20.02.23 闇を照らし出す

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「ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

暗闇を恐れる

 数年前の台風の夜、突然停電になったことがありました。真っ暗で、懐中電灯を取りに行こうにも、手探りで歩くのは大変でした。住み慣れた自分の家の中であっても、暗闇の中では、少し歩くのも恐る恐るです。子供の頃に、夜、家のトイレに行くのが恐かった経験があります。うす暗い廊下を歩くとき、ひょっとすると、暗やみの中に何かがひそんでいるのではないかと想像して、怖がっていたことを思い出します。怖がっていると、実際にはない者が見えたりするものです。
 暗闇は人を恐れさせ、不安にさせるものです。目の前に何があるのかわからないと、安心して前に進むこともできず、あるはずのないことまで想像して、心配に悩まされることになります。

巨大な洞窟

 先日ニュースで、世界最大と言われている中国の洞窟が紹介されていました。その地域には少なくとも10万を越える洞窟があるそうですが、この「ミャオティン」と呼ばれる洞窟は、中でも圧倒的な大きさです。その地域に住む民族は「龍の巣」と呼び、あまりに真っ暗なため、「そこは冥界。決して入ってはならない。」とされていました。
 今回、この洞窟全体を照明で照らし出そうという、壮大なプロジェクトが行われました。下見のために訪れた専門家たちが手持ちのライトで照らしても、その光が闇に吸い込まれて行くようで、奥には何も見えません。学者の一人は、「暗い塊(かたまり)が奥にいるって感じですね。」と言っていました。中に入って進んで行くと、足元は深さのわからない水たまりやごつごつした岩場が広がっています。巨大な岩や崖が迷路のように入り組んでいて、どこにいるのかわからなくなります。途中発見した巨大な鍾乳石は、高さ37メートルで、10階建てのビルを超える高さです。プロジェクトチームは2週間かけて、92個の照明器具と、6千メートルのケーブルを使って照明を設置しました。そしていよいよその瞬間です。一斉にスイッチを入れると、次々に照明の明かりがつき、今まで真っ暗だった洞窟の内部が照らし出され、感嘆の声が上がりました。見ていて、どんな暗闇も光の力にはかなわないのだと思わされました。すべてが見えるようになった今は、それはただの洞窟で、神秘的なものは何もありません。

暗闇から救い出されたパウロ

 クリスチャンを捕える使命に燃えて、ダマスコに向かっていたパウロは、途上でイエス様に出会いました。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。(使徒26:17-18)」とイエス様はパウロに言われました。
 それまでは、パウロ自身も暗闇の中にいました。熱心なパリサイ人だったパウロは、一生懸命モーセの律法を守り、良いことをしていると信じて、クリスチャンを迫害しました。とても攻撃的でした。しかし、どんなに励んでも空しいばかりで、心に平安がありませんでした。そんなパウロにイエス様があらわれてくださり、彼の心の暗闇を照らし出してくださったのです。彼は救われてすっかり変えられ、柔和になりました。不法に投獄されても怒りません。無実を訴えるどころか、真実の喜びをもってキリストを証しする者に変えられたのです。

暗闇を照らし出す光

 私たちの心の中には暗闇があります。それは罪から来るものです。人は生まれながらの罪人であり、神様に背いて自分勝手に生きています。自己中心的で人を本当に愛することがまったくできず、そのため平安がありません。何が正しいのか、どうすれば幸せになれるのか、確信を持つことができません。まるで暗闇の中を手探りで歩いているようです。
 イエス様は、私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして信じる者を罪から救ってくださいました。自分勝手に生きていた私たちを、神様に従って生きたい、と願う者に変えてくださったのです。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」。光であられる方が、私たちの内に住んでくださったので、私たちの心の暗闇は、神様の光に照らし出されました。ですから、私たちはもう道に迷うことはありません。神様に従って歩むことが、私たちが本当に祝福される道なのです。「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。(詩篇119:105)」

20.02.16 キリストに調子を合わせる

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「ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

