21.09.26 救いの喜び

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「Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」

喜びがほしい

 秋も少しずつ深まり、お店にもりんごや栗が並ぶようになりました。先日、私の栗好きを知ってくださる方から、栗蒸し羊羹や栗きんとんをいただくことがあり、秋の味覚の美味しさもさることながら、そのお気持ちをとてもうれしく感じました。
 私たちはうれしいことがあると喜びます。プレゼントをもらったとき、試験に合格したとき、大好きな家族や友達と過ごす時、おこづかいをもらった時、ほめられた時、部活の試合に勝った時、仕事が成功した時、子どもの成長を見る時など、良いことがあると喜びます。人の生活はそれぞれですが、どんな人も喜びを求めて生きています。苦しみやつまらないことを求めたりはしません。できるだけ良い収入を得て、必要なものを買ったり、趣味や旅行を楽しんだりするために、一生懸命働いています。できるだけ楽しく喜んで生活したいと思います。しかし日常生活はうれしいことばかりではありません。平穏に生活していても、急に収入が減るとか、健康を害するとか、職場や家庭の人間関係がうまくいかなくなるとか、何かアクシデントや心配事が起きると、喜びはとたんに失せてしまいます。ずっと平安で喜んで生活できたらいいのにと、多くの人は願うのではないでしょうか。

救いの喜び

 私たちはイエス・キリストを信じて救われました。救われた時、これからは一人ではなく神様と一緒に生きていくことができるのだ、と喜びに満たされました。救われて心が健やかでいられるようになりました。たとえば職場や学校で嫌なことを言ってくる人がいたら、普通はその人を敬遠したり憎んだりするでしょう。しかし救われている人は、なんとかして愛そうとします。それは、信じる人のうちに住んでくださっている聖霊が、心の奥底に「自分の敵を愛しなさい(ルカ6:35)」とみこころを語られるからです。しかし「敵を愛する」ということは、救われていなければ思いもよらないことです。なぜこれが喜びなのでしょうか。
 人を憎むということは、人を傷つける以上に自分を苦しめることになります。私は救われる前、長い間周りの人を憎んで生きていました。人を憎むと、人も自分を嫌がっているのではと疑うようになり、人に対して心を開かなくなり孤独になっていきます。人と交わりをすることがあっても、心から楽しむことができません。自分のことばかり考えているので、家族も崩壊しそうになり、その苦しみの中で救われました。救われて憎しみから解放されたことが大きな喜びです。神様の「自分の敵を愛しなさい」という命令は、私たちを人を憎むことから守ることになるのです。私は教会に来るようになって、くったくなく楽しく交わりができるようになりました。人を憎む暗闇の生活から、愛して生きようとする光の生活に変えられたことが救いの喜びです。

救いの喜びを知らない

 ところで、一度救われたら、その救いはずっと続きます。私たちがはっきりと神様を拒まない限り、その救いが取り消されることはありません。ですから救いの喜びは決して失くなることはありません。もし救われているのにもかかわらず、喜びがないと言うならば、それは救われた時に、救いのすばらしさを理解していなかったからです。神様からすばらしいプレゼントをもらったのに、それがどんなに価値あるものかということをわかっていなかったということです。たとえば、お札には価値がありますが、小さな子どもに札束を持たせても喜びません。それはその価値を知らないからです。救いがどんなにすばらしく、価値があるものかを知らなければ、せっかくもらった札束を、それを使って楽しんだり、役立てたりすることをしないで、引き出しの奥底にしまって、忘れてしまっているようなものです。

救いのすばらしさ

 神様がくださった救いは、私たちの理解をはるかに超えてすばらしい価値あるものです。「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった』(Ⅰコリント2:9)」。まず、このような罪に汚れた者のために、主が身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、その罪が一つ残らず赦されたということが驚くべき恵みです。それだけではなく、信じる者一人一人のうちに聖霊が住んでおられること、そして信じる者に永遠のいのちが約束されていることは驚くべき恵みです。
 聖霊は、私たちを罪の誘惑から守り、正しい道へ導いてくださいます。また永遠のいのちは死の問題を完全に解決します。世の人々は、死に対する閉塞感の中で生きています。しかし救われた者にとっての死は、天国に入れられ神様とともに永遠に生きることを意味します。ですから、たとえ歳を重ねても、病にかかるときも、恐れることがありません。永遠のいのちはどんなに大きな富ともくらべものにならないほどのすばらしい救いの恵みです。
 人生にはさまざまなできごとが起こりますが。救われた者はどんなときにも、神様がくださった救いの喜びの中で、希望を失うことなく勝利して生きることができるのです。(鈴木千史)

21.09.19 人を偏り見てはならない

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「箴言28:21 人を偏り見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。」

芸能人のイメージ

 テレビには、俳優やタレント、お笑い芸人、ニュースキャスターなど様々な人が出ています。芸能人にとって一番重要なのは好感度です。私たちは、芸能人たちを見るときに「真面目そうな人だ」とか「親しみが持てる」など、様々なイメージを持って見ています。昔、ある俳優がテレビドラマで悪役を演じているのを見たことがありました。また別の機会で、その人がバラエティ番組に出ていた時に、とても気さくに笑顔で話しているのを見て、「この人、こんな一面があるんだ」と感じました。ドラマでの役のイメージが強すぎると、それが定着してしまうことがあると思います。反対に、とても好感度の高い俳優が、スキャンダルを起こしてニュースに取り上げられると、「えっ!まさかあの人が事件を起こすとは…そんな人には見えないのに。」と思ってしまうことがあります。私たち視聴者は、その人のことについてすべて知っているわけではないのに、勝手なイメージを持って見ていたりします。

偏り見ていないだろうか

 私は、救われて間もない頃、当時の職場の上司に「クリスチャンってとても清楚なイメージだよね」と言われたことがありました。クリスチャンは、いつも真面目に善行に励んでいて、おしとやかで汚れたイメージが全くないという見方があるのだと思います。それを聞いたときに、私自身も、昔は職場の上司が見ていたのと同じように見ていたことを思い出しました。
 私たちも、人に対して何らかのイメージを持っていますが、それが時に、人を偏った目で見て、決めつけてしまうことがあったりします。以前働いていた職場で、上司が部下のことを、「あいつは本当に出来ない。言っても分からないし。ほんとダメなやつだ。」と言っているのをよく聞ましたが、世の中には「仕事ができる人や能力のある人は価値がある。できない人は価値がない。」という価値観があります。仕事で結果を出していると、周囲からほめられたり認められたりしますが、そうすると、仕事の成果のことだけではなく、その人の人格や発言まで、すべてが肯定的なイメージとなって、「あの人の言うことはすべて正しい」「何でもできる完璧な人」というイメージを持ってしまうことがあります。反対に、仕事で成果が出ていなかったり、周囲からの悪い評判があったりすると、その人の存在そのものまで否定して「私はあの人を受け入れられない」と、その人の存在を退けてしまいます。私たちにも、無意識のうちに人を偏り見ていることはないでしょうか。

