16.06.26 求めなさい

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「マタイの福音書 7:7-11 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

求めなさい(求め続けなさい)

 主は、「求めなさい。そうすれば与えられます」と強く命令されました。神様は私たちに対して「求め(続け)ること」を望んでおられます。
 さらに聖書は、私たちが与えられない原因は「願わないから(ヤコブ 4:2)」であると教えています。積極的に願い求めること、これが神様の私たちに対するみこころです。
 私たちは神様に似せて造られています。神様は創造の神様です。すべてのものを造られたお方です。神様は私たちが心に願うことが、形をとってこの世に実現するようにと、その仕組みを私たちの心にお与えになっておられます。他の動物にはないことで、人間は心に願うことが実現するように造られています。積極的なことを考え続けると、積極的なことが実現し、消極的なことを考え続けると、消極的な事柄が実現する、といった具合です。
 もし、私たちが人生で何も求めないようになれば、どうでしょうか。すねた、世を恨む、人生が価値のないもの、という厭世的な生き方となって行くことではないでしょうか。また、求めても、それが叶えられないことで、恨んで厭世的になって行くことも、良くあることです。求めないこと、あるいは求めなくなってしまうこと、は心があまり健康ではない状態なのです。主は私たちが求めて生きることを、願っておられます。

心配するな

 「求め続けなさい」と言われた主は、同時に「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ 6:30、31)」と言われています。「心配するな」ということです。
 求め続けて、積極的に生きながら、与えられることについては心配しない、という信仰を持って生きなさい、ということです。
 何も願いがない、だから心配もない、という生き方をする人もいるかもしれません。しかし、そのような場合、多分にあきらめて生きている態度ではないでしょうか。健全ではない状態でしょう。望みはある、しかし心配はない、主に信頼しているから、という信仰を持て、と言われていることです。

何が必要か知っている神

 そして、さらに主は「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです(マタイ 6:8)」とも言っておられます。天の父なる神様は、私たちが何を求めているか、私たちが言う前に全て知っておられる、ということです。ですから、神様を信じない人たちのように、くどくどと祈ることはやめなさい、と言われたのです。
 私たちが願っており、私たちが神様を信じているなら、私たちの願い事は神様に通じているのです。願っていることの証のために、口に出して祈りはしますが、くどくどとではないのです。それよりも、主に信頼している態度を養いたいものです。主は私の願いを知っている、ということを知っている人でありましょう。

感謝をもってささげる祈り

 神様は私たちの願いを知っているのですが、聖書は「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ 4:6)」とも教えています。知っているのだから、心配するな、と言い、さらには「知っていただきなさい」ということは、どのように理解するべきでしょうか。
 ここには「感謝をもってささげる祈りと願い」と書かれています。私たちが神様に感謝の心を向けること、そして願い事を知っていただこうと心を注ぎ出すこと、これらのことが求められています。その理由は「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(同 4:7)」ということなのです。私たちが、感謝にあふれて、自分の願い事を知っている神様に信頼し、心を注ぎ出して自分の心の願いをさらに知っていただこうとするとき、私たちの心に訪れるのは「人のすべての考えにまさる神の平安」であるのです。これこそ、私たちが一番願っているものです。
 神様は私たちの必要を知っておられて、心配はしないが、それでも感謝をもって自分の心を知っていただこうと、祈るなら神の平安によって「心と思い」が守られるのです。人からは得ることができないような、神様から来る平安で守られることを経験するなら、どんなにか心強いことでしょう。これこそ一番欲しいものです。私たちは求めます。

16.06.19 反発しながら引き寄せることはできない

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「第2コリント人への手紙 9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。」

祈る者は慕う

 パウロは、コリントの人々に書き送りました。それは、マケドニヤの兄弟たちが、コリントの兄弟たちのために祈っているということでした。そして、その結果、コリントの教会が恵まれているのを見て、コリントの兄弟たちを「慕うようになるのです」と言いました。
 祈られて、その結果、祈られている方は、祈ってくださっている相手のことを慕う、というならよくわかります。「こんなにも恵まれているのは、あなた方が祈ってくださっているからです」という反応になるでしょう。
 しかし、ここに書かれていることは、それとは逆のことです。祈る方が、一方的に祈り、相手のことを気にかけ、相手の祝福されているのを見て、嬉しくなるということです。相手が祈られていることに感謝しているかいないかにかかわらずです。
 祈っている方は、そこに、神様が祈りに答えてくださっている、という状況を見るからでしょう。嬉しくなって、近づいて行くのです。「慕うようになる」ということです。

迫害する者のために祈れ

 主は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ 5:44)」と命令されました。私たちが人の祝福を願って祈るということは、私たちにとって大切なことです。私たちが祝福されるためにです。
 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め(同43)」という旧来の教えに対して、主は解説して言われたことです。自分の隣人とは、自分に関わりのあるすべての人、ということです。敵とおぼしき人のためには、祝福を祈らなければなりません。隣人と認めるということです。
 私たちが人のために祈るとき、私たち自身が変えられます。人を悪く思ったり、敬遠するのではなく、近づいて行くようになるのです。もちろん、私たちが好む人であろうと、好まない人であろうと、私たちがその人のために祈っているなら、私たち自身がその人を「慕うようになるのです」。そのようになること自体が、私たちの祝福だと理解できることです。いかに人をさばき、いかに人を苦々しく思い、いかに人を見下していることが、私たちを破壊することでしょうか。あなたが人のために祈るようになれば、あなたは祝福されるのです。

慕うものに反発しているという矛盾

 今回の教えを通して、私たちの人生の中に起きている事柄について教えられます。人を妬んだり、人を良く言わなかったりしている人が、幸せであるのを見たことがありません。
 例えば、私たちは、豊かであることを望みます。しかしその反面、豊かである人を妬んだりします。祝福しないことです。そうすれば、豊かさ全般に対して、反発していることになります。当然、自分が豊かになることは難しいということになります。
 幸せを望みます。しかし、人が幸せであることが、嬉しくないなら、幸せそのものを退けていることになります。当然、幸せはやってこないでしょう。
 私たちが反発しているものに、私たちが引き寄せられることはないのです。ですから、もし人を祝福しないなら、豊かさとか、幸せとか、家庭とかを慕っていながら、実際には心の奥底で反発していることになるのです。その矛盾に気が付かなければなりません。人を見たら祝福することです。敵対心はない、なんとも思っていない、というのではなく、積極的にその人の祝福を祈るということが求められているのです。自分が祝福されるためです。

好きでないものにはやる気が起きない

 私たちは、仕事の成功や成績の向上など、物事がうまくいくことを望みます。しかし、もしそう望みながら、物事がうまくいっていないとしたら、その原因は自分が、そのことやその人を愛していないからではないか、とへりくだる必要があります。
 うまく行くようにと祈るのでは、物事が解決しません。「私はそれ(仕事や勉強のこと)、(あるいは)その人を愛します。私に必要なのは、愛する心です。もっと愛したいという思いを与えてください。」と祈ることです。人間関係の解決にしろ、経済の解決にしろ、勉強の成績が上がることを望むにしろ、幸せになることを望むにしろ「そのことや、その人に夢中になって愛せる愛を、与えてください」と祈るべきです。
 いったん、あなたが愛する人になれば、すべてが好転することを知りましょう。

16.06.12 自分という重荷

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「マタイの福音書 11:28-30 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

人生には重荷がある

 私たち人間は、思い煩うことを、当たり前のようにして生きています。そんな人々に対して「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。(マタイ 6:25)」と言われました。それほど、私たちは日常のことで、心配しながら生きています。
 生活の必要が十分に満たされるか、心配でたまりません。今日の生活費に困る人は多くないかもしれません。しかし、将来のことを考えると、とても不安になる人は多いでしょう。子どもたちの将来のこと、自分の老後のことを考えると、それに十分に備えなければと思い、今を生きていることです。
 人間関係で悩んでいます。問題なく、平安な、心配のない生活をしたいと思っていますが、家族や他の人々のことがとても気になります。安心できる存在であってほしいと、心を痛めています。
 健康のことが不安です。調子があまりすぐれないと、とても心配になります。あまり心配をしすぎると、かえって体に悪いとわかっていても、心配から離れられません。
 すべて重荷です。これらはすべての人にあるようです。そういう意味では共通ですが、中身は同じではありません。人それぞれに違うものです。人から見れば「そんなもの重荷でもなんでもない」と思うような場合もあったりします。しかしその人にとっては重荷なのです。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ 6:5)」

取り扱いあぐねる自分自身

 多くの人は、腹を立てないで、平安な気分でいたい、と望んでいます。ところが、人の顔を見たり、人のことばを聞いたりするとき、腹が立ってしようがなくなります。「あいつが悪い」となるわけです。いつまでも、こだわり続ける自分、離れられない自分、裁き続ける自分、そんな自分を感じて、嫌になります。「こんな自分は嫌」と思うのです。自分のことを扱いあぐねています。平気でいたいのです。苦しまないでいたいのです。しかし、自分をコントロールできません。繰り返し、いつも頑張っています。
 何ということか、この「自分」というものが、実は重荷なのです。自分を変えたいのに、変わらない。くよくよ考えないで、もっと前向きに考え続けたい、と願っているのに、毎回同じ決意をしつつも、変わりません。こんな自分をどうしたらよいのでしょうか。まさに「自分」が重荷です。

あなたの重荷を主にゆだねよ

 そんな私たちに対して、イエス様は「わたしのところに来なさい」と招いてくださっています。休ませてくださるというのです。聖書は「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない(詩篇 55:22)」と教えています。「あなた」とは誰のことでしょうか。重荷を負って疲れているあなたのことです。主はあなたのことを心配してくださいます。つまり、心配は主がしてくださるのです。
 主は私たちの身代わりを果たしてくださるお方です。実際、私たちは呪われたものでありました。しかし、その呪いを主が変わって受けてくださるのです。そのために主は十字架にかけられました。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである(ガラテヤ 3:13)」のです。私たちが負うべき呪いは、私たちを通り越して、すべて主イエス・キリストに向かいます。主が身代わりとなって呪われてくださるのです。
 同様に、私たちの重荷は主が担ってくださるのです。ここに私たちの人生を主に明け渡さなければならない理由があります。あなたが苦しんでいるのは、主に明け渡していないからではないか、と答えを求め続けることが必要ではないでしょうか。

正しい人はゆるがされない

 主は「正しい者がゆるがされるようにはなさらない」と言われますけれども、「正しい者」とは誰でしょう。「正しい者」とは、イエス・キリストを信じつつも、扱いあぐねる自分自身のことで、苦しんでいるあなたのことです。
 私たちは、イエス・キリストを信じて、正しい者(義)とされます。イエス・キリストを信じる者は、主の、み前に正しい者と言われます。あなたは、主に人生を明け渡したでしょうか。それならば、あなたの人生はゆるがされることはありません。主に従う「くびきを負って」する生活は、あなたの「たましいに安らぎ」をもたらすのです。
 もう一度考えてみてください。みことばは真実です。神様の言われることば、約束は変わることがありません。しかしながら、その通りになっていないとしたら、あなたはみことばの事実を事実として、まだ明確に知ってはいないのだ、ということにはならないでしょうか。
 私たちに必要なのは、リアルな神様の働きです。あなたが重荷と感じている事柄も、あなた自身という重荷も、あなたが「私を愛してくださっている神様が、本当に一緒にいてくださっている」という事実を知ってしまったら、その瞬間に完全に消滅することではないでしょうか。
 感情や状況によってふらふらと揺れ動く知識ならば、本当には知ってはいないのです。神様はここにおられます。私たちは、重荷と感じる自分を捨てたり、逃げ出したりするわけにはいきません。神様が与えてくださったものだからです。重荷ある人生を、重荷である自分自身を認めることです。「これが私だ」「これが私の人生だ」。主は重荷を負ってくださるのです。
 また、人もそれぞれ「おのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」。誰でも、自分と同じように、自分自身を抱えて生きているのだと知りましょう。解決は、主イエス・キリストにだけあるのです。

16.06.05 なぜ私が

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「ヨブ記 7:20 私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。」

なぜ私が

 冒頭のことばは、ヨブ自身のことばです。ヨブは神様も認める正しい人ではありました。ヨブ自身も、自分が責められるところがあるなどとは、全く思ってはいなかったでしょう。もし、罪を犯した、良くないことをしたと思えば、いつも悔い改めて、神様の前に自分を正しく保っていたからです。とにかく真面目に正しく生きて来た、ということです。
 そんなヨブに災いが降りかかりました。家畜やしもべたちが敵に襲われたり、自然災害によって、子どもたちが不幸に見舞われました。さらには、ヨブ自身も身体中が皮膚病に冒されるという苦難に見舞われたのです。
 人が災いにあうのは、悪いことをしているからだ、という因果応報の考えがあります。ヨブや周りの人たちも、その考え方の中に生きていましたから、ヨブ自身は「なぜこんな目にあうのかわからない」と思ったことでした。友だちは、「何か悪いところがあるはずだ」とヨブを責めました。
 そんな責めに対して、「なぜ私がこんな目にあうのか」というのがヨブの正直な気持ちでした。しかし、こんなヨブの信仰の姿勢に対して、神様は取り扱いをされたのでした。
 ヨブは、神様を恐れる信仰を持っているつもりでしたから、神様を非難することはしませんでした。それで「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」と言って、神様に愚痴をこぼさない態度を示したほどです。
 だけど「自分がこんな目にあういわれはない」と思っていました。「自分が正しいから、こんな目にあうのはおかしいです、と言いたい。しかし、それを神様に説明しようにも、神様は偉大な方だから、自分なんかにできるはずがないではないか」という思いが込められているのが、冒頭のことばなのです。

