 聖書は私たちに、敵に対して果敢に挑めと、励まします。神様が私たちに与えたいのはこの姿勢なのです。神様の思いは、「わたしがともにいるということに対して、あなたはどのような反応を見せるのか」です。神様は私たちの「味方」なのです。
 あなたは自分が、神様に敵対したことはありませんか。そうだとすれば、そのとき、あなたのしていることは、神様が「味方」であるにも関わらず、あえて敵対した、ということになります。
 私たちを打ち負かすものは、この世には存在しないのです。あなたが負けるときがあるとすれば、あなたが味方である神様に敵対しているときだけなのです。敵対しなければ、私たちは、どんな状況の中でも、全てを打ち負かし「圧倒的な勝利者となるのです」

17.04.30 神がともにおられる最高の恵み

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「ヨハネの福音書 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

神の御住まい

 誰でもイエス・キリストを信じる者には、その人のうちに聖霊様が住んでくださっておられます。その方は、助け主です。イエス様は助け主としてこの地上に来てくださいましたが、私たち信じる者にいつまでもともにいてくださるために、もうひとりの助け主である聖霊様を遣わしてくださいました。
 私たちは神の神殿です。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント 3:16)」このことを知っていなければなりません。
 そしてさらには、自分が、それにふさわしい者であるかどうかを吟味しなさいと聖書は言います。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――(2コリント 13:5)」あなたがイエス・キリストを信じるなら、神様はあなたのうちに住んでおられるのです。適格者であるかどうかは、あなたがイエス・キリストを、あなたの人生の救い主として、受け入れたかどうかによることなのです。自分が適格者である自覚が必要です。

助け主の働き

 神様である聖霊様が、私たちのうちに住んでおられるのは、私たちを助けるためであることを知らなければなりません。つまり、私たちには助けが必要なのです。だから、もうひとりの助け主を送ってくださったのです。このことを知ることは、大変重要です。私たちは助け主なしでは生きていけないということです。
 聖霊様は私たちのうちで、主として働きます。私たちは主に対してしもべです。主は私たちを支配するというかたちで私たちを助けます。主の命令に対して、私たちが従うことによって、私たちは私たちの人生に必要なことがなんでもできます。私たちの力では不可能なことをやり遂げるのです。
 私たちは、罪に打ち勝つことができません。誰でも、自分を変えたいと思い努力した経験をお持ちだと思います。積極的になりたい、成長したい、などのことです。それは、三日坊主で終わったか、繰り返しているかでしょう。このような私たちの敗北に主は勝利をさせてくださるのです。

心の中に起こっていること

 私たちが、必要な行動をとり続けることができないでいるのは、私たちの心の決意が、簡単に壊れてしまうからです。最初に持ったあの決意は、決して嘘ではありません。真剣にやろうと思ったことですし、心から変わろうと決意したことでした。そのような私たちの心が挫けるのは、やがて出くわす障害や厳しい現実の前に、どうしてもやる気を持ち続けることができないと考えてしまうからです。その気になれなくなってしまうのです。
 最初の日と何か条件が違っているわけではありません。同じ状況、同じ条件なのです。もちろん深く考えていなかったということはあるでしょう。しかし、たとえ大変でもやり抜きたいと強く思ったのです。変わったのは、私たちの心の中身であり、周りではないのです。それが証拠に、そのほとぼりが冷めれば、またやりたくなる、ということの繰り返しです。人生、いくつになっても、気分さえ良ければ、前向きになります。しかし、思うようには心は固定できないのです。

最高の恵み 交わり

 主はあなたのうちに住んでくださり、あなたと交わりを持ってくださいます。神様がともにおられるということは、とても大きな恵みです。神様があなたのうちで交わりを持ってくださり、あなたの会話の相手となってくださいます。
 あなたは、今まで神様以外の者と会話をしていました。おそらく、それは自分自身ということでしょう。もう一人の自分と会話をし続けて「考える」という作業をして来ました。自分で投げかけて、自分で答える、という作業です。ここに敗北の原因があります。もう一人の自分は、今まであなたを助けたことはありません。励ましたことはないのです。「大丈夫だ。必ず、お前にはできる」、「恐れてはいけない。恐れる必要はないのだ。お前は必ず、勝つ」、などと励まし続けることがないのです。いつも「少しくらい休んでもしょうがないよ」、「もっと楽に生きても誰にも文句言われないよ」とかの誘惑をするのです。そして、一端やめると、「そんなんじゃダメじゃないか」、と責めるのです。明らかに味方ではありません。
 主が私たちのうちに住んでくださり、私たちを助けてくださることは、最高の恵みです。主は私たちを誘惑しませんし、私たちを責めません。主は常に真実のみことばを助言し、私たちを励まします。私たちは、主との会話をもって「考える」ことができるようになります。今までの投げかけが、もう一人の自分を相手にではなく、御霊である主が相手になるのです。いつでも、どこでも、主が話し相手です。今までのようなもう一人の自分とではありません。
 このようにして、主とともに生きるとき、あなたの心は、必ず喜びと希望で満ち溢れています。これらのことを少なからず経験していきますと、人生で一番嬉しいことは、主がともにおられるということだと、わかるようになります。私たちの心が主に服従して、勝利が訪れるからです。これが人生で成功するために必要なすべてなのです。

17.04.23 その気になれないという問題

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「ローマ人への手紙 1:28-32 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

人の切なる願い

 人々の共通する願いは、幸せになりたい、です。不幸で良い、という人もいるでしょうが、人生に投げやりになっているだけで、本当は誰でも、人生がうまくいくことを望んでいます。本音は、幸せになりたい、です。
 人が人生で幸せになるために、たくさんの知恵、アイデア、アドバイスといったものが周りに溢れています。それは、人類の歴史が始まって以来、伝えられて来たもの、または新しく考えだされて来たもの多岐にわたります。細かなことまで入れれば、数限りなくあります。
 人との付き合い方、親や目上の人を敬うこと、結婚生活や子育て、働き方、勉強に対する姿勢、健康に良いこと、金銭に対する考え方、人生の生き方、などのことです。

聖書は、幸せのための指針

 中でも聖書には、私たちをしあわせにするための、神様の人に対する命令が書かれています。「あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。(申命記 5:33)」
 聖書には、私たちが神様を信じて生きること、勉強について、知恵を得ることについて、仕事の仕方、伴侶の選び方、結婚生活について、子育てについて、人間関係について、家族との関係について、人生を全うする知恵、人生を生きるにあたってすべての必要なことが書かれています。そのすべての命令は、私たちが「しあわせ」になるためには、守らなければならないこと、なのです。

その気になれない

 どうしたら「しあわせ」になれるのかわからない、と私たちは考えることがあります。しかし、本当はわかっているのです。ただ信じられないだけなのです。
 例えば、経済的な苦境にあるとき、コツコツと努力して行くことが必要なことはわかっています。コツコツと勉強してその資格を得たり、日々の小さな積み重ねが、仕事の基盤を築いて行くことはわかっていることです。あるいは、節約して出費を抑えること、賢くお金を使うこと、が必要です。これらのことは、私たちがすでに知っていることです。
 ここで、一つの問題が生じます。これらのことは、分かりきっていることですが、やる気が生じないのです。いまさら、こんなことをやってもすぐに変わるわけではない、と思います。コツコツとやるには、気の遠くなるような月日を積み重ねなければならないと感じ、とてもやる気にはなれないと言うのです。答えはわかっている、しかし、やる気になれない、ということなのです。
 なぜやる気になれないのでしょう。その答えは、必ず良い結果に至るのだ、と信じられないということです。しかし、主の言われることは真実です。「しあわせ」になるためと言われているのです。この問題は、経済分野だけのことではなく、人生のあらゆる分野で起こっていることです。

好きではない

 なぜやる気になれないのか、その気になれないのか、その原因は「好きではない」ということです。同じようにコツコツやるということでも、自分の好きなこと、趣味や楽しみについては、惜しげもなく努力や時間を費やします。
 例えば、経済での問題は、仕事が好きではない、ということが根本にあります。働くことが好きではない、できればやめたい、と思っています。そして、それが当たり前だと考えているのです。
 創世記のエデンの園においては、働くことは苦痛ではありませんでした。人の日々の活動として、喜びを持って人は働いていました。それは、神様と人がともに住む世界でした。
 ところが、人が罪を犯して神様から離れてしまうと、労働は苦役となったのです。人は糧を得るためには、ひたいに汗して働かなくてはならなくなったのです。それは神様と離れた世界です。
 人が救われて、神様の子どもとなることは、神様とともに生きることであり、エデンの園の生活に戻されることです。神様の支配下にあって、神様の命令に忠実なしもべとして、「はい」と従うことが勝利を得させます。「好きではない」という私たちの決意や努力では変えることのできないこの問題が、「好きである」に変えられていきます。私たちの心の中に、罪や反発など、どんなことが存在していてもです。主は私たちの心の中から、人生を変えてくださるのです。
 働くことが好き、日々コツコツと努力を重ねることが好き、人のために犠牲を払うことが好き、家庭や職場、周りの人に関わりを持つことが好き、ということが人生を勝利に導きます。これらのことが嫌いな人がしあわせであることを見たことがありません。嫌いが好きに変わる、この不可能なことは、主にあって可能なのです。