神はすべての人を同じ目で見ておられる

 では、神様は私たちのことをどのように見ておられるのでしょうか。聖書は、「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」と言っています。この世にいる人で神の正しさの基準を満たしている人は誰もいない、すべての人はみな罪の下にあると言っています。人を愛したい、正しく生きたい、と思っても出来ないのが私たち人間です。神様から見れば、慈善活動に熱心になっている人であっても、社会的な犯罪を犯している人であっても、同じ罪人です。どれだけ豊富な知識があって、ずば抜けた才能や能力があってもそうでない人でも、神様の目から見れば同じ罪人です。「あなたは前向きに努力して、社会のために人のために尽くしていますね。だからあなたは価値がある」とは言われません。人はみな神の前に罪人です。しかし、だからと言って神は、「あなたは出来ていないからダメだ。あなたのことは知らない」と言って見捨てることはなさいません。正しく生きることが出来ない罪の問題を抱えた私たちですが、そのありのままを愛しておられます。神はすべての人を同じ目で見ておられます。

自分を正しく見ることから始めよう

 ですから、私たちはまず、自分自身のことを正しく見ることから始めなければなりません。結局、人を偏り見ているのは、自分に対しても同じように見ているからです。人に対して「出来ていないからダメだ」と見ている目で、自分に対して「出来ていない私は価値がない。役に立たない。」と見ています。その自分の中にあるセルフイメージを他の人にも投影しているのです。
 私たちが、自分のことを正しく見ること、つまり「私は出来ない者、間違ってしまう者、しかし神はこの私のありのままを愛しておられる」という真実を知り、それを受け取るとき、私たちは、出来ていない人を見ても「あの人は出来ていない。だからダメだ」といった見方ではなく、「間違っている、出来ていない、だから教えてあげよう」という愛の姿勢で接することができるようになります。人を自分の中のイメージだけで偏り見ることはありません。言うべきことがあれば、きちんと相手のために言ってあげることができます。そして人を正しい目で見ることができるのです。

21.09.12 従うことの祝福

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「箴言1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」

アサギマダラ

 秋の七草の一つにフジバカマ(藤袴)という花がありますが、この花を好んで寄ってくるアサギマダラという蝶がいます。羽があさぎ色(青緑色)で、体がまだら模様なのでこの名前がついたそうですが、長距離の旅をする蝶として知られています。秋になると、日本各地のフジバカマが咲く公園や庭には、どこからともなく、ひらひらとたくさんのアサギマダラが飛んできて、人々の目を楽しませます。アサギマダラの詳しい生態はまだよくわかっていないようですが、国内だけでなく、海を越えて台湾などへも飛んでいき、2500kmを旅したという記録もあるそうです。春になると北の方へ、秋になると南の方へと、旅を繰り返します。渡り鳥は丈夫な翼を広げて力強く飛びますが、蝶のあんなに小さくて軽い体のどこにそんな力があるのかと不思議です。風に吹かれたら、紙切れのようにどこかへ飛ばされてしまいそうですが、正確に、行くべき方向へ飛んでいくことができるのです。
 神様はこの小さな生き物に、長い距離を飛ぶことができる力と知恵を与えられました。同様にすべての生き物は、神様が定められた通りに忠実に生きています。植物も天体も全ての被造物は、神様のご支配の下で神様の定められた生き方や法則に従っているのです。そのように神様はこの世界の調和を保っておられます。

従って生きるために造られた

 神様は人を、他の被造物とは違い神様と交わりができるように特別に造られました。神様は人を愛され、人も神様を愛することを望まれたのです。神様が最初の人アダムとエバをエデンの園に置かれた時、彼らはまるで小さな子どもが母親の手の中に安心して抱かれているように、神様に信頼し切って、神様に従って暮らしていました。神様に守られ、心配など一つもありませんでした。これが神様が最初に人に定められた生き方です。
 少し意識すると、日頃私たちは神様に従って生きていることがわかります。たとえば、人は朝が来ると起き、夜になると眠ります。当たり前のようですが、朝が来たり夜が来たりするのは、神様が規則正しく天体を動かしておられるからです。また、人は季節に従って様々な種類の種をまいて収穫しますが、季節を支配し、作物の成長に必要な雨を降らせたり、太陽の光を注ぐのも神様のわざです。人が季節やお天気を変えることはできません。さまざまな法則もそうです。ものが落ちたり、お湯が沸いたり氷ができるのも、神様が定められた法則です。人が生まれるしくみも、人が必ず死ぬことも、すべて神様が定められました。
 神様は人を愛してくださり、安心して生きられるように必要のすべてを与えてくださっておられます。人は神様のご支配の中で、神様に従って生きるように造られているのです。

従わないと平安がない

 ところで、神様が私たちに与えてくださる教え(みことば)は、私たちを守り、私たちに平安を与えるためのものです。「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」。ですから、もし私たちが神様のみことばに聞き従わないならば、たちまち平安がなくなってしまいます。
 たとえば、神様は私たちが健やかであるように願っておられます。「あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ1:2)」。なのに夜更かしばかりしていて十分に睡眠を取らないならば、心身の健康を害してしまいます。
 また神様のみこころは私たちが勤勉であることです。「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。(箴言10:4)」。学校から帰ってきて、宿題を後回しにして遊びに出かけたら、遊んでいても気になってしまって平安がありません。また家の中の整頓を怠っていると、物が散らかってくつろげません。
 また神様は「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と言われます。ですから従うならば、いつも笑顔でいなければなりません。仕事が失敗した時も、けんかしたときも、叱られた時も、経済が満たされない時もです。従うことをしないで心が落ち込んだまま放っておくと、平安を失っていきます。従うことは私たちの心が守られることです。

従うことの祝福

 神様に従うことは楽しいことです。イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。私は高校の合唱部の指導をしていたとき、コンクールの課題曲の講習会が日曜日にありましたが、礼拝を優先したところ、本番で思いがけず金賞をいただいたことがありました。また今までどんなに時間やお金を捧げても乏しくなったことがありません。返って豊かにされています。何より、いつもなんとも言えない平安と希望が与えられています。どんなに落ち込む時も、走り戻る場所があることは本当に幸いなことです。神様に従うことによって大いに祝福を受ける者となって参りましょう。

21.09.05 わたしの霊によって

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「ゼカリヤ4:6 彼は私にこう答えた。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。【権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって】と万軍の主は言われる。」

可能性のある限り

 先月東京オリンピックが終わり、現在行われているパラリンピックも今日で終わります。卓球男子の腕や足に障害のあるクラスに、幼い時に事故で両腕を失ったエジプトの選手がいます。
 彼は現在48歳ですが13歳で卓球を始めました。当初、ラケットを脇の下に挟んでプレーをしていましたが上手くいかず、口にくわえるスタイルに変えて練習をしていました。しかし最初は、10分練習をすると歯の痛みに耐えられなくなる状態で、痛みに慣れるためにひたすら練習を重ねたそうです。さらに彼はサーブを打つとき、毎回足の指でボールを挟んでトスを上げています。これもまた相当の練習が必要となります。卓球は、とてもスピード感のあるスポーツですが、彼はサーブの度ごとに足を上げ、ラケットを落ちないように歯でしっかりとくわえ、頭を思いっきり振って打ち、誰よりも全身をフルに使ってプレーをしています。試合での結果は予選リーグ敗退となりましたが、インタビューで、「不可能はないということを証明したい。できないことはないと世界中の人に知ってほしい」と話していました。普通ならあきらめてしまうようなことに、ひたむきにチャレンジしている姿勢を見て私も心を動かされました。