悟らされて

 結局、長い時間がかかりましたが、ヨブは気付かされます。自然や動物の営みについて、いつ何が起きるのか、どのようにしてそれが起きるのか、ヨブ自身は何も知ってはいないということでした。全ては神様がご存じであり、全てのコントロールは神様の御手にあることだ、と改めて教えられたことでした。
 「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。 知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(42:2-3)」というのがヨブの告白でした。
 ヨブに必要なのは、自分の正しさを示すことではなくて、ヨブが癒されることでした。ヨブの家庭の問題が解決されることでした。ヨブの家に降りかかった災いが取り除かれることでした。それをしてくださるのは神様です。
 正しいと思っている自分に、取り除かれなければならない罪がある、ことを悟らされたのです。「これはおかしい。これは正しくない」という、まるで神様であるかのような考えが、まことしやかにヨブに存在していたことでした。ヨブは「神様。あなたはしたいことを何でもすることがおできになる方です」と認めなければなりませんでした。それを悟ったヨブは、今までの何倍もの祝福を受けたことです。

摂理を暗くしていた

 神様の指摘は「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。(38:2)」というものでした。それに対して悟ったヨブは「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(42:3)」と答えるに至りました。
 摂理とは、神様の介入のことです。私たちの人生に神様が介入してくださり、語ってくださったり、ことを起こしてくださったり、しています。神様には理由があって、ヨブに対してこのようなことを起こされているのでしたが、そしてその中で、ヨブは長い間苦しみましたが、神様は放って置かれたわけではありませんでした。神様ご自身のご計画があったのでした。
 ヨブにはそれがわかりませんでした。摂理をおおい隠していたのでした。「なぜ」という態度はときによって、罪の態度となります。「なぜ私が」「なぜ私だけが」というような態度です。実際には神様を認めていませんし、信頼もしていません。実際には神様は私たちに対して介入され、語られているのですが、それがわかりません。つまり「摂理を暗くしている」のです。

信仰の態度

 「神様。あなたはしたいことのできる方です」という主の主権を認める信仰を是非とも持ちたいものです。この主権が神様にあるから、私たちは安心して、主に人生を委ねられるのですから。主を脅かすものは何者も存在しません。信仰の態度を持てば、今、主が介入され、主が語られていることがわかります。
 また信仰の態度をもって「なぜ」と考えることもできます。信仰は理性なのですから。「『神様は、したいことがおできになる方であり、私を愛してくださり、善なる方である』から、今私に起こっていることは、最善であり、意味のあることだ」と理解することができます。
 「なぜ、私にこのようなことが起きているのだろう」と信仰の態度をもって、考え抜くときに、その瞬間にも、主の語られている「みことば」がわかるのです。自分が苦しんでいる理由もわかります。「摂理を暗くしている」のは「なぜ私が」という不満の態度だと知らなければなりません。

16.05.29 いつも語られている

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「詩篇 50:7 聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。」

神は語っている

 イスラエルは、神様によって選ばれた民でした。そのイスラエルに向かって、神様は戒めを告げると言われたのです。「聞け。わが民よ。わたしは語ろう」と主は言われています。
 すでに、私たちはイエス・キリストを信じて、神の民とされました。ですから、神様は「わたしは語ろう」と私たちにも言われています。
 確かに、人は神様から語られることばがなければ生きていけない存在です。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。その都度、神様からのことばを聞いて、生きていくように私たちは造られています。
 神様が語られるというのは、たとえば宣託のように、お告げとして語られるようなことを指しているのではありません。その都度、その都度、私たちは語られる神様からのことばを必要としています。ですから「一つ、一つ」なのです。

あなたに直接語られる

 その昔、神様は、預言者、つまり一人の人を通して、御心を語られました。しかし、イエス・キリストによる救いの道が開かれた今、信じる者一人一人に直接語られます。
 旧約聖書の時代においては、預言者(神の御心を伝える役目)、祭司(神の宮に仕えて、民のために犠牲を捧げ、祈る役目)、王(神のしもべとして、民を守り、治める役目)は、就職式の時に頭から香油を注がれました。この三つの職務は、神と民との仲立ちとして、神の民に神の恵みを届ける務めを行いました。
 キリストは「油注がれた者」という意味ですが、イエス・キリストは、地上に来てくださり、生涯を通じて、預言者・祭司・王の働きをして下さいました。そして今は、天におられて、私たちを助けるために同じように三つの職務を果たしておられます。
 私たちクリスチャンは、イエス・キリストを受け入れた者です。信じる者の内には、主が住んでくださっておられ、預言者の働きをしてくださる主は、いつも、信じる者である私たちに語ってくださっているのです。

聞こえている

 「わかっている」とは、よく耳にする反応です。神様が何を言われているか、わかっている、知っている、ということです。神様が何を望まれているか、あるいは聖書には何が書かれているか、「私は知っている」という反応です。神様が、何を求めているか知っている、のは大切なことです。しかし、もっと大切なことがあります。それは、「今、神様が、この私に、これを語ってくださっている」という自覚です。
 たとえば、「愛しなさい」と言われていることは、神様を信じるという人は、誰でも知っていると思います。しかし、今この瞬間に、ある人を前にしている時にです、「この人を愛しなさい」と、指図するように、耳もとでささやくように、さとすように、神様がこの自分にだけ語ってくださっている、ことを意識(自覚)することが必要です。
 他にも、様々な場面で、「恐れるな」「喜べ」「祈れ」「聞け」と語られていることを、自覚することです。つまり「主よ。聞こえています」という告白の中に生きることです。このことが、大切なことです。できている、できていない、ことを考える前に「聞こえています」という自覚が必要なのです。
 心の中に、雑音が多くあります。その中でも、聞こうと思えば聞こえるのです。外国に行った時に、不慣れな外国語の雑踏の中でも、不思議と日本語の会話が耳に飛び込んで来ます。「聞き分けたい」と思って聞こうとするからです。

平安である

 実際に、神様のみ声に聞き従えている、ときよりも、み声が聞こえていることを認めるときに、確実に平安が訪れます。それは、み声に聞き従えている、と思っているときでも、実際は「神様が言われていることを知っている。私はこれを行うべきだ」と、律法的に生きていることがあるからです。つまり、本当は気の進まないことだけど、しなければならないので、しているような具合です。そこには、自己満足はあっても、完全な平安はないものです。そんな生き方をしていれば、いつかは、頑張りの糸が切れるときがやって来るでしょう。
 神様のみ声が聞こえている、というところにいれば、平安があります。イエス様と行動を共にした群衆は、遠巻きにでも、イエス様のことばを聞こうとしたことでしょう。そこには平安があったに違いありません。しかし、離れて行って聞こえなくなった時には、「十字架に付けろ」ということばに、扇動されて行ったのです。
 「できている」「できていない」ということよりも、「今、私に語っておられる」という自覚が重要です。たとえできていない者でも、み声の下(神の支配の下)にいれば、神様を愛するようになります。それで、ひとりでに「神の御心を行いたい」という思いが募るのです。何よりも、「神様が私に語られている」という自覚を持つときに訪れる、今まで感じたことのない平安が、あなたを変えます。

16.05.22 お休み

16.05.05 肉の願いと御霊の願い

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「ガラテヤ人への手紙 5:16-17 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

 聖書が言う「肉」とは、人が生まれた時から持っている性質のことを指しています。人はどのような性質を持って生まれてくるのでしょうか。イエス様は「人から出るもの、これが、人を汚すのです。(マルコ 7:20)」と言われました。
 一般的には、人間は生まれた時は、まったく純粋で、成長するにしたがって悪に染まっていくのだ、という考え方があります。イエス様が教えられたことは、これとはまったく逆のことです。人間は罪人として生まれて来るのであって、誰でもその内側に汚れを持っているのだ、と言われたことです。
 成長するにしたがって、その汚れが内側から出てきて人を汚しているのです。その元からある汚れを「罪」と呼びます。神学用語では「原罪」と言います。誰もがこの「原罪」を持って生まれてきます。それが内側から出てきて、人を汚しているのだ、ということです。
 成長するということは、この汚れである「罪」を働かせるための知恵が身に付くことであって、さらには「罪」の働く機会に出会って行くことでもあるのです。例えば子どもは、教えなくても自分から嘘を付き始めますが、これは嘘をつくことのうま味を知ったからに他なりません。もともと嘘を付く要素は生まれながらにして持っています。成長して、それを使う知恵が付いただけのことです。外から、嘘に染まって行ったわけではありません。
 他のどのような罪も同じことです。罪を犯したいという思いは、生まれた時から潜んでおり、成長してその機会を得て、罪を犯すのです。罪を犯したから、罪人と呼ばれるのではありません。悲しいかな、罪人であるので、必ず罪を犯すのです。自分を見ても、人を見ても、子どもたちを見ていても、なるほどと理解できることです。素直な良い子と思われていた子どもが、親に反抗し、あるいは隠れて、罪に走っていくのです。
 これが「肉」であって、その性質は「罪を好む」ということなのです。

肉の欲望

 「肉の欲望」とは、生まれながらにして人が持っている「肉」の願い、ということです。そこには、意識するにしろしないにしろ「罪を犯したい」という、生まれながらの思いが潜んでいるのです。
 また「肉」の特徴は、自己中心です。生まれながらの人間の、どんな立派な考えにも、この思いは必ず潜んでいます。犯罪を犯すとか、道徳的に非難されるとか、そのような汚れはまったくないと見える立派な考えや思いであっても、自己中心とは無縁ではいられません。
 例えば人の役に立ちたいとか、社会貢献をしたいとかの思いにも、意識はしないものの、自己中心が潜んでいます。例えば「良いことができている人間であると認められたい」などという思いです。この思いを悪いとは思えないかもしれません。しかし、人のためにと思ってしたのに、誰も気づいてくれなかったり、評価されなかったりしたら、途端に不満に思ったりします。自分のしたことが、十分、人の役にたったとしてもです。行いができたことには満足せず、人からの注目を浴びて満足する、という自己中心の思いが潜んでいるのです。
 このように「肉」が持つ欲望には、必ず罪の思いが潜んでいることになります。そこには汚れの思いがありますし、自己中心の思いがあります。

肉と御霊の対立

 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」と聖書は言います。そして「この二つは互いに対立してい」ると言います。それはどのように対立しているのでしょうか。
 肉の願いには、罪が潜んでいるものであるということは、理解していただいたと思います。それでは、私たちは、御霊の願いを持てば良いと思います。しかし、聖書は「自分のしたいと思うことをすることができない」と言っています。これはどのようなことなのでしょうか。「肉」の願いを持てば罪を犯し、「御霊」の願いを持てば、良いことをすることができる、というならばわかります。しかしそうではなさそうです。したいことができないのですから。
 「肉」の願いは「罪を好む願い」ということになります。罪を好みつつ、良いことを願っている、ということです。例えば、自己中心でありながら、人の幸せを願っている、などのことになるでしょう。
 「愛する」ということは、生まれながらの私たちも願うことができます。しかし、その本質は、罪、「奪うこと」です。自分の思い通りにしたい、という思いが潜んでいます。
 しかし、聖書が教えている愛は「与える」ことです。このことでわかりますように、もし、生まれながらの「肉」の立場から、愛したいと願うとき「対立して」実際には愛したいのに、愛せない、ということになるのです。「奪いたい」という思いを持ちながら、「与えたい」ということは実現できるわけがありません。このように、生まれながらの私たちには「御霊」の願いを実現することは、不可能なことです。

御霊によって歩む

 そこで「御霊によって歩みなさい」と命じられているのです。「御霊」によって(支配されて)生きるなら、「奪いたい」という「肉の欲望を満足させるようなことは」ないのです。
 「御霊」の願いに属することは「愛したい」に要約されますが、具体的に詳しくその願いを言うなら、人の役に立ちたい、人を癒したい、建て上げたい、喜びあふれて生きたい、神様に用いられたい、前向きに生きたい、人を救いたい・・・いくらでもあげられるでしょう。このような願いは、神様に明け渡していない、生まれながらの私たちが持つ願いでもあります。「肉」「御霊」の願いを持つ、ということなのです。しかし「この二つは互いに対立していて」、私たちは「自分のしたいと思うことをすることができないのです」
 「肉」なる者が、「御霊によって歩」むことができることが、恵みです。誰でも信じる者は、イエス・キリストに明け渡して、生きられるようになりました。このことは願っても得られなかった特権です。イエス・キリストに明け渡して生きるなら、したいことができる人生がそこにあるのです。「肉」からではなく、「御霊」の支配にあって、「御霊」の願いを持ちましょう。そうすれば、心に対立はありません。