17.04.16 イースターおめでとうございます

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「ルカの福音書 23:34 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イースターおめでとうございます

 本日はイースター(復活祭)です。2000年前、イエス・キリストは、死を打ち破りよみがえってくださいました。イエス・キリストは、私たちの罪のために、十字架に死なれ、葬られて三日目に、死からよみがえってくださったのです。
 誰でもイエス・キリストを信じる者は、罪の赦しをいただくことができます。つまり、信じる者は、罪に勝利するのです。
 イエス・キリストの復活は、罪のない神の御子が、私たちの罪のために死なれ、そして、私たちの罪の結果である死を、完全に打ち砕かれたという勝利の宣言です。
 罪の赦しがあるということは、私たちのような罪人であっても、信じる者には神様が働かれるということです。つまりイエス・キリストは、私たちの救い主となってくださったのです。あなたが信じるなら、神様はあなたを助けることができます。その助け主である主が、あなたを縛っている罪と死を打ち破って、死から復活という勝利の宣言をされたのです。ですから、私たちにとって、本当にお祝いしたい出来事なのです。

父よ

 冒頭のみことばは、イエス様の十字架上でのことばです。主は十字架に付けられた死の苦しみの中で、すべての人々のために、罪の赦しを祈ってくださいました。イエス様の地上での歩みを見るとき、常に天の父との交わりの中にあったことがわかります。いつも「父よ」と呼びかけられ、父との交わり、会話を持たれていました。
 イエス様の地上での歩みは、正しい人がどのように歩むか、私たちにとっての、見本でもありました。主は私たちと同じ人間として歩んでくださいましたが、全く罪を犯すことなく、正しい人として、生きてくださいました。
 主が見せてくださった正しい人としての生き方は、いつも天の父に礼拝をささげて生きるということです。そしてその正しい人には、うちに聖霊が住まわれ、その人を通して神様の働きがなされるということです。イエス様が神としてではなく、人として生きてくださったにもかかわらず、神様の力が現れたのは、そういう理由によることです。
 私たち罪人が、どのようにして正しい人となれるでしょうか。それは、ただイエス・キリストを救い主として信じることによってです。私たち信じる者は、正しい人です。ですから、正しい人、つまりクリスチャンは礼拝をささげて生きるのです。「父よ」と呼びかけ、父との交わりを持って生きるのです。

絶えることのない父との交わり

 イエス様が、「父よ」と呼びかけられたことが記されている、聖書の箇所はたくさんあります。しかし、それ以外の時も常に、主は、父との交わりを絶やすことなく、歩まれました。主が「父よ」と言われるとき、祈られるとき、そのことが記されているところは、周りの人々に主の祈りを聞かせるためであったようです。ラザロのよみがえりのところでは「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(ヨハネ 11:41-42)」と、このように言われています。
 聖書に記されているのは、わざわざ人に聞こえるように言われたものです。そのほかの時間では、あるいは心の中では、絶えることのない父との交わり、絶えることのない礼拝、絶えることのない父との会話、をなさっておられたのです。
 私たちは主の見せてくださったのと同じ姿勢を持って生きなければなりません。また、そのように生きることができるということが、主が十字架の死と復活によって、勝ち得てくださった勝利なのです。

あなたの心に復活してくださった

 主は私たちの罪と死を打ち破ってよみがえってくださいましたが、まさに、罪と死に縛られている私たちのために、私たちの罪と死を打ち破ってよみがえられたのです。
 主はあなたの心に復活を遂げてくださいました。あなたを縛っていた罪と死の縄目は断ち切られ、あなたの心の中に復活してくださいました。その結果、信じる者には誰でも、父なる神の御霊、キリストの御霊、つまり聖霊様が住まわれたのです。起こり得ないことが起こりました。神であられる方が、私たちのうちに住まわれたのです。
 聖霊様は私たちのうちに住まわれ、何をされるのでしょうか。それは、私たちとの交わりです。その目的は、私たちが常に神様との交わりを持ち、常に礼拝をささげ、常に神様との会話に生きるためです。
 主は助け主です。私たちがどのようにして主に助けられるのかというと、主との交わり、つまり会話によって助けられます。罪人の私たちの心の中に起きていることは、知らずして、何者かとの会話があることです。その相手は、誘惑し、責め、決して味方ではありません。神様との会話だけが、私たちを助けます。
 主が復活してくださったがゆえに、私たちは解放されるのです。復活の主との交わりを感謝する日々でありましょう。

17.04.09 泣かれ、怒られた主

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「ルカの福音書 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、 言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。』」

ロバの子に乗って

 エルサレムは、城壁に囲まれた小さな町です。ゲデロンの谷を挟んで反対側の小さな丘がオリーブ山です。主はいよいよ、エルサレムに入られます。オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤの町に近づかれた時、まだ誰も乗ったことのないロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。このことは、凱旋将軍のように軍人として入場されたのではなく、平和の王として入場されたのでした。そして、このことはゼカリヤ書の9章の預言の成就であると言われています。全世界から一切の武器を取り除く平和の王として、勝利の入場をされました。私たちを縛っている悪魔や悪霊たちの力を打ち負かす勝利の入場であったのです。

エルサレムを見て泣かれた

 オリーブ山に立ちますと、向かい側にあるエルサレムはよく見えます。主は、エルサレムを眺めながら、泣かれました。そして「お前は本当の平和を知らない。平和の君であるわたしを信じていたなら、これから下るさばきも下らないで済んだであろうに。それが間もなくやってくる。救い主であるわたしが来たのに、信じようとしなかったからだ。」と言われました。そこには、主が泣かれた記念としての教会が現在は建っています。

神殿に入って怒った

 イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに東向きの門、つまり黄金門を通って入られました。現在はこのもんは閉じられています。イエス様が通った何百年かの後、イスラム教徒が閉じてしまったのです。しかし、主が黄金門から入られること、また閉じてしまわなければならないこと、はエゼキエル書43章の預言の成就です。
 イエス様は、入場されて、神殿に来られました。そこでは、大勢の参拝者と、牛や羊や鳩を売っている人々、両替人たちがいました。その光景を見られた主は、怒って商売人たちを追い出しました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。(ルカ 19:46)」と激しく怒られたのでした。主がなげかれたエルサレムの人々の信仰が、そこには如実に表れていたからです。商売が行われていたところは、異邦人の庭というところで、外国人であってもここまでは入ることが許されていました。そして、求める異邦人はここで礼拝をささげることができました。ところが、指導者たちは、そこを「強盗の巣」にしていたのです。エルサレムを見て泣かれ、神殿に入って怒られる主の思いがわかるような気がします。イエス様は、エルサレムが滅ぼされていくことをご存知でした。滅ぼされていく原因が、彼らが「神の訪れの時を知らなかったから」なのです。

神はあなたを助ける方

 神様は、私たちをご覧になって、泣かれ、また怒られる方です。私たちが滅んでいくのが耐えられないのです。
 私たちは、神の神殿です。イエス・キリストをお迎えしました。しかし、主が私たちを見て、泣かれるようなことはないでしょうか。本当には、神が訪れていることを知らないのなら、主は泣かれることです。「滅んで行くよ」と言われているのです。
 私たちは神の神殿です。私たちの神殿(心)は、祈りの家となっているでしょうか。異邦人の庭に当たる、この世の人々との接触点が、私たちの心の部分にもありますが、そこが祈りの家となっているでしょうか。中心には祈りがあっても、異邦人の庭の部分が、祈りの家となっていないので、人々が救いを求める妨げとなってはいないでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちを助けるお方です。私たちは、主がエルサレムを見られたのと同じように、私たち自身を見なければなりません。それは、情けなくて、涙することなのかもしれません。怒りの湧いてくることなのかもしれません。しかし、もしそのように自分を見ることができるなら、ここに主の助けが必要であることがわかります。平和の主は、あなたを助けることができる方です。すすんで主の助けを求めましょう。

マーチフォージーザス感謝

 昨日、久屋大通公園を拠点にして栄の街を行進するマーチフォージーザスが行われました。多くの兄弟姉妹が参加してくださいました。またご奉仕をしてくださいました。リバイバルクワイヤーも賛美のご奉仕をしてくださいました。
 毎年、日本人の方の参加が、比率的にあまり多くないきがするので、兄弟姉妹の参加が心強いことと感じました。道ゆく人は、「何事か」と驚きの表情を持って見つめる人、写真を撮る人、興味を持って見てくださっている人、様々でした。途中、お坊さんのグループを見かけましたが、私たちを見て、何かを話し合っている様子でしたが、「何を話しているのだろう」というような、気になる光景もありました。このような行動が、何かしらの、影響を与えることができているとも思いますが、何よりも、私たちの信仰の一助となっていることを感謝します。

17.04.02 イエスとともにいる人

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「使徒 4:13-18 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」