曖昧な情報

 先日、ある子育て情報サイトで公開した記事の内容について、「それは危険だからやめたほうがいい」とSNS上で話題となり、テレビのニュースで流れていました。その内容とは、「手作りで目薬ができました」というものでした。「市販の目薬には、防腐剤などの添加物が入っているものが多いので、自然のものだけで作れる、しかも家庭にあるもので簡単にできます」というのです。「材料は水と塩。水道水は塩素が入っているのでミネラルウォーターもしくは浄水を使用し、塩は塩化ナトリウムの入っていないものを使用する」と書かれてあり、この記事に対してSNS上で、「目の様な敏感な部分に使うものを家庭で気軽に作ってしまうのは危険ではないか」「塩と塩化ナトリウムは同じではないか」といった指摘や危険性を訴える投稿が相次ぎました。
 そのサイトでは他にも、「キャベツを頭からかぶると熱が下がる」といった投稿もあったようです。キャベツをかぶることで、体内の毒素を吸い出し、熱を下げる効果があるというものでした。他にも「〇〇を使うと病気が治る」というようなあらゆる方法が投稿されています。一見バカげたことのように思える内容であっても、いざ自分が病気になり不安を覚えると、「もしそれが本当だったら・・・」と思うと、試してみたくなるのかもしれません。
 新型コロナウイルスでも、根拠のない話やデマが、次から次へと流れているようです。「〇〇市の病院でコロナウイルス患者が入院している」「ドライヤーで熱風を当てるとウイルスは死ぬ」「オリンピックが中止になる」など数えきれないほどのデマがSNSを中心に流れています。大地震が起こった時も、「数時間後に大きな地震がやってくる」といったデマが流れます。
 「この先どうなるかわからない、私の身にも起こるのではないか、重い病気だったらどうしよう」といった、見えないものに対する恐怖や不安から、解決策や治療法を耳にすると、「本当かもしれない、治るかもしれない」と信じてしまうのです。

世から受ける影響

 私たちは救われて、キリストによって新しくされた者であります。しかし、依然として罪人であり、罪を犯してしまう者であり、この世の中で生活をしています。ですから多くの影響を受ける環境にいます。ネット上では様々な情報があふれていますし、SNSなどのコミュニティの中でも、多数の人の意見であふれています。また、職場や家族など身近な人からも多くの情報を耳にします。そして、自分が病気で苦しんでいる時に、「これが効くよ」と勧められるとすぐに飛びついたりします。お金の不安がある時に、「これで稼げるよ」と聞くと、「この苦しい状況から逃れられるかも」と思い、お金儲けに走ったりします。私たちは、これらの情報を吟味しなければなりません。また、人のうわさ話にも注意していないと、「無意識のうちに自分も加わっていた」ということになりかねません。

キリストに影響されて生きる

 私たちは、キリストに調子を合わせていなければ、世と調子を合わせることになるのです。荒れ果てた乾いた地で生活をしていても、そこに水はないので、やがて枯れてしまいます。川の流れのあるところ、イエス様がおられるところで生活をしなければなりません。そうすると私たちは、木が水分を得て成長するように、生き生きと喜びを持って生きられるのです。「イエス様ならどうされるだろうか」「イエス様だったら何と言われるだろうか」というように、イエス様から影響を受けて生活することで、神のみこころを知ることができるのです。

自分を変えていただく

 私は、アトピー性皮膚炎で長年苦しんでいました。「この薬を塗ればかゆくなくなる」「漢方薬を飲めば治る」など、あらゆる方法を聞いては試してみました。しかし、一時的にかゆみがおさまっても、すぐにまた元に戻るのです。表面的なもので根本的な治療にはならないのです。帯状疱疹になったことをきっかけに、「主はいやしてくださる」という信仰が与えられ、「生活習慣を変えなさい」と示され、「そうしよう」と思いました。食べる物を選ぶこと、食べる量、時間を考えること、運動をし、睡眠をとることなどを実践しました。すると、「以前のようなかゆみがない」と気がつき、「主がいやしてくださった」と感謝しました。それは、自分の考えや、自分なりの習慣では不可能なことでした。主によって、習慣が変えられ、考え方から根本的に変えられることが必要だったのです。
 私たちも、自分の考えによってではなく、主による新しい心を与えられて、日々の習慣や考え方が変えられる必要があるのです。そうすることによって、何がみこころであるのか、そうでないのかをきちんと見分けるようになり、正しい生活習慣を持つことができ、主にある解決をいただくことができるのです。