16.05.08 リトリートハウス感謝

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 先週、ゴールデンウィークの5月3日〜5日に、新しく与えられた「あたしかリトリートハウス」において、オイコス休暇が行われました。約70名の兄弟姉妹が参加されました。2月から改装や修理を重ねて、ようやくオイコス休暇に間に合わせることができました。主に感謝します。
 未完成の状況ながら、快適に使うことができたと思います。実際は、前日の夜遅くまで、兄弟姉妹のご奉仕により、全力を挙げての作業が続きました。また、今回はリフォームを断念したところも多くあります。3日の当日の朝になってからも、早朝到着の兄弟姉妹にお願いして、清掃や準備をしていただきました。
 今回の準備作業奉仕を通して、感じたことは、みなさんの一致協力が大きな力であることです。当初から報告してきたことですが、作業に取り掛かりますと、あまりの大変さと広大さに途方にくれることでした。それが、たくさんの兄弟姉妹の協力を得れば、段取りや計画を考えつつ進められることでした。たとえ数人でも、それは大きな力でしたが、数十人となると、考える余裕が生まれてきて、効率良く進められることです。自分一人で奮闘していると、本当に見通せない苦しみの中に置かれてしまうことですが、全体の力が合わさる時、神様の御力の大きさを感じさせられることです。
 私たちに十分な費用があるわけではありません。最初から貫いている方針は、費用をかけないで自分たちでやる、でした。みなさんの祈りに感謝します。ささげものに感謝します。さらに感謝することは、この働きと方針に賛同してくださり、一緒に労をとってくださる兄弟姉妹のおられたことです。全てを主に感謝します。
 オイコス休暇では、メインテナンスタイムと称して、全体にかかる清掃作業などを行っていただきました。作業してくださる人数が多くなると、予想を超えて早くきれいになるもんだと、みなさんの一様の感想です。同じ主を信じる者を主は動かしてくださり、大いなることを成し遂げさせてくださり、そして、それを与えてくださるのです。自分たちのものを手入れすることは、参加された方々の共通の喜びでした。
 行っていただいた作業は、全館の清掃作業、建物周囲の草刈り清掃、プールサイドの草刈り清掃、室内風呂、露天風呂の掃除、などなどでした。今回のオイコス休暇では、メインテナンスタイムの時間以上にとったのは、温泉タイム、フリータイムの時間でした。
 リトリートハウスのメイン設備は、温泉です。自分たちの源泉を手に入れましたから、好きな時間に好きなように汲み出し、好きなように温泉に入れます。合計5回の温泉タイムを楽しんでいただくことができました。複雑なシステムと機器の操作に困難を覚えつつも、お風呂係は献身的に動いてくださいました。おそらく、専門的な知識を得ていただいたことです。
 そのほかフリータイムには、販売、ゲーム、卓球、ダンス、ダーツなどがありましたが、それぞれが楽しんでいただきました。食事係や子守係が、背後で支えてくださいました。
 いつまでも記憶に残るオイコス休暇となりました。リトリートハウスのリフォーム清掃作業は、まだ取りかかったばかりですが、機会を得て、順次進めていきたいと思います。電気照明の改良増設、水道工事、温水工事、壁紙張り作業、カーテンの取り付け、外壁清掃、などまだ多くのしたいことがあります。
 次にはキャンプで使う予定です。クワイヤーの合宿にも使いたいと思います。できることを一つ一つ完成させていきたいと願っています。また、ピザハット(小屋)が与えられています。改造の許可も得ています。後は窯を設置する工事だけなのですが、お祈りください。
 リトリートは隠れ家などの意味で知られますが、教会では修養会などを指し、心や体、信仰の修復を求めていやしを受ける、などの意味として用いられます。「あたしかリトリートハウス」は、まさにリトリートにふさわしい場所です。山あり、海あり、温泉あり、澄んだ空気に、満天の星空、静寂な時間と気持ちのよい陽光、みなさんの祈りに本当に感謝です。

16.05.01 主の良きわざ

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「使徒の働き 10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」

良いわざ

 イエス様が地を巡り歩いて、良いわざを行われたと聖書は教えています。イエス様のなされた良いわざのほとんどは病人をいやすことでした。
 主の地上での目的は、私たち罪人を救うために、十字架に死なれることでした。聖書を読みますと、そのために、十字架に向かってまっしぐらに進まれた印象があります。しかし、その途上でなされたことのほとんどが、病人をいやすことでした。主は第一の十字架の目的にもかかわらず、病で苦しんでいる人を放って置かないで、いやしてくださったのです。主のみ心は私たちをいやすことであり、苦しんでいる人を主は憐れんでくださるお方です。
 神様は、私たちが良くなることを望んでおられるのだということを忘れてはなりません。悪くなることを望んでいる者があるとすれば、それは神様ではなく悪魔です。

病の原因

 聖書は、イエス・キリストは「悪魔に制せられているすべての者をいやされました」と証言しています。病気は悪魔に制せられている結果であることを知らなければなりません。キリストによっていやされた人々は、みな悪魔に押さえつけられていたのです。

「十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女(ルカ 13:11)」がいやされました。その原因は「病の霊」と教えています。
 イエス様が「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。(マルコ 9:25)」と命じられると、汚れた霊は少年から出て行きました。
 このように病気は、悪魔の抑圧により起こっていることだと、説明されています。
 病気というものはそれ自体で、生命を持っている存在です。例えば病原体は生きています。それが人間の体を離れるとき、体はいやされます。
 また、私たちの魂が、体を離れるとき、体は死んでしまいます。病気自体が命を持っているのですから、同様に病気の霊が体を離れるとき、病気は死んでしまいます。であるならば、私たちは病気の霊に縛られていることを拒否しなければなりません。

絶対的権威

 私たち信じる者には、主からの権威が与えられていることを信じなければなりません。主は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ 14:12)」と約束されました。私たちには、主と同じ、またそれ以上の、病の霊を制する権威が与えられていることを知る必要があります。
 すべての病気は、神様からのものではありません。また、神様はあなたを苦しめることをなさるお方ではありません。私たちは、悪魔に立ち向かわなければならないのです。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ 4:7)」
 木の根を切ると、木はすぐには枯れませんが、確実に枯れて行きます。病気の霊を断ち切るなら、病気の外的症状は、必ず消えていくのです。
 神様は、私たちが良くなることを望んでおられるのです。神様に従って、悪魔に立ち向かいましょう。

リトリートハウス感謝

 いよいよ今週はオイコス休暇です。5月3日(火)〜5月5日(木)の予定で行われます。
 今回は新しく与えられたリトリートハウスで、オイコス休暇を過ごします。みなさんのお祈りを心から感謝します。
 有志の方にご奉仕をしていただいて、やっと、気持ち良く使っていただくことができるようになりました。まだまだ最小必要限のことしかできておりませんが、なんとか楽しんでいただけると思います。
 今回の主なプログラムは、メインテナンスタイムと称する奉仕作業となります。と言っても、大変な作業は有志の方が済ませてくださっていますので、オイコス休暇では、自分たちの場所であるリトリートハウスを楽しんで手入れするくらいの感じです。どうか楽しんでください。
 そして、さらに楽しみは、温泉とフリータイムです。この時間は、実は、メインテナンスタイムより多くを割いています。朝から晩まで、温泉と自由時間、という感じです。主とともに、楽しんで良き交わりのときを過ごしましょう。

16.04.24 あわれんでください

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ルカの福音書 18:9-14 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

告白できる恵み

 私たちには神様の約束があります。そして、神様には偽りがありません。その神様が、みことばによって、はっきりと宣言してくださっています。「私はあなたを愛している」「私はあなたを祝福する」そして「私はあなたをあわれむ」と。
 ですから私たちは、言うことができます。「私は愛されている」「私は祝福される」「私はあわれんでいただける」と。
 ところで、あなたは、どんな時でも、どこにいても、これらのことを告白することができるでしょうか。またさらには、告白し続けることができるでしょうか。告白することは、意外と難しいものです。すぐに私たちの感情が邪魔をするのです。つまり「そうは感じない」という心が、私たちを気落ちさせるのです。告白なんて、口で言うだけだから、なんとでも言えると、多くの人は考えます。しかし、実際に告白をしてみますと、何も状況が変わらなければ、すぐに虚しさが襲ってきて、言い続けることができなくなってしまいます。このようなことになるのも、私たちの感情が主導権を取っているから、当然だと言えないでしょうか。つまり、感情が主人であれば、感じてもいないことは言えない、ということです。
 しかし神様に主導権を明け渡していたらどうでしょう。私たちの口で言うことが、私たちの感情に支配されることはありません。支配するのは神様です。今、あなたが、今ある状況にもかかわらず、「私は愛されている」と告白できるなら、神様があなたを支配されていることだと理解してよいと思います。ですから、告白できるということは、とても大きな恵みであるのです。

あわれみを求めなかった人

 もし、あなたが「神様は私をあわれんでくださらないかもしれない」と感じていたらどうでしょう。おそらく虚しさに負けて、「神様私をあわれんでください」と言い続けることは、難しくなるのではないでしょうか。自分が、そして自分の感情が主導権を取っていたなら、そうなってしまうのです。ですから、明け渡すことは、とても大切なことです。
 もし「あわれんでください」と言えなければ、どうなるでしょう。あわれみを受けるにふさわしい者となろうと努力するのではないでしょうか。「できている」と思えることが、自分を支えるでしょう。いくらかでもそう思えるようになれば「これで神様の前に出て、大胆に祈ることができる」と考えるのではないでしょうか。パリサイ人はそうでした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と祈ったのです。パリサイ人の祈りのことばには、おそらく嘘はありません。事実をそのまま言っているのです。ところが、この祈りは神様に受け入れられませんでした。拒否されたのです。なぜなのでしょう。
 イエス様が、この話をされたのは「自分を義人だと自任」している者に対してだと聖書は言っています。つまり「自分はできている」と思っている人に対してです。パリサイ人にとっては「人を脅して金を巻き上げるような悪いことはしていない。不正なことは何一つしていない。姦淫などはしたことがなく、清く生きている。ことに私の横にいる取税人のような悪い者ではない。」「さらに、断食を毎週して祈っている。献金もしている」というのがよりどころでした。
 それだから、神様に喜んでもらえる、神様が願いを叶えて、さらに祝福してくれる、と勇んで神様のみ前に出て行ったのでした。彼の欠点は、「自分は正しい」「できている」「よくやっている」「きよい」「一応非難されることは何もない」「他人よりマシ」「善良な市民」と思っていたことでした。主にすがること、助けてください、ということが必要ないことが、彼のよりどころでした。褒めてもらえると思ったのです。
 誰でも、明け渡すことなく、自分が主導権を取っていれば、このパリサイ人のように、振る舞うでしょう。しかし、主は、これを拒否なさるのです。パリサイ人にとっては、あわれみを求めなくて済んでいることが、嬉しいことだったのです。しかし、それは、みこころではありませんでした。

すがれることが幸い

 すべての人にあわれみが必要です。人は自分の力で、神様の望まれる「きよさ」を達成することはできません。救い主イエス・キリストの前に出るとき、私たちに必要なのは主のあわれみを求める心です。「自分はできていない」「自分はきよくない」「自分は汚れている」「神様に顔向けができない罪人である」などのように罪意識があるなら、いきおい神様にあわれみを求めることにはなりませんでしょうか。
 「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」のです。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と。この祈りが受け入れられました。主は、誰でも、あわれみを求める人の主です。イエス・キリストは、神様へのあわれみの入り口なのです。誰一人、神様のみ前に出られる資格のある者はおりません。神様にあわれんでいただき、受け入れていただくしかありません。
 もしあなたが、「主よあわれんでください」と主にすがる告白をすることができるなら、あなたは幸いです。主に明け渡して、主のご支配の下にいるからです。「神様は私をあわれんでくださらないかもしれない」とは考えていません。むしろ「神様にあわれんでいただくしか道はない」と自覚しているので、自分の感情が何を感じようとも、感情が主導権を取ることはありません。「神様は私をあわれんでくださる方」「主はあわれみの神」のみことばが主導権を取り、みことばの奴隷として、みことばに服従させられるので、何のためらいもなく「あわれんでください」と告白させられるのです。私たちにとって、一番の幸いは、主にすがれることです。