大胆なペテロ

 ペテロはヨハネとともに、祈るために宮に行きました。宮の美しの門というところで、生まれつきの足の悪い人がいやされました。ペテロが、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、立たせたのです。このことがさわぎとなり、人々が集まって来ました。ペテロは、大胆に、集まって来た人々に、この人をいやしたのは「あなた方が十字架につけたイエスである」と証し、イエスの復活と救いのみわざを大胆に宣べ伝えたのです。
 そして、集まって来た人々に聖書にイエスの十字架と復活のことが書かれていることを教えました。そして、そこに指導者たちがやって来て、ペテロたちが資格もなく、また指導者たちが教えてもいない、死者の復活のことなどを教えていることに困り果てました。
 ペテロは、イエス様が捕らえられた時には、逃げ出してしまった人です。しかも、イエス様が尋問されている時には、自分はイエス様とは関係ないと、三度も否定した人です。その彼が、イエス様の復活の後、大胆なものに変えられました。決意は強いものの、実際の危急の時には、自分の身を守るのためには、必死で逃げ出すような、弱さのかたまりみたいな人です。その彼が大胆に立ち上がって、人々に語り、福音を宣べ伝え、教えているのです。

無学なただ人

 人々は、イエス様が復活したということにも驚きましたが、それよりもペテロが何の特別な知識もない、ただの普通の人であったことには、更に驚きました。
 普通の人が、しかも漁師であり、何の学問もなく、ただ指導されるだけの立場の弱い人が、ひるむことなく対決姿勢を貫いて、自分たちの知っていることを大胆に述べているのです。普通はあり得ないことです。人々の驚きは「なぜこの人はこんなことが言えるのか、なぜこんなに堂々としていられるのか」でした。宣べ伝えている内容はもちろんのこと、特別な力ある人でなければ、語れないことを大胆に語るペテロたちの振る舞いに、人々は驚いたのでした。

困り果てた指導者たち

 ペテロの話している内容が、指導者たちには賛成できないことでした。しかも、ペテロたちは聖書に関しては、指導者たちから見れば、素人です。
 指導者たちは、確信を持って、イエスを冒涜者として処刑に追いやったのでした。しかも「復活した」などとは、決して受け入れられないことです。彼らが困ったのは、ペテロたちの言うことに、群衆が賛同し始めていることです。この日も、男だけで5000人が信じました。
 彼らは、ペテロたちの言うことを否定しようにも、いやされた人がそばに立っているのでは、否定しようもありません。止めなければ、ますます人々が信じてしまう。ほとほと困り果てたことでした。そこで、ペテロたちを捕らえて、留置することにしたのです。翌日尋問が始まりましたが、ここでも、ペテロたちは大胆に証をしました。
 人々にこの件が広く知れ渡っているので、否定することもできず、彼らは、ただペテロたちに「イエスの名によって語ってはならない」と厳しく脅して、釈放するしかありませんでした。しかし、ペテロたちは「話さないわけにはいかない」と大胆に反論を重ね、その態度を変えることはありませんでした。指導者たちは、イエス様の復活という真実の出来事のゆえに、困り果てたのでした。

イエスとともにいるなら

 ペテロたちの大胆さを見るとき、そして彼らの以前の弱さを見るとき、その変貌ぶりに驚かされます。「死ぬようなことがあっても、イエス様から離れません」と強く決意をしたペテロが、その数時間後には、イエス様を見捨てて逃げるという有様だったからです。
 しかし、人々がペテロたちの話を聞いていて、わかったことが一つだけありました。ペテロたちは、イエス様とともにいた人々であるということです。これが、ペテロたちの大胆さの原因である、と薄々感じさせたことでした。実際に、そのとき、復活のイエス様はペテロたちとともいたのです。
 誰でも、イエス様とともにいるなら、普通の人が神様のことばを話すのです。その人々は、話していることが正しいかどうかの議論はしません。ただ、自分たちの見たこと、聞いたことを話しているのです。だから「話さないわけにはいかない」のです。
 イエスとともにいる人々、彼らの基準はただ一つです。それは「神様の前に正しいかどうか」だけです。それが大胆さとなって現れます。しかし、私たちに問われるのは、大胆であるかどうかではなく、よく知っているかどうかでもなく、ただイエス様とともにいるかどうか、なのです。大胆さや、知識は、イエス様とともにいる人に現れるのだということを知りましょう。

17.03.26 お休み

17.03.19 造られたものに過ぎない

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「創世記 2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

私たちは造られた

私たちは神様によって造られた存在です。しかし、造られたと言っても、どうやって造られたのか具体的に理解をすることが、できていない人も多いと思います。今回は、本当に神様の手によって、直接造られたのだ、ということをお話ししたいと思います。
神様を信じていない人は、人間は進化によって、今のようなかたちになったのであって、さらに命が受け継がれてきて、自分は生まれてきたのだ、と理解しています。
また、クリスチャンであっても、神様の創造を信じるとは言うものの、神様が、進化や人々の営みを通して自分を造ってくださったのだ、と思っている人もいます。つまり、先祖から生命が受け継がれてくる途中に、神様ご自身の思いや願いを入れてくださって、自分は生まれてきたのだ、と思っているわけです。
しかし、神様は私たちを直接造られたのであって、私たちをこの時代に生まれさせる計画は、天地創造の前からありました。「エペソ 1:4-5 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
私たち信じる者が、救われること(信じること)は、「世界の基の置かれる(天地創造の)」前からの「あらかじめ」の計画であったのです。つまり、神様は、私たちをこの世に、この時代に、生まれさせることを初めから計画しておられました。

母の胎で組み立てられた

「詩篇 139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」
聖書は、神様が、私たちの肉体を、私たちのお母さんのお腹の中で「組み立てられた」と説明しています。細胞の中にはいのちがあります。神様の「いのちの息」「吹き込まれ」ているのです。
ご存知のように、受精した卵子は胎内で分裂を繰り返し、次第に人のかたちに出来上がってきます。このことは、大変不思議なことですが、これらのことは、すべて創造主である神様の造られた仕組みです。そして、さらに細胞の中にDNAがあり、DNAの中に遺伝子があります。あなたがあなたとして生まれてくるための情報はすべて、この遺伝子の中に書き込まれています。
これらのいのちの仕組みを造られたのは、やはり創造主である神様です。これらの情報は、天地創造の前に、神様によって「定め」られたものです。つまり、あなたは天地創造の前から、神様によって計画されて、生まれてきたのです。
そればかりではありません。あなたの遺伝子は、先祖から代を受け継ぐことによって書き換えられて、今のあなたの情報になりました。神様はこれらの代を受け継ぐことも、計画してくださり、天地創造の前に、あなたのことを考えてくださっておられたのです。
これらのことを考えるとき、神様が、あなたを造るとき、 DNAや遺伝子をまるで道具のように用いられました。そして、あなたの先祖をまるで道具のように用いられました。神様のなさることは、壮大であり緻密です。アダムからあなたの父母までの永い年月、を道具のように用いられています。そして、細胞のいのちの仕組みは、私たちが驚嘆するような不思議さをもって創造され、あなたを造るために用いておられるのです。とてつもなく永い年月も、神様にとっては、一瞬のことと変わりがありません。このようにして、神様は、天地創造の前に、あなたを「造ろう(創世記 1:26)」と決意してくださっているのです。あなたは、直接、神様の御手により、造られているのです。

造られた者に過ぎない

神様は私たちの造り主であって、私たちは造られた者です。このことが本当に分かるまで、私たちは平安を得ることができません。人は誰でも造られた者ですから、造り主の懐に帰らなければ平安はありません。私たちは、造られた者に過ぎないのです。
我々を取り巻く、人生の諸問題は、私たちが「造られた者に過ぎない」という態度を取らないが故に生じていることです。人は造られた者であるに過ぎないのに、まるで造られなかったかのように生きていますので、人生の目的や意味がわかりません。「造られた者に過ぎない」のに、まるで造られなかったかのように生きて、人生の目的や意味を求めても、分かるはずがないのは当然のことです。
造られた者ですから、造ってくださった方に依存して生きていかなければ、生きていくことができません。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ 4:4)」と言われました。人間は造られたものですから、人間の方から神様を探し求めても、全くわかりません。神様の方からご自身を現して(啓示して)くださらなければ、私たちには、神様のことがわかりません。
ですから、神様との繋がりは一方通行です。私たちは「造られた者に過ぎない」という態度で生き、神様からのみことばを受け取らなければなりません。あなたが「造られた者に過ぎない」という態度で生きるなら、今語られている神様のみことばがわかります。私たちは造られたものとして、今語られている神様のみことばを受け取って生きるのです。そして、あなたが、神様のみことばを聞きたいと願っているなら、もう一つの声、悪魔の声との判別がはっきりとつきます。「造られた者に過ぎない」という自覚で生きるなら、私たちはこの人生で、ことごとく勝利します。

