20.06.28 いのちの重さ



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「マルコ8:36-37 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」

京アニ放火殺人事件

 昨年七月、京都で放火殺人事件があり、その犯人である青葉真司容疑者が先月末に逮捕されました。京都アニメーションの建物に侵入し、ガソリンをまいて放火したため、建物内はまたたく間に火に包まれ、36名が死亡するという大惨事になりました。青葉容疑者本人も全身にひん死の大火傷を負いましたが、医師たちの懸命な治療によって命を取り留め、10ヶ月も経った先月、治療中のままで逮捕されました。まだ体を動かすこともできず、担架で運ばれる痛々しい姿でした。
 その翌々日の新聞のコラムで、彼を治療した医師が、「生かすことが被害者や遺族のためになる」と話したと知り、しばらくそのことばが心を離れませんでした。確かに遺族の方々の心を思い計ればその通りでしょう。法で正しく裁かれてほしい、心からの謝罪をしてほしい、相応の刑罰を受けてほしい、という思いは切実にわいて来ることでしょう。しかしどうしても気になり調べてみると、医師団の中には「生かして事件を解明してほしいという気持より、とにかく目の前にいる患者に対して、全力を尽くしたいという思いだった。」と回想される方もいて、少しほっとしました。青葉容疑者はリハビリを嫌がり、「どうせ死刑だから」と口走ったりしたそうですが、医師に対して「他人の私を、全力で治そうとする人がいるとは思わなかった」とも漏らしたそうです。いのちの重さを考えさせられました。

指殺人(ゆびさつじん)

 一方、いのちを助けることのできなかった事件がありました。ネットフリックスで配信されていたある番組に出演していた、若い女子プロレスラーが誹謗中傷に会い、自殺に追い込まれた事件です。番組の中での彼女の言動に対して、「死ね」「気持悪い」「消えろ」など、一日100件以上のSNSの書き込みが殺到し、彼女は悩む中で自らのいのちを断ってしまいました。母親に相談もしていたそうですが、それでも死を食い止めることはできませんでした。あまりの痛ましさに思わずことばを失いました。加害者に怒りを覚える人も多いでしょう。
 同じような事件はすでに国内外で起こっており、スマホやパソコンで書き込むことで人を死に追いやるので、「指殺人(ゆびさつじん)」と言われるそうです。事件後、書き込みは続々と削除されているそうです。せめて人々が事の重大さに気づき、人のいのちの重さについて考え始めるきっかけとなるようにと願います。そして誰もが加害者になり得ることを忘れてはなりません。

「殺してはならない」

 イエス様は、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)」と教えられました。モーセの律法は「殺してはならない(出エジプト20:13)」と命じていますが、イエス様は、殺人という行為だけがさばかれるのではなく、怒りとか、さげすみといった「心の思い」も同様にさばかれるのだと教えられました。
 聖書には、「舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています(ヤコブ3:8)」とあります。心の中で思ったことをよく考えずに口に出してしまったり、書き込んでしまった時に、それは人のいのちを奪うほどの威力を持つものとなります。一番大切なことは私たちの心が、人を愛する心に変えられることです。

いのちの重さ

 神様は人を特別に愛してくださり、神様の似姿に造られました。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』(創世記1:26)」。神様は姿形はお持ちではありませんから、人は心が神様の形に似せて造られているのです。そして神様は人に、ほかの被造物を支配させました。人のいのちは、ほかのどの被造物よりも価値あるものとして、特別に造られたものなのです。だから何より大切なのです。
 そしてそればかりではなく、神様は人が滅びることのないように、人の罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架につけてくださいました。どの人のいのちも、神様が身代わりとなってくださるほどに大切な価値あるもの、その重さは、全世界のすべてのものよりも重いのです。私たちは、自分のいのちを愛するのと同じように、人のいのちを愛する者となって参りましょう。

20.06.21 神に近づく



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「ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」

ソーシャルディスタンス(社会的距離)

 今、盛んに「ソーシャルディスタンス(社会的距離)を保ちましょう」と呼びかけられています。テレビの番組で、2mのソーシャルディスタンスを保つのに、ご当地の物にたとえて測っていました。青森県は、りんご約24個分、愛媛県は、動物園にいる有名なシロクマの体長が約2m、岩手県は、名物のわんこそばの、おわん20杯分、地元愛知県は、金のシャチホコのレプリカの横幅が2mになるそうです。実際に試そうとするなら、大人同士が両手をまっすぐ伸ばし、二人の指先の間隔を少し置いて立ってみると、ちょうど2mぐらいの距離を保つことができます。
 これは、意識的に距離を置こうとしていることですが、私たちの普段の生活でも無意識のうちに距離を置いていることがあります。いわゆる、パーソナルスペースと呼ばれるもので、「これ以上近づいて来られると不快に感じる距離」のことです。動物でも、犬などは縄張りの意識が強いので、自分のテリトリーに入ってくると、吠えることで相手を威嚇します。自分の身を守るためにそうしています。同じように私たちも、相手によって自然と距離を保つようにしています。エレベーターに乗る時、知らない人と二人になる状況であれば、自然と距離を置きますし、すぐ隣にいたら不自然ですし、不快に感じることでしょう。電車に乗るときも、空いていれば、できるだけ人と距離を置いて座ると思います。そこに、たまたま知り合いの人が乗ってきたとしたら、隣に座っても自然なことだと思います。

心の距離感

 その距離感は、物理的な距離であるとともに、心の距離でもあります。それは、自分が接する人によって変わります。職場での上司との距離感、仲のいい同僚との距離感、昔からの友人との距離感、恋人との距離感、親子の距離感、夫婦の距離感、それぞれ相手との関係性によって異なります。初対面の人から、自分のことについて根掘り葉掘り聞かれたら、こころよく思う人はいないと思います。反対に関係が深くなってくれば、冗談を言っても通じることもあるかもしれません。
 人と関わりを持つ中で、人との距離感を保つことが、とても難しいと感じている人もいると思います。「こんなこと聞いたら嫌がられるかもしれない」「私のことをどう思っているのか」と考えたりすると、なかなか関係が深まることがなかったりします。表面的な話はいくらでもできても、言い争いがあったり、嫌な面などが見えてくると、自分から関わるのを避けたりするようになり、「なかなか上手くいかないな」と悩み始めます。それは、子供でも大人でも、どんな関係においても起こり得ることだと思います。

神様との距離感

 私たちが人間関係において祝福されるためには、神様との関係が正しくされなければなりません。私たちと神様との間に距離はないでしょうか。「何となく近づけない」「近づきたいという思いにはならない」と感じることがあるかもしれません。神様との距離があって、離れていると、罪に対して鈍感になっていきます。罪を犯しても、罪だとはっきりわかっているのに、「他の人もみなやってることだし、これぐらいのこと別にいいじゃん」と、自分を正当化して、罪を素直に認めることができなくなっていきます。自分が抱えている問題に対しても、神様にではなく、自分で答えを求めたり、世の中に答えを見出そうとしてしまいます。私たちの内側に抱えている根本的な問題は、神様に求めていかなければ解決には至りません。そのために、私たちは自分から神様に対して心を開いていく必要があります。

神様に近づく生活 

 神様は、私たちの一番近くにおられ、誰よりも私たちのことを知っておられます。そして私たちから離れることは決してありません。離れていくとしたら、私たちの側から離れていく時だけです。人間関係も、相手が自分に対して好意を抱いて近づいて来たとしても、自分が心を開くことがなければ、その距離は縮まりません。ですから、私たちは主に対して心を開くならば、神様に近づくことができます。もし近づくことに抵抗を感じるとしたら、自分自身の中に抱えている問題が明らかになることを恐れている何かがあるのかもしれません。
 私たちが神に近づくためには、祈らなければなりません。素直な心で主に祈る時、主は近づいてくださいます。私たちが罪を正直に言い表す時、主は目の前におられて、赦しを宣言してくださいます。私たちが主を賛美するとき、主は目の前におられて喜んでおられます。私たちが、苦しみの中にあって、その思いを主に祈る時、主はそばに寄り添ってくださり、慰めてくださいます。いつもともにいてくださる神様とともに過ごす中で、問題の解決が与えられ、罪が示されて赦しをいただき、平安を得ることができるのです。神様から離れないで生活をするために、私たちは祈り続けてまいりましょう。

20.06.14 時間を彫刻する



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「伝道者3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

ウエスト・サイド・ストーリー

 「ウエスト・サイド・ストーリー」というミュージカルがあります。あの「サウンド・オブ・ミュージック」と並んで、ミュージカルの2大古典と言われる名作です。物語は人種差別がテーマで、現代版「ロミオとジュリエット」と呼ばれます。ポルトガル系白人の不良グループの元リーダートニーと、プエルトリコ移民の不良グループのリーダーの妹マリアとの悲劇の恋物語です。
 しかしこのミュージカルのすばらしさは、何と言っても音楽にあります。1957年の初演から現代まで、このミュージカルがまったく色あせることなく人の心を捉えるのは、中で歌われる曲が珠玉の名曲揃いだからです。題名を知らなくても、メロディーを聴けば、おそらくほとんどの人が「ああ、このメロディーか」と思うことでしょう。クラシック音楽を基盤としながらジャズやロックなどをみごとに融合させたサウンドは鮮烈でインパクトが強く、聴く人を魅了するのです。このミュージカルを作曲したのは、アメリカの偉大な音楽家、レナード・バーンスタインです。

時間を彫刻する

 レナード・バーンスタインは、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団などで活躍した、アメリカで最初の世界的な指揮者であり、ピアニストであり、作曲家です。 指揮台でジャンプするなどダイナミックな表現が特徴で、日本を代表する指揮者の小澤征爾や佐渡裕も彼に師事し、大きく影響を受けています。日本にも7回ほど来たことがありますが、1985年には広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催しています。若い音楽家を育てることにも熱心で、晩年には札幌で国際教育音楽祭を創始し、それは今も受け継がれています。
 彼のことばに、「指揮者は時間を彫刻する」というのがあります。音楽は「時間の芸術」と言われますが、演奏は一度はじめると終わるまで止めることができません。一度出した音は取り消すことができないのです。だから演奏者は正確に演奏できるように必死で練習をします。そして指揮者は楽譜を熟知し、正確に合奏ができるよう大勢の演奏者に指示を出します。その際、ただ楽譜を再現しているわけではなく、作曲家の意図を汲み取って、それを自分の音楽性を通して伝えます。同じ曲でも指揮者によって、テンポや曲想が大きく異なるわけです。それをバーンスタインは「指揮者は時間を彫刻する」と言ったのでしょう。

時間を支配しておられる主

 ところで、時間は神様が創造されました。聖書の冒頭には、「はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)」とあります。この「はじめに」というのが、時間の始まりです。聖書には、「山々が生まれる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神です。(詩篇90:2)」とありますが、神様は永遠のお方であり、天地が創造される前から存在されていました。そして時間を支配しておられるのです。地球は、自転しながら一年に一回毎年365日5時間48分45.578秒で精密に太陽の周りを一周します。(一年は365日ですが、365日より多い時間は閏年(うるうどし)で調整します。)そして神様は、主権を持ってなさりたいことをされるお方です。神様はあらゆるできごとを、完璧なタイミングで起こされているのです。 それはまるで指揮者が、与えられた時間の中で正確に、また個性的に一つの曲を演奏するようなものかもしれません。

限られた時間

 人は誰でも、いつかはやがて死ぬことを知っています。人に与えられた時間は限られているのです。しかし多くの人は、死について真剣に考えません。人は自分にとって都合の悪いことは後回しにしてしまうものです。
 聖書には、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)」とあります。私たち人間は罪あるゆえに滅びることが確定している者です。しかし、神様はイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださり、信じる者が滅びることなく、天国へ行くことができるようにしてくださいました。
 神様は信じる者がみこころに従うことができるように、その日その日にすべきことを与えてくださいますが、その途上で私たちは、時に道をはずれてしまうこともあります。しかし神様はすべてを益としてくださり、神様の道へ引き戻してくださる方です。このようにして、神様は私たちの地上での限られた時間を彫刻して、私たちの人生を美しい芸術作品に仕上げてくださるのです。

20.06.07 事を行わせてくださる方



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「ピリピ2:13-14 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」

集中力が成果として現れる

 石川県に、タイピング日本一の女子高校生がいます。彼女は、中学生の時に、タイピングの速さを競う大会で優勝しました。その速さは、5分間で何と1265字という驚異的な速さです。1秒間に4.2字というスピードです。しかも、変換ミスは1字もありません。一般的な社会人のスピードが5分で200字程度と言われているので、約6倍の速さになります。まるで機械のような速さと正確さで、カタカタカタカタとひたすら打ち続けます。毎晩、自宅のパソコンに向かって新聞のテキストなどを入力しているそうです。きっかけは、お母さんが自宅でパソコンを使って仕事をしている姿を見て、手伝ってあげたいというところから始まり、同級生とタイピングの速さを競っているうちにのめり込んでいったそうです。速くかつ正確に行おうと思うと、やはり集中力なくして成し遂げることはできません。いかに集中して取り組むことができたかということが、成果に大きく現れてくることになります。