主は私の味方

 神様は、あなたの味方です。神様は、あなたを助けるお方です。そして、あなたにとって神様は唯一の希望です。あなたは神様にすがることができます。いえ、すがらなければなりません。
 なのに、もし、罪の指摘を受けたなら、あなたは怒り出す人ではないでしょうか。パリサイ人は、「あなたは罪人です」「あなたのしていることは、神様の喜ばないことです」と指摘されれば、猛烈に怒る人でした。「私はできている。私はちゃんとやっている」と反論するでしょう。もしかして、あなたにも、そのようなことはありませんでしょうか。聖書は「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(箴言 19:3)」と警告しています。
 神様は唯一あなたを助けるお方です。そのお方に、敵対してはいけません。罪の指摘は、ありがたいことであり、当然のことであり、その指摘通りであるからこそ、取税人のように、主のあわれみを求めることができるのです。「あわれんでください」と告白できることが祝福です。

16.04.17 前から欲しかったもの

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「ヨハネの福音書 8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

続かない

 私たちの根本的な欲求は、幸せになりたい、認められたい、愛されたい、です。すべての人は、罪人で、傷ついており、これらの欲求は基本的に満たされておりません。愛されることを必死で求めています。
 ですから、愛される資格を得ようと「できる」ことを求めて積極的であろう、「できる」と考えようとしています。つまり、それなりに評価される人間になろうとするわけです。このこと自体は、悪いことではありません。
 しかし、前向きに生きることが、本来の自分のしたいことではなかったりします。「できない」自分でいて、認められないことには耐えられないので、認められるために、頑張っていることだからです。それが証拠に、多くの人は、いくら成功的であるからといって、そのような生き方を一生続けたいとは思っていないのです。早く達成して休みたいと考えています。本当にしたくてしていることならば、一生続けたいと思えるはずです。本当にはしたくないことをしているのです。自由ではありません。
 人は積極的になりたいのに、続かないのです。本当は平安でいたいのに、恐れないでいたいのに、いくら決意をしても続きません。気を許せば、どんどんと崩れて後ろ向きになってしまうのが、罪人である人間の本来の姿です。人は、悪くならないようにするためには努力がいりますが、悪くなっていくために努力はいりません。

律法の誘惑

 律法主義という神学的なことばがあります。聖書が求めている良い行いをして、神様に認められようとすることを言います。良いことのように聞こえますが、間違った考えを指摘している用語、として用いられています。
 何が間違いかというと、罪人である私たちが、聖書の戒めを守ることができない者である、ということを忘れていることです。多くの人は、人間は努力すれば良くなる、と考えますし、考えたいのです。しかし、実際は良くなれません。「できている」と勘違いをして、高ぶり、人を見下すか、あるいは、できない自分に直面して、落ち込むかのどちらかです。どちらであっても、神様の前には、律法に照らして、罪人であると裁かれてしまう存在なのです。
 それでもどうしても、良くなれると考えてしまう私たちは、クリスチャンとなってからも、みことばを守ることによって、恵まれようとしてしまいます。くりかえし、祝福を得ようと、努力するのです。良いことのように思えます。しかし、ここに落とし穴があります。
 神様のみことばに従うなら祝福されるというのは、神様によって約束された事実なのですが、まず、私たちがみことばを守れない、神様に従えない存在であることを認める必要があります。認めないので、祝福が行いによって得られると思う、誘惑に陥いります。

恵み

 恵みとは、何の良い行いもできない私たちに対して、無条件で与えられる神様からの一方的な祝福のことです。ただ、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられます。
 繰り返し申しておりますが、信じるとは、明け渡すことです。私たちは、イエスが主(キリスト)、救い主であることを受け入れました。このことは、主が私たちを支配される方であることを受け入れたことです。つまり、信じるとは、主のご支配の下に生きることであり、主に明け渡すことに他なりません。聖書はこのことをイエス・キリストを「身に着る」と説明しております。
 イエス・キリストを身に着ているだけで、私たちは、神様に認められ、受け入れられ、神様のご愛が私たちに届くようになりました。資格を得ようとする必要はなく、すでに得ています。「できる」と考える必要はなく、すでに「できている」のです。これが恵みです。
 明け渡すまでは、自分で自分を励まして生きていました。いきおい、良い行いをしたら認められるという、律法的にならざるを得ませんでした。そこには、神様のご支配はありません。なぜなら、律法の「はかり」によって、私たちは退けられるからです。
 しかし、 イエス・キリストを身に着ている(明け渡している)今は、神様のみことばが直接自分を励まします。神様のご支配の下に生きているからです。みことばが自動的に主導権を取る世界です。

前から欲しかったものがここにある

 神様のみこころは「できる」です。神様のみこころは「する」です。神様のご支配にあるなら、すぐにみことばが主導権をとります。たとえ、私たちの心に「できない」という思いが、よぎったとしても、すぐに、みことばが取って代わります。神様は「わたしにとって不可能なことがあろうか」と言われるのです。
 たとえ、私たちの心に「したくない」という思いが、よぎったとしても、すぐにみことばが取って代わります。神様は「わたしはあなたに働く」と言われるのです。このように、神様のみこころは、「できる」「する」であり、「してあげる」「与える」であり、「愛している」「赦す」であり、「平安」「安心」、「健やか」「長寿」、「自由」・・・です。ここにあるものは、私たちが前から欲しかったものばかりです。
 私たちは、得ようと頑張る者ですが、主のご支配の下にこそ、私たちの欲しているものがあるのです。それらは、ただ、イエス・キリストを身に着るだけで手に入るのです。明け渡さなければ、何も始まりません。

16.04.10 誰が主導権を取っているのか

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「ローマ人への手紙 6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」

積極的思考であれば

 一般的に、世の中においては、積極的に考えることが良いこととされています。前向きに考えることができなくなっている人に対して、「否定的なことを考えるのをやめて、積極的な考え方をしましょう」と勧めます。そして「そうすれば、あなたの人生には積極的なことが起こります」と教えています。
 人間は神様が造られたものですが、神様に似せて造られています。神様はことばによって、すべてのものを造られました。「あれ」と言われると、すべてのものが存在するようになりました。「光よあれ」と言われて、光がありました。神様のことばには権威がありますから、神様の言われたとおりになります。
 人はそのような神様に似せて造られて、人が口で言うように、心に描いたように、物事が産み出されて来ます。これは、神様が造られた人に与えられている「創造の仕組み」です。動物にはなく、人にだけ備えられているものです。
 元来、人は積極的なことを考えれば、積極的なことを実現していきますし、否定的なことを考えれば、否定的なことを実現していく存在なのです。これは、神様の与えられた仕組みであるのです。

舌に答え

 ところが、ここに問題が生じてきます。積極的に考えること、考え続けることが、とても難しいのです。否定的になるのは、努力はいりません。怠けるのに努力はいりませんし、敗北するのに努力はいりません。放っておけば、ひとりでにそうなっていくものです。積極的に考え続けるのには努力がいります。ここに人間の格闘があります。そこで、多くの人は、諦めてしまっていますし、積極思考に対して反対する人もいます。
 人間が持つ計画について、聖書が教えていることは、(a)すべてのことは神様のご意思がなされることであり、人の考え方が影響を及ぼさないこと「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言 10:22)」「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言 19:21)」 そして(b)成否の答えは主がその人が口で言うことに答えをくださっている「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(箴言 16:1)」ことです。
 結局、神様の造られた人間の創造の仕組みがあるのに、人間の心によって、うまく運ばないようになってしまっているのです。罪に支配されている人は、心に良い思いを描き続けることができません。

誰が支配しているのか

 聖書は、人は元来罪の奴隷であって、良いことをしたいと思っていても、罪に支配されて、服従させられ、破壊する方向に向かっていくのだ、と教えています。神様は、イエスキリストの御身体という代価を払って、私たちを罪の支配から買い戻して(贖って)くださいました。イエスキリストを信じて、明け渡した者は、新しい主人、神様の奴隷となっています。しかし、もしまだ罪が私たちを支配しているなら、私たちは罪の奴隷である、と教えているのが、冒頭の掲題のみことばです。
 今現在、誰が自分の心を支配しているのか、これが問われるのです。もし、以前のように、明け渡すことなく自分が(罪が)支配しているなら、私たちの心に敗北的、消極的な思いが勝っていても不思議ではありません。
 しかし、神様が支配しているなら、みことばが主導権を取っています。私たちがどのように感じようとも、考えがよぎろうとも、みことばがとって変わります。神様のみこころは「できる」です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」「神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ 1:37)」そして、神様のみこころは「したい」です。「わたしの心だ。きよくなれ(ルカ 5:13)。」
 神様が私たちの心を支配していれば、私たちのように、「できない」とも「したくない」とも言わないのです。たとえ一時的に、私たちの心に、そのような考えがよぎっても、すぐに「できる」「したい」との神様の思いが支配していくのです。
 神様の造られた人間の創造の仕組みは、私たちが神の奴隷であることによって、完全に働きます。それは元々の私たちの願いが実現することであって、したいことができる「自由」がそこにあるのです。

明け渡すことなくして始まらない

 私たちは、「こんなことじゃダメだ」と情けない自分の心を励まして、生きているかもしれません。しかし、本当の勝利と自由は、神様のご支配にあって完全に、実現します。結局、明け渡すということなしに、何事も始まらない、ということです。
 神様の奴隷は、平安の奴隷、喜びの奴隷、可能性の奴隷、愛の奴隷、いやしの奴隷、健康の奴隷、豊かさの奴隷、祝福の奴隷です。私たちがみな欲しいものばかりです。主の奴隷は本当に「自由」なのです。

16.04.03 みことばの奴隷となりたい

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「詩篇 107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」

みことばがいやす

 聖書が教えていることは、神様のみことばが私たちをいやすということです。みことばが、私たちのうちにとどまるとき、私たちはいやされて行きます。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ 4:4)」と言われました。実際、私たちは、神様のみことばがなければ生きて行くことができません。心が萎えて、やる気を失い、しぼんでいくのです。それは木が水気を失って枯れて行くのと同じです。
 私たちに必要なのは、みことばです。主は私たちにみことばを送られ、いやしてくださるのです。あなたにみことばが届けば、あなたはいやされるという意味です。主は「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ 15:7)」とも言われています。主のみことばが、私たちにとどまるなら、なんでもかなえられる、と言われているのです。

いやされるとは

 主のみことばが、私たちをいやすわけですが、いやされるとはどのようになることでしょうか。少し考えてみましょう。
 いやしにおいては、大きく二つに分けられます。肉体のいやしと心のいやしです。肉体のいやしは、病気が治るということです。盲人たちは、「あなたがたの信仰のとおりになれ(マタイ 9:29)」と言われていやされました。
 心のいやしはどうでしょうか。私たちは、自分の心が心配でわずらっているとき、自分がそのわずらいを感じなくなることがいやしだ、と考えます。そこで、自分の心を励まし、わずらいに打ち勝とうとします。
 このとき、「励ます自分」と「励まされる自分」がいるのにお気づきでしょうか。心がわずらうということは、「励ます自分」が「励まされる自分」を励ましきれないでいるということなのです。
 ここにみことばが送られるとき、みことばはどのように働くのでしょうか。ひとつは、「励まされる自分」にみことばが送られて、励まされている構図です。そのとき「励ます自分」は主とともに自分のそばに立って、一緒に励ましています。今までは励ましきれなかったのですが、今は助けを得て、主と一緒に、情けない「励まされる自分」を激励しています。
 もうひとつは、励ましきれなかった「励ます自分」が、主のみことばの助けを得て、十分な「励ます自分」になることです。自分を励ませなかった自分ですが、今では力を得て、自分を励ますことができています(と感じている)。
 何が言いたいかお分かりでしょうか。どちらの場合でも、主導権を取っているのは「自分」なのです。「いやされる」ということは、みことばが主導権を取る、ということです。盲人たちがいやされたとき、彼らは自分を励ましたわけではありません。肉体のいやしがそうであるなら、心のいやしもそうでなければなりません。主のみことばが、主導権を取って働くのでなければならないのです。
 「励ます自分」が主導権を取っているなら、いくらかマシになることはあっても、完治することはなく、ジクジクと膿んだ状態が続くことになります。

服従する相手の奴隷

 人は罪の奴隷(悪魔の奴隷)か、神の奴隷かのどちらかですが、私たちはどちらかに服従して、その奴隷となるのです。もし、神様に服従していなければ、悪魔の奴隷であって、服従させられているのだと認識しなければなりません。「滅びの穴」から抜け出られないでいるのです。
 救いとは、神様に服従する人生が始まることです。私たちはイエス様を「主」として受け入れました。それは、私たちが「しもべ(奴隷)」として服従して生きるという告白でした。主の奴隷とは、「平安」「喜び」「赦し」「愛」「豊かさ」「健やかさ」「みことば」・・・の奴隷であることです。それは一言で言えば「自由」です。主に服従するなら「自由」なのです。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ 8:32)」