自分に制限をかけていないだろうか

 私たちも、生活の中で起こる様々な失敗や、人間関係などの問題で苦しむ時に、「やっぱり上手く行かないな」と思って、チャレンジすることをあきらめていることはないでしょうか。仕事でミスをして、しばらく経ってまた同じ状況が訪れる時に、「また失敗してしまうかもしれない」と思うと、「失敗をして恥をかくのも嫌だから、やらないで済ませる方法はないだろうか」とチャレンジすることを恐れてしまうことがあるかもしれません。「私はパソコンとか機械のことは全然知識がないから分からない。この分野のことは苦手だから無理だ」と自分の中で決めつけてしまい、行動することを避けようとしてしまうこともあるかもしれません。また、人と自分を比較して、「あの人には出来るかもしれないけど、私はそんな能力や才能はないからできない」と決めつけて済ませようとしていることもあるかもしれません。それは、私たちの心の中で「自分は、しょせんこんなもんだ」と、自分の能力を小さい枠の中で閉じ込めて制限をかけているからです。

神に限界はない

 主は私たちに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と語っておられます。私たちは、自分の経験してきたことや、この世の常識にとらわれているかもしれませんが、主を見上げなければなりません。主は、「あなたがまだ経験したことのない、知らない世界がある」と語ってくださいます。不可能のない主に信頼するならば、主が、まだ私たちが見たことのないことを経験させてくださると信じます。
 主は無限のお方です。空を見上げれば数え切れないほどの星が存在しますし、地球上にはたくさんの動物や植物が存在しますが、発見されている生物は地球全体の数から見ればごくわずかなものです。まだ見たことのない生物は無数に存在します。それらすべてが神の手によって造られ、神によって生かされています。私たちの能力も神が与えてくださった賜物ですので、まだ発揮されていない能力が必ずあります。神に限界はありません。

私たちは神の力を知ることができる

 私たちは、「自分は、しょせんこんなもんだ」と思っている見えない鎖(くさり)を、神様によって断ち切っていただかなければなりません。主は、「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)」と語ってくださいます。主を見上げて、「主が私のこの仕事を、勉強を、完成させてくださる」と信じて進んでいくときに、普段であれば気がつかずに見過ごしていたことに気がついたり、自分が考えてもいなかった方法に気づかせてくださいます。その時私たちは、「神には不可能がないのだ」と知ることができるのです。
 私たちは今、目を開いて信仰によって起きている出来事を見なければなりません。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった(Ⅰコリント2:9)」とありますように、主は私たちがまだ見たことも聞いたことも考えたこともないことを、私たちに経験させてくださろうとしています。
 私たちは今、神のあわれみによって罪から救われて生かされていますが、人は自分の罪をどうすることもできません。救いは神の力によることです。救われる前の私たちは、イエス様を信じて歩むという現在の状況を、まったく想像していなかったと思います。神の不思議な方法によって導かれて、今の私たちがあることを感謝します。主は、さらに私たちを用いて、ご自身の栄光を現したいと願っておられます。ですから私たちは、神の栄光を現すために、喜んで自分自身のすべてをささげてまいりましょう。「信じるなら神の栄光を見る(ヨハネ11:40)」と主は語っておられます。

21.08.29 ともに喜び泣きなさい

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「ローマ12:15-16 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」

優越感

 先日、駅の近くの階段を降りようとすると、少し前に目の不自由な若い女性が、左手で手すりを伝いながら、右手で杖をついて階段の左寄りを降りて行きました。ふと気づくと、長い階段の途中の何段かが工事中で、左手の手すり側が柵で囲まれています。そのまま手すりを伝って行くと柵にぶつかってしまうと思ったので、「そこから下は工事中です。」と声をかけて、手をとって階段の中央へ寄るように誘導しました。その人は「ありがとうございます」と言って、再び階段を降りて行かれました。「柵にぶつからなくてよかったな」、と思いましたが、同時に「よいことをした」という思いがわいてきました。これは「自己満足だ」と思いました。自分の心に優越感が潜んでいるので、そんな気持ちがわいてくるのだと思いました。エレミヤ書には「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(17:9)」とありますが、まったくその通りだと思います。

差別発言

 ある芸能人が、「ホームレスの命はどうでもいい」「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい。」などと発言して炎上している、という記事を最近の新聞で読みました。彼はYou-tubeで、自分は生活保護の人を助けるために納税しているのではない、ホームレスの人は邪魔だし、プラスにならないからいない方がいい、などと数回に渡り発言したのです。当然、差別発言として問題になり、生活困窮者を支援する複数の団体が、「優生思想」(人種、病者、障害者などを差別する思想)につながることを懸念するとして、緊急声明を出しました。本人は謝罪をしたようですが、それも本物の謝罪とは受け取り難いと批判されています。彼の心の中に、自分は能力もお金もあるという優越感が満ちていて、弱者を見下す気持ちが自然に外にあらわれたのだろうと想像できます。「人の命をなんだと思っているのだ、まったく痛ましいことだ。」と思いながらも、はたして自分の心に潜んでいる優越感と、この人の優越感とはどこが違うだろうか、と思わされました。神様の目にはどちらも同じ罪であり、自分には人をさばく資格などないのだと悔い改めました。

本当に寄り添うことができない自分

 今日のみことばは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」と教えています。人を愛し、人の心に寄り添いなさい、という勧めですが、家族や友人など親しい人の心に寄り添うことは難しくはありません。一緒に喜んだり、悲しんでいる時に共感して話を聞いてあげたり、慰めのことばをかけてあげたりすることは自然にできます。しかし、そうではない人に対して、私は本当には寄り添うことができていないことに気づきます。たとえば、毎年のように起こる大雨による災害で、家や家族を失った方々の様子をテレビの映像などで見聞きすることがよくあります。「大変だなあ、気の毒だなあ」と心が痛みますが、しかし心のどこかで「自分の住んでいるところは無事でよかった」、と思っていることに気づきます。ホームレスの方が暑さや寒さの中で道の片隅にずっと座っておられるのを見ると、「雨が降ったらどうするんだろう」と気になりますが、心のどこかで「自分は家があってよかった」と思っていることに気づきます。一見人に寄り添おうとする心の中に「自分は痛みがなくてよかった」という優越感が潜んでいるのを痛感させられます。ともに喜ぶことにしても、私の心の中に妬む思いがあり、心の底から人を祝福することが難しいことがあります。自分は本当に人に寄り添うことなど少しもできない者、聖くない者だと、いつも思わされるのです。
 そんな中、東京オリンピックのスケートボードの試合で、日本の選手がメダルを狙って挑んだ大技(おおわざ)に失敗し、泣き出してしまったとき、他の国の選手たちが一斉に駆け寄り、彼女を抱きしめ、肩車をして彼女を持ち上げ、彼女の挑戦を賞賛した場面がありました。彼女たちに信仰があるのかわかりませんが、敵味方問わず、泣く者に真心で寄り添う若い選手たちを見て、人には真に愛する力が与えられているのだと励まされました。

寄り添ってくださる主

 自分は真に人に寄り添うことができないと失望する時、ふと神様を見上げると、神様はそんな聖くないどうしようもない自分に、真に寄り添ってくださっておられることがわかります。主は罪深い私をありのままで愛してくださり、十字架の上で私の罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして今、私のうちに住んでおられます。落胆している時、疲れている時、主に心を向ければ、寄り添ってくださるお方がおられることを思い起こし、喜びと希望がわいてくるのを感じます。「愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(Ⅰヨハネ4:16)」。その御愛を思う時、自分も人に真に寄り添い、ともに喜び泣く者になりたいと願います。主の御愛に倣う者となっていきたいと思います。