誰でも多くのことを成し遂げることができる

 将棋界で中学生という若さで、史上最年少プロ棋士となった藤井聡太さんは、先日、これまた史上最年少となる「タイトル挑戦」という記録を31年ぶりに更新しました。彼が幼い頃通っていた将棋教室の先生は、「集中力がすごい。教室に入った瞬間から、水を得た魚のように、将棋を楽しんでやっている」と言っています。あんなに注目されている、期待されている中で、さらには、現場では多くの人がいて、対局の様子を見ている全国の視聴者の視線があるという様々なプレッシャーを感じる中で、相手に勝つことができるのは、集中力なくしてはできないことです。
 私たちが彼の姿を見る時に、「すごいな。彼には素質があったのだ」と感じたりします。確かにそういう面もあるかもしれませんが、私たちも将棋ではなくても、集中力を持って事に当たるならば、多くのことを成し遂げていくことができます。実際、自分が楽しいと感じることや、好きなこと、得意なことをしている時、また多少の緊張感を持って何かをしている時は、集中して行なっていることだと思います。「この試合は絶対に勝つんだ」「この仕事を今日中に必ず終わらせる」と意気込んでいるときは、ただ目の前のことだけに意識が集中しているはずです。新しく働き始めた会社では、最初は何もわからないので、とにかく教えられた事を忠実に果たそうとします。余計な事を考えることがないので、上手くいったということがあります。

集中できないという問題

 しかし、日々の仕事や勉強の中で、集中してやりたいと思ってはいてもなかなか集中できないということはないでしょうか。普段の会話の時には、自分の言いたい事を言えたりしても、人前で発表するとか、話すとか、人が聞いているところで歌うとか、人が見ている前で字を書いたりということがあると、急に普段通りにできなくなるということがあったりします。一人の時にはできていた仕事も、近くに誰かがいると集中できなくなったりすることもあるかもしれません。「きちんとできるだろうか」「失敗したらどうしよう」「このやり方でいいのだろうか」といった様々な不安や焦りによって、集中することができなくなっていきます。すると、本来なら十分に発揮されるはずの能力が発揮されずに終わってしまうということになってしまいます。
 反対に、一人になるので集中できないということもあると思います。今、テレワークで働く人が増えていますが、「会社で働いていた時に10分で終えることができた仕事が、自宅で行うと1時間もかかってしまった」と言っている人もいます。「見られている」という人の目がなくて集中できないということがあります。会社であれば、多少「面倒臭いな」と感じることであっても、指摘をしてくれる人がいるので出来ていたことも、家に一人でいると誰にも言われない環境になるので、「やる気が出ない」「面倒臭い」と感じると、仕事以外のことを考え始めたりして、どんどん時間が過ぎていき、一日終わって、仕事がほとんど進んでいなかったということになりかねません。

イエス様に心を集中させる 

 私たちは、様々な思いが心の中にやってくる中で、イエス様に心を向けなければなりません。イエス様が湖の上を歩いて弟子たちの方へ来られた時、ペテロは舟から出てイエス様のもとに歩いて行きました。しかし、強風を見て怖くなったとき、沈みそうになりました。イエス様から目を離してしまったからでした。
 私たちもイエス様から目を離せば、信仰をなくし、あらゆる疑い、心配が襲ってきます。人前で集中できないという人が、周囲の視線がある中で、主に祈らなければなりません。主に祈る時に、「わたしに委ねなさい」と語られ、「主よ、どのような結果になろうとも、御心だけがなりますので、あなたに委ねます」と祈る時、主は私たちとともに働いてくださって、事を行わせてくださいます。一人でいるときに集中できない人が、あれこれ考え始め思い悩む時に、主に祈らなければなりません。主は、「あなたの思い煩いを委ねなさい」と語ってくださり、「私は自分であれこれと考え心配していて、全く主に信頼していなかった、今自分で考えるのをやめて、主が『今やるべきことをやりなさい』と言われるのでやります」と言って従おうとする時に、主は私たちのうちに働いてくださって、事を行わせてくださるのです。
 私たちの心が、ただイエス様だけに向けられ、起きている事態を主に委ねていくとき、主がともに働いてくださり成し遂げてくださるのです。

20.05.31 光に向かう



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「詩篇56:13 まことに あなたは救い出してくださいました。 私のいのちを死から。 私の足をつまずきから。私が いのちの光のうちに 神の御前に歩むために。」

光の方へ向くポトス

 家の玄関に、ポトスの鉢植えがあります。10年以上前にいただいたものですが、今でも元気に育ち、青々とした葉がどんどん増えて行きます。伸びた茎を切って水に入れておくと根が張り、またそれを別の鉢へ植えてと楽しんでいます。玄関は北向きですが、西側にわりと大きい窓があってそこから光が入ります。ですから、玄関のポトスの葉の面は一斉に窓の方に向いています。その様子はまるで、教室で一斉に先生のお話を聞いている小学生のようで、かわいらしくもあります。あまりに西側に片寄るので、鉢を180度まわして、葉をぐるっとこちら側に向くようにしても、毎日少しずつもとに戻って行き、数日経つとまた元のように、葉は一斉に窓の方を向いているのです。いつの間に!という感じです。貪欲に光を求めて、ぐいぐいと向き直って行く様子は、力強く、健気でもあり毎日眺めるのが楽しみです。

良いニュースを聞く

 1年ほど前から「ファクトフルネス」という本が話題になっているそうです。さまざまな分野での世界の現状を、ほとんどの人が、データや科学によらず思い込みで認識しているという話です。世界情勢をクイズ形式で尋ねると、いわゆる有識者と呼ばれる人ほど正解率が低いそうです。たとえば、「世界の人口の何パーセントが低所得国に住んでいる?」と尋ねると多くの人が三択で一番大きい数字を選びます。しかし答えは「9%」で非常に少ないのです。この20年間で低所得者は半分に減っているという事実を、多くの人は知らないのです。その原因の一つは、報道が偏っているからだということです。飛行機が墜落したというのはニュースになりますが、無事目的地に到着しました、というのはニュースにはなりません。今、コロナ禍の報道にもそんな面があるのかもしれません。私たちはそんな報道を毎日聞いているうちに、世界はだんだん悪くなって行くと思い込んでしまうのです。問題に注目することも大切ですが、良いニュースにも注目しなければ、ものごとの正しい判断ができなくなるという警告です。
 そう聞くと、私たちの日常生活も、その通りではないかと思わされます。私たちも、目の前に次々と起こる問題に捕われて、これを解決してくださる方がおられる、ということに目を向けることを忘れていることはないでしょうか。

キリストの方へ行く

 ルカによる福音書に出てくるザアカイは取税人でした。取税人はイスラエルの社会では、罪人とされていました。取税人は敵国ローマへ納める税金を取り立てるのが仕事でしたから、人々から嫌われていました。お金持ちでしたが孤独だったのです。そのザアカイが、イエス様が彼の住む街へ来られると聞いて、出かけて行きました。人々から隠れるようにして暗闇で生きていた彼が、主という光の方向へ向かって行ったのです。イエス様は、いちじく桑の上にいたザアカイに「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(ルカ19:5)」と声をかけてくださいました。食事の席でザアカイは、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。(ルカ19:8)」とイエス様に言いました。彼はイエス様と出会って回心したのです。イエス様は、「今日、救いがこの家に来ました。(ルカ19:9)」と言われました。ザアカイは暗闇の世界から、光の中へ引き上げられたのでした。

光の中を歩む

 主は光であられます。イエス様は、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネ12:46)」と言われました。 主は光として、信じる私たちの中に住むために来てくださいました。私たちは罪ゆえに暗闇の中を歩んでいた者でしたが、キリストを信じて罪赦され、永遠のいのちが与えられ、光の中を歩む者に変えられました。これが良いニュース、福音です。誰でもこの良いニュースに耳を傾けなければなりません。
 私たちは日常生活を歩む中で多くの問題をかかえて、時に困り果ててしまう者です。しかし、主はこれを解決してくださる方です。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」。私たちのすべきことは、どんな悩み苦しみの中でも、ともにいてくださる主を仰ぎ見て、祈り求め続けることだけです。光の方へ力強く葉を向ける植物のように、いつもキリストに心を向けて、キリストの光の中を歩んで参りましょう。

20.05.24 裏方の人



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「ヨハネ1:40-42 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った』と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」

登山のロケ

 先日テレビで、アドベンチャーレーサーの田中陽希さんが日本の百名山、二百名山などの山を踏破する映像を見ました。切り立った雪山を登って行く映像、そのときの彼の真剣な横顔、その姿をはるか遠く上方から見下ろす映像。すごい!こんなに高くて険しいところを登っているのか、と驚きつつ、ちょっと待って、これ誰が写してるの?一緒に登っているどころか、先回りして撮っているということだよね、と興味がわきました。田中さんはプロのアドベンチャーレーサーなので、コースタイムの半分で登頂してしまうということですから、着いて行くだけでもすごいことだと想像がつきます。調べてみるとやはりスタッフもただ者ではなく、田中さんと同じスピードで着いて行き、近い距離で撮影しているのは、田中さんと同様に日本を代表するアドベンチャーレーサーであり、引きの撮影をするのは世界的な登山家であり写真家の方でした。ほかにも数名のスタッフが着いて行きます。メインで写るのは、田中さんですが、その背後に精鋭のスタッフがいて、この迫力ある映像が届けられているわけです。

裏方の働き

 また、日本伝統芸能の一つ、薩摩琵琶奏者の友吉鶴心(ともよしかくしん)さんという方がおられますが、彼は大河ドラマにも出演したり、芸能に関する指導や考証をしておられます。インタビューで「琵琶という伝統芸能に比べると、大河ドラマは一段低いエンターテイメントではないですか」と尋ねられた時、即座に、「違います。同じです。」と答えられたそうです。たとえばドラマの一コマでは、俳優が演じている背後に木々が映し出されるが、その背後には木々に扇風機で風を送るスタッフがいる、俳優もそのスタッフもその一瞬に命をかける、自分も琵琶演奏に命をかける、だから重要なのは、皆同じなのだということでした。
 聖書の中で、パウロは教会を「キリストの体」にたとえました。キリストが頭で、信徒は体の各器官です。そして、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(Ⅰコリント12:22)」と言いました。映像であっても、また教会の働きであっても、一つのものを作り上げる時、表に見えるものだけが重要なのではなく、裏方の働きも表の働きと同じように、またそれ以上に必要であるということでしょう。

アンデレの働き

 イエス様の十二弟子の一人であるアンデレは、裏方の役割をした人でした。彼は、はじめバプテスマのヨハネの弟子でしたが、師であるヨハネがイエス様が歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊(ヨハネ1:36)」と言ったとき、すぐにもう一人の弟子と一緒にイエス様について行きました。そしてイエス様が泊まっておられるところを確認すると、彼の兄弟であるペテロに「私たちはメシアに会った」と知らせ、イエス様の元に連れて行きました。ペテロに伝道したのは、アンデレだったのです。
 また、イエス様が五千人の給食の奇跡をされたとき、イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。(ヨハネ6:5)」と尋ねましたが、アンデレはそれを聞いていて、群衆に尋ねてまわったのでしょう、彼はイエス様に、「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。(ヨハネ6:9)」と知らせました。イエス様はそれを用いて、五千人の人々に食事を与えたのです。彼はいつも主の働きのために、目立つことなく、重要な役割を果たしていたのでした。

一緒に登ってくださる方 

 この世のすべてのものを創造された真の神様は、まさにこの世界の歴史の主役であられます。この世に起こるすべてのできごとを支配しておられるお方です。決して裏方ではありません。しかし、登山家が険しい山をあえぎながら登るその背後に、それを見守り撮影するスタッフの存在があることを思う時、神様はそのように背後から、また時には先回りして、まるで裏方のように、信じる私たちの人生を導いてくださるのだと思わされました。
 私たちの日常は、まるで登山のように困難に満ちています。これを避けて通ることはできません。しかし私たちには一緒に登ってくださるお方がおられることを忘れてはなりません。主はみことばによって慰め、勝利させてくださるお方です。どんな時にも私たちは一人ではありません。主とともに歩んで参りましょう。「主によって 人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも 倒れ伏すことはない。主が その人の腕を支えておられるからだ。(詩篇37:23-24)」

20.05.17 新しい生活



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「Ⅱコリント3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

日本人は世界一清潔 

 江戸時代、日本を訪れたドイツの実業家、考古学者であるシュリーマンは、江戸の街で日本の文化を知り、「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」と後に著書に記したそうです。日本が世界でも稀な清潔好きな民族であることは、昔から今に至るまで多くの人が驚嘆をもって話題にしています。1918年にロシアで開催されたラグビーワールドカップでは、日本が敗戦した後、日本人のサポーターがスタジオを清掃する姿が世界で称賛されました。特にフランスのメディアは「日本人の清潔さ」を特集し、「各国が感銘を受ける美しい精神だ」と絶賛したそうです。
 確かに、日本の観光地や駅などのトイレが、過剰とも思えるほどに設備が行き届いていることや、道にごみ箱がないのにごみが落ちていないことなどは、外国人観光客が一様に驚くことのようです。しかし中には、今の日本人の清潔志向を異常だとして、その危険性を警告する学者もいます。常駐菌やにおいを過剰に排除していくと、免疫力が落ちてウイルスに勝てない弱い体になってしまうということですが、少数派の意見のように感じます。

