19.05.19 主に伺うことのできる者

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「Ⅰ列王記22:7-8 ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。イスラエルの王はヨシャファテに答えた。『ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。』ヨシャファテは言った。『王よ、そういうふうには言わないでください。』」

主が私に告げられることをそのまま述べよう

 イスラエルの王アハブは、ラモテ・ギルアデという町をアラムから奪い返そうとしました。そして、ユダの王ヨシャファテに、アラムとの戦いに一緒に行ってほしいと願いました。しかしヨシャファテは、「まず、主のことばを伺ってください。(Ⅰ列王記22:5)」と言いました。そこで、アハブは自分のお気に入りの預言者400人を集めて、ラモテ・ギルアデに戦いに行くべきかどうかを尋ねました。すると、彼らは口をそろえて、「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。(同22:6)」と答えました。しかしヨシャファテは、このような異教の預言者と主の預言者の違いを知っていたので、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と尋ねたのでした。すると、アハブは「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」と答えました。アハブは、自分の好むことを言ってくれる預言者のことばだけを聞いて、自分に都合の悪いことを言う預言者を憎んでいたのです。ミカヤが呼ばれましたが、彼は、「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。(同22:14)」と言いました。そして、もしかしたら自分が殺されるかもしれないような状況の中で、この戦いは必ず敗北することを預言したのでした。予想通りミカヤはすぐに捕らえられ、牢屋に入れられました。しかしミカヤの預言の通りに、結局アハブは戦死してしまったのです。私たちもまた、自分の好みを捨てて、主のみこころを伺わなければなりません。

みこころはどのようにしてわかるのか

 私たちはイエス・キリストを信じ救われました。信じる前の私たちは、神様と遠く離れた存在でした。イザヤ書には、「むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)」と書かれています。しかし、私たちはイエス・キリストを信じて、まったく罪のない者とされました。ゆえに、神様と私たちとの間に立ちはだかっていた仕切りは打ち破られ、神様が私たちのうちに住んでくださることができるようになったのです。このようにして、私たちはいつも神様と交わりを持ち、神様のみこころがわかるようにされているのです。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。(マルコ1:40)」と言って、いやしを求めた、ツァラアトに冒された人に、イエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ(同1:41)」と言われました。神様のみこころは、私たちがいやされることであり、満たされることであり、解決されることであり、平安であることです。 神様は私たちに祝福を約束しておられるのです。

本当にみこころを求めているか

 しかし、私たちは本当にみこころを求めているでしょうか。ミカヤのように、主に伺って生活しているでしょうか。神様のみこころは、私たちが平安であることです。ですから、私たちがいつも、何がみこころなのかを伺い、従おうとしているなら、私たちは平安であるはずです。ゆえに、もし平安がないと感じたら、それは主のみこころを伺っていないのだ、と認めなければなりません。聖書には、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:19、20)」とあります。神様を信じるということは、私たちが今までの自分勝手な生き方を捨てて、「神様に従う」という新しい生き方を選ぶことです。ですから、これはみこころではない、とわかっているとき、私たちは真剣に従って、手放すことをしなければなりません。アハブのように、みこころを無視して、それを押し通すようなことをしてはならないのです。どうしてもほしい、という彼のむさぼりの罪が、彼の落とし穴となりました。彼はミカヤの預言を無視して戦いに出て行き、戦死してしまったのです。私たちはアハブのようであってはなりません。自分のしようとしていることがみこころであるのか、いつも主に伺わなければなりません。

主に伺う者とならなければならない

 イエス様は神であられるのに、この地上を人として歩まれ、私たちと同じ苦しみを味わってくださいました。そして神様のみこころに従順に従い、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。十字架に向かわれるとき、イエス様は、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)」と祈られました。人としてのイエス様は、十字架に架けられることへの恐怖を感じておられましたから、血のような汗を流して、父なる神様に必死に祈られました。しかしイエス様は、ご自分の望むようにではなく、主のみこころがなされるようにと願い、主のみこころに従って、私たちの罪のために十字架で死んでくださったのです。
 私たちもまた、自分の望むことではなく、主のみこころを伺って、主のみこころに従順に従う者となりましょう。もとより私たちは従うことのできない者ではありますが、私たちが従おうとするときに、主は私たちのうちに生きて働いてくださり、従うことを助けてくださるのです。

19.05.12 へりくだりなさい

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「Ⅰペテロ5:6 ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」