一切の気負いが取り去られて

「造られた者に過ぎない」ということを悟ってください。この自覚を持つとき、私たちは一切の気負いから解放されます。造られた者ですから、造り主のことばを聞いて生きます。造られた者ですから、私たちの人生の責任は造り主である主が取ってくだいます。造った方が人生のあらゆることで勝利させてくださるのです。私たちは造られた者ですから、人生で必要なものは、すべて造り主が用意してくださいます。何よりも気負いのない人生にこそ、平安と力があふれるのです。

17.03.12 壮大な計画によって造られた

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「詩篇 139:13-16 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

私たちは神によって造られた

 神様は何もないところから、有るものを造られる方です。私たち自身は神様によって造られたものであることを、知らなければなりません。世においては、学校でも、人は進化によって現在のような姿になったのだと教え、ほとんどの人がそれを信じています。しかし、事実は、私たちは他の全ての物と同様に神様によって造られ、存在させられているのだということなのです。このことを正しく理解しなければなりません。
 それでは、神様はどのようにして私たちを造られたのか、そしてその意味は何なのかを学んでまいりましょう。

進化論という宗教

 進化論が現れる以前は、人の存在原因は、造り主である神様にあると信じていた人々は、多かったのです。もちろん、神様を信じない人々も大勢いました。しかし、「いるかいないか」の議論があるだけであって、学問的に説明をすることができなかったのです。そこに進化論が現れて、科学者を先頭に「これこそ真理だ」と、瞬く間に世の中に広まったのです。そこには多くの矛盾点や間違いがあるにも関わらずです。
 これらのことは、幾度も述べてきましたので、お分かりだと思います。例えば、進化の証拠が化石にあるとしますが、そこには、いわゆる中間移行形となる化石は未だに発見されていません。「これがそうだ」と言われる物が発表されたりはしていますが、それらは捏造であったり、間違いであったりするものばかりです。馬の骨を小さいものから並べて進化の順だとしたり、骨を組み合わせて類人猿のものだとしたり、始祖鳥は純然たる鳥類であるのに、爬虫類と鳥の中間形だと信じ込んだり、しているのです。挙げればきりがないのでこれ以上は、紙面を割きません。
 日本人の科学者でも、進化論は間違いだと主張している人が大勢います。ノーベル賞を受賞した科学者二人が対談で次のように言っています。「『ヒトは猿から進化したのか、それとも神が造ったのか』と聞かれれば、日本人はなんとなく『猿から進化』という方を信じるが、それはなんの根拠もない」。また、ある科学者は間違いを教えてきた責任からか、「科学者廃業宣言」を発表しました。
 とにかく、進化論は、真剣に突き詰めれば、とても受け入れられないものなのです。ダーウィンの「こうあれば良いのに」という考えから出たひらめきに過ぎないのです。つまり科学とは言えない、宗教と呼ばれるべきものなのです。

神様の壮大な創造

 さて、ダビデは、冒頭の詩篇のみことばの中で「自分は神様によって、母の胎内で組み立てられた」と告白しています。そして「その不思議と精巧さを考えると、とても恐ろしくさえ感じる」と言っています。「自分の魂の奥底では、神様が創造者であること、神様の御手の働きによって、自分が造り出されたこと、などを知っている」と言うのです。そして、自分が生まれるに当たって、造られるときに「神様の目が注がれて、神様の目の前で、自分に対する情報の一切が、決定され刻まれたのだ」と言うのです。
 「これらのことが、自分がこの世に生まれても来ていないときに、全てが決定されていたことだ」ということです。
 さらには、もちろんのことですが、生まれる前というのは、さらに遡って、この世ができる前、天地が造られる前ということと理解しなければなりません。聖書全体を信じるなら、当然そうとわかります。「エペソ 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
 私たちの情報は、DNAの中に遺伝子として、詳細にしかも莫大な情報量として、記されていることを私たちは知っています。生まれる前から、私たちの形やあり方は決定されているのです。DNAは先祖から伝わってきているものです。このことで、まことの神様を信じない人々は、いのちが受け継がれてきて、今の自分がある、とありがたがっていることでしょう。
 しかし、ここにこそ神様の働き、ご意志があって、私たちに伝えられていることを知らなければなりません。私たちは受け継いだのではなく、自分に直接作用している神様の御手が、届いているのだということを知らなければなりません。自然に流れてきているいのちではありません。
 神様が先祖や DNAという方法を用いて、直接、自分(あなた)を造り出してくださったのです。この計画や情報は天地創造の前から、決められていました。が、これが神様の造り方なのです。何代も代を重ねるという方法で私を造るという手法です。
 しかし、何代もかかって、やっと造れる準備ができたから、あなたを造り始めたわけではありません。これほどの手間と時間をかける(私たちにはそう感じるが、神には瞬間)ことで、あなたは直接の御手の働きによって造られました。
 もちろん、あなたのお父さんも、お母さんも同じようにして神様に造られました。私たちのいのちは先祖からつながってはいますが、私たちも先祖も、それぞれが神様によって、直接、造られているのです。
 「神→・・→祖父母→父母→あなた」ではなく「神→祖父(母)」、「神→父(母)」、「神→あなた」という別個の線なのです。この矢印を一本に束ねたものを先祖のルーツとは呼びますが、それぞれは、直接一本の矢印で、神様につながっているのです。
 ここに壮大な神様の創造の働きがあります。天地を造られてから今日のあなたに至るまで、決して「偶然」に起こったことは一つもないのです。歴史は、すべて、あなたを造るためになされた、神様の直接的な働きであることを知ることです。本当に神様は、私に対して「奇しいことをなさって恐ろしいほどです」

17.03.05 すばらしい世界

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「詩篇 66:5 さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。」

 今週は、DVD「すばらしい世界」の内容を理解するために、まとめましたので、お読みください。

 ジョン・ウィットコム博士
 「ローマ人への手紙 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 はじめに神が天と地、すべての生き物を創造した。この世界は素晴らしい被造物で満ちており、創造主について教えている。創造主の知恵と力、尊厳と優しさがあり、聞こうとするものに語りかけている。

 ジェイソン・リズレ博士
宇宙の存在は創造主の必要を示している。宇宙、宇宙エネルギーには、始まりがある。始まりには原因がある。創造主は「永遠」であって、その原因は必要ない。無から有は、勝手に起きない。
 「イザヤ 40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」

 太陽
 1500万度(中心)。我々の主要なエネルギー源。地球の100万個分(体積)、大きさは109倍。さらに大きな恒星が何千億個もある(銀河)。さらに宇宙には1000億個のこのような銀河がある。
 「詩篇 19:1 天は創造主の栄光を語り告げ」ている。
 地上にも、創造主の知恵と美と愛を見出せる。
 水:生命に欠かせないもの。地球の表面の4/5。すべての細胞のために最適にデザイン。 ・溶かし、冷却し、運搬する。
 DNA:水よりさらに複雑。すべての生命体の設計図。最高密度の情報蓄積メカニズム。

 ゲン・ハム氏
 創造主の存在を告げる証拠、DNA。遺伝子が組み込まれる。
 情報科学:情報、どのように始まり、どのように伝えられるかを研究。情報が自ら情報を生み出すことはない。起源にさかのぼれば、意志にたどり着く。DNAが情報を持っているということは、別の知性ある存在から来たことを示す。(突然変異や自然選択でない)

 デイブ・ハント氏
 細胞:DNAよりもっと複雑なもの。すべての生物は細胞からできている。体は、数千種の細胞が100兆個も集まって構成されている。どうして正しく機能させられるのか?驚くべき組み立て方、運用の仕方。→設計者(創造主)によって、細胞に組み込まれているから。
「Ⅱコリント 9:10 蒔く人に種と食べるパンを与えてくださる方」
 すべての種:小さな奇跡。 暖かくなり、水を得るまで眠っているように、プログラム。誰が(・温度、湿度 ・芽生えの時 ・根は下に、茎は上に)教えたのか? 創造主の御手が感じられる。
 多様な植物:独特な、花、実、香があるが、主は(土、光、水)を用いて造り出している。
 葉:小さな太陽光パネル→内部の化学工場を稼働→二酸化炭素吸入、酸素放出。水素と炭素で糖分を作る。
 創造された素晴らしい生物たち
 水の中の生き物(豊かな特徴を持つようにデザイン)
 「たこ」 ジェット推進吸盤。自己調節のカモフラージュ技術→海藻に変装。
 「いか」 メスに並んで半身を求愛色、赤褐色に。反対側を戦闘パターンの白色に。海の生き物の知恵と美しさと多様性は、偉大なる芸術家(創造主)の喜びの叫び。
 鳥:「マタイ 6:26 空の鳥を見なさい」
 設計の特色 重量の抑制(骨、くちばし、羽毛)
 羽毛:鳥だけ。太陽熱遮断、防寒、防水、翼と尾にあり飛べる。各々神経に繋がり筋肉で動く。正確にコントロールできる。カギ状の毛と枝状の毛の組み合わせで閉じられる。