新しい生活様式

 今月はじめに、政府の新型コロナウイルス対策として、緊急事態宣言の期限が延長されましたが、その際に「新しい生活様式」という提言がなされました。どんな生活だろうと読んでみると、手洗い、マスク、換気をする、人との間隔を空けるなど、今までとそれほど変わりませんでした。中には、食事は対面を避けて横並びをしようとか、おしゃべりより料理に集中しようとか、本当に守れるかなあ、というものもありました。
 この提言を読んで感じたのは、手洗いやマスクといった清潔に関することで言えば、外国人が認めるように、清潔好きな日本では元から多くの人が実践していたということです。特にマスクは、最近は、風邪の防止だと言って、病気でなくても年中つけている人が少なくありません。個人的には表情が見えないので違和感がありましたが、今となってはそんなことは言ってられない状況です。文化的にマスクを好まなかったヨーロッパ各国でも、感染の危機感からマスク着用が徐々に定着しているそうです。元々の清潔事情は各国で差がありますが、確かなことは、誰も感染対策を軽んじてはならないということでしょう。

イエス様の戒め

 ところで手洗いと言えば、ユダヤ教の古くからの言い伝えには、食事の前には手を洗う、というものがあります。あるとき、パリサイ人たちや律法学者がイエス様に、「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。(マタイ15:2)」と尋ねました。この質問に対してイエス様はすぐには答えず、「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。(マタイ15:3)」と尋ね返しました。そして彼らが言い伝えにより、ささげ物(コルバン)の誓いをして、両親を援助するためのお金を神殿にささげていることを責められました。彼らはそれを両親の世話をしない言い訳としていたのです。モーセの「『父と母を敬え』(マタイ15:4)」という律法をないがしろにしていたのでした。手洗いに関しても、律法にあとから人が付け加えた言い伝えでした。イエス様は、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。(マタイ15:11)」と言われました。洗わない手で食べることは人を汚さない、それよりも心の中にある悪い考えを正しなさいと戒められたのです。

本当の新しい生活

 私たちが感染防止のために手を洗ったりマスクの着用を習慣とするのは、確かに新しい正しい生活です。しかし、本当の「新しい生活」を私たちは求めなければなりません。それは、神様とともに歩む生活、そして神様に主導権を取っていただく生活です。冒頭のみことばのように、私たちは神様を信じて「新しい契約に仕える者」となりました。私たちはどこまでも罪人であって神様の律法を一つも守ることができません。しかし、「新しい契約」は、イエス様を信じて罪赦され、罪から解放されて、内に住まわれる御霊によって、みことばに従うことのできる生活が与えられたことです。これが本当の「新しい生活」です。
 今、世は感染症一色でありますが、その中にあって私たちが主に主導権を明け渡すなら、むやみに恐れることから解放され、今日一日を、主とともに平安のうちに生きることができるのです。私たちの心を主に明け渡して参りましょう。

20.05.10 捜してくださる主



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2020.5.10 週報.pdf

「マルコ5:30-32  イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。『だれがわたしの衣にさわったのですか。』すると弟子たちはイエスに言った。『ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも「だれがわたしにさわったのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。」

関心のあるものが見える

 聖書の雅歌にこんなフレーズがあります。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。(雅歌2:2-3)」。大勢の娘たちや若者たちがいる中でも、自分の愛する人は、まるでそこにスポットライトが当たっているかのように、ひときわ輝いて見えるということです。多くの人が体験したことではないでしょうか。
 また、人は自分が夢中になっているもの、関心のあるものだけしか見えないこともあります。例えば、誰かと夢中になっておしゃべりをしているとき、そこに別の親しい人が通りかかっても、目には入っているはずなのに、見えていないことがあります。後でその人から、「気づいてくれなかった」と言われて、記憶をたどってみると、「そういえば見たような・・」と思い出したりするのです。また車を運転しているとき、建物など何かを探しながら走行していると、すぐ前の横断歩道を人が渡っているのに気づかず、直前に急ブレーキを踏む、という経験をしたことはないでしょうか。人が風景のように目に入っていても、実際は見えていないのです。

RASの機能

 人間の脳には、RAS(網様体賦活系)(もうようたいふかつけい)という部分があるそうです。このRASに、自分にとって重要なものがセットされると、そればかりが目に入って来るようになります。たとえばある車に興味を持つと、その車種ばかりが目に入って来るとか、健康に興味があると、健康に関する情報ばかりが目に入って来るとかいうことです。言い換えてみれば、それは見ていても必要な情報以外は記憶に残さない機能でもあります。
 人は、まるでフィルターで漉す(こす)ように、自分にとって重要なものを取り入れ、そうでないものはたとえ目に入っていても見ないということを、無意識にしているのです。

捜してくださる主

 イエス様が湖のほとりにおられたとき、大勢の群衆がみもとに集まって来ました。その中に、12年の間長血をわずらっている女性がいました。彼女は群衆の中で、イエス様の衣に触れました。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる(マルコ5:28)」と思っていたからです。するとすぐに癒やされたことを感じました。大勢の人がいましたから、彼女はイエス様が自分に気づくとは思っていませんでした。隠れてそっと触れたのです。しかしイエス様は、「だれがわたしの衣にさわったのですか。」と言われました。弟子たちは、こんなに大勢の中から捜し出すのは無理だと思いました。しかし主は、彼女を捜してくださいました。そして彼女が申し出ると声をかけてくださったのです。「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。(マルコ5:34)」と。女性はどんなに慰められたことでしょう。
 イエス様の関心事はいつも弱い人々、病に苦しんでいる人々でした。大勢の群衆をご覧になるとき、イエス様の目には、まるで癒やしを求める人々の一人ひとりにスポットライトが当たっているかように、見えていたのかもしれません。そして、イエス様はみもとに来たすべての人々を癒やしてくださいました。

熱心に主を捜す

 私たちがイエス・キリストを信じることができたのも、主が私たちを捜し出してくださったからです。「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。(エゼキエル34:16)」。自己中心の罪ゆえに行き詰まり、苦しんでいた私たちを、主は十字架によって滅びから救い出し、永遠のいのちを与えてくださいました。私たちは自分勝手に生きるのではなく、主に従って生きることができるように変えられたのです。
 ですから、毎日の生活の中で、私たちの一番の関心事はイエス様でなければなりません。私たちの目には、イエス様が、世にあるどんなものよりも輝いて見えているでしょうか。みことばが、世にあるどんな慰めのことばよりも、輝いて見えているでしょうか。私たちにとって一番重要なものはイエス・キリストです。他のものは見えなくてよいのです。私たちは主のみことばだけを、熱心に求めて参りましょう。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。(箴言8:17)」

20.05.03 神様からの手紙



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「Ⅱコリント2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。」

手紙のぬくもり

 この4月から始まった朝の連続テレビ小説「エール」。昭和の大作曲家である古関裕而と、その妻で歌手の金子をモデルにしたドラマです。気になるのは二人の出会いが文通で始まっていることです。作曲家を目指す裕一(古関)が国際作曲コンクールで入賞したという新聞記事を見た音(金子)は、感激して裕一にファンレターを書きます。そこから二人の文通が始まります。そして、何度も文通を重ねているうちに、会ったこともないのにお互いが大切な存在になって行き・・・ついに結婚へ、とストーリーは展開して行きます。文通で恋が生まれ、育まれるところがなんともロマンチックで、昭和の時代を感じます。
 このドラマのように一昔前には、手紙が主な通信手段でした。年賀状や暑中見舞いをはじめ、親戚や友だちにはよく手紙を書いたものです。大学が夏休みの間、同じ県内の離れたところに住む友人と何回も手紙のやり取りをしました。「お元気ですか?私は元気です。」ではじまり、近況を伝え合うのです。また中学生の頃は、部活の友だちや好きな子とやり取りをする交換日記も流行っていました。これも内容は手紙のようなものでしたが、大事な人に思いを伝えるための大切な手段でもありました。

SNSの時代

 SNSが通信の主流である現代では、「文通」ということばは死語になっているのかもしれません。年賀状など手紙を出す人も年々減っているそうです。昨年、全国学力テストの中学校の国語の問題で、手紙の書き方が出題されましたが、正答率は57.4%だったそうです。住所と宛名の位置が逆だったり、住所の最後にメールアドレスが書かれたりしていたということです。
 ラインやメールは、ほぼリアルタイムのやり取りですから、前置きはなく、大抵はいきなり用件で始まります。文章ではなく会話のことばそのままで、気持ちを表すのに絵文字やスタンプを使います。だからスピード感があります。早く伝わるのでとても便利です。しかしことばが少ないこともあり、うまく伝わらないこともあります。手紙は相手のことを思いながらゆっくり書きます。返事が来るまでに何日もかかりますが、考えて見るとその間もまた、その人のことを思い続ける時間です。それぞれに良いところがありますから、手紙も廃れないでほしいなと願います。

パウロの手紙

 パウロは自分が伝道した異邦人の教会に、よく手紙を書きました。彼が次の場所を訪れるためそこを離れると、信徒たちはたちまち、偽教師の教えに惑わされたり、再び罪の生活に戻ってしまったりしたからです。それを伝え聞いたパウロは、落胆しながらもそんな彼らに手紙を書いて、立ち返らせようとしたのでした。冒頭のみことばは、パウロがはじめにコリントの教会に送った叱責の手紙を読んで、悲しみに打ちひしがれている信徒たちに対して、再び手紙で、彼の真の思いを切々と訴えています。自分がどんなに彼らのことを愛し、彼らが悔い改めることを望んでいるかということを涙ながらに書いているのです。このパウロの思いは、神様が私たち人間に望んでおられる思いと同じです。

神様からの手紙

 聖書は、神様がご自身の思いを人に伝えるために書いてくださった手紙のようなものかもしれません。神様は全知全能であられるお方です。この地上には、おびただしい数の人がそれぞれの国で、それぞれの環境で暮らしていますが、神様はその一人ひとりの悩み、苦しみ、思いのすべてを知っておられます。そして、一人ひとりに別々に、特別に働いてくださることがおできになるお方です。「あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。(詩篇139:2)」
 しかし、人は生まれながらに罪人であり、滅んで行く存在です。罪ゆえに神様と交わることができません。そこで神様は人を罪から救う方法を考えてくださいました。その方法は、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださることでした。イエス・キリストは神が人となってくださった方です。罪のない方が私たちの身代わりとして十字架で死んでくださり、そして復活してくださいました。イエス・キリストを信じる人々は罪赦され、永遠のいのちが与えられるのです。この良き知らせ(福音)を、神様は思いをこめて私たち一人ひとりに届けるために、預言者を通して聖書に記してくださったのです。人はみな神様からの手紙である聖書のみことばを、受け取らなければなりません。

20.04.26 私はどこへ行くのか



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「ヨハネ8:51 まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」

「デッドマン・ウォーキング」

 先日、「デッドマン・ウォーキング」という映画を観ました。ノンフィクション映画です。死刑制度に反対するシスターが、殺人と強姦の罪で死刑判決を受けた囚人のカウンセラーとなり、死刑が執行されるまでの間、彼の心に寄り添い続けます。彼女は、無実を主張する彼の思いを汲み取り、死刑執行を回避しようと奔走します。そして、愛する我が子を失い悲しみに暮れる遺族と面会をする中で、「彼は本当に犯行に及んでいないのだろうか」と、当惑し始めます。それでも、彼女は死刑執行を回避するために、弁護士を通して特赦審問会に請求手続きをしたり、知事に直接請願をするもののすべて却下されます。いよいよ死刑執行が目前に迫ると、彼の心に変化が訪れます。「殺したのは自分だ。(亡くなった)二人の死に責任を感じる。昨夜二人のために祈った。」と、泣きながら彼女に心の内を明かしました。彼は自分の犯した罪を認めて、神の赦しを受け取ったのです。
 一つの事件をきっかけに、それに関わるシスターや囚人、遺族たちの人生が全く変わっていく様子や、心の変化がとてもリアルに描かれていました。人は死を目前にすると、本当の自分の姿に気づかされると同時に、神の存在を求めるようになっていくのだということを、この映画を通して感じました。

誰もが直面する「死」という現実

 「死」は、誰もが避けて通ることのできない事実であります。どんなに素晴らしい功績を残したとしても、「私はとても幸せでした」と言える人生を送ったとしても、いずれ人は死んで持っている物をすべてを失います。聖書は、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。(マタイ16:26)」と言っています。
 MacやiPhoneなどでIT業界に革命を起こし、世界のリーディングカンパニーへと導いた、あのアップルの共同創立者スティーブ・ジョブズも、刻一刻と近づいてくる死という現実を前にして、次のように言っています。「病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていたこと、人から認められることや富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなった。」死という現実を前にして、私たちはどうすればよいのでしょうか。