20.02.09 あたたかい冬

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「黙示録6:7-8 子羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」

あたたかい冬

 今年の冬はあたたかく、朝晩はそれなりに寒くても、昼を過ぎると、暖房した部屋の窓からまるで春のような日差しがふりそそぎ、暑くて思わずエアコンのスイッチを切る、という日もあるほどです。今まではあまりなかったことだと思います。昨夏の猛暑に引き続き、いわゆる「異常気象」を身近に感じます。個人的には寒がりなので、あたたかい冬はどちらかというとうれしくも感じますが、何か地球に大変なことが起こっているのではないかと少し心配にもなります。
 この異常気象は地球の温暖化によるものだと言われ、世界の多くの国が参加する「パリ協定」では、地球温暖化対策に真剣に取り組んでいます。しかし地球温暖化に関してはいろいろな説があり、地球は温暖化ではなく、むしろ寒冷化に向かっているのだという科学者の研究もあり、たとえばアメリカは温暖化対策には賛同していません。しかしいずれにしても、異常気象が私たちの生活に大きく影響していることは事実であると言えるでしょう。

非常事態

 ここ数年世界で起こっている、水害や森林火災などもこの地球の異常気象が原因と言われています。昨年の、台風19号による水害は、私たちの記憶にも新しいところです。また、アメリカやオーストラリアでは、森林火災が深刻となっています。森林火災は、昔から日常的に起こる現象なのだそうですが、このところの気温の上昇で乾燥が激しいため、異常に燃え広がって、普通は燃えるはずのない村や農園までが焼き尽されているそうです。またオーストラリアでは、コアラなど、この地にしか生息しない野生動物の種が途絶えてしまうかもしれない危機もあるそうです。
 危機と言えば、今、新型コロナウイルスによる肺炎の感染が、騒がれています。現在中国では2万人以上の人が感染し、500人近くの人が亡くなったということです。日本やアジア諸国などでも少しずつ感染が広がっています。それ以外にも、最近頻繁に起こる地震や洪水、さらには貿易摩擦や軍事的な争いなど、毎日報道される世界の非常事態を見聞きするとき、私たちは、今世界で何が起ころうとしているのかと、漠然と不安を感じてしまうのではないでしょうか。

黙示録の4人の騎手

 昨年10月の国連の会合で事務総長が、今世界で起こっている4つの危機が、彼には聖書の黙示録に書いてある4人の騎手と見えている、とスピーチしたそうです。彼の言う4つの危機とは、「テロや核の脅威を含む地域同士の対立」「気候危機」「格差などで生まれる不信」「デジタル技術の悪用」です。
 黙示録は、この世の終わりに起こるさばきについて、ヨハネが書き記した書物です。6章に出てくる4騎手は、そのとき起こる4つのわざわいの象徴として書かれています。白い馬に乗った騎手は、「勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。(黙示6:2)」とあり、権力欲を持つ者、反キリストのこと、赤い馬の騎手は、「地から平和を奪い取ることが許された。(同6:4)」とあり、戦争や殺戮(さつりく)を表わすと言われます。黒い馬の騎手は、「秤(はかり)を手に持っていた。(同6:5)」とあり、これは飢饉(ききん)や、貧富の格差を表わすと言われます。そして、青ざめた馬の騎手は冒頭のみことばですが、「これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」とは、戦争や飢餓、疫病などにより、地上の4分の1の人が死ぬということです。まるで今世界で起きていることが預言されているかのようです。