へりくだるとは

 「へりくだる」というと、控えめな態度をとることや、遠慮して自分をあまり前に出さないで、おとなしくするというイメージがあったりします。また、人と比べて自分を低く見せようと振る舞うことだと考えたりもします。「へりくだる」というのは、従順であるということです。従順であるというのは、素直に相手の言うことに従うこと、逆らわないということです。そして、その相手は神様なので、私たちは「神様、私は、あなたがおっしゃることでしたら何でも致します。お従いします。」という態度をとることになるのです。自分が神様のご支配の下に、すすんで身を置くことなのです。
 イエス様は、漁師であったペテロに、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。(ルカ5:4)」と言われました。するとペテロは答えました。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。(同5:5)」。そして、そのことばのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになり、舟が沈みそうになるほど大漁だったのです。ペテロは、ただ主の言われることばに素直に従ったのです。主のことばには権威があって力があります。私たちの想像もつかないようなその御業をなされるお方の下に、私たちは身を置いて生活をしていかなければなりません。
 イエス様は、私たちにへりくだることの模範を示してくださいました。神そのものであるお方にも関わらず、ご自分のその神という立場を主張されないで、仕える者の姿をとられ、人としてこの地上にお生まれくださいました。それは、罪人である私たちをこの世の罪から救い出すためでありました。私たちが死んで滅びることがないようにと、私たちを愛してくださるがゆえに、すべての人の罪を負ってくださいました。そして、ご自分を卑しくされ、十字架の死にまで従われたのです。イエス様は徹底して、神様に対して従順であられたのです。
 イエス様は、ゲッセマネの園で、十字架にかかられるその前に苦しみもだえて祈られました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(マルコ14:36)」と、すべてを父なる神にゆだねられたのです。
 私たちは、素直になって神様の権威、主権を認めて服従していく必要があります。しかし、私たちは生まれながらに罪人ですから、素直に服従するということができない者であります。自分が中心であって、自分のことばかりに目が行きがちであります。私たちのこの自己中心を忌み嫌い、悔い改めて、今主の御声を聞く選択をしなければなりません。

神の力強い御手

 イスラエルの民が、エジプトで奴隷状態にあった時、モーセはエジプトの王ファラオに民を出て行かせるように度々交渉しましたが、ファラオはそれを聞き入れませんでした。主は、モーセを通して、エジプトに幾つもの災いを起こしましたが、それでもファラオは民を出て行かせませんでした。最後にはエジプトの長子を全員殺すという災いをもたらし、とうとうファラオは民を出て行かせることになったのです。主は、紅海を真っ二つに分け、海の真ん中を歩いて渡るという奇跡を起こされました。このようにして、神の力強い御手によって、民はエジプトから逃れることができたのです。
 神は力強い御手をもって、この世のすべてを支配しておられます。ですから、私たちは神の主権の中に自分自身をゆだねる必要があるのです。自分に不利になるようなことが起きた時に、「なぜ私がこんな目に合わなければいけないのか」と神に不平不満をもってつぶやくのではなく、主の主権を認めて、偉大な神の御手の下にへりくだって自分の身を置くことです。

へりくだる者に与えられる恵み

 「わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。( イザヤ66:2)」
 私たちが、主の御前にあって、自分がいかにつまらない者であるか、いやというほど思い知らされ、内側にあるものが剥ぎ取られ、ただ主を恐れていく時、主は苦しみの淵から救い出してくださり、助けてくださるのです。
 私たちが、これから先どうなっていくのか、全く予測もつかない、前が見えない、もがき苦しむ中、それでも、神の御手の下にへりくだって、従順に主に仕えていくことで、神様は、ちょうど良いタイミングで、私たちを高く上げてくださり、驚くほどの素晴らしい恵みをお与えくださり、奇跡の御業をなしてくださるのです。

19.05.05 放っておきなさい

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「Ⅱサムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。』」

主に目を向けていたダビデ

 ダビデは、アブシャロムの謀反によって、エルサレムを出て逃げる途上で、サウルの家の者シムイが自分をのろうことばを聞きました。ダビデの家来はいきり立ち、「行って、あの首をはねさせてください。(Ⅱサムエル16:9)」と申し出ましたが、ダビデはそれを制して、「彼が呪うのは、主が彼に、『ダビデを呪え』と言われたからだ。(同16:10)」「放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。(同16:11)」と言いました。この聖書箇所を読むとき、ダビデの信仰に教えられます。だれでも、自分に不利なことを言われたら、まず怒るでしょう。私たちは人から悪く言われると心穏やかでなくなりますし、それが本当のことであっても受け取れなかったり、言い返さないと気が済まなかったりと、まったく冷静でなくなってしまう者です。しかし、ダビデは冷静でした。ダビデのように権威ある者であれば、シムイを処罰することもできたはずです。しかしダビデはそうしなかったのです。それはダビデの目が、シムイではなく、主に向いていたからです。彼は、神が、シムイが彼をのろうことを許可された、と言いました。神にすべての主権があることを認めていたのです。