 ギャリー・パーカー博士
 これらがみな協調しながら全体を整えている。→偶然ではできない。創造されなければあり得ないこと。
 「詩篇 145:10 主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し・・・」
 ハチ鳥(ハミングバード):花から花、空中にとどまれるようデザイン。花の中を動ける小さな体、差し込める長い針状のくちばし、吸い取る舌。非常に丈夫な翼と強力な胸骨→空中静止、前後左右自在に。
 これらが初めから備わっていなければ、食べることも生きることもできなかった(進化ではない)。 巣の作り方→創造主の与えた能力。
 蝶:18000種。素晴らしい色。  変貌:卵→いも虫→さなぎ→その日の内にいも虫の器官は崩壊→複雑な羽のある蝶出現。(進化論で言う何百万年もかかっていない)いも虫の時にはない→創造主が遺伝子にプログラム。
 人間:創造主のかたちに創造された。→脳:複雑系の傑作、手先が器用、直立姿勢、霊的性質。
 「ヨハネ4:24 神(創造主)は霊です」
 神から離れて損なったが、残っている神のかたち。 ・自由意志 ・善悪の知識。人間だけが、科学者、作曲家、預言者、詩人になれる。
 すばらしい体
 眼:10万回/日動く、自動焦点、150万の情報を同時に処理、ワイパーとクリーニング装置、何百万色の見分け。

 ディビッド・メントン博士
 眼の感度幅→明るいところから暗いところまで可。二つの目が少しもずれないで、同じ点を見る。
 霊性の素晴らしさ
 意識:深く考えること可→思考力、学習能力が与えられた。(理性ある)
 感情:人生に彩りと豊かさ、喜んだり笑ったり→人間だけが夕陽に感動。
 自由意志:道徳(人間だけ)→神と社会に責任を負う。
 道徳ある理由:人は、創造主に似せて作られたから。
 創造主の義
 「ローマ 2:15 律法が彼らの心に書き込まれ・・・彼らの良心もいっしょにあかしし・・・」
 良心の存在を通し、創造主の聖さが教えられている。
 良心:創造主のくださった善悪の分別→創造主は立法者、裁き主、であるとわかる。
 この世界には、混乱がある。美しさ、秩序の中に、病気、死、が透けて見える。
 創造者の素晴らしさ→生物学で習ったことで葛藤するかも。
 先天性障害、病気、災害、火事、洪水、飢餓、疫病→人が創造主に反逆した結果。創造主は万物を完全に創造し、人間には自由意志を与えた→警告:罪を選ぶなら死ぬ→アダムによって死の呪い→悲惨な結果に。

 良い知らせ
 創造主の愛。救いの計画:人となられ身代わりの罰・信じる者に救い→宇宙の創造者と終わることのない関係に。創造者の無償の愛とあなたに対する願い。

17.02.26 お休み

17.02.19 人前で主を告白する

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「ローマ人への手紙 10:9-10 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

心で信じて、口で告白する

 私たちが救われるのは、「信仰によって」である、と聖書は教えています。そして、その信仰は口で「告白」する必要があるとも教えています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。つまり、心に思っているだけでは、十分ではなく、その信仰を外に言い表わさなければなりません。これにはどういう意味があるのでしょう。
 信じるだけでは不十分であるというのでしょうか。一般的には、信仰とは、心に信じることである、と理解されていると思います。私たちは、聖書の言う通り、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じ」ています。しかし、さらには、「口で告白して救われる」と書かれています。このことにこだわる必要はないのでしょうか。もし、重要なことであるなら、よく理解したいと思うのです。

人前で主を認める

 イエス様は、次のように言われました。「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ 10:32-33)」
 私たちは、人の前で、イエス・キリストが主であり、救い主の神であることを認めなければなりません。このことは、「イエスは、まことの神であり、私たちの救い主である。私はこの方を信じて、自分の人生を明け渡しました。私はイエス・キリストに従って生きています。」と当然、人に口で言うということです。
 イエス様は、はっきりと「人の前で」と言っておられます。私たちが主に認められる、つまり天に受け入れられる条件が、「人の前で」イエスが主であることを告白することなのです。もしそうしなければ、主は「そんな者は知らない」と言われるというのです。厳しいことばのように聞こえますが、これが聖書に書かれている真実なのです。人前で、恥じることなく「イエスを信じています」と言いたいと思うのです。私たちは「福音を恥とは思いません(ローマ 1:16)」

人を恐れてしまう

 私たちは是非とも、人前で告白したいのですが、それには勇気が必要である、と思う人も少なくないと思います。もし、人前で言うことをはばかるとしたら、その原因はどのようなことにあるのでしょうか。
 ペテロはイエス様に対して面と向かって「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。(マタイ 26:35)」と言いました。他の弟子たちも、同意しました。しかし、イエス様が捕らえられた後には、ペテロは三回も「知らない」と言い、三回目には「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。(マタイ 26:74)」のです。すると、イエス様が預言されていた通り「すぐに、鶏が鳴いた(同)」のでした。ペテロは、自分も主と同じように逮捕されるかもしれない、命の危険が迫っている、という恐れに襲われていました。自分を守るために、無意識ながらも、必死になって主を人前で否定したのです。そして、鶏の鳴声で、我に返りました。
 ペテロがそうであったように、私たちも弱い者です。恐れが、主を告白させないのです。だからイエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ 10:28)」と言われました。「だから恐れることはありません。(同31)」と前置きをされた上で、「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(同33)」と言われたのでした。
 信仰を現すには、恐れに打ち勝つ必要があるということです。私たちには命の危険などはないかもしれません。しかし、人に悪く思われるとか、人に嫌われるとか、私たちの存在が否定される(殺される)というようなことを恐れてしまうのです。しかし「たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」

信仰は賜物

 ペテロは、自分の不甲斐なさに、泣いて悔い改めました。あれほど見栄を切っていたにもかかわらず、あれほと強い決意をしたにもかかわらず、簡単に恐れに負けてしまい、人前で主を否定してしまったのです。ペテロはまさか自分がそのようなことをしてしまうとは、思っていなかったでしょう。信仰を貫くことができると思っていたのです。
 ある時、弟子たちは「信仰を増してください。(ルカ 17:5)」と願い出ました。主の言われる「人を赦しなさい」の命令があまりにも難しいと感じたからです。しかし主は、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。(ルカ 17:6)」と教えられました。そして、その後、しもべのたとえをお話になり「信仰とはしもべの精神である」と教えられました。
 神様は主人であり、私たち信じる者は主のしもべです。神様は管理者であり、しもべである私たちはただ、主の言いつけを守るだけです。その時必要なものは、みな主人からいただけるのです。そして、ことを行うのです。神様は、しもべである私たちができないようなことは、お命じになりません。できるようにと必要なものは全て与えてくださいます。これが賜物であり、信仰は神様からいただく賜物なのです。
 私たちは、必ずしようとして、強い決意を示しますが、そのようなものは信仰ではありません。ペテロのように、簡単に壊れてしまいます。
 真の信仰を持つことは、なぜ難しいのでしょうか。私たちの側でするべきことは何もありません。ただ、私たちはいただかなければなりません。何もすることはありませんが、受け身になる必要はあるのです。
 しかし、私たちのうちには、生まれながらの反抗心(罪)があります。この反抗心を取り除いていただかなければなりません。そのためには神様からの解放を受ける必要があるのです。ですから、まず「反抗心を取り除いてください」という祈りが必要なのです。そうでなければ信仰を持つことができません。
 人前で、はっきりと告白できる信仰は、主からの賜物です。強い決意に頼って生きているなら、真の信仰ではないのだ、と知ることです。神様からいただいて、しもべとして生きることがなければ、本当には信じることはできません。また、人をなんとなく恐れてしまうことが消えることもありません。
 私たちの一番したいことが、人の前で、主を認めることです。

17.02.12 降参して今を生きる

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「ヘブル人への手紙 3:17-19 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。 また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。 それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

今を生きる

 さて、日曜日のメッセージは、「今を生きる」でした。神様が、私たちのために、最善をなしておらることを信じるなら、今この最善を喜ぶことが、真の信仰である、ということです。
 主権を持って働いておられる方、私たちを特別に愛しておられる方、善なる方、が今起こされていることは、最善以外の何物でもないわけです。そのこと、そのような神様を信じるか信じないかは、今が最善であると信じ、受け入れ、喜んで生きている、かどうか、ということに他なりません。
 神様は、私たちの味方ですから、今、この瞬間瞬間を、神様がなされていると信じ、しかも神様のなさっていることに賛成するならば、喜びが湧き上がることです。
 私たち罪人が、神様を、そして神様のなさっておられることを、認めることは大変難しいこととなってきます。自己中心は、神様中心を受け入れられないからです。一旦、神様のなさっておられることを喜ぼうと決意すると、いかに自分が自己中心であるかを思い知らされます。そのような自分の罪を治め、主に服従させていくことは、この瞬間瞬間の連続の中で、なされていくことなのです。
 私たちの味方であり、助けてくださる方、癒してくださる方に、反対してはなりません。今のこの時を、不平不満で返すことが、主に反対することです。今を喜んで感謝することが、主に賛成することです。今、この瞬間を主に賛成して生きることです。それこそが、主に、この瞬間のみならず、将来をゆだねることになります。喜んで今を生きて、はじめて、今のことが益であることが、将来におていわかります。