主権は主にある

 この世を支配しておられるのは、創造主であられる神様です。この地上にどんな危機があろうとも、すべてのことは神様の許可なしには起こり得ません。聖書には「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(Ⅰペテロ4:7)」とあります。このさまざまな危機の中にあってクリスチャンがすべきことは、心配することではなく、むしろ落ち着いて、この世の終わりがいつ来てもあわてないように、罪から遠ざかり、父なる神様に祈る生活です。世の終わりは、天の御国の到来です。一人でも多くの魂が救われて天の御国に入ることができるように、私たちは祈らなければなりません。神様のみこころはすべての人がイエス・キリストを信じて救われることなのです。

20.02.02 自分を妨げているもの

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「ルカ4:18-19 『主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。』」

学力低下

 「スマホを使えば使うほど学力が低下する」と子どもたちの学力に対して警告を発している人がいます。仙台市の全ての市立中学校に通う2万人以上の生徒を対象とした、生活や学習状況についての調査が行われました。生徒に対する質問の内容は、一日どれくらいの時間スマホを使っているか、そして、家で一日何時間勉強をしているか、というものでした。
 その調査結果をもとにデータを分析し、得られた結果は、「スマホを長時間使用する生徒ほど、成績が悪くなっていく」という事実でした。そして、さらに明らかになったことは、「家ではほとんど勉強しないが、スマホは使っていないという生徒は、家で毎日2時間以上勉強して、スマホを3~4時間使っている生徒よりも成績が良い」ということでした。つまり、家ではほとんど勉強しないが、スマホは使っていない生徒は、学校の勉強だけなのに、むしろ成績が良いということです。このデータは、数学のテストの平均点によるものですが、他の科目でも同様の結果となったようです。
 このデータだけがすべてではないと思いますが、少なからずスマホを長時間利用することが、学力の低下につながっているということはわかるのです。スマホに夢中になり、成績が悪くなっていくことで、本来発揮できるはずの学力が発揮されず、勉強に対する意欲はなくなり、勉強がますます嫌いになってしまうことでしょう。

コミュニケーション不足

 また、スマホに夢中になってしまうことで、段々とコミュニケーションがなくなっていきます。最近は、親子や夫婦、友人との関係においても、直接会話をする時間が、昔と比べて少なくなっているように感じます。家庭でも、子どもが自分の部屋に閉じこもり、狭い空間の中で、自分の世界に入り込んでしまい、SNSやゲームなどに熱中してしまうことで、人との関わりが極端に減ってきます。人は本来、他の人との交わりなくしては生きられない存在です。人との交わりを通して、教えられることや感じることがあるわけですが、そこから離れていくことで、どんどん自分の殻に閉じこもるようになり、怒りやストレスを日々抱え込み、やがては、人と関わるのが嫌になります。最近起きている、あおり運転や暴力事件なども、コニュニケーション不足から生じていることが多いのです。

主から与えられている能力

 私たちは、本来、神様から様々な能力を与えられています。ものごとを考えたり描くための想像力、正しくものごとを判断するための判断力や知恵、ものを作り上げていく技術力、多くの情報をインプットし、必要な時に思い出したりすることのできる記憶力など、他にも多くの能力が与えられています。それらの能力を発揮することで、多くのことを成し遂げていく事ができるのです。そしてそれは、主が私たちの内に働いて成し遂げてくださるのです。目の前の仕事を集中して行い、何ものにも妨げられることなく、機嫌よくすることができ、毎日それが続けられるのも、主にあって可能なことです。
 しかし、スマホが中心の生活で、スマホに夢中になってしまうと、物事に対する集中力や、やる気は失われ、喜びがなくなってきます。それが、私たち人間本来の能力を発揮することの妨げとなっています。意欲的に勉強することの妨げとなり、良い人間関係を保つことの妨げとなっています。スマホ中心の生活が、私たちの人生を破壊していくことになるのだ、ということに私たちは気がつかなければなりません。