いつも主を思い巡らす

 しかし彼が、このとっさの出来事にすぐに怒らず、冷静でいられたのは何故でしょうか。それは、ダビデの心がいつも神様のことを思っていたからです。詩篇25篇でダビデは、「私の目はいつも主に向かう。主が私の足を罠から引き出してくださるから。(詩篇25:15)」と告白しています。たとえ敵に追われている時でも、悩みの中にあっても、ダビデの心はいつも神様に信頼する思いでいっぱいだったのです。
 そして、子供の時から神様に信頼して生きて来たダビデは、神様がどのようなお方であるのかをよく知っていました。神様は聖いお方ですから、人の血を流すことは喜ばれません。そして、神様は人をあわれみ、愛してくださり、人が神様に呼ばわる時、答えてくださるお方です。ダビデがサウルに追われ、命をねらわれているときも、神様は幾度となくダビデを救い出してくださいました。ナバルがダビデの申し出を聞き入れず、かえって中傷した時も、神はナバルの妻のアビガイルを用いて、ダビデが無駄な血を流すことを止めてくださり、正しく裁き、報いてくださったのです。ダビデはそのような神に信頼し、愛し、慕っていました。
 詩篇27篇で、ダビデは彼の求めることはただ一つであると言っています。それは「主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らす(詩篇27:4)」ことなのです。彼は神様が自分にしてくださったことをいつも感謝し、思い巡らしていたのです。それが彼の楽しみであり、心の拠り所であったことでしょう。だから彼は、とっさの事態にも「おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。(Ⅱサムエル16:12)」と神様に信頼することができたのです。

冷静に対応することができる

 日常生活の中で私たちもまた、とっさに出会う、人のちょっとしたことばや態度に、冷静さを失ってしまいがちです。その時、どのように対応するべきかということを、このみことばが教えています。ダビデは自分がのろわれても「放っておきなさい」と言いました。私たちもまた、とっさに起こる自分にとって不利な事態を神が許可されていると信じるなら、「放っておきなさい」と、冷静に対応できるのです。そのためには、ダビデのように、いつも主のしてくださったことを思い巡らしていなくてはなりません。その中で最も大切なのは、「イエス・キリストの十字架の恵み」であります。主は、私たちの罪のために十字架の上で私たちの身代わりとなって死んでくださいました。そのようにして、私たちを罪から完全に解放してくださったのです。それは、私たちが罪から完全に解放され、いやされて完全な平安の中に入れられるためでした。だからどんな状況が起こっても、私たちは主に信頼することができるのです。
 聖書は、「人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブ1:20)」と教えています。いつも主のしてくださったことを思い巡らし、主の御業をほめたたえましょう。

19.04.28 神が心配してくださる

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「Ⅰペテロ 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

この先どうなるのだろうか

 私たちは、日々様々なことを心配しています。ある人は、毎月の支払いのことで、どうやり繰りしたらよいか、そのことばかりで頭を悩ましていたり、ある人は、自分の今抱えている病のことで、一向に症状が変わるような様子がない中、「祈ってはいるけど、聞かれていないのかな」と感じていたりします。どんな心配であれ、これから先どうなるのだろうかという不安が心の中から消え去ることはなく、将来に対する心配が、常に私たちの心を支配しています。一つ心配がなくなったと思えば、次の心配が出てきて、心配事が尽きることはありません。
 主は、「明日のことまで心配しなくてよいのです。(マタイ6:34)」と言われました。「これから先のことを今心配するな」と言っておられます。「明日のことは明日が心配します。(同)」。明日の心配は明日すればいいのであって、「今日やるべきこと、今やらなければならないことについて心配し、そのことだけを考えなさい」と言っておられるのです。「試験が来週に控えていて、これが最後のチャンスで合格しないともう後がない。ただ全く勉強が進んでいない。このままでは合格しないかもしれない。どうしよう。」と言って、合格するかしないかという先の心配をするのではなく、そのために今やるべきことは何だろうか、何をどこまでやれば良いのかという心配をする必要があり、やるべきことがわかれば、あとは今それを実行に移すだけなのです。

心配は主がしてくださる

 主は、休むことなく働いておられ、私たちの生活のすべての時間において、その行動の一つ一つ、話す言葉の一つ一つを見ておられ知っておられるお方です。「主よ あなたは私を探り 私を知っておられます。(詩篇 139:1)」
 そのお方が、私たちのことをいつも気にかけていてくれて、私たちのために心配をしていてくださるのです。大変な状況の中、主に求める時に答えて下さり、実際に事を動かして働いてくださいます。行き詰まりを覚える時に、「わたしがともにいるではないか」と、そっと声をかけてくださいます。私は、神様に頼らなくても自分でやっていきますと言い、主に信頼しないで歩もうとする時に、神はそっと身を退けられ、あなたの様子をじっとご覧になっておられます。それでも滅びに至ることのないようにと、ずっととりなして祈っていて下さり、悔い改めて立ち返るその日が来るまで、何年かかろうとも忍耐強く待っていてくださるのです。そこにはすべて、主の私たちに対する素晴らしいご計画、お考えがあって、あなたのことをどうやって祝福しようか、どのように導いていこうかと、いつもあなたのために心を配っておられるのです。
 主は、私たちの身にこれから起こることのすべてを知っておられるお方です。主は、エジプトの奴隷として生活をしていたイスラエルのために、民をエジプトから救い出すための計画を持っておられました。モーセを通して、そのご計画が民全体に語られました。エジプトの王ファラオに、民をエジプトから出て行かせるように命じるが、ファラオはかたくなにこれを拒むことを神は知っておられたのです。そして、主はこの状況を用いて、紅海を真っ二つに分けるという奇跡を行われ、イスラエルの民は、海の真ん中を歩いて進み、エジプトから逃れることに成功しました。すべて主のご計画によることであり、あらゆる出来事、人、状況を用いて、私たちを祝福へと導いてくださるお方であります。