生と死を支配される神

 今現在、世界最高齢と認定されている人が、福岡県に在住しています。田中力子(かね)さんという女性で、117歳になるそうです。老人ホームで暮らし、毎日大好きなチョコを食べながら、入居者たちとオセロをして楽しんでいるそうです。誕生日に市長から花束を渡されると、「死ぬ気がせん。そんなこと考えたことがない」と答えたそうです。日本人の平均寿命が80〜90歳と言われている中で、117年も生きていると聞くだけで驚きます。
 それでもやはり、人はいつか死を迎える時がやってきます。それがいつであるのか、人にはわかりません。万物の造り主なる真の神だけがご存知であられます。主は無限であり、永遠であられます。命を与えることのできるお方であると同時に、命を取り去ることのできるお方です。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」

キリストを信じて生きる道

 私たち人はみな、死後どこへ行くのかということを明確に知る必要があります。人はみな生まれながらにして罪人で、その行く着く先は死であり、永遠の滅びです。これほど恐ろしいことはありません。死んで裁かれ、滅びに至ってしまう立場にあるのが人間です。その滅びゆく人間に、救いの手を差し伸べてくださったのが、イエス・キリストの救いです。人がこの罪の中から救われて天国へ行く道はただ一つです。イエス・キリストを信じることです。この救いを知らない人は、自分がこれからどこへ行くのか、目的地も分からないまま旅をしているような人と同じです。
 イエス・キリストだけが、「死」に打ち勝ってくださった唯一なるお方です。この方を信じる者は「決して死を見ること」はなく、永遠のいのちをいただくことができるのです。「私はこれからどこへ行くのか」。このことを明確に知って生きられる恵みに感謝します。

20.04.19 大切なことは目に見えない



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「Ⅱコリント4:18   私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

星の王子さま

 「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。」これは、フランスの作家サン=テグジュペリが書いた物語「星の王子さま」の中の名言の一つです。王子さまが地球で出会ったキツネが、王子さまに言った言葉です。王子さまは、自分の星に、一輪のバラを残して出て来たのです。そのバラはわがままで、王子様はバラに振り回されていました。言われるままに、水をあげたり、風よけを作ってあげたりしていました。しかしキツネのこのことばで、そのバラが王子さまにとってかけがえのない存在だったことに気づくのです。王子さまがバラに費やした時間こそが、王子さまにとってそのバラを、ほかのたくさんのバラにはない、特別な存在にしていたのだということです。時間は目に見えません。
 私たちも家族や友人、恋人などを大切にする思いがあります。それは、その人との積み重ねた時間があるからなのでしょう。しかし普段は特別に気にとめることもなく、その人が近くにいなくなってはじめて、その存在の大切さに気づくのかもしれません。

大切な存在

 先月、新型コロナウイルスの感染でコメディアンの志村けんさんが亡くなりました。突然の訃報に、日本中の多くの人が驚き悲しみました。知り合いだったというわけでもないのに、思いがけないほどショックを受けたのは、私だけではないでしょう。子どものころからテレビで慣れ親しんで来たというだけで、面識もないのに一緒に過ごして来たような、目には見えない親近感があったんだな、と思いました。おそらく多くの人にとっても、志村さんは大切な存在だったことでしょう。
 最近知りましたが、志村さんの人格の良さは評判だったようです。たとえば、窮地に陥った人に、一度ならず多額の援助をして惜しまない人だったということです。最近放映された過去の出演番組で、志村さんはインタビューに答え、「ぼくは、人が笑っているのを見るのが好きなんです。」と言われていました。いつも人を喜ばせることばかり考えている志村さんの温かい心に、人は引き寄せられていたのかもしれません。志村さんの訃報をきっかけに感染防止対策の重大さに気づき、真剣に対策をはじめた人が少なからずいたようです。最後まで人のために生きてくださったのか、と思わずにはいられませんでした。

見えないものを見ようとすること

 ところで、約4年前に相模原市で起こった障害者殺傷事件では、19名もの障害者の方が尊い命を奪われ、事件を起こした植松被告に、先月死刑が確定しました。彼は「生産性のない人間は生きる価値がない」などと臆面もなく供述し、世間を騒がせました。彼の目には、被害者の方々の一人ひとりのいのちの尊さや、彼らを大切に育て、守って来た家族や、愛情を持って関わって来た施設の職員の方々の姿はまったく見えていませんでした。
 聖書にあるように、人は生まれながらの罪人ですから、どこまでも自己中心で、本当に人を愛することなどできない存在ですが、特にこの事件は、人に対して表面的なものしか見ようとしないことの恐ろしさを、痛感させられました。どんな人も、それぞれの環境、それぞれの人間関係の中で、それぞれの思いで精一杯生きています。人に対して、表面的には見えないその人の思いを見ようとすることが、愛する姿勢なのかもしれない、と思わされました。

いちばんたいせつなこと

 イエス様が復活されて、弟子たちのところに来てくださった時、弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。彼は自分の目で見なければ、「決して信じません。(ヨハネ20:25)」と言いました。イエス様は、8日後再び来てくださった時、トマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と言われました。
 神様は目に見えないお方です。しかし、もし私たちが見えない神を見ようとするならば、神様がおられるということが確かにわかるのです。それは聖書に書かれているように、神様が造られたすべての被造物によって、またイエス様が言われたことばや御業(奇跡)によってです。神様はすべての人が救われて永遠のいのちを得るために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。キツネは「いちばんたいせつなことは、目に見えない。」と言いました。すべての人にとって「いちばんたいせつなこと」は、見えない神様を信じることなのです。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)」

20.04.12 イースターおめでとうございます



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「ヨハネ11:25-26 イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。』」

イースター(復活祭)

 イースターおめでとうございます。本日は、キリストの復活を覚えて記念とする「イースター」の日です。世界中がこのイースターのお祝いをしています。イエス・キリストは、神の御子としてこの地上にお生まれになり、人としての生涯を歩まれました。数々の御わざをなされ、余すところなくご自身の愛を示してくださいました。私たちを罪から救い出すために、すべての人の罪の身代わりとなられて、十字架にかかり死んでくださいました。そして、死んで終わりではなく、三日目に復活してくださいました。死に打ち勝ってよみがえってくださったのです。

イースターは私のため

 近年、この時期になると、日本のテーマパークではイースターにちなんだイベントが盛んに行われています。また、商業施設でもイースターにかかわるグッズや、イースターエッグなどが売られています。菓子や食品のパッケージも、この時期はみなイースター仕様になっています。しかし、クリスマス同様、やはり本来の意味でイースターをお祝いするということにはならず、「イースター商戦」と呼ばれるような、商売ありきのイベントにとどまっています。私たちは、このイースターの日に、「主は私のために復活してくださった」ということを覚えたいと思います。
 マルタとマリアの兄弟ラザロは、重病にかかっていました。イエス様はラザロと親交があり、マルタとマリアは、一刻も早くイエス様に来ていただいて治してほしかったことだと思います。イエス様が、ラザロのいるベタニアに着いた時には、彼が死んで、もう四日も経っていました。しかしイエス様は、このラザロを生き返らせました。このことを通して主は、ご自身が「よみがえり」であり、「いのち」であることを示されました。そして、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われました。主がよみがえってくださったのは、イエス・キリストを信じる者の罪が赦され、義と認められて、永遠のいのちが与えられるためであったのです。ですから、主の復活は「私のため」なのです。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(ローマ4:25)」

死からいのちへ

 人は誰でもいつかは「死」を迎える時が来ます。健康であるうちは、ずっと死ぬことなく生きられるかのようにして毎日を過ごしていますが、病気や大きな地震、戦争などが身近に起こると、急に死を意識することになります。今まさに新型コロナウイルスの渦中にいる私たちですが、「もしかしたら、自分も感染するかもしれない」「もし感染すれば死んでしまう可能性もある」といった死への恐怖が、人々を不安におとしいれます。
 「死んだ後、人はどうなるのか」。このことについて人は、明確な答えを持っていません。また、人は死に対して、自分の力ではどうすることもできません。ですから、死について向き合うことを恐れ、目をそらそうとします。確かに、死ぬということは「怖い」と感じることですし、平気だという人はいないと思います。
 聖書は、この「死」の問題に対して明確な答えを与えています。そして、イエス・キリストを信じる私たちは答えを持っています。「キリストが私の罪のために死んでくださった。三日目に死を打ち破って復活してくださった。そして、キリストは今も生きておられる。この方を信じたので、私はもう新しいいのちをいただいて、キリストとともに永遠という時を過ごすことができる。」という確かな答えを手にしているのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ6:4)」

キリストにあって生かされている

 私たちは、イエス・キリストを信じて新しく生まれた者です。神によって新しくされた者の内には、聖霊が住んでくださるようになりました。その目的は、私たちと交わりを持つためです。主は今も生きておられ、信じる者の内に働き、助けてくださいます。今ここにおられるお方です。この方がともにおられるので、私たちは喜び、希望をもって生きられるのです。それはすべて、主が復活してくださったことによるのです。イースターは、主の復活を記念してお祝いする時です。私のために復活してくださったことを覚えて、感謝して過ごしてまいりましょう。

20.04.05 意匠を凝らす



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「出エジプト26:1幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。」

ビルの壁画  

 つい最近のことですが、バスに乗り遅れ、駅まで歩いたことがありました。それで疲れてしまうかと思いきや、逆に頭が冴えて元気になってしまいました。名古屋駅に着くと、その気分のまま、何か新しいことがしたくなり、少しだけ遠回りして、いつも通るビルのいつもとちがうドアから出てみました。新しい何かを見つけることを期待して。すると、ドアを出てすぐ右側のビルの壁に、大きな壁画を発見したのです。それは、意識していなければ100%通り過ぎてしまうだろうと思われるほど、自然にその場所に溶け込んでいました。そこは車の出入り口に近く、立ち止まってゆっくり見ることができなかったので、とりあえずその壁画と、隅にあった説明文を写真に撮ってその場を立ち去りました。その壁画はモザイク画でした。

意匠を凝らした作品 

 その日、落ち着いて写真を見ると、それは大きな1枚の絵になっていました。近くで見た時は、ただの模様にしか見えなかったのですが。それには「海」という標題がついていて、矢橋六郎という著名な洋画家の作品でした。抽象的な絵ですが、よく見ると、水道の蛇口のようなものや、人の姿も描き出されています。不思議な絵です。モザイクの材料は、天然の大理石で、黒っぽいもの、茶色っぽいもの、白っぽいものなどさまざまです。大理石の大きさは、1センチ角から10センチ角のものを使用しているそうですが、その小さな石片を一つ一つ貼付けて行ったのかと思うと、その膨大な作業に気の遠くなる思いがしました。そして、天然石の素朴な色にとても魅力を感じました。どこかで見たことがあるな、と思い出したのは、数年前に行ったイスラエル旅行で、古代ローマの遺跡の建造物に施されたモザイク画でした。やはり1センチ角くらいの大理石を使って、いろいろな模様や絵を描き出していました。

幕屋の幕

 出エジプト記の25章で、神様はイスラエルの民に、幕屋を作るように命じています。その目的は、神様がイスラエルの民とともにいてくださることをあらわすためでした。神様は、その作り方をこと細かく指示しています。幕屋には4枚の幕が重ねてかけられましたが、その一番内側の幕には、「意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。」とあります。「意匠を凝らして」というのは、ものを作る中で、意識してデザインに工夫を施すことです。このケルビムの模様は、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色(赤色)の撚り糸を用いて、織り出されたものでした。どこが意匠を凝らしているかと言えば、幕の表からも裏からも、同じ模様を見ることができる織り方だったということです。刺繍よりももっと高度な技術を必要とするものだそうです。神様は人の心に知恵を与えて、こんなにも美しく凝った模様を、コツコツと作り上げる心を与えてくださったのです。

神様が造られたモザイク画

 神様が人を造られたとき、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。(創世記1:26)」と言われました。神様は、姿はなく、心だけで存在しておられるお方です。ですから、「われわれの似姿に造ろう」というのは、人の心が、神様の心に似せて造られたということです。神様は、人がコツコツと根気よく作業を積み重ねて、美しい芸術作品を造り上げる心を与えてくださいました。そして、人が意匠を凝らして造り上げた芸術作品を通して、人間を造られた神様のすばらしさを、私たちは知ることができるのです。創造主であられる偉大な神様の御業をほめたたえます。
 ところで、そんなことを思いながらモザイク画を見ていると、小さな大理石の一片一片が、神様の起こされた一つ一つのできごとのように思えてきました。聖書に書かれているできごと、また聖書には書かれていないほかの国々の歴史、そして、今深刻な問題となっている、新型コロナウイルスの世界的大流行に至るまで、みんな神様の大きなご計画の中の一つのできごとであって、神様はご自分のご計画を成就されるために、根気よく、順序よく一つ一つのできごとを積み重ねておられるのです。歴史は、神様が意匠を凝らして造られるモザイク画のようなものかもしれません。その中に存在する私たち人間は、なんて小さく取るに足りない存在でしょうか。しかし、その小さな人間一人ひとりに、神様は目を注いでくださるのです。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:4)」