妨げが取り除かれて

 私たちは、本来、もっと意欲を持って勉強をすることができますし、その能力を発揮することができます。もっと人と関わりを持ち、コミュニケーションをとって、楽しく喜びにあふれた人間関係を築くことができます。それは、私たちが「本当はそうしたい」と思っていることではないでしょうか。
 そのために私たちがすることは、イエス様に夢中になって生きることです。「イエス様のことばかり考えてしまって頭から離れないんです」というくらい、一日中イエス様のことだけ考えて生活することです。あなたがもし、そのことを決意し、そう生きようと一歩踏み出すならば、あなたの生活、人生は変わります。イエス様に夢中になって生きるなら、勉強が楽しくなります。仕事をするのが楽しくなります。人と話をするのが楽しくなります。
 イエス・キリストは、私たちを罪の中から救い出すために来てくださいました。このお方によって、私たちは自由にされ、勝利ある人生を歩むことができるのです。

20.01.26 永遠の神

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「Ⅱペテロ3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」

1秒でできること

 数年前に、「1秒でできること」という、保存容器のCMがありました。1秒でできることは、「感動できる」、「(人を)笑顔にできる」、「子どもになれる」、「失恋できる」、そして最後にCMとして言いたかったことは、「1秒でロックできる。(保存容器のふたが閉まる)」というものでした。たった15秒のCMですが、5つの場面が瞬間映るだけで、頭の中にそれぞれのストーリーを描けることに感動して心に残りました。たとえば、「感動」の場面は、窓から一瞬見えた流れ星に、俳優がはっと椅子から立ち上がる、「失恋」の場面は、彼女が「元気でね」と言い放って一瞬で去り、彼が取り残されて呆然と立ちすくむ、という設定でした。そして、CMのインパクトもさることながら、1秒でできることがたくさんあるということに、興味を持ちました。

時間がない

 日常生活の中で、私たちはするべきことを後回しにしてしまうことがあります。たとえば、出かける支度をしているとき、急いでいて「時間がない」と思うと、ちょっと物が落ちても、「拾っている暇なんかない」と思ってしまいます。しかし、冷静に考えて見ると、落ちた物を拾うことなんて、それこそ1秒あればできることです。出かける時間に遅れるということはないのです。そうして考えると、扉を閉めるとか、物を元の場所にもどすとか、服を掛けるとか、ちょっとした汚れを拭くとか、人に声をかけるとかいうことも、一瞬でできることです。それなのに、「忙しい」とか「時間がない」という思いに縛られて、後回しにしていることの何と多いことかと思います。
 というわけで最近、10秒以内にできることは、すぐしようと決めてみました。すると何かちょっとしたことをするときに、心の中で「1、2、3、・・」とカウントするようになり、忙しいときの「後回し」も、少しは・・減った気がしています。
 いずれにしても、私たちは生活の中で、もっと時間があったらよいのにとか、もっと時間の使い方が上手になりたい、とかつぶやいたり嘆いたりしている者ではないでしょうか。

時間を支配しておられる方

 神様は時間を支配しておられる方です。 たとえば、春になると必ず桜の花が咲くように、規則正しく季節がめぐるのも、神様が天体の運行を支配し、規則正しく動かしておられるからです。
 聖書には、神様が時間を止めたできごとが記されています。「主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。『太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。』民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。(ヨシュア10:12-13)」。ヨシュアが率いるイスラエルは、明け方からアモリ人と戦っていました。逃げる敵を追跡している最中、日が暮れて敵が見えなくならないように、ヨシュアは神様に、太陽と月が動かないように、と祈ったのです。 すると神様は祈りを聞いてくださり、丸一日、太陽も月も動きませんでした。こうして神様は、ヨシュアに勝利をもたらされました。聖書には「主がイスラエルのために戦われたからである。(ヨシュア10:14)」とあります。主は主権をもって働いてくださるお方です。