いっさいをゆだねることができるお方

 主が私たちのことを心配していて下さり、最善の道を備えてくださっているということを知るならば、私たちの心に、これから先のことについてあれこれと考え心配する思いは一切なくなることです。何が起こっても主の最善がなされる、主の御心だけがなるのだ、と信仰によってわかるので、今、心に湧き上がってくる思い煩い、心配のすべてを主にゆだねることができるのです。
 私たちは、今まで自分なりの考えで生きてきて、それが間違っていたことを認めて、主に従う決意をした者です。自分の考えに頼って生きることが、どれほど愚かなことであるかを知ることができることは幸いなことです。私たちの人生のすべてを安心してゆだねることのできるお方に、身をゆだねていくならば、私たちは、今やるべきことに全力を注いで取り組むことのできる力が主によって与えられて、多くのことを成し遂げていくことができるのです。主の恵みに感謝します。「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。(詩篇138:8)」

19.04.21 主を前にする

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詩篇16:8「私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。」

心の中で何を考えているか

 私たちは、いつも心の中で何かを考えています。あなたは今何を考えていますか。今朝の礼拝では神様が何を語られるだろう、と期待しているでしょうか。また何か心配事があって、そのことで頭がいっぱいでしょうか。いずれにしても私たちは、自分が今何を考えているか、などと思い巡らすことは、普段はあまりしないものです。しかし、少し意識すればわかることですが、心の中は絶えず忙しく、次々と何かを思い巡らしているのです。
 聖書には「悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。心に楽しみのある人には毎日が祝宴。(箴言15:15)」とあります。心の中に、思い悩んでいる人は毎日が不安であるが、心の中に楽しみがある人は、毎日が平安で、喜びに満ちあふれて生活できるのだ、ということです。心の中に何があるかによって、勝利の生活を送るのか、敗北の生活を送るのかが決まるということです。

ダビデの信仰

 今日のみことばは、ダビデが書いた詩篇です。ダビデは自分の主人であるサウルに命を狙われ、長い間追われる生活をしていました。何も悪いことをしていないのにです。そのような中でも、ダビデは決して神様から離れることなく、神様に信頼し、いつも神様と会話をしていました。冒頭のみことばの「私はいつも 主を前にしています。」というのは、ダビデが主との交わりを絶やさなかったということです。私たちは、目の前にいる人と会話をすることができます。主が目の前におられれば神様と会話をすることができます。神様は目に見えないお方ですが、信仰によってダビデはいつも自分の目の前に主を見ていたのです。
 そして、「それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。(詩篇16:9)」と告白しているように、神様との絶えない交わりの中で、彼が得たのは喜びと楽しみでした。常識では、命をねらわれ、追われる生活の中に、喜びや楽しみがあるとは想像しにくいことです。しかし、神様と会話していれば、心の中には恐れの代わりに喜びが満ちあふれるので、勝利の生活を得ることができるのだと、このみことばからわかります。 ほかの詩篇からも、彼が本当にいつも心を注ぎ出して、神様に何でも申し上げていたことがわかります。「主よ 私をあわれんでください。絶えず 私はあなたを呼んでいます。(詩篇86:3)」と懇願していることもありますし、彼の敵に対しては、「神よ どうか悪者を殺してください。(詩篇139:19)」とストレートに訴えています。激しいことばで訴えることができたのは、ダビデが本当に神に信頼し、神は自分の味方であると信じ切っていたからです。

神様との会話の中に生きる

 イエス・キリストを信じる私たちの内には、聖霊が住まわれています。イエス様が言われたように、聖霊は私たちの助け主であり、私たちの話し相手となってくださいます。ですから、私たちはいつも神様と会話をして生きることができます。これは信じる前にはなかった特権です。聖霊が語られるのは常にみことばでありますから、私たちは必ず励まされ、助けられ、希望を持って生きることができるのです。ですから、私たちは常に神様と会話をしていなければなりません。私たちが祈るとき、それは神様との会話になります。祈りの中で私たちは、心にわき起こるどんなことも、神様にお話をしなければなりません。

神様との会話を妨げる者

 しかし、私たちが祈っているときに経験することですが、神との会話を妨げるものがあります。悪魔は、私たちが神と会話をして、みことばによって建て上げられることを邪魔しようとします。たとえば、祈っているときに、ほかのことに注意を向けさせようとしてきます。私たちは、それに気づかなくてはなりません。聖書は、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)」と教えています。私たちは、生活の中で、今自分が何を考えているのか、心の中に何があるのか、見張っていなければなりません。そして、神様と会話をしていないと気づいたならば、すぐに神様との会話を始めなければなりません。

主を前にする生活

 いつも主を前にしている生活は、何者によっても決して揺るがされることのない、勝利の生活であります。私たちもダビデのように、「いつも 主を前にして」歩みましょう。いつも主と会話して生きることのできる特権が与えられていることを、主に感謝します。