21.08.22 ゆとりは神から来る

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「ヨハネ14:1 『あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

トランプピラミッドに挑戦

 先日テレビで、29段のトランプピラミッド世界記録に挑戦するという番組を観ました。トランプを使って三角形を作り、それを上へ上へと積み重ねていくのですが、一見誰でも出来そうな気がしますが、それを崩さないで正確に一番上まで積み上げるのは、そう簡単には出来ません。さらには、3時間の番組放送中に完成させるという時間の制限もありました。彼は一段一段、集中してピラミッドを積み上げていきます。周囲の視線も当然感じていることでしょう。「みんなが自分のことを期待をして見ている。ここで失敗するわけにはいかない。いや、そんなことを考えてはいけない。ただ目の前のことに集中しよう。」という思いもやって来ることでしょう。あと一段という場面では緊張感が最高潮に達します。観ているこちらも、「ここまで来てもし崩れたら…」と、手に汗握りその行方に釘づけになって見ていました。そして彼は、ついに番組放送中に29段のトランプピラミッドを完成させました。彼は日頃から何度もやっていますので、多少の余裕があるのかもしれませんが、それでも人の注目が集まる場面で緊張しないはずはありません。

焦ってはいけない

 私たちも生活の中で、「完璧にやらないといけない。失敗してはいけない。」と感じると、途端に不安に襲われて構えてしまったり、しなくても良い心配ばかりして冷静さを失ってしまうことがあると思います。
 出かける準備をするときに、「あれがない、これがない」と探し物をしている時に焦ります。「早く行かなければならない」と時間に迫られるので焦ってしまいます。普段からゆとりを持って行動していればいいのですが、そうしていても、思わぬ事態やアクシデントは私たちの生活の中でいくらでも起こります。「明日までの締め切りに間に合わせないといけない。ああ、時間がない。」「夏休みの宿題を早くやらないと大変なことになる」と思うと焦ります。そんな時、「やらないといけない」という気持ちばかりが先行してしまい、したいことがまったく進んでいなかったりします。できなかった時のことを考えてしまい、余計に焦る思いが増幅されていきます。「焦ってはいけない。落ち着け。落ち着くんだ。」と自分に言い聞かせて心を落ち着かせようとしますが、そうすればするほど、余計に焦る思いがつのっていき、頭の中がパニックになってしまいます。焦って行動したり、話をしても良い結果は生まれません。しかし、それが分かっていても焦ってしまうのが私たちではないでしょうか。

不信仰はないだろうか

 そんな焦る気持ちがやって来る時に、私たちはどうすればいいのでしょうか。主は私たちに、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と命じておられます。私たちのうちに不信仰はないでしょうか。
 イエス様が弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちがイエス様を舟にお乗せして向こう岸へ向かおうとしていた時、激しい突風が起こりました。湖は大荒れで、舟の中は水でいっぱいになりました。弟子たちは慌てて船尾で眠っておられたイエス様を起こして助けを求めました。弟子たちは、「先生、こんな舟が沈むかもしれないという時になぜ寝ておられるのですか。早く何とかしてください」と、イエス様に食ってかかりました。すると、イエス様は風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ(マルコ4:39)」と言われ、嵐はやみました。イエス様は、嵐に動揺する弟子たちの不信仰を叱責されました。主は、私たちの心にある不信仰を取り除いて、信仰を引き出そうとしておられます。

神を信じる信仰に立つ

 私たちは、「自分にはできるだろうか」と考えていること自体が不信仰であって、神への信頼の態度ではないということを知らなければなりません。ですから、主の視点に立って物事を見なければなりません。主は「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)」と私たちに語られます。私たちは「主にあってできます。」と告白しなければなりません。主を信じて疑わないならば、主は私たちのうちに働いてくださって、やる気を与えてくださり、事を行わせてくださいます。そして冷静になって起きている状況を見ることができるので、「私は今何を一番優先しなければいけないのか」ということに気が付かされて、行動していくことが出来ます。私たちは主にあって、ゆとりを持って前進することができるのです。

21.08.15 みことばを熱心に聞く

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「ローマ10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

せみの声

 暑さが得意なわけではないのですが、毎年せみの声を聞くと「夏が来た!」とわくわくします。なぜかと考えると、せみの声が、子どもの頃の楽しかった夏休みを思い起こさせるからなのだろうと思います。朝早く起きて外に出ると、夏の朝の明るい日差しの中で、にぎやかに鳴くせみの声を聞きながら、玄関のプランターに植えてある朝顔の花が、今日はいくつ咲いているかな、と楽しく数えた情景などを思い起こすのです。
 江戸時代の俳人である松尾芭蕉の句に、「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」というのがあります。「なんて静かなのだろう。岩にしみ入るようにせみが鳴いている」という意味ですが、この句を詠んだ時に芭蕉がたたずんでいた山奥の静けさが、岩にしみいるほど騒がしいせみの声を聞いていると、一層静かに感じられる、という意味なのだそうです。私たちは一斉に鳴くせみの声を、「うるさいなあ、静かにしてほしいなあ」と、どちらかというと邪魔に感じることがあるかもしれません。しかし、日本では昔から、せみが一斉に鳴いている様子を「せみしぐれ」という美しいことばで表現するように、せみの鳴き声は夏の季節や風景を味わうのに欠かせない夏の風物詩となっています。もしせみがいなくなったら、夏の季節感が大幅にそがれてしまうのではないでしょうか。

雑音に聞こえる

 ところがせみの鳴き声について調べていたら、あるネットの記事に「アメリカ人にはセミの声がきこえない」という記述を見つけました。あんなに騒がしいせみの声が聞こえないわけはありません。それはつまり、アメリカ人にはせみの鳴き声が、雑音に聞こえるということなのです。つまり虫の声であるとは認識されていないということです。せみの声に限らず、日本人は秋の虫のコオロギや鈴虫などの声にも情緒を感じますが、多くの外国人には虫の声は雑音に聞こえるそうです。世界の中でも虫の声に情緒を感じる民族は少数なのだそうです。その理由は、虫の声など自然の音を、日本人は左脳(言語脳)で聞き、多くの外国人は右脳(音楽脳)で聞いているということで、文化の違いなのだそうです。同じものを聞いているのに、ある人は風情を感じ、ある人には雑音にしか聞こえないというのは不思議な感じがします。