みことばが主導権を取る人生

 「みことば」が主導権を取らなければなりません。ですから、主に明け渡さなければ、何事も始まらないことです。神様を信じるとは、明け渡すことであることを、改めて理解しなければなりません。
 明け渡すならば、もはや「励ます自分」は必要ありません。「みことば」が私たちを励ますのです。恐れや心配がありますか。みことばが、恐れや心配に取って代わります。憎しみや怒りがありますか。みことばが、憎しみや怒りに取って代わります。
 私たちがいやされなければならならないのは、「自己中心」という私たちの根本です。キリストを身に着て、明け渡している生活に、みことばが送られてくるなら、みことばが主導権を取って、私たちの内を駆け巡ります。私たちは根本がいやされていくのです。あなたは自動的に勝利の考えしか持てなくなります。心がいやされれば、あなたの経済はいやされます。家庭はいやされます。人間関係はいやされます。肉体もいやされます。すべて、心から出ているからです。罪の心は病んだ心です。

16.03.27 主よ。あなたが必要です。

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「マルコの福音書 5:24-34 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである。 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、『だれがわたしの着物にさわったのですか。』と言われた。 そこで弟子たちはイエスに言った。『群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも「だれがわたしにさわったのか。」とおっしゃるのですか。』 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』」

12年の長血のわずらい

 イエス様が故郷ガリラヤ地方を巡っていた時のことです。一人の、長血を患って12年という女性がいました。彼女は長い治療生活の間に、多くの医者からひどい目にあわされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまいました。それでも、からだの具合は、かえって悪くなる一方であったと言います。
 そんな時、イエス様のことを耳にしました。そのとき彼女の心にわき上がったのは「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」という考えでした。彼女は群衆に紛れて、うしろから、イエス様の着物にさわりました。すると、すぐに出血がおさまり、痛みがなくなりました。彼女が信仰をもって、手を伸ばして、イエス様にさわったことで、イエス様から力が流れ出て、癒されたことでした。
 主は、彼女に対して「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。12年苦しんだ病は、完全に癒されました。

イエスのことを耳にして

 この女性は、「イエスのことを耳にして」行動を起こしました。「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたから」です。この考えを信仰といいます。信仰とは、神様のこと、神様のなさること、に同意する意志を言います。主は癒す方です。「わたしは主、あなたをいやす者である(出エジプト記 15:26)」と言われています。主が癒す方であることに、「賛成します。同意します」という告白が信仰となります。「ダメだろう」と考えるか「きっと直る」と考えるかの意志の選択がここにあります。この意志の選択を管として、神様は働かれます。ですから「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(ヘブル 11:6)」。神様は、私たちの信仰を求めておられます。
 信仰は、どのようにして生まれてくるかと言いますと、神様のことを聞くことによってなのです。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ 10:17)」と聖書は教えています。
 この女性は、イエス様のことを周りから聞きました。他の人はただ聞いただけでしたが、彼女はイエス様のことを自分と結びつけました。聞いて受け取ったのです。イエス様は癒す方、自分はわずらっている、そう思ったときに瞬時に「イエス様が、きっと癒してくださる」という信仰がわきあがりました。

万策尽きて

 思えば、この女性に信仰がやってきたのは、どうすることもできない状況に追い込まれていたからです。医者からは見放され、お金もなくなり、誰一人頼る者もいない、しかも症状はただ悪くなる一方、そこに聞いたイエス様のうわさでした。万策尽きて、イエス様に追いやられているかのようです。
 神様は、すべてのことの上に立たれ、ご支配されている方です。そして「すべてのことを益として働かせてくださる(ローマ 8:28)」方です。神様の知らないところで起こっていることは一つもないのです。私たちの失敗や、苦しみ、それらひとつひとつは、神様の御意志なしには起こりません。そして、それらは皆、私たちを神様の許に引き寄せるために、用いられるのです。「ああ、あのことがあったので、私は神様を信じたのだ」ということが、振り返ってわかります。その時点では、苦しみは悪いこととしか感じられなくても、良いこと、つまり「益として」用いられたことだとわかるのです。
 事実、この女性の病は、彼女が主を求めるまで、良くなることはありませんでした。主を求めて、完全に癒されました。神様の私たちに対する望みは、私たちが主を求めるようになることです。

主よあなたが必要なのです

 主は、ご自分が来られたのは、「仕えられるためではなく、かえって仕えるため(マタイ 20:28)」と言われています。私たちは、主に仕えていただかなくてはなりません。私たちは、主を必要とする者です。
 もともと、私たちは、自分が必要とされることを、熱心に求める者でした。私たちのやりがいや居場所、それは自分が必要とされることです。だから、一生懸命に自分が必要とされることを求めます。しかし、一生かけても、それが満たされることはないのです。常に不完全である私たちは、苦しみもだえています。
 そこで、私たちは知らなければなりません。私たちが必要とされることよりも、私たちが主を必要とすること、が必要なのだということを。生きるためには、完全を求めるためには、主が必要です。私たちのただ一つの望み、それは「主」です。私たちは人から必要とされることで、自分が自分であれるのではありません。主を求めてこそ、自分であれるのです。だから、もはや必要とされていないことなど、どうでも良く、主を必要とすることだけに一生懸命なのです。

16.03.20 役に立たないしもべです

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「ルカの福音書 17:5-10 使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』 しかし主は言われた。『もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ。」と言えば、言いつけどおりになるのです。 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。 かえって、「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」と言わないでしょうか。 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。』」

信仰を増してください

 弟子たちの要求は「私たちの信仰を増してください」でした。それは、主が「つまずきを起こさせてはいけない」と戒められ、彼らに「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい(17:3−4)」と言われたからでした。そこで彼らは、そんなことは大きな信仰がなければ、とても無理だと思ったわけです。
 私たちもまた時として、神様から戒め、あるいは奨めを受けるとき「難しいことだ。そんなことは、信仰のある特別な人だけができることだ」と考えることはありませんでしょうか。「もっと私に信仰があれば」と考えるわけです。あるいは、自分には関係のないほど遠いこと、とさえ思っている方もいるかもしれません。

からし種ほどの信仰があれば

 「信仰を増してください」と訴える弟子たちに、主は言われました。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」と。
 「からし種ほど」とは、ごくごく小さい信仰でも、という意味です。小さいながらも、生きた種は、大きなからしの木になります。他の個所では、それが天の御国の法則である、とも教えられました。たとえ、今日信じ始めた小さな信仰でも、桑の木を根こそぎ海の中に移す力があるのです。
 あなたがイエス・キリストを信じているなら、そうなのです。つまり、イエス・キリストを身に着ている、人生を明け渡した者なら、それが今日が始まりであっても、その信仰は生きていて、力があるのです。

しもべである

 「ところで」と話を切り換えて、主はひとつのたとえ話をされました。その内容は、しもべとは主に仕える者であり、ただ主に言われることに「はい」と言って、従う者であるということです。「主人は、疲れて帰ってきたしもべに対して、ねぎらって食事の世話をしたりしないばかりか、さらに主人の食事の用意をさせるではないか」ということです。それに応えるのが、しもべであるというお話です。
 信仰とは「しもべの精神である」ということなのです。私たちは「信仰が大きければ、何かができる」と考えるかもしれません。しかし、信仰の大小が重要なことではなく、「しもべであるかどうか」が重要なことです。桑の木を根こそぎ海に移すのは「しもべ」なのです。
 しもべは、主人の管理下に置かれ、主人の権威の下で働きます。しもべが言いつけられたことをするために必要なものは全て、主人が与えてくれます。道具であっても、環境であっても、権限であっても、みな主人のものです。しもべができるようにするために、必要なものは全て主人が用意します。ですから「できる、できない」は主人の責任です。しもべには「する、しない」の選択があるだけです。もちろん、私たちは良いしもべとして、「する」を選択したいものです。これが信仰です。

なすべきことをしただけです

 さらに「しもべが言いつけられたことをしたからといって、感謝されることはない」と主は言われています。このことは、弟子たちに対して「しもべの精神を持て」と教えていることです。
 「ほめられよう、感謝されよう」で従うなら、しもべの働きとはなり得ていないことです。そうなれば、桑の木を根こそぎ海に移すことができません。期待する奇跡を見ることができないということになります。
 私たちのしもべとしての報いは、ほめられることではありません。奇跡を見ること、これは私たちがほめられること以上に、嬉しいことではないでしょうか。あなたの人生で動かないと思っていることが動くこと、問題が解決することを見なければなりません。ほめられるというつまらないものと引き換えに、本当に欲しいものを失ってはいけません。
 主が命じられることで、難しいと感じることでも、あるいはしたくないということでも、「おことばですからやってみましょう」という姿勢が必要です。そうするとそれができるばかりか、奇跡の結果が待ち受けているのです。弟子たちが言われている状況で言うなら「赦しなさい」を実行できて、その結果、兄弟を得るということになるのです。そのとき「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言うのです。

16.03.13 主を必要とする生き方

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「マルコの福音書 10:42-45 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

役に立ちたい

 人は人の役に立ちたいと願っています。「人の役に立っている」ということが人の生きる原動力でもあります。人の役に立っていることを実感することによって、自分の存在価値が満足させられます。
 よく見られることでは、年をとって老年になると「自分は役に立たない。誰も自分を頼りにしてくれない」と、落ち込んでいる姿です。「もう自分は、若くはない。こんな自分は力がなく、価値がない。誰も自分をあてにしてくれない」と力を落としておられます。そんな方でも「まだまだ自分は役に立つのだ」と、自分ができる新しい仕事や役割を見出すことで、元気を復活しています。たとえば、過去に自分が得て来た技術を若い人に教えることとか、あるいは自分でもできる小さな作業とか、あるいは誰かの面倒を見るとか、そんなことを見つけて、頼まれる時には「ああ。自分は役に立っている」と心が満たされるのです。生きることが嬉しくなります。人は誰でも役に立ちたいのです。

必要とされたい

 そこで、人は人生を生きるにあたって、役に立ちたい、つまり人から必要とされたいと望んで、その思いが満たされる場所を求めて生きることになります。ほとんどの人が、愛される場所、受け入れられる場所、認められる場所を探して生きているのです。
 必要とされれば、喜び、必要とされなければ落ち込み、そんな生活の繰り返しが人生です。その思いの目指すところは「偉くなりたい」であり「人の先に立ちたい」ということなのです。誰もこれを否定することはできません。大なり小なり、人は自分の価値を求めて生きているのです。この思いが満たされるかどうかで人生は大きく違ってきます。あなたは役に立っていると感じられれば、勝利感に満たされるでしょう。しかし、役に立つことができていないと感じる時には、大きな敗北感が襲うはずです。
 戦々恐々としているのではないでしょうか。人に対して常に「私はあなたの役に立っていますか?私を愛してくれていますか?」と確認し続けていることではないでしょうか。自分が必要とされていること、自分が愛されていること、このことが完全に満たされることがありません。

仕えられる必要がある

 ところが主は、私たちが役に立とうと必死になることを戒められています。イエス様は「仕えよ。しもべになれ」と言われています。このことは、私たちの心の中にある問題を見透かして、言われていることです。「役に立ちたい。必要とされたい」の究極が「人を支配したい。人の上に立ちたい」なのですが、なぜそれが悪いことなのでしょうか。
 まず認めることです。私たちが必要とされたいと願って、それが完全に満たされて、平安であれたことなど、未だかつて経験はしていない、ということです。完全に偉くなり、完全に人の上に立ち、人を支配することにならない限り、それは満たされることはありません。いや、それでも、そこには平安はないことを私たちは想像することができます。結局、人は孤独であり、自分の存在価値は、人次第、周り次第、ということなのです。自分次第で生きられる能力は、私たちにありません。だから、人は神様に立ち返らなければならないのです。
 主の言われることは「仕えよ。しもべとなれ」ということなのですが、そして、そこに答えがあるのですが、私たちにその能力はありません。あなたは主がされたように、徹底的に人に仕え、人のしもべとして生きることができますか。そのことに喜びとやりがいを持つことができるでしょうか。それが、完全なリーダーシップなのですが、私たちは役に立ちません。必要とされたいと願っていても、必要とされる能力は自分にはないことを認める必要があります。
 そのような私たちに、仕えてくださるために、主は来てくださいました。私たちは主に仕えていただく必要のある者なのです。

必要とされるのでなく 必要とする生き方

 必要とされることを目指し、それを求めていますが「自分は役に立たないのだ。人の必要を満たすことはできないのだ」ということを認めなければなりません。残念なことと聞こえるでしょうか。しかし、罪人であるという自覚は、このようなことを意味しています。だからこそ、まことの救いというものが必要なのでした。認めて、解決がないのではありません。かえって、解決と勝利があるのです。
 世には、偉くなる、人の上に立つ、ということがあります。そして、それは必要なことです。真の意味で、私たちがそのようになるとき、完全に人の役に立つことができていることであり、人の必要を満たすことができていることでしょう。
 しかしそれが、仕えることであり、しもべとなることによってでしか実現できないことなのです。そのためには、私たちには、主の助けが必要です。私たちが真に心を砕くべきことは、「役に立とう」とすることではなく「主に役に立っていただこう」とすることです。つまり、私たちが「必要とされたい」と願うことを捨てて、「主を必要として」生きることです。
 そうすれば、結果として、私たちは役に立つ働きをします。しかし、役に立つことを求めるのではなく、私たちが、ただ主を必要として、生きることです。主が仕えてくださるのです。主に仕えていただく人生を歩まなければなりません。私たちはただの管で良いのです。ただ、主を必要として、必死になります。そうすれば「人から必要とされる人生」を歩むことになります。