19.04.14 祈る特権

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「ピリピ4:6-7 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

特権が与えられている恵み 

 イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れた私たちは、神様との交わりを持つことができる特権にあずかっています。信仰生活を歩む中で、何よりもまず必要なものは祈りです。朝起きて、主が与えてくださった新しい一日に感謝し、その日の祝福を覚えて祈ることができます。食事をする時にも、糧をいただくことのできる恵みに感謝して祈ることができます。学校で勉強している時、会社へ行き仕事をしている時に、今自分がやるべきことを、祈って主に聞くことができます。問題が起こる時、祈って主に判断を仰ぐことができます。自分の内に抱えている問題や感じていることをそのまま祈ることができます。また、周りの人のために祈ってあげることができます。すべては、私たちが祈る特権にあずかっているからこそ、受けることのできる恵みなのです。

まことの平安がやってくる

 私たちが主に祈るとき、心に平安がやってきます。どんな状況に置かれていたとしても、主への感謝を持って祈り求めていくならば、人からの励ましの言葉による平安ではなく、人間の理解をはるかに超えた神から来るところの平安が私たちの心を満たすのです。この平安は、イエス・キリストを知らない世の人たちには決して味わうことのできないものであり、信じる私たちにだけ与えられる恵み、特権であることを、主に感謝します。
 パウロは、福音を宣べ伝えていく中で、あらゆる困難や迫害に遭遇しました。ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中で、ピリピにいる信者たちに宛てて書いた手紙であります。この手紙では、繰り返し「喜び」という言葉が使われています。その喜びは、周囲で起きている出来事によってではなく、パウロ自身の内側から出てくるものであり、キリストにある喜びであります。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4 : 4)」。それは、「どんな状況であろうとも、主がこの私を救ってくださる、助けてくださる」という主への絶対的な信頼があってのことであります。私たちが主に信頼すればするほど、この喜びはより一層大きなものとなり、途切れることなく続くものとなっていくのです。それは、すべて私たちの祈りを通して、主が与えてくださるものであります。

恵みを知らないのではないか

 神様が私たちへのギフトとして、祈りという特権を与えてくださっているのに、その特権を活かすことがなければ、私たちは神様からいただくことのできる多くの恵みを無にしてしまうことになります。もし私たちの生活が、教会に来ている時だけは祈って、それ以外の時間は、ほとんど祈らないで日常を過ごしているとしたら、主からの恵みを受けることなく、喜びや感謝が湧き上がってこないのも当然のことかもしれません。祈りはクリスチャンに与えられた特権であって、しなくてはいけない義務ではありません。信じる者にだけ許された、祈るという特別な権利が与えられているのです。
 私たちは、主の喜びに満たされ、感謝にあふれた生活を送ることができるのです。それは、私たちが主に祈るとき、その心は神様に向けられていくので、祈りを途切れることなく続けていくならば、心には必ず平安がやってきます。喜びが湧き上がってきます。主への賛美が口から自然と出てくるようになります。

主の恵みを体験する

 神の子どもである私たちが、主に求めて祈る生活を続けていって祝福されないはずがありません。神様が祝福の源であり、すべてのものは、神様から出ているので、経済の必要が満たされるのも、家庭が祝福されるのも、良い人間関係を築いていくことができるのも、仕事や事業が祝福されるのも、私たちが主に求めて祈った祈りに、主が答えてくださったからであります。
 私も今までに、主からたくさんの恵みをいただいてきました。結婚も、子どもが与えられたことも、病のいやしも、生活習慣が変えられたことも、経済の必要が満たされたことも、すべて主に求めて祈っていった結果でありました。
 私たちは毎日、この祈る特権が与えられていることに感謝して、どんなことでもお話しすることのできる主に祈り求めて、主からのあふれんばかりの恵みを体験してまいりましょう。

19.04.07 みことばを植えつける

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「ヤコブ1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

ずっと平安でいられない

 私たちが一番欲しいものは、心の平安であります。しかしこの平安は、なかなか長くは続きません。私たちは、 何か一つでも、 どんなに小さなことでも、自分の願いがかなえば、しばらくは晴れ晴れとして快活な気持ちでいられますが、一方で、ちょっとした人の顔色やちょっとした一言で心が揺らされて、ありもしないことを想像し始め、気づくと一日中考え続けていて、やるべきことに集中できていなかったりします。
 サウル王はダビデを疑って、根も葉もない妄想に捕らえられ、ねたみと憎しみで心が蝕まれ、ついには自分の身を滅ぼしました。悪い考えが心に満ちていると、どんなに油注がれた王でも敗北してしまうことです。ですから、私たちは心の中にわきあがってくる悪い考えに打ち勝たなくてはなりません。しかし、私たちは自己中心な者でありますから、一度自分勝手な考えに捕らえられると、サウルのように、そこからなかなか抜け出すことができません。