20.03.29 すばらしい御手のわざ



「詩篇66:5 さあ、神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。」

昆虫嫌い

 「ジャポニカ学習帳」。子供の頃、誰もが一度は見たことがあり、使ったことがあると思います。表紙には植物や動物の大きな写真があり、裏表紙は学習図鑑になっている学習帳の定番で、1970年の発売以来、累計13億冊も売れているロングセラー商品です。
 この学習帳の表紙の写真は、一人の専属カメラマンが、海外へ何ヶ月も行き撮影したものを使っています。その表紙の写真が、ある時から花の写真に切り替わりました。その理由が、保護者や学校の先生などから、「昆虫が嫌い、苦手」という声がたびたび寄せられていて、会社としても、先生や保護者から選ばれなくなると困るので、嫌う人の少ない花の写真にシフトしたということなのです。
 昆虫には、蝶(ちょう)やクワガタ、てんとう虫、カマキリ、トンボ、ハチなどがいますが、その種類は、わかっているだけでも世界中で100万種以上もいると言われています。

得体の知れないもの

 虫に対して「怖い」「気持ちが悪い」と感じるのは、「自分に攻撃してくるかもしれない」「どんな動きをするかわからない」と思うので、「なるべく近づかないようにしよう」とするのでしょう。今、世界中で流行している新型コロナウイルスも、「どんなものなのか正体がわからない」「人にどんな影響を及ぼすのかがわからない」といった、見えないものに対する不安、恐れが、私たちをしばり身動きが取れなくなっていたりします。
 これらのことにおいて私たちは、「真実なことは何なのか、事実は何なのか」という視点に立って物事を見る必要があります。例えば、「クモが突然自分に襲いかかってきて噛みついた」ということはまず起こり得ないことです。むしろ、クモの方が逃げて行ってしまいます。ですから怖がる必要は全くないのです。また、ハチもむやみに理由もなく人を刺すことはありません。自分たちの巣が攻撃されると感じる時に、その巣を守るために、防衛手段として人を攻撃するのです。きちんとそのことを理解していれば、正しい行動をとることができます。

目的をもって造られた

 創造主なる神は、私たち人間をはじめ、すべての生きる物を目的をもって造られました。人間を愛する対象として、愛の交わりを持つために造られました。そして主は、人が地のすべての生き物を支配するようにと、海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を造られました。人間が住むのにちょうど良い環境を、あらかじめ備えてくださったのです。さらに主は、地上に生きる動物のためにも食物を備えてくださいました。「生きるいのちある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。(創世記1:30)」。すべての生きる物には、存在している意味、目的があります。

素晴らしい御手のわざ

 神様は、ご自分の手によって造られたこの素晴らしい世界をご覧になり満足されました。すべてが完璧で、とても麗しく見えるものでした。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。(創世記1:31)」。私たちは、神が造られたこの素晴らしい世界を見るときに、「こんな素晴らしい世界を造られた神様は素晴らしい」と、自然と主への賛美が沸き起こります。
 以前あたしかリトリートハウスで、たくさんクモの巣を見る機会がありました。とても大きな巣を作っていました。あの素晴らしい芸術的な形を見るとき、「主は素晴らしいお方」と思わず主をほめたたえます。らせん状のきれいな巣の形、虫などの獲物を捕まえるために粘り気があって、簡単には切れない丈夫な糸、仮に切れたとしても、また新しく短時間であの形を作り上げてしまう仕事の速さには驚くばかりです。また、ハチドリは、木や藪(やぶ)の中に小枝を敷いて、植物の綿毛、羽毛などをクモの糸でつなぎ合わせて、あの小さくて豪華な巣を作り上げます。
 地上に生息しているすべての生き物が、神が造られた素晴らしい作品の数々なのです。創造主なる神は、すべてのもののデザイナーです。神が造られたものを嫌がったり、否定したりするという態度は、造り主であられる神様を否定することと同じですし、神によって造られた私たち自身や周りの人をも嫌がることと同じことです。
 私たちの身の回りには、美しい自然や生物など、神の素晴らしい作品であふれていて、人の力を超えた驚くべき神のみわざを見ることができるのです。

20.03.22 本当の平安



「詩篇94:13 わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。しかし悪しき者のためには穴が掘られます。」

新型コロナウイルス感染症

 昨年の年末、新型コロナウイルス感染症が中国湖北省の武漢市で発生してから現在に至るまで、世界で感染は広がり続けています。先々週には、WHO(世界保健機構)が、新型コロナウイルス感染症はパンデミック(世界的な大流行)とみなせると表明しました。今現在は、特に欧州が危機を迎えています。
 日本では、感染防止策として、学校が休校になったり、大きなイベントが中止になったりしています。自宅勤務に切り替えている会社もあります。甲子園も中止になり、東京オリンピックも本当に開催されるのかと心配されています。人々が出かけないので、鉄道や飛行機の利用者も激減しました。それに伴い経済は深刻な打撃を受けています。
 しかしそんな中で、人々が助け合うニュースも聞かれます。給食が突然なくなったため、農家が給食用に栽培していた野菜が大量に余りました。「困った」とSNSに投稿したところ、投稿を見たあるNPO法人が野菜の即売会を開催し、たくさんの人が集まり、野菜はあっと言う間に売れたそうです。また、いくつかの料理ブログでは、休校の影響で乳製品が余ってしまったのを助けようと、乳製品を使ったレシピが多く紹介されていました。そのほかにも、子どもが公園など屋外で遊ぶ機会が増えた、児童書の売上が伸びた、といった報道もされています。いずれにしても、前代未聞の事態が起こり、私たちの生活も、あたり前だった日常が大きく揺り動かされています。ワクチンの実用化まで、まだ数ヶ月はかかるそうですが、それまで騒ぎは続くことでしょう。

人々が不安に陥っている

 感染が拡大して行く中で、人々はさまざまな不安に陥っています。一番不安なのはもちろん感染ですから、多くの人がマスクをして過ごしています。しかし、そのマスクが買えないという問題が起きています。どこの店にもありません。あっても開店直後に売り切れてしまいます。本当に必要なのは、持病を持っている方や医療従事者などですが、買い占めによりそこにマスクが届かないことが問題になっています。 専門家によると、感染防止に必須なのは手洗いと発熱チェックで、マスクはそれほど重要ではないそうです。たとえば買い物は、場所も広く、人と長く接触することもないので、感染の可能性は低いということなのですが。
 そんな中、先月末にはトイレットペーパーやティッシュペーパーなどの紙製品が店頭からなくなるという騒動も起きています。「トイレットペーパーとマスクの原料は同じ」、というデマが拡散したためです。いつも行くスーパーマーケットでも、ほぼ一日のうちに紙製品が店頭からすっかり消えてしまい、唖然とさせられました。ある文筆家は「人は不安を抱くとデマを信じてしまう傾向にある」と言っていますが、人々がいかに不安に陥っているかがわかるできごとです。

落ち着きが必要

 ところで、先週の新聞の書評欄に、最近フランスの作家カミュの「ペスト」という小説が増刷されているという話題が載っていました。1947年の出版ですが、感染症のペストに襲われたアルジェリアの都市を描いたものです。書評には「感染症が蔓延(まんえん)する中、それに対処する人々を描く文学は、読む人を落ち着かせ、より広い視野で現状を見つめ直すことにつながる。(中略)その落ち着きこそが、この混乱の中で必要なのだ。」と記されていました。確かに事態を冷静にとらえるのに、読書は役立つかもしれません。そして一時的な安心は得られるかもしれません。しかし、私たちが本当に欲しいのは、状況の善し悪しに左右されない、一生ものの、本当の平安ではないでしょうか。

本当の平安

 本当の平安は、真の神様だけが与えることのできるものです。神様はこの世界のすべてのものを造られ、支配しておられる方です。そして、良いことしかされないお方です。ですから、今回の感染症のように、たとえ私たちにとって理不尽に思えるようなできごとも、必ず良いことなのです。「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」
 神様は私たちを愛してくださり、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、十字架につけてくださいました。そして信じる者に、永遠のいのちを約束してくださいました。人間の最大の恐れである死の問題から、完全に解放してくださったのです。
 真の神を信じることこそが、私たちのすべての問題の解決であり、本当の平安を手にする唯一の方法なのです。「あなたのみおしえを愛する者には 豊かな平安があり つまずきがありません。(詩篇119:165)」

20.03.15 脱出の道



「Ⅰコリント10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

相次ぐ誤認逮捕

 昨年の7月、女子大生が窃盗容疑で誤認逮捕されました。タクシーから若い男女四人が降りた際、助手席にあった売上金の入ったバッグが盗まれたのです。車内のドライブレコーダーの映像に、バッグを盗む女の様子が写っていました。さらに、アパートに入っていく様子が防犯カメラに写っていたことから、警察は、そのアパートに住む別の女性を、「顔が似ている」というだけで犯人だと決めつけたのです。そして彼女は、任意の取り調べに対し、「その日タクシーには乗っていません」と、無実を訴えます。しかし警察は、容疑を否認していることから証拠隠滅の恐れがあるとして逮捕します。しかし、裁判所が勾留請求を認めなかったため、彼女は逮捕二日後に釈放されます。その後、同じアパートの女が犯行を認めたため誤認逮捕が発覚したのです。
 彼女に対する警察の取り調べは、自白を強要するものでした。「本当の犯人を捕まえてください」と女性が言うと、「犯人なら目の前にいるけど」と言ったり、「やってないことを証明できないよね」「ごめんなさいと言えば済む話だ、認めないと終わらないよ」「就職も決まってるなら大ごとにしたくないよね」などと言われ、彼女も「もう耐えきれないで、やってもいないことを認めてしまうかもしれないという不安な気持ちもあった」と言っています。それに対し警察は、「違法な取り調べはなかった」と言っています。そして、担当の刑事からの直接の謝罪は全くないそうです。
 この他にも、えん罪によって、10カ月勾留され就職の内定が取り消しになってしまったケースや、自白を強要され、恐怖のあまり認めてしまい、12年も服役することになってしまったケースなど、誤認逮捕が相次いで起きています。

ずさんな捜査体制

 この女子大生の誤認逮捕の件では、「ドライブレコーダーの映像がよく似ていた」という主観的な見方で犯人と決めつけ、本来、捜査員がまず行わなければならない捜査を怠っていたことが明らかになったのです。タクシー運転手に対して、助手席の女についての聞き込みをしたり、同乗者から話を聞くなどの、基本的なことを全くしていなかったのです。警察は、「女性が嘘をついていると決めつけ、強制捜査をすれば、すぐに自供するだろうと思ってしまった」と言いました。
 このような警察の体制が変えられるためには、彼らがまず、「自分たちのしたことは間違っていた、とんでもないことをしてしまったのだ」という事実を素直に認め、それをきちんと社会に対して示していく必要があるのではないかと思います。

あきらめないで戦う

 えん罪で逮捕された彼女は、警察に対する「絶対に許せない」という怒り、不信感、苛立ち、屈辱、そして「これからの私の人生はどうなるのか」という強烈な不安、恐怖の中にありつつも、それでも、「何とかしてこの無実を証明しなければ」という一心であったと思います。その思いを絶やすことがなかったので、解決へと導かれたのです。これらのことは、私たちの身にも全く起こらないとは言えない話であります。
 人は追い込まれたり、不安や恐怖の中に置かれる時、正常な判断ができなくなります。人が言うことに対して、「そうかもしれない」と思って、人の意見に流されてしまうこともあります。「認めてしまえばこの恐怖から逃れられる」と思えば、犯してもいない罪を認めてしまうかもしれません。しかし私たちは、真実が明らかにされ、相手が間違いを認めるその時まで、決してあきらめることなく戦わなければなりません。

脱出の道が備えられている

 私たちは、そのような先の見えない不安、恐怖の中に置かれるとき、ともにいてくださる主を見上げなければなりません。主は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)」と言われます。主は私たちの味方です。「主が戦ってくださるのだ。私はただ主に信頼します」と、主に希望を置いて生きられるのです。主は耐えられない試練はないと言われます。必ず脱出の道が備えられているという希望が与えられているのです。聖霊なる神様が、弁護者として私たちのそばに立っていてくださることほど心強いことはありません。私たちは無力であっても、私たちの信じている神様にあっては不可能がないと知り、主にある解決の道が与えられることを感謝します。