本当に聞いているか

 私たちは生活の中で、いろいろな音を聞きます。職場や学校にいるときも、道を歩く時も人の声やいろいろな物音が聞こえてきます。テレビや動画やラジオからも、音楽や人の話し声が聞こえて来ます。それらは耳に入って来ますが、必ずしも聞いているとはかぎりません。自分が聞きたいこと、興味のある声や音だけが耳に入って来て、ほかの音は聞こえて来ないということがあります。たとえばレストランでBGMに好きな曲が流れていて、あとで一緒に食事した人に「あの曲が流れていたね」と言っても、「そうだった?」と全く聞こえていなかったということがあります。確かに耳には聞こえていたはずなのに、興味がなければ聞こえていないのです。耳から入って来ていても、心がそこに向いていなかったということなのでしょう。
 ところで、私たちがみことばを聞くことに関してはどうでしょうか。冒頭のみことばは、「信仰は聞くことから始まります。」と教えています。神を信じる者にとって、みことばを聞くことが最も大切ということです。私たちは礼拝のメッセージでみことばを聞きます。また、聖書を読むときも、たとえ声に出さないとしても、心の中でみことばを読む自分の声を聞いています。確かに耳に入っています。しかし、そのみことばを本当に聞いているでしょうか。
 たとえば、礼拝のメッセージで「あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と語られる時、確かにみことばが耳に入って来ます。そのとき、自分が愛していない人、愛したくない人の顔が思い浮かぶでしょう。職場のあの人の顔、家族のあの人の顔、あの兄弟の顔、あの姉妹の顔・・・と。そのとき「わかっているけど、今は無理」、と後回しになっていることはないでしょうか。そうだとしたら、それはみことばが聞こえていないことと同じことではないでしょうか。つまりみことばに心が向いていないということではないでしょうか。聖書には「自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22)」とあります。みことばを聞くということは、聞いたらすぐに、愛そうとすることを始めることです。

みことばを熱心に聞く

 私たちは自分の好きな音楽には耳を傾けますし、尊敬する人の言うことばを熱心に聞きます。その音や声は自然に耳に入って来て心にまで届きます。ですから、なおさら私たちは、私たちが愛する主のみことばに熱心に耳を傾けることができます。 主はそのひとり子を私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。私たちはこの福音のみことばに熱心に耳を傾けたので、イエス・キリストを信じて救われました。救いのみことばを聞いた時、「わかったけど、またいつか信じます」と後回しにしていたら、救われませんでした。
 私たちは私たちを愛してくださった神様を愛しています。愛しているので、みことばを熱心に聞きたいと思います。そして聞いたら従いたいと思います。大好きな方の言われることなので、自然に耳に入ってきますし、言われたことを後回しにはしたくないのです。「愛しなさい」と聞いたら、主が愛してくださったように、人を愛したいと思います。主はみことばに従う者の願いを何でもかなえてくださいます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15:7)」。みことばを熱心に聞く者となりましょう。

21.08.08 神を熱心に捜し求める

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「箴言8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」

ただ一つの目標のために

 コロナ禍で、延期や中止を求める声がありつつ開催されたオリンピックですが、連日、白熱した戦いが繰り広げられ、いよいよ今日が最終日となりました。どの選手も、この大会のために何年も練習を積み重ね、また小さい頃からオリンピックを目指してきた選手にとっては、人生の集大成とも言えるほど大事な瞬間であります。その中でも、卓球女子の伊藤美誠選手は、混合ダブルスで金メダルを獲りました。また、シングルスでも銅メダルを獲得しました。現在、世界ランキングで2位に入るほどの実力があり、卓球王国の中国にとっても脅威の存在となっているようです。
 伊藤選手は、2歳の頃から卓球選手だった母親の影響で卓球を始めました。「中国を倒せるのはあなたしかいない」とお母さんからいつも言い聞かされていたそうです。彼女は小学校の卒業アルバムに、「2020年のオリンピックで金メダルをとりたい」と書いており、まさに今回、その夢が実現しました。彼女は中学から地元を離れて、より卓球に打ち込める環境に身を置きました。海外の試合にはお母さんも同行し、遠征先に炊飯器を持ち込んでおにぎりを握ったり、何枚もあるユニフォームを洗濯したり、冬は体が冷えないようにお茶の温かさをキープしたりと、彼女が練習に集中することができるように、最高のパフォーマンスを発揮することができるように、全力でサポートをしてきたそうです。まさに、母親と二人三脚で歩んできた道のりでした。伊藤選手の活躍の裏には、母親の献身的なサポートがありました。そして何よりも、伊藤選手本人が「オリンピックで優勝する」という熱い思いを持ち続けてきたからこそ成し遂げることが出来たのだと思います。

熱心に神を求める

 私たちも、今までに学校の部活動や受験勉強、仕事などで大きな目標に向かって熱心に取り組む時に、自分でも想像しなかった大きな成果を得ることがあったかもしれません。熱心に取り組むことはとても大きな力を生み出します。
 しかし、私たちの熱心は何よりも神様に向けたいと思います。私たちはまず神様を第一に求めなければなりません。仕事に熱心になって成功を求めることよりも、家族や友達との関係を築くことに熱心になるよりも、神を求めることが第一優先でなければなりません。それが、私たちが祝福されるために一番必要なことである、と聖書は教えています。そのために、まず心のうちに、「私は神様との正しい関係を築いていきたいです」と願い求める思いが必要となります。では、そのような思いはどこから来るのでしょうか。

主は私を熱心に捜してくださった  

 それは、主の私たちに対する熱心な思いを知ることからやって来ます。主は、私たちを罪の滅びの中から救い出すために、ずっとご計画を持って導いておられました。それは「世界の基が据えられる前から(エペソ1:4)」選んでくださっていたのです。神は「あなたを救い出す」というただ一つの目的のために、長い間熱心に心を向けておられました。
 取税人のザアカイは、町の中を通っておられたイエス様を一目見ようとしてやって来ました。背が低かったザアカイは人垣に遮(さえぎ)られて前に出ていくことができず、それでもあきらめることのなかった彼は、木に登ってイエス様を見ることにしました。するとイエス様は、多くの群衆がいる中で、木に登っているザアカイに目を留められ、声をかけられました。ザアカイは、教えた覚えのない自分の名前を呼んで声をかけてくださり、さらには「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(ルカ19:5)」と言われました。イエス様が、ザアカイを救い出すというご計画を持って声をかけられたことが分かります。彼は、「この人は、こんな罪ある私のことを受け入れてくださった」と心の底から喜びが湧き上がり、すぐさま木から降りてイエス様のもとに駆け寄り、イエス様を歓迎しました。主の熱心によって彼は救われました。主は、たった一人の失われたたましいを救い出すために、いつも熱心に心を砕いておられます。私たちは、主の測り知ることのできない愛が自分に向けられているということを知るときに、その愛に応えたいという思いにならざるを得ません。

熱心に求めるときに神を見出す

 今あなたの心は熱いでしょうか。それとも冷たいでしょうか。主は、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示3:15-16)」と語ってくださいます。主は生ぬるい状態を嫌われます。もし「自分は生ぬるいなあ」と感じる思いがあるならば、その状態を良しとしないで、嫌がらなければなりません。熱くなるというのは、自分のテンションをあげて熱くなろうとすることではなく、神様に対して熱心になることです。それは、私たちが神様の前にへりくだって、「私はあなたの言われることを何でも行いたいです」と、喜んで主のご支配を心の中に受け入れる姿勢であります。そのようにして私たちが、神を求めるというただ一つの目的のためだけに熱心になるその先に、私たちは望んでいる結果を手にすることができます。神様を熱心に求めていった結果、集中力が与えられ、やる気が与えられ、愛する思いが与えられて、仕事や勉強に打ち込むことができ、気がついたら多くのことが成し遂げられたという結果に導かれていきます。そして、余計な心配をしたり、考え過ぎてしまったり、不安に襲われたり、焦ってゆとりをなくしてしまうことなど、あらゆる妨害から守られて前進することができるのです。主は、熱心に求める人に必ず報いてくださいます。

21.08.01 すべてが益となる

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「ローマ8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ある交通死亡事故 