みことばを植えつける

 今日のみことばは、「みことばはあなたがたのたましいを救うことができます。」と教えています。みことばが、悪い考えから私たちの心を守ってくれるということです。そして、そのために私たちがするべきことは、「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れ」ることだ、と教えられています。
 主は私たちの心の中にすでにみことばを「植えて」くださっておられます。「植える」ということばは、植物に関する言葉です。種や苗を土の中に埋めて、育つようにすることです。植えるのは、植物が育つためです。植えた種や苗に水をあげて大切に育てれば、青々と葉が茂り、花が咲いて私たちの目を楽しませるようになります。しかし、植えただけで、世話をせずにほうっておけば、それはすぐに枯れてしまうでしょう。主が私たちの心に植えてくださったみことばも、もし私たちが気にも留めないでほうっておいたら、まるで植物が枯れてしまうように、私たちの心に何も働かない、無用なものになってしまわないでしょうか。

みことばを育てる

 ではみことばを「育てる」とはどうすることでしょうか。主は、みことばを「素直に受け入れなさい」と命令されています。それは私たちが、そのみことばをいつも気に留めていて、毎日口ずさみ、どんな状況のときにも忘れないことであります。そのようにして、私たちの心の中が、まるで植物が生い茂るように、みことばでいっぱいになっていると、それが自分の考えとなって、どんなに悪い考えがわき起こってきても、打ち勝つことができるのです。ですから、私たちはいつも、主が植えてくださったみことばに気を留め、育てていなくてはなりません。

神を愛し、ほめたたえる生活

 私たちは神様を愛しています。神様がまず私たちを愛してくださったからです。主は、私たちのためにご自分のいのちさえ惜しまずに、死に渡されました。まったく罪のない方が、私たちの代わりに死んでくださったのです。そのようにして、主は私たちの思い煩いや病を全部取り去ってくださり、ご自分が代わりに苦しんでくださって、私たちを罪ののろいから完全に解放してくださったのです。 そのような方を、私たちは愛さずにはいられませんし、主の救いを思い起こすとき、感謝だけがわきあがってくるのです。だれでも、大好きな人のそばにいつもいたい、と願いますし、その人が話すことばには一生懸命耳を傾けるでしょう。私たちは神様を愛しているので、みことばを愛します。毎日これに心を傾けて、これを口ずさみます。
 しかし私たちのするべきことは、がんばってみことばを覚えようとすることではありません。ただ神様をほめたたえることであります。そのようにして私たちの心が神様を愛する思いでいっぱいになるとき、私たちはもっともっと、主が植えてくだったみことばを覚えたい、忘れないでいたい、と願うようになるのです。そのようにして、いつもみことばを思い巡らしている人の心には、ずっと続く平安があるのです。私たちはいつも主に感謝し、ほめたたえる生活をして参りましょう。
 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩103:2)」

19.03.31 白く塗った墓

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「マタイ23:25-28 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」

取り繕う心 

 イエス様は、パリサイ人、律法学者たちの偽善を指摘されました。「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。(マタイ23:5)」。彼らは、人からよく見られたいという心の動機から、自分を立派に見せようとしていたのです。
 私たちも普段、周囲の人たちとの関わりの中で、「人からよく見られたい、評価してほしい、自分のことをわかってもらいたい、認めてほしい」という思いから、外見、外側のことに目が向きがちになってしまう者です。「自分自身がもっと価値ある人間にならなければ」と、できる自分、人から認められる自分を目指し、外見、外側をきれいに磨くために、ファッションや持ち物にこだわりを持ったり、美容や健康を求めたり、様々な資格やスキルを身につけ、それらに時間やお金を使っていたりします。私たちは、外側のものにではなく、内側、つまり自分の心にあるものに目を向けなければなりません。

神のみこころ

 イエス様は、「まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。(マタイ23:26)」と言われました。主が私たちに願っておられることは、私たちが聖くなることです。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(Ⅰテサロニケ4:3)」。私たちの人生のすべてを神様に捧げて、主に用いていただくために献身し、罪から離れて生活をすることを主は願っておられるのです。
 そのためにも、私たちはまず、自分の内側にあるものをしっかりと見て、認識する必要があるのです。主は、私たちの心のすべてを知っておられるお方で、人には知られないで済んでいるかもしれませんが、主はその行いの一つ一つを詳細に見ておられ、心にある動機を見ておられるお方です。

ありのままを愛してくださる

 私たちの心の内側にあるものとは何でしょうか。それは、「あらゆる汚れ」であって、心の中はその汚れで満ちているのです。私たちの生まれながらに抱えている罪の性質、肉の思いであり、自己中心の思いです。神様に反抗していて素直にみことばを聞くことができないことや、人を愛することができないこと、神様に信頼しないで、自分で心配し、思い煩い、恐れていること、すぐにあきらめ、面倒くさくなってしまい投げ出してしまうことなどがあると思います。この目を背けたくなるようなものが、私たち自身の本当の姿であって、ありのままの自分なのです。これが「私」なのです。
 しかし、「このありのままではダメだ」「これでは人に受け入れてもらえない、認めてもらえない、愛されない」という恐れがあって、本当の自分に蓋をして、できる自分を演じようとします。自分を偽って、自分をよく見せようと努力します。本当は、心の中が恐れや不安でいっぱいであるのに、幸せであるかのような振舞いをして過ごしています。しかし、主はこれを受け入れられません。「偽りの唇は主に忌み嫌われ(箴言12:22)」るのです。偽りの心を主は忌み嫌われ退けられます。
 主は、ありのままの「私」を愛してくださっておられます。ありのままの「私」を受け入れてくださるのです。ですから、まずこのありのままの「私」を認めて生きることです。