20.03.08 帰る場所



「マラキ3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。」

伝書鳩 

 ここ数年、地震や台風による災害で、今までにはなかった大きな被害が相次いで起きています。災害が起こったとき、スマホなどの通信機能が使えない、ということがよくあります。そんな中で、優れた帰巣本能を持ち、昔からニュースの伝達手段として活躍した鳩の能力を役立てようというアイデアが注目されているそうです。
 鳩は自分の巣や家族のところに戻りたいという気持を強く持つ鳥で、初めて行った場所から放しても、普段生活している場所へスピーディーに戻って来ます。約100年前の関東大震災の時、電信電話が不通になり、復旧のめどが立たない中、約2千羽の陸軍の軍用鳩が活躍しました。鳩はドローンと比べても桁違いの飛翔距離があります。たとえば北海道の最北端の稚内(わっかない)で放たれた鳩が、東京の飼い主の所まで戻って来た例もあります。伝達に使われる鳩は「レース鳩」で、古くは伝書鳩と言われ、紀元前の古代エジプトやローマの時代から、文書を運んだり、古代オリンピックの競技の結果も伝えたと言われます。
 鳩は、聖書の中にも登場します。創世記8章のノアの洪水のとき、ノアは地の上の水が引いたかどうかを確かめるために、方舟(はこぶね)から鳩を放ちました。帰って来た鳩は、取ったばかりのオリーブの若葉をくちばしにくわえていたので、彼は水が引いたのを知りました。デジタル社会の現代に、古代からの知恵が見直されようとしていることはとても興味深く、あらためて創造主であられる神様の知恵の深さを思わされます。

家に帰りたい

 鳩だけでなく人も、家に帰りたいという思いを、心の奥底に持っているものではないでしょうか。旅行をした時や、仕事や勉強でしばらく家を離れていた時も、家に帰って来ると何かほっとする、という気持ちはだれでも持ったことがあると思います。古今東西の詩人も、故郷を思う気持ちをよく詩に書いています。島崎藤村が作詞した「椰子の実」という日本の名曲がありますが、遠い外国から、波にもまれながら海岸に流れ着いた椰子の実に自分の身を重ね、「長く家を離れて放浪している私も、いつかは故郷に帰ろう」と詠(うた)っています。普段は日常生活にまぎれていても、ふとした時に人は、自分には帰る場所があることを思い起こすものなのでしょう。

帰って来た放蕩息子

 ルカの福音書に、放蕩息子のたとえ話があります。弟息子は、父から早々と財産の分け前をもらいますが、それを湯水のように使い果たしてしまいます。彼は生活に困り果て、豚の世話に雇われましたが、あまりの空腹に豚のエサでもいいから食べたいと思ったとき、我に返りました。家にいる父のことを思い出したのです。そして、家に帰りたいけど、自分はもう息子と呼ばれる資格はないから、父の雇い人の一人にしてもらおうと思いました。しかし、父は遠くに彼の姿を見るやいなや走り寄って来て、彼を抱きしめました。息子の放蕩をとがめるどころか、大喜びで出迎えたのです。父は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから(ルカ15:24)」と言いました。そして彼のために祝宴を始めたのです。このたとえ話の父は「神様」、息子は私たち「人間」です。

帰る場所 

 人は神によって造られました。聖書には「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」とあります。はじめの人アダムは、エバとともに神様が人のために備えてくださったエデンの園で、満ち足りて生活していました。二人は神様に従順に聞き従い、神様に守られて安心し切って暮らしていたのです。しかしある時、狡猾な蛇の誘惑によって神様に背き、善悪の知識の木の実を食べてしまいます。このことは人が神に代わって善悪を判断し、したいように生きることを意味しました。これが罪の始まりです。こうして人は神様から断絶されました。
 しかし神様は人をあわれんでくださり、イエス・キリストを人の罪の身代わりとして十字架につけてくださいました。そして信じる者の罪を赦し、再び神様のもとで平安に、永遠に歩む道を備えてくださいました。造ってくださった神様のもとに私たちが帰ろうとするとき、神様は大喜びで出迎えてくださるのです。

20.03.01 神の視点に立つ



「Ⅱテモテ3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」

LGBT

 みなさんは「LGBT」をご存知でしょうか。L(レズビアン、女性同性愛者)、G(ゲイ、男性同性愛者)、B(バイセクシャル、両性愛者)T(トランスジェンダー、身体の性と心の性が一致しない人)の頭文字をとった、性的少数者を表す言葉です。LGBTは、女の人が、「私の恋愛対象は女性です。」と言い、男の人が、「私の恋愛対象は、男性と女性の両方です。」と言うことです。また、「私は身体は女性だけど、本当は男性ではないだろうか」と、自分の性に対して違和感を覚えている人のことを言います。
 今、このLGBTを、認め、受け入れてしまうような動きが、あちこちで広がっているのです。「性は多様であり、個人の尊厳に関わることなので、周りはそれを理解してあげ、受け入れてあげるべきだ」といった間違った意見や、「同性婚を認めるべきだ」と、法の整備を求めるような声まであります。先日、天皇陛下は、誕生日の会見で、記者からのLGBTの質問に対して、「多様性に対して、寛容の心を持って受け入れていかなければならない」と回答しているのです。

LGBTは罪

 聖書は何と言っているでしょうか。「同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。(ローマ1:27)」。同性愛者たちのしていることは、真の造り主なる神様に対する反抗であり、罪の行為だと言っています。
 私たち人はみな、神によって造られた存在です。そして神は、人を男と女とに分けて造られました。「神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された(創世記1:27)」。しかし、人は神の命令を無視して神に背きました。それが、最初の人間アダムの犯した罪でした。この罪によって世に罪が侵入し、人は誰でも、生まれながらに罪という性質を持つ者となってしまいました。生まれながらにして、神様に背いて生きており、造り主なる神から離れて、自分の生きたいように生きる道を歩んでいるのです。この罪は、人の考えや言葉、行動などあらゆる所に染み込んでいます。聖書は、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」と言っています。「そこまで言うのか」と言われるかもしれませんが、殺人も、最初に心の中に相手に対する恨みや憎しみの心が生まれ、それがやがて行為となって表われてくるだけのことです。神様の基準に満たないものはみな罪です。人を愛さないこと、嘘をつくこと、憎むこと、殺人、婚外交渉(不倫)、 婚前交渉(結婚前の男女が性的行為に及ぶこと) 、人工中絶、同性愛もみな罪です。もし、同性愛が許されるのであれば、極論、人を殺してもいいということになってしまうのです。婚前交渉や人工中絶、整形手術、自傷行為なども、「周りの人は誰でもやってるからいいのだ」という理解で、平気で自分の体に傷をつけてしまう人が後を絶ちません。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」。人の心には、自己中心という根深い罪の心があるのです。私たちは、この内側にある罪をはっきりと認めて、「私は神に背いて生きてきたのだ、私の生き方が間違っていたのだ」ということを神様の前に認めて、悔い改めなければなりません。

神から与えられた性

 そして、この問題に対して、「何が正しいことなのか」ということを、聖書の基準に立って考えなければなりません。神は、人の性を男と女とに分けて造られました。結婚は、神が定められた制度であって、人間が勝手に作り出したものではありません。それは一夫一婦制なのです。「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』と言われました。(マタイ19:4-5)」
 ですから、人間としての正しい生き方は、神から与えられた性で生きることです。男として性を受けた人は、男性として生きて女性を愛し、女性と結婚して、子供が生まれ、子孫が増え広がっていくのです。これが神の摂理、ご計画です。造り主であられる神様を知らないで、造り主を認めないで生きているので、当然、人間的な考えの枠の中でしか考えることができません。そしてそのことによって、社会的な秩序はどんどん崩壊していくのです。

主とともに生きる

 私たちは毎日、主とともに生きなければなりません。日曜日だけ教会に来て神様を礼拝し、平日は世の人と同じ生活をしているとか、困った時だけ「受験で合格できますように」「この病の苦しみ、痛みを癒やしてください」と言ってお願いをするようなことではいけないのです。家族と一緒に暮らしているのに、朝起きて「おはよう」とあいさつもしなければ、目を合わせて話もしないような関係であれば、一緒にいないのと同じです。人と楽しくワイワイ話をしている時も、電車に乗ってスマホを見ている時も、主はそこにおられます。毎日、毎時間、主とともに生活をしていれば、主の御声に敏感になり、聖書はどう言っているのか、ということについての正しい判断や理解をすることができるようになります。
 私たちは、主がご覧になっておられる視点に立って物事を見る必要があります。主の御声を聞いて、みことばによって私たちの考えが正され、主にあって正しく生きられるのです。聖書に書かれている神のみことばは、私たちが正しく良い行いをするために有益となるのです。

20.02.23 闇を照らし出す



「ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

暗闇を恐れる

 数年前の台風の夜、突然停電になったことがありました。真っ暗で、懐中電灯を取りに行こうにも、手探りで歩くのは大変でした。住み慣れた自分の家の中であっても、暗闇の中では、少し歩くのも恐る恐るです。子供の頃に、夜、家のトイレに行くのが恐かった経験があります。うす暗い廊下を歩くとき、ひょっとすると、暗やみの中に何かがひそんでいるのではないかと想像して、怖がっていたことを思い出します。怖がっていると、実際にはない者が見えたりするものです。
 暗闇は人を恐れさせ、不安にさせるものです。目の前に何があるのかわからないと、安心して前に進むこともできず、あるはずのないことまで想像して、心配に悩まされることになります。

巨大な洞窟

 先日ニュースで、世界最大と言われている中国の洞窟が紹介されていました。その地域には少なくとも10万を越える洞窟があるそうですが、この「ミャオティン」と呼ばれる洞窟は、中でも圧倒的な大きさです。その地域に住む民族は「龍の巣」と呼び、あまりに真っ暗なため、「そこは冥界。決して入ってはならない。」とされていました。
 今回、この洞窟全体を照明で照らし出そうという、壮大なプロジェクトが行われました。下見のために訪れた専門家たちが手持ちのライトで照らしても、その光が闇に吸い込まれて行くようで、奥には何も見えません。学者の一人は、「暗い塊(かたまり)が奥にいるって感じですね。」と言っていました。中に入って進んで行くと、足元は深さのわからない水たまりやごつごつした岩場が広がっています。巨大な岩や崖が迷路のように入り組んでいて、どこにいるのかわからなくなります。途中発見した巨大な鍾乳石は、高さ37メートルで、10階建てのビルを超える高さです。プロジェクトチームは2週間かけて、92個の照明器具と、6千メートルのケーブルを使って照明を設置しました。そしていよいよその瞬間です。一斉にスイッチを入れると、次々に照明の明かりがつき、今まで真っ暗だった洞窟の内部が照らし出され、感嘆の声が上がりました。見ていて、どんな暗闇も光の力にはかなわないのだと思わされました。すべてが見えるようになった今は、それはただの洞窟で、神秘的なものは何もありません。

暗闇から救い出されたパウロ

 クリスチャンを捕える使命に燃えて、ダマスコに向かっていたパウロは、途上でイエス様に出会いました。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。(使徒26:17-18)」とイエス様はパウロに言われました。
 それまでは、パウロ自身も暗闇の中にいました。熱心なパリサイ人だったパウロは、一生懸命モーセの律法を守り、良いことをしていると信じて、クリスチャンを迫害しました。とても攻撃的でした。しかし、どんなに励んでも空しいばかりで、心に平安がありませんでした。そんなパウロにイエス様があらわれてくださり、彼の心の暗闇を照らし出してくださったのです。彼は救われてすっかり変えられ、柔和になりました。不法に投獄されても怒りません。無実を訴えるどころか、真実の喜びをもってキリストを証しする者に変えられたのです。

暗闇を照らし出す光

 私たちの心の中には暗闇があります。それは罪から来るものです。人は生まれながらの罪人であり、神様に背いて自分勝手に生きています。自己中心的で人を本当に愛することがまったくできず、そのため平安がありません。何が正しいのか、どうすれば幸せになれるのか、確信を持つことができません。まるで暗闇の中を手探りで歩いているようです。
 イエス様は、私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして信じる者を罪から救ってくださいました。自分勝手に生きていた私たちを、神様に従って生きたい、と願う者に変えてくださったのです。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」。光であられる方が、私たちの内に住んでくださったので、私たちの心の暗闇は、神様の光に照らし出されました。ですから、私たちはもう道に迷うことはありません。神様に従って歩むことが、私たちが本当に祝福される道なのです。「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。(詩篇119:105)」

20.02.16 キリストに調子を合わせる



「ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

曖昧な情報

 先日、ある子育て情報サイトで公開した記事の内容について、「それは危険だからやめたほうがいい」とSNS上で話題となり、テレビのニュースで流れていました。その内容とは、「手作りで目薬ができました」というものでした。「市販の目薬には、防腐剤などの添加物が入っているものが多いので、自然のものだけで作れる、しかも家庭にあるもので簡単にできます」というのです。「材料は水と塩。水道水は塩素が入っているのでミネラルウォーターもしくは浄水を使用し、塩は塩化ナトリウムの入っていないものを使用する」と書かれてあり、この記事に対してSNS上で、「目の様な敏感な部分に使うものを家庭で気軽に作ってしまうのは危険ではないか」「塩と塩化ナトリウムは同じではないか」といった指摘や危険性を訴える投稿が相次ぎました。
 そのサイトでは他にも、「キャベツを頭からかぶると熱が下がる」といった投稿もあったようです。キャベツをかぶることで、体内の毒素を吸い出し、熱を下げる効果があるというものでした。他にも「〇〇を使うと病気が治る」というようなあらゆる方法が投稿されています。一見バカげたことのように思える内容であっても、いざ自分が病気になり不安を覚えると、「もしそれが本当だったら・・・」と思うと、試してみたくなるのかもしれません。
 新型コロナウイルスでも、根拠のない話やデマが、次から次へと流れているようです。「〇〇市の病院でコロナウイルス患者が入院している」「ドライヤーで熱風を当てるとウイルスは死ぬ」「オリンピックが中止になる」など数えきれないほどのデマがSNSを中心に流れています。大地震が起こった時も、「数時間後に大きな地震がやってくる」といったデマが流れます。
 「この先どうなるかわからない、私の身にも起こるのではないか、重い病気だったらどうしよう」といった、見えないものに対する恐怖や不安から、解決策や治療法を耳にすると、「本当かもしれない、治るかもしれない」と信じてしまうのです。