本当は喜べる

 私たちは、なんとなく、憂鬱な日々を送りがちです。「いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ 5:16)」に照らしますと、いかに自分が不平不満の多いものか、に気づかされます。なんとなくやる気が出ません。日々生きることが苦痛です。人が罪を犯して、神様から離れてから、このことが続いています。アダムが罪を犯したとき、神様は言われました。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記 3:17-19)」
 罪の結果、私たちの生活は、苦しみとなりました。労働は、それまでにも、エデンの園にありましたが、働くことは喜びでした。しかし、今、働くことは苦しみとなりました。その中で、私たち人間は、慰めや希望や意味を見出そうとして、もがいています。あるいは、見出しているつもりでいます。それがなんとなく憂鬱な日々なのです。
 しかし、そういう中でも、喜べること、感謝なことは、本当はいくらでもあります。私たちは生かされているのですから。例えば、経済的に苦しいと訴える人がいると思います。しかし、同じような経済状態でも、喜んでいる人がいます。それは、莫大な借金を抱えていましたが、今の状態にまで回復した人です。今、あなたと同じラインに立っていますが、とても喜んでおり、人生に手応えを感じているのです。
 普通に動ける体を持っています。あなたは、その普通の健康状態で、やる気をなくして、人生が面白くないと感じているかもしれません。しかし、寝たきりの病状から回復して、今のあなたと同じ普通の健康を手に入れた人は、人生が明るく光り輝いているのです。
 こういうことは、家族の事情にだって、能力にだって、学力にだって、同じことが言えます。あなたは本当は、もっと主に感謝しても良いのではないでしょうか。喜べるだけのものをいただいているのです。
 耳をすませば、主の声が聞こえます。「わたしはあなたを満たすことができる。あなたをいやすことができる。あなたを回復させることができる。わたしがあなたを回復させれば、そのとき、あなたはわたしに感謝するだろう。感謝できるようになるために、一旦、今よりも悪くなりたいか。」と。私たちの答えは「ノー」です。「今、喜びます。」なのです。

最善とは

 神様のご計画は、私たちを神様の栄光(素晴らしさ)にあずからせることです。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙 8:30)」
 私たちは、イエス・キリストを信じることによって救われてはいますが、クリスチャン生活という過程において、ますます聖められて、キリストの御姿に似せられて行くのです。キリストを着せられた外側だけでなく、中身も変えられて行くのです。そのために、神様は、私たちの招いた結果のすべてを、益として働かせて行かれます(ローマ人への手紙 8:28)。
 ですから、そのための最善が今なされてます。その道程が荒野に例えられているのです。このことを理解するまで、いつまでも荒野をめぐらされることになるのだ、と知っていなければなりません。それは、聖書を見ても、私たちの人生を振り返って見ても、わかることです。あなたの人生がいつまでも、同じようなことで堂々めぐりをしていることはありませんでしょうか。
 神様の私たちに対する願いは、神様のご計画の良きことを認め、神様のご計画に私たちが進んで従って行くことです。それが、今を喜んで生きる、ということです。私たちの抱えている問題やわずらい、私たちの信仰、性格、考え方、行動の習慣、愛や感謝のないこと、などなどをかんがみて、それらの問題に解決を与えようと、神様は最善をなされています。
 例えば、あなたが一生、お金に困らない生活のためには、お金ではなく、腐らないで、コツコツと機嫌よく働く習慣が備えられることだと、理解できることではないでしょうか。人間関係の問題も、家庭生活の問題も、健康の問題も、仕事の問題も、信仰の問題も、みな同じことです。不平不満を捨てて、神様に機嫌よく信頼すれば、みな手に入ることです。
 問題は、そんなことを言われても、機嫌が直らず、素直になれないことだけ、なのです。さあ、降参して、喜んでみましょう。

17.02.05 すべてのことを働かせて益としてくださる

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「ローマ人への手紙 8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

神を愛する人

 「神を愛する人々」とは、どのような人のことを言うのでしょうか。それは「神のご計画に従って召された人々」のことであると、このみことばは言っています。
 私たちが救われたのは「神のご計画」でした。聖書は、神が私たちを選んでくださったので、私たちは救われたのだと説明しています。私たちは「神の選び」の中にあります。つまり、あなたがイエス・キリストを信じた人であるならば、あなたは神に選ばれた人です。そして、神に選ばれた人は「神を愛する人」だというのです。
 神様に対して、信仰を表明することは、神様を愛することです。神様の存在を認め、イエス・キリストの十字架が、自分の罪のためであると信じ、神様の愛を受け入れることが神を愛することです。私たちは神様を愛しています。

すべてのことを働かせて益としてくださる

 神様は私たちのために「すべてのことを働かせて益としてくださる」のです。神様の主権がこの世のすべての営みの上にあることを知らなければなりません。神様のあずかり知らないところで起きていることは一つもないのです。すべてのことは、神様の許しがあってはじめて起きるのです。
 神様はしたいことがおできになるお方です。神様の御意志一つでどうにでもなるのです。このことを認めることが信仰です。らい病人は「お心一つで、私はきよくしていただけます。(マルコ 1:40)」と言いました。この信仰が受け入れられて、らい病人はいやされました。
 神様は御意志を持ってすべてのことを支配されており、すべてのことは、神の許しがあってなされています。「益」というのは、誰かのために良いこと、ということです。もちろん、私たちのために良いこととなるように、というのが神のご計画なのです。
 私たちの目には、たとえ良くないこと、辛いこと、苦しいことと映ったとしても、結果的には「あのことがあって良かった」ということに、すべてのことを向けていかれるのが、神様の働きです。私たちはこのことを信じなければなりません。

今が最善

 神様の主権のほかに、私たちが知らなければならないことは、一つには神様は私たちを愛している、ということです。私たちのことを「特別(詩篇 4:3)」に思ってくださっており、「高価で尊い(イザヤ 43:4)」と思ってくださっています。私たちのことを大切にしてくださっています。
 そして、もう一つには「神は善」であることも知らなければなりません。神様のご性質は善であり、神様は良いことしかお出来になりません。
 主権があり、私たちを愛し、良いことしかできない神様が、今、私たちのためになさっていることは、最善であることがわかります。最善ということは、これ以上に良いことはないということです。今、起きていることは、なくてはならないことなのです。私たちの目には、全く良いことだと見えないかもしれません。しかし「益」となる結果のためには、今、一番良いことがなされています。
 将来において、「あのことがあったから、今の私がある」と言えるためには、まさに今、「このこと」が起きていなければならないのです。今の「このこと」が最善なのです。問題は、私たちの目には、そう見えないということです。
 しかし、私たちは神様の「主権」と「愛」と「善」を信じなければなりません。今、最善がなされているのです。神様に賛意を表すためには、このことを認めて、喜びを持って、受け入れなければなりません。

大変なのではない

 もしかすると、あなたは「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・・知っています」と言いながら「大変な状況だけど、それでも頑張って生きるのだ」と思ってはいないでしょうか。
 もし、そうであるなら、あなたは、今、最善なのだ、とは理解できていない、ということはないでしょうか。「こんな状況の中だけど、頑張って生きている自分は、良くやっている」という意識があるということです。
 動物は、苦しい思いをしたとしても、置かれた環境の中でただ「今」を生きています。ただ淡々とです。この環境を生き抜いているのは立派だ、とは思っていないでしょう。
 「頑張れている。よくやっている」そう思える日と、そう思えない日の繰り返し、なんてことはないでしょうか。信じてください。神様は、あなたのために、最善をなしてくださっています。私たちは、神様を認め、神様のしてくださっていることを受け入れなければなりません。
 降参し、「これが私の人生。これが私。これが神様の望んでおられること。」と、今を受け入れなければなりません。「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」のです。私たちは「今」を喜びます。

17.01.29 あなたを愛している

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「イザヤ 43:4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

高価で尊い

 神様は、私たちのことを「愛している」と宣言されています。そして、私たちのことをどのように感じておられるかというと、「高価で尊い」と言われています。
 私たちが「高価で尊い」ということについて考えてみましょう。それは、とても値打ちがあるということです。私たち自身は、私たちのことをとても値打ちがある、と思っているでしょうか。私たちがどう思っていようと、神様は、そう思っておられるということです。
 例えば金は価値があります。ダイヤモンドも価値があります。人は大切にします。それらは高価でありますが、その理由の一つは、希少価値にあります。同じように、我々も、神様にとって、かけがえのない、大切な存在だということなのです。

セルフイメージ

 世においては、私たちがセルフイメージを高く持つ必要があると教えています。実際、自分のことを低く見ることしかできないので、自分に期待することもしないし、将来に希望を持つこともない人々が大勢います。
 人は、いかに自分のことについて、高い価値を見出すか、積極的な見方をすることができるか、について求めています。しかしながら、大勢の人が、低いセルフイメージにあえいでいることです。