内側をきよめよ

 そして、このありのままの「私」は、罪だらけの「私」ですから、自分の力では、この内側をきよめることはできません。主の助けが必要です。「私は、はじめからできない者です。罪だらけの者です。こんな罪人の私をあわれんで下さい。」と、主のあわれみにすがらなければなりません。
 主は、心の直ぐな人と親しくされるお方です。ですから、主の御前に、心の内を正直に告白するなら、主はどんな罪であっても、「その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」。そのようにして、私たちは、あらゆる罪、悪から解放されて、神様の聖さにあずかることができ、自由に生きられるようになるのです。そして、主が与えてくださるところの本当の喜び、本当の平安をいただいて前進することができるのです。

19.03.24 おことばですので

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「ルカ5:5-6 するとシモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」

おことばに従ったペテロ

 イエス様の弟子の一人、ペテロは漁師でした。あるとき仲間と一緒に、いつものように夜に舟を漕ぎ出し、漁をしていました。当時のガリラヤ湖では、夜に漁をするのがふつうでした。魚は昼間は湖の底に潜んでいて、夜になると浅い所に登って来たからです。ペテロたちは夜通し働きましたが、その日はどういうわけか一匹もとれませんでした。そうこうするうちに夜が明けてしまい、彼らはあきらめて岸辺で網を洗っていました。「今日は稼ぎがないけど、どうしたものかなあ」などと話しながら、力なく網を洗っていたことでしょう。
 そこに、イエス様が、多くの群衆とともに来られました。そこには二艘の舟がありましたが、イエス様はペテロの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにペテロにお頼みになりました。そして、舟の中に座って、岸辺の群衆に向かっていろいろと教えられました。ペテロはイエス様と同じ舟に乗っていましたから、群衆と一緒に、イエス様の話をじっと聞いていたことでしょう。
 話が終わると、イエス様はペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。もう夜はあけて明るくなっていましたから、魚は湖の底に戻って行ったはずでした。こんなに明るい時に漁をするのは、漁師にとっては非常識なことでした。しかし、ペテロは、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(同5:5)と、イエス様のおことばに従ったのです。

おびただしい数の魚

 ペテロは以前に、イエス様が悪霊を追い出し、たくさんの病人を癒されたことを聞いていましたから、イエス様が権威あるお方であることを悟っていました。だから、自分の常識を捨てて、イエス様のおことばに従ってみようと思ったのでしょう。そして、イエス様に言われた通りに網を下ろすと、二艘の舟が両方とも沈みそうになるくらい、おびただしい数の魚がとれたのです。彼らはきっと、口がきけないくらいに驚いたに違いありません。これを見たペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(同5:8)と言いました。イエス様が神であられることを悟り、恐れる思いがわいてきたのです。
 イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」(同5:10)と言われました。そこでペテロは陸に舟をつけると、イエス様のおことばに従い、漁師の仕事も、家族も、何もかも捨てて、イエス様について行ったのです。一緒にいたヨハネもヤコブも同じように、イエス様のおことばに従って、ついて行ったのでした。神様は、神様のおことばに従う者に、豊かな恵みを与えて下さる方です。主に感謝します。

おことばをかけてくださる主

 神様は私たちを愛してくださり、私たちを罪から救うために、イエス・キリストを身代わりとして十字架につけてくださいました。私たちは罪深い者でしたが、イエス・キリストを信じて罪赦され、きよくされたので、神様がうちに住んでくださることができるようになりました。神様がうちに住んでくださっているので、私たちはいつも神様に、自分の思いや願いをお話しして、生活することができるようになりました。
 そのようして私たちがいつも神様に心を向けているとき、神様は私たちに必要なおことばを与えてくださいます。ペテロは、舟の中でイエス様の話にじっと耳を傾けていました。そのペテロに、イエス様は「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」 (ルカ5:4) と声をかけてくださったのです。この時ペテロは魚が一匹も捕れず、その日は収入がありませんから困っていたことでしょう。そのペテロに、イエス様は必要なおことばをかけてくださったのです。そして、ペテロが自分の常識を捨てて、イエス様のおことばに素直に従った時、イエス様はあふれるばかりの祝福をあたえてくださったのでした。