16.03.06 祝福されることは約束である

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「ヘブル人への手紙 10:22-23 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

約束の神

 神様は、私たちと契約を結んでくださり、その契約を神様ご自身に誓って果たしてくださるお方です。聖書は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった(ヨハネ 1:12)」と言い、誰でもイエス・キリストを信じた者は、神の子どもであると宣言しています。あなたが、イエス様を信じたなら、神の子どもとされているのです。
 さらに、子どもであるがゆえに、父の財産を相続する者であると言っています。その父の財産とは、神様の祝福のことです。父である神様は、私たち信じる者と契約を結ばれ、信じる者を一方的に祝福されるのです。理由はただ一つ、イエス・キリストを救い主と信じたからです。これが信仰によって祝福されるということです。神様は責任をもって、必ず約束を果たされるお方です。ですから、いつでもどこでも、私たちは言わなければなりません。「私は祝福される」と。

報酬を求める心

 ところが、ある人々はこのことに一向に慣れることができません。「ふさわしい者になろう。そうすれば、祝福される」と考えてしまうのです。「認められよう」「愛されよう」「成長しよう」「良くなろう」とするのです。
 これら自身は良いことなので、しても一向に構いません。しかし、祝福されることとは、全く関係がないことを知らなければなりません。私たちは、神様の約束のゆえに、祝福されるのですから。
 イエス・キリストを信じたら、神様は真実な方ですから、私たちを必ず祝福します。私たちが良い行いをしているからではないのです。それが神様との間に結ばれた契約です。神様は契約をたがえることはありません。
 しかしなのです。私たちの心は「ふさわしいから祝福される」という基準に慣れ親しんでしまっています。働きに応じた報酬によって生きようとしてしまいます。それで、信じて神様の子どもとされていても、祝福を受けるのにふさわしい者となろうとしてしまうのです。
 繰り返しますが、良い人間になって一向に悪いことはありません。ふさわしい人間になろうとすることが悪いことではありません。むしろ良いことです。しかし、祝福されることはそのこととは全く関係なく、約束だから祝福されるのです。
 「今の私じゃダメだ」「こんな私じゃダメだ」と言ってはいませんか。そして、それでも信じてはいますから「もう少し成長すれば、祝福されるだろう」と期待しているのです。本当のところは、今祝福されるにもかかわらずです。全く神様のみこころと反対のことを告白しているのではないでしょうか。

神様は真実

「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのです」。イエス・キリストを信じた者は、すでに、神の子どもとしてふさわしい者となりました。
 私たちは「全き信仰をもって、真心から神に近づ」かなければなりません。「全き信仰をもって」とは、「イエス・キリストを信じたから神の子どもである」と信じてということです。神の子どもであることにふさわしく「動揺しないで」神様に近づくということです。
 私たちは、神様の約束に従って「私は祝福される」「私は祝福されている」と口で言わなければなりません。それが「しっかりと希望を告白」するということです。

16.02.28 主のはかりごと

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「箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」

主のみこころだけがなる

 本日のみことばの意味は、この世に実現していることはみな主のみこころ、すなわち主のご計画の実現であるということです。神様は「みこころによりご計画のままをみな実現される方(エペソ 1:11)」です。人が何をしようと、何を考えようと、結局「主のはかりごと(ご計画)だけが成」っているのだと知らなければなりません。
 このように言われて、残念がる人もいると思います。しかし、主は真実であり、主は完全であられます。現在起こっていることを、揺るぎない確信を持って見られるとしたら、どんなにか平安なことでしょうか。
 考えてみてください。主は常に私たちの味方であり、主は私たちを愛しておられて、私たちに良いことをなしてくださるお方です。そのお方が御自身のお考えを何妨げられることなく、成し遂げられるとしたら、これ以上の頼りがいはありません。もちろん、あなたが神様を信じる人であるならということですが。

「主のはかりごとだけが成る」のは、最高の喜びです。もう悩まなくて良いのです。主の望まれたことだけが、着々と進められて行っているのです。このお方に一生を任せ、付いていくだけです。

主にゆだねよ

 ここで、私たちは、「みこころによりご計画のままをみな実現される方」に対してどのような態度を取るべきなのでしょうか。ともすれば「結局、どのように考えても、どうしようもないのだ」開き直ることになりがちかもしれません。私たちが考えたり、計画したり、希望を持つことを、主は良しとされないということなのでしょうか。
 聖書は他の箇所では「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(箴言 16:3)」と言います。
 私たちの人生には実際いろんなことが起こります。それは望み通りになされることであったり、望まない方向のことであったりです。そういう中で、神様は私たちに対して「主にゆだねよ」と命じられています。私たちの考えを「主に明け渡す」ということです。
 このみことばを見れば、私たちが何も考えない、何もしない、ということではないと教えられます。明け渡すためには、一旦私たちが自分というものを持たなければなりません。そして、持っているものを、神様に差し出すということになります。具体的に言えば、希望を持ち、自分の考えを持ち、計画を持つ、そしてそれを主に差し出すということです。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」ということです。
 そして次が理解されるべきことです。「そうすれば、あなたの計画はゆるがない」のです。いかがでしょうか。主のはかりごとが、どこにあるかわかりましたね。主はあなたに対して、「主に明け渡させよう」としておられるのです。いろいろな出来事が、起こりますが、結局私たちの人生は、この「はかりごと」に集約されていくのです。

舌に答え

 そして、さらに主は私たちに働かれます。「多くの計画」を持つ私たちに対して、これを明け渡させ、ゆるがなくさせる(実現させる)主は、さらに、「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる(箴言 16:1)」というのです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです(マタイ 12:34)」と言われました。私たちが口に出してしまうことは、結局私たちの心で考えていることです。
 神様は、私たちが計画を持つことを、許しておられます。いえ、むしろ奨めておられます。そこにある「主のはかりごと」はひとつが「明け渡させること」であり、もうひとつが「告白させる」ことです。

「舌に答えを下さる」とは、私たちの計画が実現するかしないかは、私たちが口で何を言っているかでわかるということです。それが「主の答え」なのです。
 「告白する」ということは「告白できる」ということです。おわかりでしょうか。もしかして「口で言うくらいはなんだって言える」と思ってはいませんか。はたしてそうでしょうか。あなたの抱えている問題は「言えない」ということではありませんか。「私は祝福されている」「私は愛されている」「私は赦されている」と涼しい顔をして言えますか。そんな気分じゃないというのではありませんか。
 しかし、この告白は、主が私たちに対して、宣言しておられることであり、約束しておられることです。結局、告白できるということは、自分の思いや感じがどうであれ、主の言われることに賛同し、受け入れることに他なりません。この信仰がなければ、いつまでたっても、自分の感じに頼ることになり、その気にならなければ、何も言えないでしょう。
 その気になれば言えるので、その気(やる気)を求めて必死になります。しかし、たとえそれができるようになったとしても、強くなれたとしても、その感じは砂地であり、その上に建てた家(人生)はひどい倒れ方をしてしまうのです(マタイ 7:24−27)。大切なことは、私たちの人生は、岩(みことば)の上に建てなければなりません。「その気になったらできる」という考えを捨てなければなりません。「その気にならなくても、主が言われるからする」のです。これが、積極的な信仰の生き方です。

積極的な生き方とは

 あなたはおそらく、そのうちにやる気のある人になって、それから何事でも成し遂げて行かれるようになりたい、と思っているかもしれません。そのために主の励ましを受けたいと願っておられるのでしょう。
 主のお考え(はかりごと)はそうではありません。あなたの「舌に答え」を与えたいのです。つまり、あなたが、自分の感じに頼ることなく、主の言われることに賛同することを求めておられます。
 主が言われるのは「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ 1:37)。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます(マタイ 19:26)。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ 4:13)」です。あなたはこのみことばに賛同するでしょうか。おそらくするでしょう。では、その気がなくても、言えるでしょうか。段々言えなくなりませんか。それは、先にあげたみことばなど「私は祝福されている。愛されている。赦されている。私は人を愛する。赦す。私は主に明け渡す。服従する。私は主の思い通りに生きる」等々、に積極的な賛同を持っていないからではありませんか。
 みことばに全面的に賛同するなら、その気がなくても、告白することです。「その気がなくても言う」「その気がなくてもする」、これが信仰です。そうであれば、あなたの口には、あなたの計画に対する積極的な告白がのぼります。ゆるがない積極性とは、主に対する服従のことです。努力ではありません。

16.02.21 どこにでもついていきます

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「創世記 12:1-4 その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。」

信仰によって

 神様はアブラム(後のアブラハム)を選んで「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」という約束を、神様はアブラハムに誓われたのです。

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。アブラハムは、主のことばを信じて、導かれるまま、今までの生活や故郷を捨てて、立ち上がって主の言われるとおりに旅立って行きました。実にアブラハムが、75歳の時でした。どこに行くのか、何のために行くのか、全くわからないまま、彼は主に信頼して出かけたのです。ただ「主が言われた」ということだけが、彼の決断の根拠でした。アブラハムは信仰によって、神様のみことばに従ったのです。

信仰とは

 信仰とは神様の言われることに同意をし、受け入れることに他なりません。私たちは「イエスを主として受け入れよ」と命じられています。「そうすればアブラハムの受ける報いを受ける」と約束されています。
 つまり「イエスを主とする」というみことばを受け入れることは「主であるイエスに従う」という決意をすることに他なりません。ですから、信じるとは主に自分の人生を明け渡すことです。これが祝福されるのです。
 そして「主を受け入れ、明け渡すこと」は主の言われるとおりに生きることです。この生き方を一生続けられることを、神様に感謝しましょう。なんと胸躍る人生の待ち受けていることでしょうか。「義人は信仰によって生きる(ローマ 1:17)」のです。神様の言われるとおりに生きられる、また生きていけば良い、のです。

行け

 さて、神様はアブラハムに対して「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられました。このような命令に対して、私たちは主が背後から、あるいは上から、あれこれと指図するイメージを持ちがちではないでしょうか。まるで、主の指図によって、将棋の駒のように動かされているイメージです。
 ここで考えてみなければならないことは、主は全世界すべてにおいて、主権をもって、働かれているということです。主にはお考えがあり、ご計画がおありです。主が「行け」と言われるとき、その示される先には、主のなさりたいことが待ち受けており、主の支配がすでにそこにあることは、明白なことです。
 アブラハムの場合は、アブラハムに多くの子孫を与え、その子孫に救い主イエス・キリストを生まれさせ、信仰によって全世界の信じる者を救おうとする神様のご計画があったことです。アブラハムはそのために用いられたのでした。
 しかし、その全容がアブラハムに説明され、アブラハムが納得して旅立ったことではありませんでした。なぜなら、信仰によって祝福を受けることが、必要であったからです。イエス・キリストを信じることは、アブラハムと同じように、信仰によって主のみこころを受け入れることです。
 私たちは、主のみこころの中で動かされることですが、主が命令されるとき、その御命令に従うことは、当然そのみこころの中に生きることです。そして、その示される先(場所、あるいは将来)にはすでに主のご支配があるのです。つまり、主はその道を開いてくださっていることであり、先に立って道を整えていてくださっていることです。
 ですから、「行け」と言われることは、主がその目的地に立って「来い」と招いてくださっていることなのです。なんと心踊る頼もしい命令ではないでしょうか。すでに主によって道が切り開かれたその先の地(将来)から、主が招いてくださっているのです。 
 信仰とは、この主の招きに対して、ついていく決意のことです。ですから、主を信じるなら「わたしはあなたの行く所どこにでも、ついていきます」と告白することです。主が先頭に立って、道を進んでいてくださいます。私たちはその後を離れないでついていくのです。

みこころの中で生きる

 ところで、アブラハムは主について行き、主のみこころの中で生きました。しかし、その人生の中では、みこころから外れて生きてしまうということも幾度かありました。例えば、約束の地に着いた後、ききんがあり、そのときに彼は自分の判断で、エジプトに逃れました。
 このことで、アブラハムと妻サラは、窮地に陥る危険に出会わなければなりませんでした。主の憐れみによって、この難を逃れることができましたが、私たちはいつも主のみこころの中で生きることをしていかなければなりません。
 それは、「主の行かれる所どこにでもついて行く」ということです。ですから常に「主よ。私はあなたの行く所どこにでもついていきます」という信仰の告白をし続けなければなりません。

16.02.14 信じていることの証明 告白

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「ローマ人への手紙 10:9-11 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」