永遠の神

 聖書には、「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。(イザヤ40:28)」とあります。神様は永遠のお方ですから、私たちのように、時間が経つのが早いとか遅いとか感じることもありませんし、「時間がない」と言ってあわてることもありません。この世界のはじめから終わりまでをすべて見通しておられ、永遠に主権を持って働かれるお方です。
 地上にあるのものは朽ちていきます。しかし神様は永遠に変わらないお方です。人の愛は変わります。しかし、神様の愛は永遠に変わりません。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ31:3)」神様の聖さも正しさも、永遠に変わらないのです。ですから私たちは、この変わらない神様のみことばに、耳を傾けなければなりません。永遠の神に信頼するときに初めて、私たちは、決して揺るがない平安を得ることができるのです。「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ書40:8)」

20.01.19 望みは主にある

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「マタイ6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

成人の日

 先週は、成人の日で、全国で成人式が行われました。今年の新成人は全国で122万人ということで、少子化の影響もあり、毎年減少傾向にあるようです。「成人」という一つの節目の時、華やかな振り袖や真新しいスーツを身にまとう人の姿が見られました。
 成人となるこの時は、両親に対して、「今日まで育ててくれてありがとう」と、感謝の思いを表したり、自分が生活してきた地元の町やそこにいる人たちへの感謝を表したり、「これから、大人として、一人の社会人として責任ある行動をとっていきたい」と、成人となるにあたって誓いの言葉を述べたり、これまでの感謝、これからの決意、抱負、目標などを考える時となったのではないかと思います。

将来への不安

 ところで、毎年、新成人を対象としたアンケートがあり、その中で、「将来に対してどう思うか」という質問がありました。「不安がある」と回答した人が、全体の半数以上だったそうです。お金の心配、働くことに対する不安、人間関係における不安など、様々あるようです。先の見えないこと、どうなるのか分からないことに対する漠然とした不安です。
 これは新成人に限ったことではなく、誰にでもあることではないでしょうか。「今の仕事をこれからも続けていくことができるだろうか。もし転職でもすることになったら、雇ってくれるのだろうか。」「今のこの生活を続けていて、老後ちゃんと安心して暮らしていけるだけのものを蓄えることはできるのだろうか。」「今ある人間関係がこれからもずっと続いていくだろうか。孤独になってしまわないだろうか。」「自分は結婚することができるのだろうか。子どもができるだろうか。」などといった、将来に対する不安や心配があります。
 「だから、そのためには、今からたくさん働いて、少しずつでも蓄えておこう。」「あの人に受け入れてもらえるように、言うことを聞いて、自分のことをわかってもらおう。」と、自分が安心できる何かを求めたりすることがあるかもしれません。

備えがあれば安心できるのだろうか

 私たちは、十分な蓄えや備えがあれば、それで安心できるのでしょうか。ある時は、「大丈夫、これで安心だ」と思えても、すぐに今度は、「これで本当に大丈夫だろうか。これを失ったらどうしよう。」と心配してしまいます。心がいつも揺れ動き定まっていません。
 イエス様がたとえをもって話された愚かな金持ちもそうでした。彼は、たくさんの収穫や財産を蓄えて安心していたのです。「たくさんの収穫があった。だから、これで私は一生安泰だ。もう何の心配もなく暮らしていける。」と、すっかり蓄えがあることで安心していたのでした。そんな彼に対し主は、「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)」と言われたのです。

主に望みを置く

 私たちは、今持っているものはすべて主が与えてくださったものであることを、はっきりと自覚しなければなりません。ですから、これから先のことも、すべて主にお任せしていかなければならないのです。箴言には、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。(箴言27:1)」とあります。私たちに将来何が起こるのかは全く分かりません。20年後のことも、来年のことも、今週起こることも、この後起こることも、何一つ分からないのです。
 私たちがするべきことは、主に希望を置くことだけです。今、心のうちに将来に対する不安があっても、心配があったとしても、「私は、私の生活のすべてを主に委ねます。主が必ず養ってくだるからです。」と告白しなければなりません。今日、今、やるべきことを、主に従って行なっていく先に、道が開かれていくことを信じます。今日、喜びをもって働くこと、今日、愛を持ってすすんで家族のために犠牲を払うこと、愛を持って人に接することで、仕事も、経済も、家庭も、祝福されると信じます。
 「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」