神の目に

 本日のみことばが言い表していることは「神の目に」「あなたは高価で尊い」ということです。高価だ、価値があるということを知っているのは、神様であって、決して人ではないということです。
 人は、あなたのことを特別に素晴らしい、価値がある、大切だ、と見てはいないかもしれません。しかし、神様は、あなたのことを、高価だ、大切だとおっしゃっておられるのです。
 このことが大切なことです。神様は、おっしゃって「くださっている」のではありません。「おっしゃっておられる」のです。つまり、事実だから、そう言っておられるのです。あえて、持ち上げて、喜ばせているのではありません。事実をそのまま言っておられるのです。私たちはこのことに気づかなければなりません。
 「神様の目に」ということです。神様にとっては、あなたは、とっても高価であり、大切なのです。人の目にではありません。あなたはこのことに満足でしょうか。
 また、自分の目にでもありません。あなたが依然として、自分のことを嬉しく思えなくても、問題ではありません。神様にとっては、ということなのです。
 私たちが、このこと(神様の目に高価で尊いということ)が、嬉しいかどうか、このことで満足できるかどうかについては、私たちと神様との関係がどうなのか、にかかっています。あなたが、神様の存在を知っており、神様がどういうお方であるかを知っていて、密接な関係にあるなら、あなたにとって「神様の目に」ということは、とても嬉しいことと感じているはずです。
 もし密接な関係を築けていないなら、今もなお、人の目に、あるいは自分の目に、「高価で尊い」ことを求め続けているでしょう。つまり、セルフイメージを高めようと、必死でもがいていることです。

セルフイメージが低い原因

 私たちの実際の価値を認めているのは、神様です。決して、人でも、自分でもありません。もし、私たちが自分の価値を人や自分に認めさせようとしているなら、自分では本当だとは思えないことを、無理に人や自分に思いこませようとしていることではないでしょうか。
 たとえ、どんなに自分に自信があり、自分の考えや行動、存在を誇れる人であっても、周りのすべての人々から、尊敬や賛同を集めるのは、難しいことです。そのような中で、自分が少しでも努力をやめたり、行き詰まったりするなら、途端に「こんな者が認められるはずがない」と、セルフイメージは壊れてしまうことです。
 人とは、元来セルフイメージの高くない存在なのです。その原因は「罪」です。そしてその根にある感情は「恥」です。アダムとエバが罪を犯した時、彼らの心に「恥」の思いが生じました。彼らは、もともと裸だったのですが、罪を犯した途端、ありのままの自分を恥じるようになりました。「罪」が人のセルフイメージを壊している原因です。そして、神様から離れていることによって、人は低いセルフイメージで苦しんでいるのです。自分のことを、恥ずかしいと思っているのです。
 神様を知り、神様との関係を築き、みこころだけが真実を表していることを知ることなしには、この問題から解放されることはありません。人の目にでも、自分の目にでもなく、神様の目に「高価で尊い」ことを知ることが必要なのです。私たちは、愛されています。

17.01.22 父と母を敬え

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「申命記 5:16 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」

愛しなさい

 聖書の命令は、ひとことで言えば「愛しなさい」です。さらに、それを二つに分けるなら「神を愛しなさい」と「人を愛しなさい」になります。さらにこれらを分けて行くと十戒(出エジプト記 20:3〜17)になります。さらに詳しく説明してくと、聖書一冊の内容になるわけです。
 神様の命令はただ一つ、であることを知るとき、「愛する」ことがいかに重要であり、かつ難しいことか、と教えられます。よくよく自分のことを検証していくと、全く愛することなどできていない者だとわかります。罪人だということを自覚させられるということです。そして、罪を犯しているからこそ、人生が祝福されていないのだ、と納得させられることです。
 愛することができていない、この問題が解決される必要があるのです。

父と母を敬え

 さて「人を愛しなさい」の命令を十戒にそって見て行きますと、筆頭に来るのが「父と母を敬え」です。十戒の後半の六つの戒めは、人を愛する方法と言えますが、その方法とは「父母を敬う。殺さない(憎まない)。姦淫をしない。盗まない。嘘をつかない。むさぼらない。」というものです。人を愛する愛し方の最初に「父と母を敬え」が来るわけです。
 最初に挙げられているということは、一番大切な戒めだからということです。私たちは、この戒めに特に耳を傾けなければなりません。そして、まずこの罪が赦されなければならないということなのです。そのためには、この罪を自覚し、悔い改めの思いを持たなければなりません。おそらく「父母を愛してこなかったなあ」という自覚は誰にでもあることと思います。その上で改めて、この罪の重大さに気づくことが祝福です。

しあわせになるため

 十戒の記述において、唯一「父と母とを敬え」の命令だけに、祝福の約束がされています。もちろん、どの戒めであっても、守ることによって祝福されることですが、この命令にだけ特別にわざわざ記述があるということは、それが強調されていることだと、理解して良いことではないでしょうか。
 「あなたの齢が長くなるため」「しあわせになるため」に「父と母を敬え」と言われているのです。長生きできること、かつしあわせであること、これは人生で最大の祝福です。私たちは、父と母を愛することができていないことが、人がその人生において不幸となって行く原因だ、と知る必要があります。
 ニュースで見る、重大な罪を犯した人たちは、例外なく、親子の関係が壊れているものです。私たちは犯罪人ではないかも知れませんが、法律には触れなくても、神様の律法には触れている罪人です。そして、大なり小なり、親子の関係が十分ではありません。
 ですから、何を置いても、まずこの父と母を愛せていないという罪を悔い改め、親子の関係の回復をいただく必要があるのです。

ほかの戒めの基盤

 「父と母を敬え」が最初に来ていることには意味があります。この戒めを悔い改めて、親子の関係が回復させられていなければ、ほかの戒めを守ることはとても困難となります。当然ながら、誰一人、律法を守ることができないことは、事実ですから、守ることができていなくて、当たり前のことかも知れません。
 しかし、考えてみてください。悔い改めて、罪ははじめて赦されます。そして、悔い改めは、戒めを守りたくても守れない、ということを思い知らされて、はじめて生じます。
 もし親子の関係が回復させられていなければ、他の戒めを守りたいという、飢え渇きは起きにくいことなのです。当然悔い改めには導かれませんから、罪はそのまま残っていることになります。あなたにも心当たりがあるかも知れません。親をあまり好きでない場合に、人生に真面目に取り組みたい、というやる気は起きないものです。
 このように見るとき「父と母を敬え」という命令は、とても大切なものであり、そのことを自覚させられ、激しく悔い改めさせられて、積極的に親子の回復を願うということが必要だと教えられます。
 「父と母を敬え」の先に、人生を幸せに生きるという希望があるのです。本当の意味で人を愛することができます。人を夢中になって愛することができることほど、幸せな人生はほかにはないのです。

17.01.15 知っていること とは

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「(エレミヤ書 9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ――」

〜について知っている

 今回は、知っているということについて、深く考えてみましょう。一般的に「知っている」という表現をする時、一つには「情報を得ている」とか「聞いている」とか「学んだことがある」という意味合いが含まれたものです。この場合、確かに知ってはいますが、それは「〜について知っている」というものです。これは、その件(あるいは彼)について、知識、情報を持っているということに過ぎないことでしょう。
 もっとよく知っているという人から、あるいは新しい情報として、異なった知識が入って来れば、途端に「本当には知ってはいなかったのだ」ということになってしまうことです。最初の理解に踏みとどまっていられなくなってしまいます。
 例えば、「神の癒しを知っている」という場合を考えてみましょう。「神様が癒してくださるお方と知っており、信じている」という場合です。神様が癒してくださるお方だと聞き、深く納得をし、心から信じているのです。しかし、それでも強い疑いや反対の意見、「信じていて大丈夫なの」という脅し、などが襲って来る時、最初の確信は揺らぎ始めたりします。最初から、不確かな場合は、言うまでもありません。

〜を知っている

 次に、「〜を知っている」という場合です。この場合は「できる限りは、知り尽くしている」という意味合いが含まれています。「私はそれ(彼)を知っています」と答える場合、単に、情報を聞いているだけのことではなく、経験的に知っている、ということがあっての、表現ではないでしょうか。
 例えば、それが場所の話題であるならば、「私はニューヨークを知っています」という場合、その人は何らかの関わりをニューヨークについて持っていることです。ニューヨークに行ったことがあり、滞在経験や居住経験があるからではないでしょうか。
 人についても同じことが言えます。「彼を知っている」という場合、単にうわさや、テレビや雑誌などで知っているというのではなく、会ったことがあり、知り合いである、という場合です。このような場合、たとえそこに懐疑的、批判的な情報が届いたとしても、少なくとも一旦は、自分の知っていることに踏みとどまろうとする力が働きます。この「〜を知っている」ということが深まれば深まるほど、それは堅固なものとなって行きます。

踏みとどまれる知識

 このように、踏みとどまれるか、踏みとどまれないか、という点からみると、二種類あります。踏みとどまれる知識となると、「〜について知っている」より「〜を知っている」ということになります。
 普段は「〜について知っている」も「〜を知っている」も区別しないで、「〜を知っている」と表現するのが一般的ですが、あえて意識して、区別して考えると、以上のようになります。自分の知識が、踏みとどまれる知識か、そうでないか、の判断の手がかりになるのではないでしょうか。「私は〜を知っているというのか」と自分の知識に問いかけてみましょう。