信じて救われる

私たちが救われるのは、信仰によってであると、何度も確認をしてきました。イエス・キリストが主であることを心に受け入れることで、私たちは救われるのです。行いが認められるからではありません。
 神様は、私たちに対し、認められるような良い者ではない、という自分の事実に気がつくこと、を求めておられます。つまり、私たちが自分の罪を認めるということです。しかし、通常このことは、難しいことではありませんでしょうか。
 信じるということには、自分の罪を認めるということが含まれています。ただ漫然と、神様のことを認めます、というような思いではありません。自分の罪の現状を知り、このような自分を救おうとしている神の愛を知り、そのために神が払ってくださった犠牲(御子の十字架の死と復活)を知って、これら全てを受け入れることを意味するわけです。

告白して救われる

 本日の聖書箇所を見ると、信じて救われる、というだけでなく、口で告白して救われる、と言います。信じること、つまり心に受け入れることだけではダメで、さらには告白という段階まで進まなければならないかのようにも感じます。どのように理解するべきでしょうか。
 普通のコミュニケーションにおいては、心に思うだけで人に伝わる、ということはないでしょう。必ず口に出して相手に伝えなければ、伝えることはできません。相手は、私たちが話した内容を理解し、私たち自身も自分が確実に伝えたことを確認できます。神様は私たちが口に出して伝えることを求めてくださっているのです。
 もちろん、神様は私たちが口に出さなくても、私たちの心の中はご存知です。しかし、心の中を外に意思表示することによって、事実として公に明確になります。告白しているなら、心の中でも確実に信じているのだ、とわかるわけです。ですから、信じることと告白することは、同じこととして扱われるのです。私たちは信じたことを、口で告白しなければなりません。

告白というハードル

 神様は、私たちの前に、いわば告白というハードルを置いてくださいました。もし、信じてはいるけれど、告白することができない、というような場合があるとしたら、おそらくそこには問題のあることです。思ってはいるけれど言えない、としたら何か隠れている霊的な問題がある、と考えても良さそうです。ですから、言えるということは、何も問題がないということを明らかにすることであるわけです。
 告白するということで、信じている思いの中に含まれている、曖昧さを取り除くことができます。たとえば、信じることは明け渡すという意味ですから、そこで、信じて主のものとなるという決意には責任が伴うと考え、躊躇する人も出て来ます。信じても告白はしたくないというようなことです。しかし実際には、主を信じることには何の義務も課されません。ただ恵みによって今の苦しみから救い出されるだけです。
 信じますと心では思いながら、告白を躊躇する人には、主の約束に対して、疑いがあることが明らかです。信じたら、苦しむことが待ち受けていると思っているのです。
 もし、「信じます」と心の中で思うだけならば、このような責任を恐れたり、苦しみに遭うことを恐れたりする、神に対する疑いのあることには気づかないでしょう。
 さらには、信じたことを告白する段になって、躊躇する思いを持ってしまう理由に、「本気じゃないから、嘘になる」というのもあります。実際には、本気かどうかのテストなどないにもかかわらずです。しかも、救われたくて信じたいと思っているにもかかわらず、告白となると問題にするようになるわけです。このような思いもまた、告白を要求されることによって、明らかになります。
 このようにハードルを置かれることによって、つまり信じたことを告白せよと要求されることによって、私たちの気付かないことが、明らかにされるのです。
 もし、告白できなければ、あるいは、告白に喜びがなければ、私たちは何者かに騙されているのです。信じていることが、一方的な恵みであって、喜びであるにもかかわらず、そう理解することが止められていることになります。
 告白とは「騙されないぞ」という敵に対する宣言であるのです。

告白が振り切る

 告白をするためには、振り切らなければならないものがあることがわかります。もし、告白をしないで、信じた気持ちになっていたら、依然として、心の中には振り切ることができていないで、残っているものがあるのです。
 引き止める自分の心の中の思いに騙されないで、躊躇する思いを振り切って告白しましょう。「信じます。」「明け渡します。」「献身します。」と。疑いがあると思っても、本気じゃないと思っても、騙されないで、信じたことを告白することです。みことばは、それだけで救われると約束しているのですから。
 私たちは自分に拠り所を求めるのではなく、神様に拠り所を求めます。神様が、告白すれば救われると言われているのですから、そうすれば良いのです。信仰はいつも、告白によって確かなものとなります。信じたことをいつも告白し続けましょう。

16.02.07 なさりたいことをなさってください

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「詩篇 40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

みこころとは

 みこころとは、主のお考え、主の思い、主のご計画、であり主がなさりたいことです。主のみこころ一つで、すべてのことが実現しています。みこころは必ず実現することですし、みこころによらないで起こっていることは一つもありません。
 聖書は、自然や天体における、そのいとなみや運行は、主のみこころによってなされていると教えます。さらには、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る(箴言 19:21)」とさえはっきりと言っています。みこころによってすべてが決まるのです。
 らい病人は「お心一つで、私はきよくしていただけます(マルコ 1:40)」とイエス様の前に進み出ました。主の答えは「わたしの心だ。きよくなれ(41)」でした。さわっていやしてくださったのです。お心一つで、すべてが決まるのであるという、らい病人の信仰に、主は答えられました。
 私たちの人生に主のみこころがなされることが、私たちの祝福です。また、ダビデが告白するように、「みこころを行なうこと」が私たちの喜びです。神様に賛成することであり、必ず実現することであるからです。私たちは常に、主のみこころを、求める者でなければなりません。

主権 愛 善

 神様はどういうお方であるかというと、神様は不可能のない方です。神様のみこころは必ずその通りになります。誰も邪魔をすることができません。たとえ悪魔であっても、神様には敵対できないのです。神様はしたいことがおできになる方です。今現在、神様のご存知ないところで、起こっていることは一つもありません。神様のしたいことがなされているのです。
 そして、神様のご性質は愛です。「神は愛です(Ⅰヨハネ 4:16)」。私たちは、愛である神様から遠く離れていました。しかし、イエス・キリストを信じて、神様のご愛が届くようになりました。神様は天地創造の前から、私たちを愛してくださっていましたが、今、その神様のご愛が私たちに具体的に届くようになり、私たちは主のご愛に抱きしめられて生きる者となったのです。神様のお働きは、私たちを愛して行われていることです。
 さらには、神様のご性質は「善」つまり「良いお方」です。神様は、間違えることや悪意のあることを行なうことは、全くできないお方です。神様のなさることは、いつも、良いことです。

主のみこころは、私に最善をなすこと

 ですから、神様が私たちにしてくださることは、常に良いことです。しかも、神様は完全であられますから、それは、少し良いこと、その次に良いことではなく、主のなされる良いことは、いつも最高のものです。 私たちの理解は、次のようなことです。「神様は、主権をもって働いておられ、神様の働きを妨げるものは何もない。神様はご自分の思う通りのことがおできになる。神様は私を愛してくださっている。神様のなさることは、常に私を愛してのことだ。そして、神様は善なるお方であり、間違いや悪は決してなされることはない。だから、私は安心していられる」というものです。
 そこで、私たちは、はっきりと悟ることができます。神様が私に対してしてくださっていることは「最善」であるのです。一番良いことが、私たちの人生に起こっています。

したいことをしてください

 「みこころをなさってください」ということが、神様に対する信頼の姿勢です。それゆえに、私たちは告白しなければなりません。「神様。どうか、私の人生に、あなたのしたいことをしてください」と。もしこの告白にためらいがあるなら、あなたの信じている神様は、違う神様ということになります。あなたを苦しめたり、不幸にしたり、良くないことを行なう可能性があるなら、それは神様ではなく悪魔です。ですから、それらを振り切って、まことの神様に、告白します。「神様のしたいことを、私の人生にしてください」と。
 「神様のなさりたいこと」は、「私たちの人生に最善を行なうこと」なのです。

16.01.31 神の知識

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「ホセア 4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」

知識がないので滅ぼされる

 神様はイスラエルの祭司と民に対して、「知識がないので滅ぼされる」と言われました。イスラエルは滅んでいくのだ、という警告なのです。イスラエルが滅ぶという結果の原因は「知識がない」ということなのです。
 知識とは神様のみことばであり、神様の戒めや、警告、奨め、教えのことです。イスラエルは、確かにそれを聞いていました。しかし、そのみことばを、ある時は無視し、ある時は忘れました。その結果、イスラエルは外敵に攻められ、国そのものが滅んでいくということになるのです。
 神様の知識さえあれば、民と国家は滅びることはなかったのです。彼らには、希望を持つという知識がありませんでした。栄えるという知識がありませんでした。一致するという知識がありませんでした。そつなく守るという知識がありませんでした。将来を予測し、備えるという知識がありませんでした。すべて、教えられていたのにです。
 どんなに大きな組織でも、どんなに強力な国家でも、どんなに栄えている人々でも、その崩壊の始まりは、無気力であったり、内紛であったり、逃げ腰であったり、することから始まります。人には今この瞬間、神様の与えてくださる、希望に燃える、前を向く、知識が必要なのです。

知識があるとは

 イスラエルの民は、神様のことばを聞いており、知っておりました。だけど「知識がない」と言われています。知ってはいても、無視したり、忘れたりしたなら、それは知識がないのと同じことです。
 例えば、自動車の走行中に、ハンドルを右に回せば、自動車は右に動いて行きます。しかし、それを無視したら、あるいは忘れていたら、知らなかったのと同じことです。その知識自体に賛同し服従していてはじめて「知識がある」と言えます。従ったら、つまり知っているということです。
 神様のみことばを、たくさん聞かされ、教えられます。ところが、わかったつもりになって、無視したり、忘れているなら、知らないということです。「そんなことわかっている。もう聞きたくない」というのは知識がないということです。あるいは、賛同しているつもりであっても、時々思い出すなら、知識がない、知らないということなのです。
 あなたの心を、無気力や不安や恐れ心配が襲っていないでしょうか。これらは、滅び(あるいはその兆候)です。原因は知っていると言いながら、神の知識がないからです。

悪魔の知識がある

 「神様の知識がない」ということを考えてみましょう。それは逆に言うと悪魔の知識がある、ということになります。
 たとえば「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。(イザヤ 41:10)」と主は言われます。イエス・キリストを信じるなら、神様はともにいてくださる、というのが私たちの知識です。このことを事実として知っているなら、不可能のない神様とともに歩むことができること、自分の人生には不可能がないこと、神様を恐れる思いがわき上がること、を味わいつつ生きることになります。そこには、敗北はありません。たとえ自分にやる気がなくても、そのことには影響されません。信仰は無くならないことです。
 しかし「神様を感じることができないので、神様とともに歩むことなんか、信じられない」というなら希望も確信もまったく生まれてはこないでしょう。神様に対する恐れもなく、自分のしたい放題の生活をしてしまうことになるでしょう。そういったことが滅びということです。「神様がともにいる」とはわかっていると言いながら、実はまったく知らないことなのです。「神様がともになんかいない」という悪魔の知識が支配していることです。
 みことばに反するあらゆる考えは、悪魔の知識です。こう考えてみると「自分はいかに悪魔の知識が豊富で、長けていることか」と考えさせられます。みことばの知識だけが、事実であり、悪魔の知識は事実ではない、虚偽であると知りましょう。

知っているのです

 「知っている」という事実が、私たちを滅びの状態から救い出します。聖書は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ 8:28)」と言い、神様が最善をなさってくださっていることを「知っている」のだと言っています。クリスチャンは、現状を見て、神様が最善をなさってくださっていることを「知っている」のです。最善に導かれているのだ、という知識があって生きているなら、気落ちしたり、恐れたり、あわてたり、という滅びの状態にはならないのです。

16.01.24 人を祝福しよう

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「創世記 12:1-3 主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」

アブラハムに対する約束

主はアブラハムに対して、「示す地へ行きなさい」と命じられました。そうすれば「あなたを祝福」すると約束されたのでした。アブラハムは主の命令に従い、示されるまま約束の地に行きました。
アブラハムの一生は、あらゆる点で祝福されたものとなりました。安全が守られました。危険やわずらいが迫って来ても、決してそれで倒れることはありませんでした。妻のサラや甥のロトが危険な状態になることがありましたが、主はこれを不思議な方法で守られました。
家族に恵まれました。年老いても子どもがありませんでしたが、100歳でイサクが与えられ、その子孫はイスラエル国家となりました。
経済において恵まれました。何も持たない者でしたが、多くの家畜や財産が与えられました。主が危険な出来事、トラブルを通して働かれ、その都度、指導者や周りの人々を動かし、アブラハムに富をお与えになりました。
健康に恵まれ、長寿を得ました。175歳という恵まれた人生を送ったのです。アブラハムは、神様がこのように人を祝福するのだという象徴的な存在です。