 先日、交通事故で中学一年生の男の子を失くしたご両親が、取材のインタビューに答えていました。コロナ禍で、昨年の5月にやっと中学校に行き始めた矢先のできごとでした。家を出て自転車が通行できる歩道を走行していたところ、道沿いのガソリンスタンドに入ろうと左折して歩道に入ってきた大型トラックに巻き込まれてしまいました。大型トラックは一時停止を怠っていました。父親は、「大人が交通ルールを守らないことが問題だ」と悲しみの中にも怒りをあらわにしていました。
 母親も悲しみにくれていました。事故の朝、男の子は早く学校に行きたくてそわそわしていました。お母さんは、「『まだ早すぎるからもう少し待ってから出発したら』と私が言ったんです。」と話しながら泣き崩れてしまいました。おそらく、子どもが事故にあったのは自分が声をかけたせいだ、と自分を責めているのだろうと思われました。確かに彼がもう少し早く家を出ていれば、事故に遭うことはなかったかもしれません。画面からご両親の無念の思いが痛いほど伝わってきました。事故で突然子供を失くした親の悲しみは計り知れません。しかもこのご両親は、これからずっと怒りを握りしめ、悔やみながら生きていかれるのだろうかと思うと、なんとも苦しい思いになりました。

すべてが益となる

 私たちは過去のできごとを悔やんで、「あの時こうすればよかった。」と考えたりします。あの時あの会社を、あの学校を、あの結婚相手を選んでいれば、もっと良い人生になっていたかもしれない、あの時もっと冷静であったら、あの人を傷つけることはなかったかもしれないと、何かの折に思い起こしては、後悔の念にかられたり、自分を責めたりするのです。確かに、振り返って自分のよくなかった点を改めることは大切です。しかし聖書は何と言っているでしょうか。
 冒頭のみことばは、すべてのできごとは創造主であられる真の神様の主権の下にあることを教えています。「神を愛する人たち」「神のご計画にしたがって召された人たち」というのは、クリスチャンのことです。神様は私たちが生まれる前から、私たちを愛してくださり、私たちがこの世に生まれ、神を信じて救われるご計画をお持ちでした。そして信じる者のためには、「すべてのことがともに働いて益となる」と言われます。私たちの人生には、人の目には悪いと思えるできごと、たとえば失業するとか、健康を害するとか、愛する家族と死別することなどが起こります。しかし、どんなできごとも神様の主権の下にあり、神様の許可がなければ起こり得ないのです。しかし神様は、そのすべてのできごとが私たちの益になるように働いてくださいます。

ナオミ

 旧約聖書のルツ記に、ナオミという女性が出て来ます。彼女はユダのベツレヘムに住んでいましたが、飢饉(ききん)が起こったため、夫のエリメレクと二人の息子とともに、外国であるモアブの野へ行き滞在しました。しかし不幸なことに夫はこの地で亡くなりました。残された二人の息子は、モアブの女を妻に迎えましたが、その二人の息子も亡くなってしまいました。ナオミは失意のうちに、ユダの地に戻ることにしますが、二人の嫁のうちルツは、義母と一緒に住むことを強く願い、二人はベツレヘムに帰郷します。出迎えた人々にナオミは、自分に起こった不幸を嘆いて「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでください。(ルツ1:20)」と言いました。
 貧しさの中で、ナオミはルツの願いを聞き入れ、畑に落穂を拾いに行かせます。するとその畑は、はからずも夫のエリメレクの親戚であるボアズの畑でした。ボアズはルツを愛するようになり、エリメレクの土地を買い入れ、二人は結婚し、ナオミは再び家族を得て、穏やかで幸福な老後を過ごしました。
 ボアズとルツの子、すなわちナオミの孫にあたるオベデはダビデの祖父であり、このダビデの家系に救い主イエス・キリストがお生まれになりました。主はナオミの苦しみを喜びに変えてくださり、神様の救いのご計画のために用いてくださいました。すべてのできごとを用いて益としてくださる主に感謝します。

主に信頼して歩む

 私たちの日常生活の中では良いことも起こりますが、とても歓迎できないできごとや、いつまでも悔やまれるようなできごとも起こります。しかし主のご計画は、すべての人がことごとく祝福されることです。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」。私たちを祝福するために、主はすべてのできごとが益となるように働いてくださいます。この恵みを知っている私たちは、どんなに人の目には悪いと思われることが起きたとしても励まされ、慰められ、希望を持つことができます。
 どんな時にも主に信頼する信仰を持って歩んで参りましょう。そして、まだこの恵みを知らない周りの人々に、福音を告げ知らせて参りましょう。

21.07.25 主が道をまっすぐにされる

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「箴言3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

後回しにしてしまう問題

 先週から学校は夏休みに入りましたが、子どもたちにとっては、「夏休みの宿題をどうやってやり終えるか」ということが一つのテーマではないかと思います。「毎日決めた量をコツコツこなして行こう」と考えている人もいれば、「まだ始まったばかりだから、少しずつやって行けばいいや」と考えている人もいるかもしれません。仕事でも勉強でも期限があります。初めは、「計画的に進めていこう」と考えてやる気にあふれてスタートしますが、そのやる気が続かず、後回しにしてしまい、結果的に、締め切り直前になって慌ててやることになってしまったという経験をしたことがある人は多いのではないかと思います。そして、「いつも物事を後回しにしてしまう習慣とはもうおさらばしたい」と考えている人も多いと思います。
 私たちが、やるべきことに取り掛かろうとする時に、期限までまだ日数があると「やらなくてはいけないな」と思ってはいても、そこまで精神的にプレッシャーを感じることはありません。「できるならやった方がいいけど、まだ今はそこまで真剣にならなくても大丈夫だ」と思っています。しかし、期限がだんだん近づいて来ると、少しずつ焦りを感じ始めるようになってきます。すると、「まだあと三日あるから、今日はここまでやって、明日はここまでやれば、何とか期限に間に合うだろう」と自分の中で計画を立てて、「見通しが立ったかな」と思うと少し安心した気分になります。しかし、すぐにまた焦る気持ちがやって来ます。「焦ってはいけない。大丈夫だ。まだ時間はある。」と自分に言い聞かせて平静を装います。そして気持ちだけが先走って、なかなか行動に移せないということになっていきます。後回しにした結果、前日、当日に切羽詰まって急いでやる羽目になってしまいます。

出来なかったことで悔やんでいる

 そして、「ああ、またギリギリになってしまった。計画していたけど全然出来なかったなあ。本当に自分はダメだなあ」と出来なかったことを悔やみ、落胆して自分を責めたりします。そして、「今回は期限に間に合わなかったけど、次こそは絶対にやってやるぞ!」と決意して立ち上がろうとします。「今週は色々と忙しかったからしょうがないよね。」と自分の都合の良いように考えて自分を正当化したりもします。しかし後回しにしてしまうという問題はまた繰り返しやってきます。そのようにして毎回「今度こそは!」と立ち上がり、「またできなかった」と落ち込み、負のサイクルから抜け出せなくなっていきます。