世から受ける影響

 私たちは救われて、キリストによって新しくされた者であります。しかし、依然として罪人であり、罪を犯してしまう者であり、この世の中で生活をしています。ですから多くの影響を受ける環境にいます。ネット上では様々な情報があふれていますし、SNSなどのコミュニティの中でも、多数の人の意見であふれています。また、職場や家族など身近な人からも多くの情報を耳にします。そして、自分が病気で苦しんでいる時に、「これが効くよ」と勧められるとすぐに飛びついたりします。お金の不安がある時に、「これで稼げるよ」と聞くと、「この苦しい状況から逃れられるかも」と思い、お金儲けに走ったりします。私たちは、これらの情報を吟味しなければなりません。また、人のうわさ話にも注意していないと、「無意識のうちに自分も加わっていた」ということになりかねません。

キリストに影響されて生きる

 私たちは、キリストに調子を合わせていなければ、世と調子を合わせることになるのです。荒れ果てた乾いた地で生活をしていても、そこに水はないので、やがて枯れてしまいます。川の流れのあるところ、イエス様がおられるところで生活をしなければなりません。そうすると私たちは、木が水分を得て成長するように、生き生きと喜びを持って生きられるのです。「イエス様ならどうされるだろうか」「イエス様だったら何と言われるだろうか」というように、イエス様から影響を受けて生活することで、神のみこころを知ることができるのです。

自分を変えていただく

 私は、アトピー性皮膚炎で長年苦しんでいました。「この薬を塗ればかゆくなくなる」「漢方薬を飲めば治る」など、あらゆる方法を聞いては試してみました。しかし、一時的にかゆみがおさまっても、すぐにまた元に戻るのです。表面的なもので根本的な治療にはならないのです。帯状疱疹になったことをきっかけに、「主はいやしてくださる」という信仰が与えられ、「生活習慣を変えなさい」と示され、「そうしよう」と思いました。食べる物を選ぶこと、食べる量、時間を考えること、運動をし、睡眠をとることなどを実践しました。すると、「以前のようなかゆみがない」と気がつき、「主がいやしてくださった」と感謝しました。それは、自分の考えや、自分なりの習慣では不可能なことでした。主によって、習慣が変えられ、考え方から根本的に変えられることが必要だったのです。
 私たちも、自分の考えによってではなく、主による新しい心を与えられて、日々の習慣や考え方が変えられる必要があるのです。そうすることによって、何がみこころであるのか、そうでないのかをきちんと見分けるようになり、正しい生活習慣を持つことができ、主にある解決をいただくことができるのです。

20.02.09 あたたかい冬



「黙示録6:7-8 子羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」

あたたかい冬

 今年の冬はあたたかく、朝晩はそれなりに寒くても、昼を過ぎると、暖房した部屋の窓からまるで春のような日差しがふりそそぎ、暑くて思わずエアコンのスイッチを切る、という日もあるほどです。今まではあまりなかったことだと思います。昨夏の猛暑に引き続き、いわゆる「異常気象」を身近に感じます。個人的には寒がりなので、あたたかい冬はどちらかというとうれしくも感じますが、何か地球に大変なことが起こっているのではないかと少し心配にもなります。
 この異常気象は地球の温暖化によるものだと言われ、世界の多くの国が参加する「パリ協定」では、地球温暖化対策に真剣に取り組んでいます。しかし地球温暖化に関してはいろいろな説があり、地球は温暖化ではなく、むしろ寒冷化に向かっているのだという科学者の研究もあり、たとえばアメリカは温暖化対策には賛同していません。しかしいずれにしても、異常気象が私たちの生活に大きく影響していることは事実であると言えるでしょう。

非常事態

 ここ数年世界で起こっている、水害や森林火災などもこの地球の異常気象が原因と言われています。昨年の、台風19号による水害は、私たちの記憶にも新しいところです。また、アメリカやオーストラリアでは、森林火災が深刻となっています。森林火災は、昔から日常的に起こる現象なのだそうですが、このところの気温の上昇で乾燥が激しいため、異常に燃え広がって、普通は燃えるはずのない村や農園までが焼き尽されているそうです。またオーストラリアでは、コアラなど、この地にしか生息しない野生動物の種が途絶えてしまうかもしれない危機もあるそうです。
 危機と言えば、今、新型コロナウイルスによる肺炎の感染が、騒がれています。現在中国では2万人以上の人が感染し、500人近くの人が亡くなったということです。日本やアジア諸国などでも少しずつ感染が広がっています。それ以外にも、最近頻繁に起こる地震や洪水、さらには貿易摩擦や軍事的な争いなど、毎日報道される世界の非常事態を見聞きするとき、私たちは、今世界で何が起ころうとしているのかと、漠然と不安を感じてしまうのではないでしょうか。

黙示録の4人の騎手

 昨年10月の国連の会合で事務総長が、今世界で起こっている4つの危機が、彼には聖書の黙示録に書いてある4人の騎手と見えている、とスピーチしたそうです。彼の言う4つの危機とは、「テロや核の脅威を含む地域同士の対立」「気候危機」「格差などで生まれる不信」「デジタル技術の悪用」です。
 黙示録は、この世の終わりに起こるさばきについて、ヨハネが書き記した書物です。6章に出てくる4騎手は、そのとき起こる4つのわざわいの象徴として書かれています。白い馬に乗った騎手は、「勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。(黙示6:2)」とあり、権力欲を持つ者、反キリストのこと、赤い馬の騎手は、「地から平和を奪い取ることが許された。(同6:4)」とあり、戦争や殺戮(さつりく)を表わすと言われます。黒い馬の騎手は、「秤(はかり)を手に持っていた。(同6:5)」とあり、これは飢饉(ききん)や、貧富の格差を表わすと言われます。そして、青ざめた馬の騎手は冒頭のみことばですが、「これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」とは、戦争や飢餓、疫病などにより、地上の4分の1の人が死ぬということです。まるで今世界で起きていることが預言されているかのようです。

主権は主にある

 この世を支配しておられるのは、創造主であられる神様です。この地上にどんな危機があろうとも、すべてのことは神様の許可なしには起こり得ません。聖書には「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(Ⅰペテロ4:7)」とあります。このさまざまな危機の中にあってクリスチャンがすべきことは、心配することではなく、むしろ落ち着いて、この世の終わりがいつ来てもあわてないように、罪から遠ざかり、父なる神様に祈る生活です。世の終わりは、天の御国の到来です。一人でも多くの魂が救われて天の御国に入ることができるように、私たちは祈らなければなりません。神様のみこころはすべての人がイエス・キリストを信じて救われることなのです。

20.02.02 自分を妨げているもの



「ルカ4:18-19 『主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。』」

学力低下

 「スマホを使えば使うほど学力が低下する」と子どもたちの学力に対して警告を発している人がいます。仙台市の全ての市立中学校に通う2万人以上の生徒を対象とした、生活や学習状況についての調査が行われました。生徒に対する質問の内容は、一日どれくらいの時間スマホを使っているか、そして、家で一日何時間勉強をしているか、というものでした。
 その調査結果をもとにデータを分析し、得られた結果は、「スマホを長時間使用する生徒ほど、成績が悪くなっていく」という事実でした。そして、さらに明らかになったことは、「家ではほとんど勉強しないが、スマホは使っていないという生徒は、家で毎日2時間以上勉強して、スマホを3~4時間使っている生徒よりも成績が良い」ということでした。つまり、家ではほとんど勉強しないが、スマホは使っていない生徒は、学校の勉強だけなのに、むしろ成績が良いということです。このデータは、数学のテストの平均点によるものですが、他の科目でも同様の結果となったようです。
 このデータだけがすべてではないと思いますが、少なからずスマホを長時間利用することが、学力の低下につながっているということはわかるのです。スマホに夢中になり、成績が悪くなっていくことで、本来発揮できるはずの学力が発揮されず、勉強に対する意欲はなくなり、勉強がますます嫌いになってしまうことでしょう。

コミュニケーション不足

 また、スマホに夢中になってしまうことで、段々とコミュニケーションがなくなっていきます。最近は、親子や夫婦、友人との関係においても、直接会話をする時間が、昔と比べて少なくなっているように感じます。家庭でも、子どもが自分の部屋に閉じこもり、狭い空間の中で、自分の世界に入り込んでしまい、SNSやゲームなどに熱中してしまうことで、人との関わりが極端に減ってきます。人は本来、他の人との交わりなくしては生きられない存在です。人との交わりを通して、教えられることや感じることがあるわけですが、そこから離れていくことで、どんどん自分の殻に閉じこもるようになり、怒りやストレスを日々抱え込み、やがては、人と関わるのが嫌になります。最近起きている、あおり運転や暴力事件なども、コニュニケーション不足から生じていることが多いのです。

主から与えられている能力

 私たちは、本来、神様から様々な能力を与えられています。ものごとを考えたり描くための想像力、正しくものごとを判断するための判断力や知恵、ものを作り上げていく技術力、多くの情報をインプットし、必要な時に思い出したりすることのできる記憶力など、他にも多くの能力が与えられています。それらの能力を発揮することで、多くのことを成し遂げていく事ができるのです。そしてそれは、主が私たちの内に働いて成し遂げてくださるのです。目の前の仕事を集中して行い、何ものにも妨げられることなく、機嫌よくすることができ、毎日それが続けられるのも、主にあって可能なことです。
 しかし、スマホが中心の生活で、スマホに夢中になってしまうと、物事に対する集中力や、やる気は失われ、喜びがなくなってきます。それが、私たち人間本来の能力を発揮することの妨げとなっています。意欲的に勉強することの妨げとなり、良い人間関係を保つことの妨げとなっています。スマホ中心の生活が、私たちの人生を破壊していくことになるのだ、ということに私たちは気がつかなければなりません。

妨げが取り除かれて

 私たちは、本来、もっと意欲を持って勉強をすることができますし、その能力を発揮することができます。もっと人と関わりを持ち、コミュニケーションをとって、楽しく喜びにあふれた人間関係を築くことができます。それは、私たちが「本当はそうしたい」と思っていることではないでしょうか。
 そのために私たちがすることは、イエス様に夢中になって生きることです。「イエス様のことばかり考えてしまって頭から離れないんです」というくらい、一日中イエス様のことだけ考えて生活することです。あなたがもし、そのことを決意し、そう生きようと一歩踏み出すならば、あなたの生活、人生は変わります。イエス様に夢中になって生きるなら、勉強が楽しくなります。仕事をするのが楽しくなります。人と話をするのが楽しくなります。
 イエス・キリストは、私たちを罪の中から救い出すために来てくださいました。このお方によって、私たちは自由にされ、勝利ある人生を歩むことができるのです。

20.01.26 永遠の神



「Ⅱペテロ3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」

1秒でできること

 数年前に、「1秒でできること」という、保存容器のCMがありました。1秒でできることは、「感動できる」、「(人を)笑顔にできる」、「子どもになれる」、「失恋できる」、そして最後にCMとして言いたかったことは、「1秒でロックできる。(保存容器のふたが閉まる)」というものでした。たった15秒のCMですが、5つの場面が瞬間映るだけで、頭の中にそれぞれのストーリーを描けることに感動して心に残りました。たとえば、「感動」の場面は、窓から一瞬見えた流れ星に、俳優がはっと椅子から立ち上がる、「失恋」の場面は、彼女が「元気でね」と言い放って一瞬で去り、彼が取り残されて呆然と立ちすくむ、という設定でした。そして、CMのインパクトもさることながら、1秒でできることがたくさんあるということに、興味を持ちました。

時間がない

 日常生活の中で、私たちはするべきことを後回しにしてしまうことがあります。たとえば、出かける支度をしているとき、急いでいて「時間がない」と思うと、ちょっと物が落ちても、「拾っている暇なんかない」と思ってしまいます。しかし、冷静に考えて見ると、落ちた物を拾うことなんて、それこそ1秒あればできることです。出かける時間に遅れるということはないのです。そうして考えると、扉を閉めるとか、物を元の場所にもどすとか、服を掛けるとか、ちょっとした汚れを拭くとか、人に声をかけるとかいうことも、一瞬でできることです。それなのに、「忙しい」とか「時間がない」という思いに縛られて、後回しにしていることの何と多いことかと思います。
 というわけで最近、10秒以内にできることは、すぐしようと決めてみました。すると何かちょっとしたことをするときに、心の中で「1、2、3、・・」とカウントするようになり、忙しいときの「後回し」も、少しは・・減った気がしています。
 いずれにしても、私たちは生活の中で、もっと時間があったらよいのにとか、もっと時間の使い方が上手になりたい、とかつぶやいたり嘆いたりしている者ではないでしょうか。