祝福の名

主は「あなたの名は祝福となる」と約束されました。アブラハムの名をいただく者、それはアブラハムの子孫です。「私たちの先祖はアブラハムである」というのがイスラエル民族の誇りでした。子孫であるがゆえに、自分たちは祝福されると自負したからです。
しかし、聖書が教えるところは、行いではなく、アブラハムが信仰によって神様に受け入れられたのであるから、血縁関係にある者ではなく、信仰による者が真実の子孫であるということです。イエスの名を信じ、イエスが自分の救い主であることを信じる者が、真実のアブラハムの子孫であるのです。
私たちが、イエス・キリストを信じるなら、私たちはアブラハムの子孫であり、祝福の名をいただいているのです。私たちは祝福されます。主がそう言われているのです。

アブラハムを祝福する者が祝福される

さらに主は「あなたを祝福する者をわたしは祝福」すると言われました。それが「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という壮大な約束なのです。世界中の誰であっても、アブラハムを認め、アブラハムを祝福するなら、必ず祝福されるのです。神様がその人を祝福してくださるのです。
しかし、もし呪うなら「あなたをのろう者をわたしはのろう」と主が言われているとおり、呪われてしまいます。神様が呪うということです。このことは、神様はアブラハムに対して、「あなたが人を呪うことがあってはならない。わたしがするから」と言われていることなのです。
アブラハムが、祝福の名であり、アブラハムから全人類に祝福が注がれます。決して、アブラハムのさじ加減によって、祝福されたり、呪われたりすることではありません。あくまでも、神様が約束したとおり、アブラハムを通して神様が人を祝福されるのです。

呪うことをやめる

あなたが人を祝福するなら、あなたは祝福されます。アブラハムが与えられたような祝福の人生があなたに与えられます。あなたは、あらゆる分野で健やかで豊かな人生を歩むことになります。
一方、あなたが人を呪うなら、あなたは呪われてしまいます。呪いとは、簡単に言えば、祝福のない、祝福を逃している状態のことです。「祝福されるのが当たり前なのに、祝福されているとは言えない」と感じるならば、原因は簡単、あなたが人を呪っているからです。「呪った覚えがない」というかもしれません。しかし、呪いが祝福の反対ならば「祝福しなければ呪っていることと同じだ」ということがわかると思います。
積極的に呪えばもちろん、また、何も思っていないということであっても、どちらも呪いですから、それをやめなければなりません。つまり人を見たら、人のことを考えたら、すぐに祝福することです。

16.01.17 神によって生まれたのだ

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「ヨハネの福音書 3:3 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

新しく生まれる必要がある

 ニコデモという人が、イエス様のもとを訪ねました。彼は、イエス様に反対する指導者グループの一員でした。しかし、イエス様に、惹かれる思いがあり、求める気持ちがあったのでしょう。
 掲題のみことばは、ニコデモのあいさつに答えて、イエス様がとうとつに言われたことです。ニコデモの問題に、いきなり、直接触れてくださいました。
 「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」というのは、人が神様とつながるためには、新しく生まれるということをしなければならない、ということです。ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか(3:4)」と言います。主の言われる意味が、全くわからなかったのです。

もう一度生まれる

 人は、母から生まれてきます。しかし、生まれながらの人は、罪人です。ですから、神様から遠く離れており、滅んでいくしかない、という存在であるのです。救われない存在です。この世に生を受けて、生まれてきたままでは、全く神様のみこころにそうことはできません。
 このことは「原罪」と言い、ここでは詳しく述べる紙面の余裕がありませんが、とにかく人は正しくないのです。罪人として生まれてくるので、心や思いに罪が染み込んでいる者であるわけです。
 このような罪人が、救われて「神の国」に入る、すなわち神様に受け入れられるためには、もう一度生まれる(新しく生まれる)必要がある、と主が言われているのです。

水と御霊によって

 さて、ニコデモも思ったことですが「どのようにして」生まれることができるのでしょうか。主は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません(3:5)」と言われています。水は洗礼のことと解釈することができます。御霊によるとは、神様の側でしてくださることであり、風のことが私たちにわからないように、新しく生まれることについても、人にはわからないことだ、と主はニコデモに教えられました(3:8)。
 さらには、「水と御霊によって生まれる」とは、「イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって」、霊的な事実として、新しく生まれるのだ、と教えられました(3:14−16)。

一度目の誕生の意味

 一度目の誕生をした人は(生まれてきた人は)、滅んでいく存在だとすれば、生まれてこなければ良かったではないか、と思うかもしれません。生まれてくる意味があるのでしょうか。
 人の存在は、生まれてくる前から、始まっています。そして、罪人なのです。救われません。では、なぜそのような者が生まれてくることを神様は望まれるのでしょうか。
 人が生まれてくる目的は、イエス・キリストに出会うためです。出会って、主の十字架が自分の罪の贖いのためであることを信じ、救われるためであるのです。つまり、水と御霊によって新しく生まれるために、人は生まれてきます。もう一度生まれるために、生まれてくるのです。
 誰でも、もう一度生まれなければなりません。そのために、生まれてきたのですから。

神によって新しく生まれたのだ

 あなたは、イエス・キリストを信じたでしょうか。そうであれば、確かに、新しく生まれたのです。主は、人は「肉」によって生まれたなら、肉のままであるが、御霊によって生まれたならば、「霊」であると教えています(3:6)。
 私たちは肉のままの者でありましたが、神様によって新しく生まれて「霊」となりました。わかりやすく言えば、私たちの「霊」は死んでいたのですが、主を信じたときに生きたのです。
 私たちの新しく生まれた「霊」は、神様とのつながりを持っているのです。たしかに「私は神様によって生まれたのだ」と自覚することです。生まれた自覚なしに「お父さん」とは呼べませんし、子どもとして、ともに歩むこともできません。さあ、「私は神によって生まれたのだ」と言いましょう。

16.01.10 すがることができる

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「申命記 30:19-20 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

近くにあるみことば

 モーセは最期を迎えて、民に「あなたの神、主の御声に従いなさい」と命じました。みことばに従えば、あなた方は栄えさせられ、祝福される、からであると強く熱く伝えました。 そして、主の御声は遠くにあるのではなく、近くにあるのだから、この命令は「あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない(同:11)」と言います。天にあるのでもなく、海のかなたにあるのでもなく「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる(14)」のだということです。
 神様のみことばは、信じる者のごく近くに置かれています。ですから、簡単にわかることであり、誰の目(耳)にも明らかなことです。よく「主の御心がわからない」と言うのを耳にすることがありますが、実際はわからないのではなく、従いたくない、ということなのです。「従う」ことの祝福と魅力を覚えたいと思います。

目の前に置かれた選択

 そして、モーセは「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く(15)」と言いました。それは「私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである(16)」ということなのです。
 神様を信じる者に、一旦、神様のみことばが示されれば、そこにはその命令を選ぶか、無視するかの選択が生じます。モーセによって、神様の命令を聞いた民には、そのときから、この命令に従うか、従わないかのいずれかの反応が自動的に生じるわけです。 私たちイエス・キリストを信じる者には、常にみことばが示されており、それに心を止めるか、無視するかの責任が生じているのです。みことばは近くにあり、わからないわけではありません。あとは、それに従うか、従わないか、の姿勢が自動的に生じて来るのです。
 御心をわかろうとして、もがくことが良いことではなく、むしろ「従いたい」という思いを強くすることが、重要なことです。自分の問題は「御心を行うことが大好きではないこと」なのですから。御心を行うことは「いのち」であり「祝福」であるのです。

すがることができる

 「あなたはいのちを選びなさい」とすすめられています。その理由として「主にすがるためだ」と述べられています。主は、私たちの助け主です。私たちは主に助けられて生きることが許されました。この良き知らせを心から主に感謝します。信じることは「明け渡す」ことであり、主に服従して生きることです。そのことはつまり、四六時中、主とともに生きるという意味です。主とともに起き、主とともに働き、勉強し、主とともに考え、感じることです。私たちは主の助けがなければ、何一つできない者であることを知らなければなりません(ヨハネ 15:5)。私たちは主に従うことができるでしょうか。みことばは知らされています。御心はわかります。しかし、残念なことに、主の言われることに素直に従い通すことができません。
 「主にすがることができる」ことは、とてつもない大きな恵みです。しかし私たちは、主に従っていて、主の御心を果たしている、その上で主にすがることができると考えがちです。そこで、いつもは主に従う努力をすることに一生懸命で、主にすがることの出番は、多くはありません。
 しかしながら、本当に主にすがる必要があるのは、弱さの中であり、罪の中ではないでしょうか。この罪の中で、主の助けが必要です。この弱さの中で、主に助けられて、従わせていただく必要があります。

罪の世に来てくださった主

 主は、罪人の中まで降りてきて下ったお方です。私たちは、罪の中にも弱さの中にも、いつもいつも、主とともに生きなければなりません。主は、私たちがすがるために、来てくださった助け主なのです。

16.01.03 2016感謝 福音を恥とはしない

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「ローマ人への手紙 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 新年明けまして、主にあって、おめでとうございます。新しい年が始まりました。いかがお迎えのことでしょうか。毎年、喜びのうちに過ごし、喜びのうちに新年を迎えることができますこと、心から主に感謝します。全ては主からの恵みです。
 苦しかったことを振り返っておられる方もいるかもしれません。しかしながら、そのようなことも、私たちが新しい段階へ踏み上がるステップとして、主が差し出して下さった恵みです。私自身は「あの出来事によって自分は祈らされた。あの出来事によって、忍耐を、愛することを学んだ。あの出来事によって、主に信頼すれば良いのだ、と学ばされた」ということが多いです。「詩篇 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
神様は「すべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ 8:28)」お方です。今年も主をほめたたえることを第一としていきたいものです。

福音を恥とはしない

 さて、今年のテーマは「福音を恥とはしない」です。今年も強く祈らされ「私は福音を恥とは思いません」の、みことばが与えられました。
 私たちの日頃の生活で、クリスチャンとして、気後れしたり、熱くなっていなかったり、心配したりと、そのような思いが少しでもよぎっているなら「おかしいではないか」と語られたことがきっかけで、祈り出しました。
 私たちが「私たちは、世の人(他の人々)とは違うのだ」と思うのは、ある意味、間違いではないことです。救われており、天国が約束されています。また、毎日の生活は、神である主とともにあり、助けられつつ生きています。確かに主の御霊に導かれて生きている私たちと、他の何かに導かれている世の人々とは、その点で違います。
 しかしその違いが、「世の人々には理解されにくいこと」と少しでも感じているなら、そこに気後れの思いが生じては来ないか、ということなのです。あるいは、世の人々に「あなた方は私たちとは違う(あこがれの意味でなく)」と感じさせているのなら、私たちの「卑屈」に起因することではないか、ということなのです。
 もっと、シンプルに言うなら、私たちの思いや行動に「恥」が潜んでいるのではないか、とへりくだって点検することも必要だと、語られているのです。「第二コリント 13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。ーーあなたがたがそれに不適格であれば別です。ーー」
 福音とは、この世に向けての「事実である良い知らせ」のことです。「もっと当たり前のように」とか「顔色をうかがわないで」とかの、主からの注文があるのではないでしょうか。それが「福音を恥とはしないように」という意味です。

救いを得させる神の力

 聖書は「福音は・・・救いを得させる神の力」であると言います。ある人が救われるとは、その人がイエス・キリストを信じて、その支配を受け入れる、ということです。ですから「救いを得させる神の力」とは、人に「イエス・キリストを受け取らせる力」という意味になるでしょう。
 どのようにして、神様は人々にイエス・キリストを受け取らせるのでしょう。イエス様は「福音を宣べ伝えなさい(マルコ 16:15)」と命令されました。そして「信じる人々にはしるしが伴う(マルコ 16:17)」と言われました。そこで、弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えました。そのとき主は彼らとともに働かれたのです(マルコ 16:20)
 パウロもまた「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした(第一コリント 2:4)」と言っています。
 人が救われるのは、神様の働きがそこにあってこそなのです。私たちが用いられ、動かされることもそうです。もし「恥」の思いが、気がつかないにしろ、潜んでいるなら、救いの働きを妨げていることにはならないでしょうか。

福音自身にこの力がある

「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる(ローマ 1:17)」のです。つまり、私たちが宣べ伝える福音には「救いを得させる神の力」が含まれています。
 人が福音を聞き、その福音がその人のうちで働き、飢え渇きと悔い改めが起こされ、イエス・キリストを求めるようになるのです。これは主の働きです。ある人は癒され、ある人は解放され、ある人は目が開かれるのです。ですから、福音を伝えなくては、何事も始まらないことです。
 人々は、イエス・キリストを知りません。受け入れるかどうかはまだわかりません。しかし、私たちが福音を宣べ伝えるその先に「救いを得させる神の力」の現われが待っているのです。私たちはそのストーリを知っているので、何臆することなく、当たり前のように福音の事実を宣べ伝え、その事実の中に生きるのです。
 少しでも「恥」が潜んでいるなら、当たり前の生活にはなりません。「福音を恥とはしない」楽しい年を送ってまいりましょう。

2019年 テーマ
「イエスだけ」

マルコ 9:8
自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。