20.01.12 真理は一つ

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「イザヤ40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

山茶花(さざんか)

 新年になり、やっと冬らしい寒さを感じるこのごろですが、道を歩いていると、目に入って来るのは山茶花(さざんか)の可憐な濃いピンクの花です。冬は木々の葉も枯れ落ちて枯れ木が目立つ中、冷たい風の中で、どうしてこんなに元気に美しく咲いているのかと不思議に思うほど、民家の垣根や庭に多く見かけます。
 山茶花を題材にした句に「 山茶花を 雀のこぼす 日和かな」(正岡子規)というのがあります。冬のおだやかな日差しの中、家の生け垣の山茶花に雀が戯(たわむ)れている。雀が動くたびに、山茶花の花びらがひらひらと舞い落ちる様子が目に浮かびます。また「山茶花の 花や葉の上に 散り映えり」(高浜虚子)という句もあります。山茶花の濃い緑色の葉の上や、地面に散ったピンク色の花びらは、花の絨毯(じゅうたん)のようできれいです。

神様の被造物

 正月に実家に寄ると、実家の入り口にある、見上げるほどの山茶花の大木に、たくさんの花が咲いていました。あまりに大木なので、一緒にいた人が「これは山茶花じゃないよ、椿だよ。」と、言いました。普段よく見かける生け垣の山茶花は、比較的背が低いものが多いからでしょう。山茶花と椿はよく似ているのですが、見分け方の一つは、花の散り方です。椿は、花がまるごと花首から落ちますが、山茶花は、花びらが一枚一枚落ちます。花や葉の形や色がよく似ているのは、両方とも、創造主であられ、唯一であられる神様がデザインされたからでしょう。
 もっとも実家の山茶花は、風が強く吹くたびにたくさんの花びらが舞い落ちて近所迷惑なので、毎日何回も、父がはき掃除をしているということでした。家族でそんな話をしながら、神様が造られたこの一本の木が、花を咲かせて人の目を楽しませ、また花びらを散らせて人を感動させたり、時には人を煩わせたり、人を働かせたりする・・。神様がどんなところにも働いてくださっておられることを覚えて、神様に感謝しました。

日本の風習?

 ところで、正月に家族や親戚が集まると、よく出てくる話題は、どこそこの神社仏閣に初詣でに行って来たとか、またこれから行くというものです。今年は是非伊勢神宮に行ってみたい、と話している人もいました。また、年末から正月にかけては、家や店に、門松やしめ縄が飾られ、多くの人が鏡餅を飾ります。これらはほとんどが日本の神話に由来するものですが、多くの人は、あまり深く意味を考えず、日本の風習または文化として取り入れています。それを守るとよいことがある、幸せになる、と漠然と期待していますし、また守らないと不幸なことが起こるかもしれないという恐れがあります。人は誰でも何かに頼って生きたいと願い、心の拠り所を求めていることがよくわかります。
 聖書には、この世は悪魔の支配にあると書かれています。これを、ただの日本の風習だと思わせて、真の神様から目をそらせようとする悪魔の働きがあることを、私たちは見抜かなければなりません。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」

真理は一つ

 聖書には、イエス・キリストこそが真理であると書かれています。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」。ただ一つしかないものが「真理」です。日本人の多くが心の拠り所としたがっている神社仏閣の神々は、石や木や金属で人が作ったものです。人の手で作った神々が、人を救うことができるはずはありません。真の神様は、この世のすべての自然、植物、生物のすべてをお造りになった、創造主であられる神です。それは神様の被造物を注意深く観察すれば、だれでも悟ることができることなのです。「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)」
 真の神様は永遠のお方であり、聖書のみことばは真実です。このお方が、私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架で死なせ、復活させてくださいました。そしてこれを信じる者は罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのです。これが真理です。人は誰でも、朽ちてゆく偶像の神々ではなく、決して朽ちることのない、唯一真の神様を信じなければなりません。