神を知っている

 「私は神様を知っている」という場合、それが「神様について知っている」というのと「神を知っている」というのでは、大きく違うことです。
 イエス様は「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ 8:32)」と言われました。また「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ 14:6)」とも言われました。
 私たちは、真理であるイエス・キリストについて知っているというのではなく、「真理であるイエス・キリストを知っている」という関係を持つことができるのだ、と教えられていることです。主が私たちを知り、私たちも主を知っている、という関係です。まことの神である主は、私たちがお会いすることができる神であり、経験することができる方です。主は「誇れ、・・・わたしを知っていることを」と言われています。
 主は、私たちが主を知っていることを喜ばれます。 神を知っているなら、私たちにとって、それが力であり、最高の誇りとなることです。

17.01.08 とことん信頼しよう

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「詩篇 62: 7-8 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

あてにできるか

 信仰は「神にかかっている」ことです。私たちの思いがどうであるか、などによることではなく、神がどうであるか、にかかっていることなのです。
 もし、信仰が、私たちの心に描くことであり、心に神を思うことであるならば、私たちにかかっていることになります。私たちの思い方次第で結果が変わることになります。しかし、神は私たちの観念ではありません。実在の方であり、絶対他者として存在される方です。絶対他者とは、私たちの思いや考えによって生み出された方ではなく、私たちの思いに関係なく、他者として存在される方であることを意味します。
 神はおられる方ですから、「信頼せよ」という命令に対して、ただ一つの問題は、神はあてにできる方なのか、ということになるのではないでしょうか。

応える神

 聖書は、私たちが、主に信頼するとき、主は私たちの信頼に応えられる方であることを教えています。ラザロが死んだとき、イエス様はマルタに対して、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(ヨハネ11:40)」と言われ、ラザロをよみがえらせました。あるいは、会堂管理人ヤイロの娘が死んだとき、彼に対して、「恐れないで、ただ信じていなさい。(マルコ 5:36)」と言われ、よみがえらせました。主の命令は、信じなさい、であるのです。
 12年の長血の病を患っていた女性は、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。(マルコ 5:28)」と信じて、イエス様の着物にさわって、いやされました。エリコの街で、バルテマイという盲人は、イエス様が来られたと聞くと、叫んでイエス様を呼び求めました。目をいやしていただくことを求めて、彼はいやされました。これらのいずれにも、主は「あなたの信仰があなたをいやしたのです」と答えられました。神は私たちの信頼に応えられる方なのです。

踏みとどまれる知識

 これらのことは、聖書の中だけの話でしょうか。聖書に書かれていることは、神がどういうお方であるかを、教えているものです。信仰は神にかかっています。神が存在される神であることを、私たちが受け入れるなら、聖書の中に書かれている神様の働きや有り様についても、そのまま受け入れるべきです。つまり、聖書の中に出てきた人々が受けた恵みは、私たちも同じように受けることができるということです。
 もし、同じように受けることができていないとすれば、みことばがおとぎ話であり、真実のことを指してはいないということなのでしょうか。それとも、私たちに何か問題があるのでしょうか。私たちはこの問題を突き詰めなければなりません。
 私たちは、とことん「どんなときにも、神に信頼」したでしょうか。私たちは聖書の話を知ってはいます。しかし、その知識が、私たちの信仰を踏みとどまらせるものとなっているでしょうか。聖書に書かれていることは、一字一句間違いがない、とゆるぎなく信じ、「どんなときにも、神に信頼」し続けているのでしょうか。
 そうでなければ、踏みとどまれる知識に至るまで、答えを求め続けなければなりません。「結局、あれこれと迷う自分が問題なのであって、そんな自分を離れて、神に信頼する、素直さが必要なのだ」という知識に至る人もいるでしょう。踏みとどまれる知識とはそういうたぐいのことです。神は私たちの信頼に応えられる方であることを知らなければなりません。とことん、信頼しようとしなければ、手にすることがない知識なのです。

究極の信頼

 とことん信頼することを覚えるとき、究極の信頼とは、賛美にあると教えられます。「どんなとき」とはいつでもということです。聖書は「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ 5:16−18)」と命令しています。
 神が主権をもって、私たちの生活に介入してくださり、私たちを愛してくださり、善しかなさらない神が、今現在私たちにしておられることは、私たちにとって最善のことです。この理解が主に対する信頼であることは言うまでもありません。
 「今、私の人生に起こっていることは、主が、ご計画をもってなされている最善である」と喜んで受け入れることです。そして、このようなことをしてくださった、おられる神に心から感謝し、このような神のすばらしさをほめたたえることです。「どんなときにも」そうすることです。

17.01.01 踏みとどまれる知識を持つ

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「ヨハネの福音書 8:31-32 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年も多くの恵みをいただく年でありますように、心から、お一人お一人のために、お祈りいたします。

今年のテーマ

 さて、今年のテーマとして「踏みとどまれる知識を持つ」をいただきました。人は知識によって、揺れ動かされることなく、踏みとどまることができます。たとえば、疑いというものは、「こうなのかな。いやそうではなく、ああなのかな」と心が揺れ動かされることです。このような揺れ動く状態であれば、神様からの恵みはいただけない、と聖書は言います。「ヤコブの手紙 1:6-8 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
 誰でも信仰のゆらぎというものを経験したことがあると思います。それは、とても苦しい惨めな状態でもあります。是非とも、揺れ動かない信仰を持ちたいものです。

知識があることが踏みとどまれること

 私たちは、よくわかっていることでは、さほど不安になることはありません。例えば、明日の朝、太陽が出て来ず、地上が闇に包まれて、氷漬けになって行く、などとは心配しません。実際に太陽がなくなれば、そのようなことに、理屈上ではなるのですが、そうはならないことを知っています。これを知識と言います。この知識は、私たちを、そのような馬鹿げた考えから守り、平安な生活に踏みとどまらせます。
 特に専門的な知識があるわけではなくても、そのようなことが起こらないことを知っているのです。ありえない話ですが、もし、全く知識のない人がいて、その人に、同じような心配を、つまり太陽が出てこないかも、と話したらどうなるでしょうか。それが嘘とわかるまで、心は揺れ動くのです。知識があれば、すぐに嘘とわかりますから、いつもの平安に踏みとどまっていられます。私たち人間は、知識がなければ、踏みとどまれません。

信仰の知識

 信仰は、見えない神様の世界を、知るための唯一の手段です。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル 11:3)」聖書のことばによって、教えられたことを、信じて受け入れることによって、私たちの五感では感じ取ることができない、神様の世界と働きを知ることができます。例えば、このみことばの通りに「この世界が神のことばで造られたことを」知ることができます。
 また、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ 18:20)」のみことばを受け入れれば、イエス・キリストを信じる私たちが集まれば、そこに主はおられると、知ることができます。これらのことは、私たちの理性によっては、全く感じ取ること理解できることではないのですが、信仰によって受け入れるならば、事実であることがわかるのです。
 ですから、信仰とは、見えない神様が下さったみことばの知識に踏みとどまれることです。

踏みとどまれる信仰の知識

 神様から与えられたみことばを、考えて考えて考え抜いて、どう考えても間違いがない、というところまで到達できていること、によってその知識は、私たちが揺れ動かないで、踏みとどまれる土台となります。ですから、一生懸命に、信じよう信じようとする努力などではなくて、試練を耐え抜いた知識を得ている必要があります。
 例えば、到底治らないと言われるような病の中で、「主は私を癒すことができる方」とすがって、信頼し抜いた結果、癒された経験をした人なら、「わたしは主、あなたをいやす者である。(出エジプト 15:26)」のみことばが真実であり、苦難の中でも信頼し続けることができる知識の土台となっていることです。
 あるいは、進化論の当たり前の世の中で、いかに進化論が間違いであるかを、創造論の立場から検討し、ノアの洪水が地層や化石の原因であることを検証し尽くしているならば、「初めに、神が天と地を創造した。(創世記 1:1)」のみことばは、この世界は神によって造られた、という知識の土台となっていることです。
 人が何と言おうと、その確信は揺るぎません。私たちが行き詰まった時、苦難に陥った時、一般的な理解と聖書のみことばとの矛盾に出会った時、とことん突き詰めて、聖書が正しいというところまで到達できていることが、踏みとどまれる信仰の知識なのです。
 聖書は、間違いのない真実な神様のみことばです。ただ思い込もうとするだけでは、すぐに揺れ動いてしまいます。どのような場合でも、誰からでも、あるいは自分の心の中からでも、反対意見の攻撃に出会う時、揺れ動かないで踏みとどまれるのは、事実を知っているという強みがあるからです。
 みことばが事実であることを、自分にも人にも説明できることが必要です。悩む時、苦しむとき、矛盾を感じるとき、信じられないとき、わかるまで突き詰めることです。
 とことん考え抜いて、神のみことばは真実であると、わかるところに到達することが、真の知識です。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由に」するのです。

2019年 テーマ
「イエスだけ」

マルコ 9:8
自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。