時間を支配しておられる方

 神様は時間を支配しておられる方です。 たとえば、春になると必ず桜の花が咲くように、規則正しく季節がめぐるのも、神様が天体の運行を支配し、規則正しく動かしておられるからです。
 聖書には、神様が時間を止めたできごとが記されています。「主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。『太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。』民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。(ヨシュア10:12-13)」。ヨシュアが率いるイスラエルは、明け方からアモリ人と戦っていました。逃げる敵を追跡している最中、日が暮れて敵が見えなくならないように、ヨシュアは神様に、太陽と月が動かないように、と祈ったのです。 すると神様は祈りを聞いてくださり、丸一日、太陽も月も動きませんでした。こうして神様は、ヨシュアに勝利をもたらされました。聖書には「主がイスラエルのために戦われたからである。(ヨシュア10:14)」とあります。主は主権をもって働いてくださるお方です。

永遠の神

 聖書には、「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。(イザヤ40:28)」とあります。神様は永遠のお方ですから、私たちのように、時間が経つのが早いとか遅いとか感じることもありませんし、「時間がない」と言ってあわてることもありません。この世界のはじめから終わりまでをすべて見通しておられ、永遠に主権を持って働かれるお方です。
 地上にあるのものは朽ちていきます。しかし神様は永遠に変わらないお方です。人の愛は変わります。しかし、神様の愛は永遠に変わりません。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ31:3)」神様の聖さも正しさも、永遠に変わらないのです。ですから私たちは、この変わらない神様のみことばに、耳を傾けなければなりません。永遠の神に信頼するときに初めて、私たちは、決して揺るがない平安を得ることができるのです。「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ書40:8)」

20.01.19 望みは主にある



「マタイ6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

成人の日

 先週は、成人の日で、全国で成人式が行われました。今年の新成人は全国で122万人ということで、少子化の影響もあり、毎年減少傾向にあるようです。「成人」という一つの節目の時、華やかな振り袖や真新しいスーツを身にまとう人の姿が見られました。
 成人となるこの時は、両親に対して、「今日まで育ててくれてありがとう」と、感謝の思いを表したり、自分が生活してきた地元の町やそこにいる人たちへの感謝を表したり、「これから、大人として、一人の社会人として責任ある行動をとっていきたい」と、成人となるにあたって誓いの言葉を述べたり、これまでの感謝、これからの決意、抱負、目標などを考える時となったのではないかと思います。

将来への不安

 ところで、毎年、新成人を対象としたアンケートがあり、その中で、「将来に対してどう思うか」という質問がありました。「不安がある」と回答した人が、全体の半数以上だったそうです。お金の心配、働くことに対する不安、人間関係における不安など、様々あるようです。先の見えないこと、どうなるのか分からないことに対する漠然とした不安です。
 これは新成人に限ったことではなく、誰にでもあることではないでしょうか。「今の仕事をこれからも続けていくことができるだろうか。もし転職でもすることになったら、雇ってくれるのだろうか。」「今のこの生活を続けていて、老後ちゃんと安心して暮らしていけるだけのものを蓄えることはできるのだろうか。」「今ある人間関係がこれからもずっと続いていくだろうか。孤独になってしまわないだろうか。」「自分は結婚することができるのだろうか。子どもができるだろうか。」などといった、将来に対する不安や心配があります。
 「だから、そのためには、今からたくさん働いて、少しずつでも蓄えておこう。」「あの人に受け入れてもらえるように、言うことを聞いて、自分のことをわかってもらおう。」と、自分が安心できる何かを求めたりすることがあるかもしれません。

備えがあれば安心できるのだろうか

 私たちは、十分な蓄えや備えがあれば、それで安心できるのでしょうか。ある時は、「大丈夫、これで安心だ」と思えても、すぐに今度は、「これで本当に大丈夫だろうか。これを失ったらどうしよう。」と心配してしまいます。心がいつも揺れ動き定まっていません。
 イエス様がたとえをもって話された愚かな金持ちもそうでした。彼は、たくさんの収穫や財産を蓄えて安心していたのです。「たくさんの収穫があった。だから、これで私は一生安泰だ。もう何の心配もなく暮らしていける。」と、すっかり蓄えがあることで安心していたのでした。そんな彼に対し主は、「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)」と言われたのです。

主に望みを置く

 私たちは、今持っているものはすべて主が与えてくださったものであることを、はっきりと自覚しなければなりません。ですから、これから先のことも、すべて主にお任せしていかなければならないのです。箴言には、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。(箴言27:1)」とあります。私たちに将来何が起こるのかは全く分かりません。20年後のことも、来年のことも、今週起こることも、この後起こることも、何一つ分からないのです。
 私たちがするべきことは、主に希望を置くことだけです。今、心のうちに将来に対する不安があっても、心配があったとしても、「私は、私の生活のすべてを主に委ねます。主が必ず養ってくだるからです。」と告白しなければなりません。今日、今、やるべきことを、主に従って行なっていく先に、道が開かれていくことを信じます。今日、喜びをもって働くこと、今日、愛を持ってすすんで家族のために犠牲を払うこと、愛を持って人に接することで、仕事も、経済も、家庭も、祝福されると信じます。
 「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」

20.01.12 真理は一つ



「イザヤ40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

山茶花(さざんか)

 新年になり、やっと冬らしい寒さを感じるこのごろですが、道を歩いていると、目に入って来るのは山茶花(さざんか)の可憐な濃いピンクの花です。冬は木々の葉も枯れ落ちて枯れ木が目立つ中、冷たい風の中で、どうしてこんなに元気に美しく咲いているのかと不思議に思うほど、民家の垣根や庭に多く見かけます。
 山茶花を題材にした句に「 山茶花を 雀のこぼす 日和かな」(正岡子規)というのがあります。冬のおだやかな日差しの中、家の生け垣の山茶花に雀が戯(たわむ)れている。雀が動くたびに、山茶花の花びらがひらひらと舞い落ちる様子が目に浮かびます。また「山茶花の 花や葉の上に 散り映えり」(高浜虚子)という句もあります。山茶花の濃い緑色の葉の上や、地面に散ったピンク色の花びらは、花の絨毯(じゅうたん)のようできれいです。

神様の被造物

 正月に実家に寄ると、実家の入り口にある、見上げるほどの山茶花の大木に、たくさんの花が咲いていました。あまりに大木なので、一緒にいた人が「これは山茶花じゃないよ、椿だよ。」と、言いました。普段よく見かける生け垣の山茶花は、比較的背が低いものが多いからでしょう。山茶花と椿はよく似ているのですが、見分け方の一つは、花の散り方です。椿は、花がまるごと花首から落ちますが、山茶花は、花びらが一枚一枚落ちます。花や葉の形や色がよく似ているのは、両方とも、創造主であられ、唯一であられる神様がデザインされたからでしょう。
 もっとも実家の山茶花は、風が強く吹くたびにたくさんの花びらが舞い落ちて近所迷惑なので、毎日何回も、父がはき掃除をしているということでした。家族でそんな話をしながら、神様が造られたこの一本の木が、花を咲かせて人の目を楽しませ、また花びらを散らせて人を感動させたり、時には人を煩わせたり、人を働かせたりする・・。神様がどんなところにも働いてくださっておられることを覚えて、神様に感謝しました。

日本の風習?

 ところで、正月に家族や親戚が集まると、よく出てくる話題は、どこそこの神社仏閣に初詣でに行って来たとか、またこれから行くというものです。今年は是非伊勢神宮に行ってみたい、と話している人もいました。また、年末から正月にかけては、家や店に、門松やしめ縄が飾られ、多くの人が鏡餅を飾ります。これらはほとんどが日本の神話に由来するものですが、多くの人は、あまり深く意味を考えず、日本の風習または文化として取り入れています。それを守るとよいことがある、幸せになる、と漠然と期待していますし、また守らないと不幸なことが起こるかもしれないという恐れがあります。人は誰でも何かに頼って生きたいと願い、心の拠り所を求めていることがよくわかります。
 聖書には、この世は悪魔の支配にあると書かれています。これを、ただの日本の風習だと思わせて、真の神様から目をそらせようとする悪魔の働きがあることを、私たちは見抜かなければなりません。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」

真理は一つ

 聖書には、イエス・キリストこそが真理であると書かれています。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」。ただ一つしかないものが「真理」です。日本人の多くが心の拠り所としたがっている神社仏閣の神々は、石や木や金属で人が作ったものです。人の手で作った神々が、人を救うことができるはずはありません。真の神様は、この世のすべての自然、植物、生物のすべてをお造りになった、創造主であられる神です。それは神様の被造物を注意深く観察すれば、だれでも悟ることができることなのです。「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)」
 真の神様は永遠のお方であり、聖書のみことばは真実です。このお方が、私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架で死なせ、復活させてくださいました。そしてこれを信じる者は罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのです。これが真理です。人は誰でも、朽ちてゆく偶像の神々ではなく、決して朽ちることのない、唯一真の神様を信じなければなりません。

20.01.05 感謝



「Ⅰテサロニケ5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年のテーマは「感謝」です。今年も主と共に、感謝を持って歩む一年でありたいと思います。

ありがとう

 私たちが普段、どんな場面で感謝するのかを考えてみますと、例えば、一年の終わりの時であったり、学校を卒業するとき、会社を退職するとき、結婚などのタイミングで、これまでの歩みを思い起こすことがあります。自分と関わりのあった人たちに対して「今までありがとう」という感謝の思いが湧き上がってきます。また、母の日や父の日に、日頃の感謝の思いを伝えたりします。一緒に食事に出かけたり、プレゼントを渡したりすると思います。
 また、「道に迷ってしまい、どちらへ行けば良いのかわからない、早くしないと電車に乗り遅れてしまう」という時に、困っている自分を見て声をかけれくれる人がいて、丁寧に場所を教えてくれたおかげで、電車に乗り遅れないで済んだ、という時に、その道を教えてくれた人に対して、「ありがとう」という感謝の思いが湧き上がってきます。感謝は、何か自分に良いことをしてくれる人に対して表す思いのことを言います。それが、「ありがとう」という言葉や態度であったり、プレゼントや手紙といった行為として表れてきます。

主の素晴らしきみわざに感謝

 イスラエルの民は、エジプトの奴隷として苦役(くえき)を強いられていましたが、主はご自分の民を、その中から救い出してくださいました。エジプトに災いをもたらし、紅海を真っ二つに分けて民を導くという奇跡のわざをなされたのです。民にとっては、「私たちは解放されたのだ!もう奴隷ではなく、自由になったのだ!」と、この上ない喜びであったことと思います。そして民は、その大いなる御手のわざを目の当たりにし、すべての出来事を導いてくださった主に向かって、歌を持って賛美をし、感謝を表したのです。
 「過越の祭り」は、この出エジプトを記念して行なっているわけでありますが、毎年行われるたびに、主の救いのみわざを覚えて感謝しているのです。今でもずっと行われているということからも、この出来事が、どれほど偉大な事であったのかが分かります。

自然と湧き上がってくる思い

 そして、イエス・キリストを信じる私たちにとっては、罪ある中から救われたことが、一番感謝する出来事ではないかと思います。救われたことの喜びが大きければ大きいほど、その主への感謝の思いが溢れてくるのではないでしょうか。「主があわれんでくださったので、私は今前を向いて生きられる、喜んで仕事をすることができている」「主があわれんでくださったので、私はいやされた」。この思いは、心の内側から自然と湧き上がってきます。それが、祈りの中で賛美として表れてきますし、ご奉仕をして主の働きのために仕えたい、用いられたいという思いとなって表れてきますし、恵まれたと感じる時に、それが献金となって表れてきますし、自分自身のすべてを献げたいという思いが、献身という形で表れてきます。主は、その私たちの純粋な思い、心を見て喜んでくださいます。
 例えば、人からプレゼントをもらう時、それがどんなに高価で素晴らしいものであったとしても、言葉もなく渡されるようなことがあれば、嬉しいと感じることはありません。「いつもありがとう」と言われて渡されると、それだけで気持ちが伝わってきて嬉しくなります。主は、私たちの素直な思いを受け取ってくださいます。

すべては主の御手の中にある

 そして主は、「すべてのことにおいて感謝しなさい。」と言われています。今日いのちが与えられていること、働くことができること、人と楽しく話しができること、仕事や家庭で問題のあることなど、自分の目には、嬉しいと感じることや、反対に、苦しいと感じること、嫌だなと感じることであっても、その出来事の上に立たれておられるお方を見上げる時に、私たちは、「すべてのことが主の御手の中にあるのだ」と知ることができるので、それが嬉しくて、主を賛美し、それが感謝の思いとなって表れてくるのです。
 私たちは、この一年、すべての出来事に感謝し、今年も主からのたくさんの恵みと祝福をいただいてまいりましょう。