20.01.05 感謝

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「Ⅰテサロニケ5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年のテーマは「感謝」です。今年も主と共に、感謝を持って歩む一年でありたいと思います。

ありがとう

 私たちが普段、どんな場面で感謝するのかを考えてみますと、例えば、一年の終わりの時であったり、学校を卒業するとき、会社を退職するとき、結婚などのタイミングで、これまでの歩みを思い起こすことがあります。自分と関わりのあった人たちに対して「今までありがとう」という感謝の思いが湧き上がってきます。また、母の日や父の日に、日頃の感謝の思いを伝えたりします。一緒に食事に出かけたり、プレゼントを渡したりすると思います。
 また、「道に迷ってしまい、どちらへ行けば良いのかわからない、早くしないと電車に乗り遅れてしまう」という時に、困っている自分を見て声をかけれくれる人がいて、丁寧に場所を教えてくれたおかげで、電車に乗り遅れないで済んだ、という時に、その道を教えてくれた人に対して、「ありがとう」という感謝の思いが湧き上がってきます。感謝は、何か自分に良いことをしてくれる人に対して表す思いのことを言います。それが、「ありがとう」という言葉や態度であったり、プレゼントや手紙といった行為として表れてきます。

主の素晴らしきみわざに感謝

 イスラエルの民は、エジプトの奴隷として苦役(くえき)を強いられていましたが、主はご自分の民を、その中から救い出してくださいました。エジプトに災いをもたらし、紅海を真っ二つに分けて民を導くという奇跡のわざをなされたのです。民にとっては、「私たちは解放されたのだ!もう奴隷ではなく、自由になったのだ!」と、この上ない喜びであったことと思います。そして民は、その大いなる御手のわざを目の当たりにし、すべての出来事を導いてくださった主に向かって、歌を持って賛美をし、感謝を表したのです。
 「過越の祭り」は、この出エジプトを記念して行なっているわけでありますが、毎年行われるたびに、主の救いのみわざを覚えて感謝しているのです。今でもずっと行われているということからも、この出来事が、どれほど偉大な事であったのかが分かります。

自然と湧き上がってくる思い

 そして、イエス・キリストを信じる私たちにとっては、罪ある中から救われたことが、一番感謝する出来事ではないかと思います。救われたことの喜びが大きければ大きいほど、その主への感謝の思いが溢れてくるのではないでしょうか。「主があわれんでくださったので、私は今前を向いて生きられる、喜んで仕事をすることができている」「主があわれんでくださったので、私はいやされた」。この思いは、心の内側から自然と湧き上がってきます。それが、祈りの中で賛美として表れてきますし、ご奉仕をして主の働きのために仕えたい、用いられたいという思いとなって表れてきますし、恵まれたと感じる時に、それが献金となって表れてきますし、自分自身のすべてを献げたいという思いが、献身という形で表れてきます。主は、その私たちの純粋な思い、心を見て喜んでくださいます。
 例えば、人からプレゼントをもらう時、それがどんなに高価で素晴らしいものであったとしても、言葉もなく渡されるようなことがあれば、嬉しいと感じることはありません。「いつもありがとう」と言われて渡されると、それだけで気持ちが伝わってきて嬉しくなります。主は、私たちの素直な思いを受け取ってくださいます。

すべては主の御手の中にある

 そして主は、「すべてのことにおいて感謝しなさい。」と言われています。今日いのちが与えられていること、働くことができること、人と楽しく話しができること、仕事や家庭で問題のあることなど、自分の目には、嬉しいと感じることや、反対に、苦しいと感じること、嫌だなと感じることであっても、その出来事の上に立たれておられるお方を見上げる時に、私たちは、「すべてのことが主の御手の中にあるのだ」と知ることができるので、それが嬉しくて、主を賛美し、それが感謝の思いとなって表れてくるのです。
 私たちは、この一年、すべての出来事に感謝し、今年も主からのたくさんの恵みと祝福をいただいてまいりましょう。

2020年 テーマ
「感謝」

Ⅰテサロニケ 5:18
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。