へりくだりの姿勢があるだろうか

 主は私たちに、「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。」と語っておられます。私たちがしようとしているすべての計画の上に、主の導きがあるのだということを忘れてはなりません。私たちは、自分の考えや計画、自分の見通しに拠り頼んではいないでしょうか。自分の中で「こうやっていけば多分できるだろう。計画通りに終わらせることができるだろう。」と思って安心して事を進めているかもしれません。それは「自分の力でやりきることができる」と思っていることではないでしょうか。私たちは、主の御前にへりくだらなければなりません。「私はすぐに怠けてしまう者だ。私は主に助けていただかないと必ず失敗する。上手くいかない。毎日コツコツやらなければ前進することはできない。そのためには主の助けがなければならないのだ」というへりくだる姿勢を持つならば、私たちは自然と主に祈り求めることになります。そのようにしていくときに、主は「明日のことを誇るな。」「今日やるべきことがあるではないか。そのことだけに集中しなさい」と語ってくださり、私たちは「主が、私のしようとしている計画を導いてくださっておられるんだ」と知って、主とともに事を行っていくことができるのです。

あなたの進む道をまっすぐにされる

 私たちがへりくだりの姿勢を持って、主に信頼していくときに、主は私たちのしようとしている計画を祝福してくださって、事を進めてくださいます。私たちは、やる気を出そうとしたり、「出来そうな気がする」というような自分の調子や感覚に頼らないで、事を始める最初から、主に導いていただかなければなりません。そのためには、主の御前にへりくだることが必要です。主は、私たちの歩む道を確かなものとしてくださいます。

21.07.18 賢い人になろう

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「マタイ7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」

虔十(けんじゅう)公園林

 「虔十公園林」は宮沢賢治の短編童話です。知恵遅れでいつもみんなからばかにされている虔十は、ある日お父さんに初めてねだって杉の苗七百本を買ってもらい、一生懸命植えて守り育てました。それが杉林に成長し、いつしか近くの小学校の子供たちがやって来ては、喜んで遊ぶようになったのです。虔十は見てうれしそうに笑っていましたが、ほどなく疫病で死んでしまいます。 年月は流れ、ある時この杉林でかつて遊んでいた子どもの一人が、立派な博士となって外国から帰国し故郷を訪れました。彼は、開発によって村の風景がすっかり様変わりしてしまった中で、あの虔十の杉林だけが残っているのを見つけ、感動して言います。「あゝ全くたれ(誰)がかしこく、たれ(誰)が賢くないかはわかりません。」。鉄道が敷かれ、工場や家が立ち並ぶ中で、濃い緑の樹木が立ち並ぶその場所だけは残され、人々の憩いの場所となっていました。博士の提案で、この杉林は「虔十公園林」と名付けられ、いつまでも保護されることになりました。
 「賢い人」とは、必ずしも知識のある立派な人のことなのでなく、虔十のように、ぼくとつでも人々の幸せのために何が本当に必要か知っている人なのだ、とこの物語の著者は伝えます。樹木は新しい空気を吐き出し、暑い夏には木陰を作り、美しい緑色は人々の目を癒やします。人にはかけがえのないものです。

岩の上に家を建てた人

 ところで聖書は、「賢い人」をどう教えているでしょうか。イエス様は山上の説教で、群衆に幸せとはどんなことなのかを教えられ、続いて天の父なる神様に信頼する生き方について、たくさんのことを教えられましたが、その最後に「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」と言われました。主のみことばを聞いて行う人が「賢い人」だと言われたのです。そしてその人を、「岩の上に自分の家を建てた」人にたとえられました。岩は固くて丈夫です。岩の上に土台を据えて家を建てれば、簡単に倒れることはないでしょう。この岩とは、主のみことばを聞いて行う信仰のことです。これに対して、主のみことばを聞いてもそれを行わない人を「砂の上に自分の家を建てた愚かな人(マタイ7:26)」にたとえられました。砂の上の家は、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、(同7:27)」ひどい倒れ方で倒れてしまいます。ここで言われた洪水や風は人生に起こる困難のことです。主のみことばを聞いて行う人は、困難がやって来ても簡単に倒れてしまうことはないのだと教えられたのです。

主の教えを行う

 私たちの信仰の土台は岩の上に据えられているでしょうか、それとも砂の上でしょうか。私たちが普段順調に生活している時には、それがどちらなのか見えません。しかしふいに困難がやってきた時、その土台がどちらに建てられているのかがわかります。
 普段の生活の中で、私たちは、毎日小さなことから大きなことまでいろいろな困難に出会います。職場の上司に、同僚に、あるいは部下に、一言悪く言われただけで、落胆や怒りの思いに支配され、一日中悶々として仕事に集中できません。また経済においても、収入が減ったり思わぬ出費がかさんでしまい、今月はやっていけるだろうかと心配で平安がありません。一生懸命勉強したのに、学校のテストで目標の点数が取れなくて、自分はなんてだめなんだと落ち込んでしまいます。また大きなことでは、予期しない災害があります。先日熱海市で起きた大雨による土石流災害では、一瞬のうちに多くの家の建物が倒壊してしまいました。「まさか明日から家に住めなくなるとは思わなかった。」と被害者の方は言われました。私たちはふいにやって来る困難に弱いのです。それは砂の上に据えられた信仰でしょう。
 しかし主が教えられたように、もし岩の上に信仰の土台が据えられていれば、つまり普段から神様のみことばを行おうとしていれば、困難の時すぐに主のみことばを思い起こし、主に信頼することができます。人間関係で悩む時、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」と主は言われます。経済を心配する時、「明日のことまで心配しなくてよいのです。(同6:34)」と言われます。自分はできないと落ち込む時、「求めなさい。そうすれば与えられます。(同7:7)」と言われます。主のみことばを聞いて行おうとする人は、困難の中にあっても、倒れそうでも倒れないのです。

賢い人になろう

 冒頭の童話の博士は、「あゝ全くたれがかしこく、たれが賢くないかはわかりません。」と言いましたが、本当に賢い人は、神様に信頼し、みことばを聞いて行おうとする人です。それがすべての人の幸せのために、本当に必要なことです。父なる神様は私たちを愛してくださり、私たちに必要なものを知っておられ、心と健康を守り、何でも与えてくださるお方です。このお方に信頼し、賢い人になって参りましょう。

21.07.11 神のことばが全身の癒やしとなる

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「箴言4:20-22 わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」

世界最高齢の総務部員

 昨年の暮れに、大阪のねじの商社に勤務する女性社員が「世界最高齢 総務部員」としてギネス世界記録に認定されました。玉置泰子さんという方で、入社して65年目の大ベテランです。現在91歳で、平日朝9時から夕方5時までフルタイムで働いています。パソコンの使い方を若い社員から教わり、表計算のソフトを使いこなせるようになったそうです。「難しくないですか?」との質問に、「いろんな機能がありますから、そんなのを使ってやれば意外と誰でもできる簡単な仕事だと思いますよ」と答えていました。27歳の同僚の女性は、「高齢になってもいろんなことに挑戦している姿を見たら、私ももっと頑張らないといけないと勇気づけられますね。」と話していました。玉置さんは、「会社での生活は楽しいから、朝会社に来るのは足が進む」と言います。新入社員の研修も担当していますが、背筋もきちんと伸びていて、ハッキリと言葉を口にして話していました。91歳という年齢をまったく感じさせない雰囲気です。高齢になって、健康でいられるだけでも感謝なことですが、他の人たちと同じように働くことができるというのは、やはり仕事が好きで楽しんでいることが一番の原動力ではないかと思います。

何となく疲れている

 私たちも、仕事や趣味、スポーツなどに夢中になっている時には、多少からだに痛みがあったとしても、そのことをすっかり忘れて目の前のことに没頭していたということがあると思います。反対に、特に大きな病気にかかっているというわけではなく、普通に働いて生活しているだけなのに、何となく疲れていてやる気が出なかったり、何をしてもつまらないと感じてしまうということもあったりします。そのような状況が続くと、頭が痛い、めまいがして気持ち悪い、食欲がなくなるという症状として表れてきます。「病は気から」とよく言われますが、私たちの心と体は密接につながっているということを表している言葉だと思います。
 修道女として貧困や病に苦しむ人々に関わり続けてきたマザー・テレサさんは、30年以上前に来日した時の日本人の印象についてこう述べています。「日本では路上で行き倒れて死んでいく人、膿(うみ)にまみれてハエにたかられている人はいません。しかし、日本を歩きながら大変なショックを受けました。街はきれいだし、とても賑わっているのに、その街を歩く人たちの顔に笑顔がないのです。皆さんの悲しそうな表情が心に焼きつけられました。」と話しています。食べることができている、住まいもある、働くこともできている、何不自由なく満たされている暮らしであるはずなのに、何となく心に喜びがなく、それが表情に表れているということだと思います。私たちの心は、放っておくと少しずつ悪い考えに支配されて行きます。それは、ある日突然落ちていくということではなく、毎日少しずつ変化して行きます。

神のことばを見失っていないだろうか

 もし今、私たちの心に喜びがない、体が疲れてしまって何となくやる気がないと感じるというようなことがあるとしたら、その原因は周りの環境にあるのではなく、私たちの心が神様から離れてしまって、神のことばを見失っているからではないでしょうか。神のことばを知ってはいても、聞こうとしていないからではないでしょうか。私たちは、神のことばを聞かなければ、自分の考えに支配されてしまいます。人間関係のことで悩んだり、恐れたりして、あれこれと考えて疲れ果ててしまいます。すると、仕事も勉強も家事もやる気が起きなくなりますし、立ち上がることすら出来なくなって行きます。

いやし主を求める時 健やかにされる

 あなたが、「私は神様を信じています」と言うならば、まず、いやし主であられる神様ご自身を求めるべきです。体調が悪い、頭が痛い、何となく疲れている、やる気が出ないと感じる時だからこそ、主を求めて礼拝に来るべきであります。「こんなみじめな状態で、人が集まる場所にはいけない。みんなが私のことを見てどう思うだろうか。」などと考えたりするかもしれません。ですが、「主はいやしてくださる」という信仰を持って礼拝に、教会に来るならば、あなたは必ずいやされます。信仰を持って、ご奉仕に参加し、学びに参加し、セルに参加するならば、あなたはいやされます。今、主のみもとに行くことを選択するべきです。
 12年もの間、長血をわずらった女性は、イエス様のうわさを聞きつけて、イエス様のもとに近づいて行きました。彼女には信仰がありました。「あのお方の衣のすそにでも触ることができればきっといやされる」という信仰がありました。イエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。(マルコ5:34)」と言われました。私たちは、信仰を持って御前に進み出る時に、いやされ健やかにされて生きられる恵みに感謝したいと思います。神のことばが心の中にとどまるならば、仕事にもやる気が持てますし、人を愛そうという思いも湧き上がってきます。良い生活習慣を築いて行こうという思いも湧いてきます。私たちは、神のことばによって全身が健やかにされることを信じます。何よりもまず、神のことばを聞く者となりましょう。

21.07.04 神を思う日

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「出エジプト20:8-10 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。」

安息日

 神様は七日ごとに休みを取るという「安息日」を制定されました。現代では一週間に一回の休日は当たり前となっていますが、これは聖書に由来します。
 神様は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民をモーセを用いて救い出されました。民は約束の地へ向かって荒野を旅しましたが、その途上で神様は彼らに、代々に渡って守るべき掟として「十戒」を与えられました。それはモーセの律法と呼ばれる十の戒めで、その四番目の戒めが冒頭のみことばです。
 神様が安息日をイスラエルの民に与えられたのは、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったこと、そして神様が大いなるみわざをもって、そこから救い出し、自由にしてくださったことを覚える日とするためでした。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。(申命記5:15)」。そして神様は、民が安息日に食物の心配をすることのないように、その前日に安息日の分の食物(マナ)を与えてくださいました。それほど安息日を重要な日とされたのです。安息日は民が日常の仕事を中断して休み、静かに落ち着いて、神様がしてくださった大いなるみわざを思う日です。

日曜礼拝

 モーセの律法では「七日目」が安息日ですから、もともと安息日は土曜日でした。しかし、イエス・キリストを信じる私たちクリスチャンの安息日は、週のはじめの日、すなわち日曜日です。それは、イエス様が復活された日、復活後に弟子たちにあらわれてくださった日、そしてイエス様が昇天された後、集まって祈っている人々に聖霊が降った日(ペンテコステ)というように、クリスチャンにとって重要な日がすべて日曜日であったからです。ですから、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝をします。日曜日には特別に教会に集まって、皆で一緒に神様に賛美と感謝を捧げるのです。

聖なる日

 ところで、神様は安息日を「聖なるものとせよ。」と言われました。「聖なる」というのは「取り分けられた」という意味です。神様は、この日をほかの日から取り分けて、特別に神を思う日としなさいと言われました。私たちは、月曜日から土曜日までは、それぞれに仕事に出かけたり、学校で勉強したり、あるいは多くの人は平日にもう一日はお休みがありますから、買い物や遊びに出かけたりして楽しみます。週のうち六日間は自分の生活や自分の楽しみのために、思い思いに過ごしてよいのです。しかし日曜日だけは、自分のためではなく、神様を礼拝するために特別に取り分けておきなさい、ということです。日曜日にわざわざ仕事や遊びの予定を入れないということです。
 イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。何をおいても神様を礼拝したい、教会で賛美と感謝を捧げたいと願う人々に、神様は生活に必要なすべてのものを与えてくださると約束してくださいました。
 人によっては日曜日が仕事の職業もあります。たとえば警察官、消防士、交通機関で働く人などです。その場合は自分の意志ではどうにもならないことですが、それでも神様のことを思う日にしたいと思います。また自分の意志でどうにかなる場合は、なるべく日曜日が休めるように希望することが望ましいことです。また自分の休みが日曜日でない場合は、週日の休みの時を、一日神を思う日として取り分けたいと思います。神様は私たちが日曜日に礼拝を守ることを喜んでくださいます。

神を思う日

 私たちは日頃それぞれに問題を抱えて生活していますが、日常の忙しさに紛れて、つい神様の御声を聞くことを忘れて思い煩っているような者です。ですから日曜日に集まって礼拝を捧げることは、クリスチャンにとって大きな恵みです。
 礼拝の中で、神様に思いを向けることによって私たちは神様の大いなる愛を思い起こし、心身が癒され、問題の解決が与えられます。
 主を信じる兄弟姉妹と心を一つにして神様を賛美し、聖書を読み、祈り、語られるメッセージを聞くことによって、心の向きが、煩いから神様の方向へ変えられます。
 そうして私たちは、ともに歩んでくださる神様との関係を取り戻し、みことばによる導きをいただいて新しい一週間を始めることができます。
 日曜日は神様を思う特別な日です。私たちは日曜日を待ち望み、心からの喜びを持って礼拝を捧げて参りましょう。

2021年 テーマ
「神の愛を知ろう」

Ⅰヨハネ 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。