おことばに応答する

 主のおことばには権威があります。私たちも同じように、神様の語ってくださるおことばに耳を傾け、自分の常識を捨てて、従わなくてはなりません。そうするときに、神様はあふれるばかりの祝福を与えてくださるのです。そして、主のおことばをいただくためには、私たちは一日中神様に心を向け、会話をしていなければなりません。「おことばですので、愛します」「おことばですので、赦します」「おことばですので、いつも喜んでいます」といつも神様に応答する者となりましょう。
 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすればそれはかなえられます。」(ヨハネ15:7)

19.03.17 真の慰め主

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「Ⅱコリント1 : 4  神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

慰めとは

 私たちが、慰めを必要とする時は、そのほとんどが、何か辛い出来事、失意、落胆する出来事や苦しみに直面した時ではないでしょうか。そんな時に周囲の人たちから、優しく声をかけられることで、安心したり、乱れていた心が落ち着き、また前を向いて生きていこうという気になったりします。人から受ける慰めであります。
 また、慰めを必要とするときに、その出来事を忘れ、気を紛らわすために、趣味や恋愛に夢中になったり、食べること、遊びに出かけることによって自分自身を慰めたり、酒やタバコ、ギャンブルやポルノなどに慰めを求めていったりします。いずれにせよ、これらは一時的なものであり、その時は辛いことを忘れられても、また、同じ状況が訪れると、同じように慰めを人やその他のものに求めることになります。

真の慰め主

 私たちは、真の慰め主であられるイエス・キリストによって慰めを受けなければなりません。心が苦しくなる、絶望感が孤独感が自分を襲う、その時に、主は私たちのそばにいてくださるお方なのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇 23:4)」
 慰め主であられ、私たちの苦しみのすべてを知ってくださっておられるそのお方が、いつも自分のそばにいてくださり、声をかけてくださるのです。
 「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め (イザヤ 66:13)」とありますように、子どもが、人から傷つけられるようなとても辛い出来事があって、家に帰ってきた時に、その様子を見て、声をかけない親はいないと思います。子どもに寄り添い、抱きしめてあげるはずです。
 主もまた、神の子どもである私たちのそばに寄り添い、抱きしめてくださるのです。

主を忘れてはいないだろうか

 私たちの人生は、あらゆる出来事が次から次へと起こります。人間関係の中で、争いや揉め事などのトラブルがあったり、誹謗中傷を受けるようなことがあったりします。また、普段の日常生活においても、仕事や勉強、子育て、あらゆる人間関係の中で問題が起き、その生活に疲れ果てているかもしれません。そんな状況の中で、すっかり神様に求めることを忘れてしまっているのであれば、慰め主であられる神様以外のものに慰めを求めてしまうのも当然のことであります。
 神は、あなたのことを片時も忘れることはありません。今起きている状況、また過去に起きた出来事、これから起こること、全て知っておられるお方です。そのお方があなたのことを忘れるはずがありません。むしろ、問題は私たちの側にあり、神様に従いますと言いながら、次の瞬間には、もう神様のことを忘れて生きてしまっている愚かな者であります。
 神様のことを忘れて生きていること、これが神に対して背いている罪であることをまずはっきりと認めて、これを悔いる心がなければ、神の慰めを受けることはできません。神は、へりくだる者、自分の犯した罪を悔いて悲しみ嘆く者を慰めてくださるお方です。
 ダビデは、ウリヤの妻バテ・シェバと関係を持って、姦淫の罪を犯しました。預言者ナタンがその罪を指摘した時に、ダビデはハッと我に返り、自分の犯した罪の重大さに気がつき、悔い改めて主に祈り求めました。そのダビデを主は慰められたのです。

今慰めを受けよ

 私たちは、今、主の慰めを受けることができるので、心にある苦しみ、辛いこと、悶々としている思いのすべてを、ありのまま主に祈って、慰めを求めていく必要があります。そうすれば、主はあなたのそばに寄り添ってくださり慰めてくださいます。そのようにして生きられる道をお与えくださる主に感謝します。

19.03.10 わたしはあなたとともにいる

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「Ⅱ列王記6:16-17 すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」

火の馬と戦車

 アラムの王は、エリシャが彼の作戦をことごとく見破って、イスラエルの王に告げていることに怒りを燃やし、エリシャを捕らえるために、夜のうちに軍隊を送りました。馬や戦車で構成された軍隊が、エリシャのいる町を包囲していました。エリシャのしもべである若い者が、朝早く気づき、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。」(Ⅱ列王記6:15)、とエリシャに告げました。冒頭のみことばは、この時のエリシャの答えです。エリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(同6:16)と言ったのです。もちろん、若い者にはエリシャが言っていることの意味がわからなかったでしょう。エリシャが言った「私たちとともにいる者」とは神の軍隊のことだったのです。もし若い者にこれが見えていたら、恐れたりあわてたりすることはなかったでしょう。彼は、敵であるアラムのおびただしい軍隊を見て恐れていたので、神の軍隊が町を取り囲んでいるのを、見ることができなかったのです。そこで、エリシャが「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(同6:17)と祈りますと、彼は見えるようになりました。すると、なんと神の軍勢である「火の馬と戦車がエリシャたちのまわりを取り巻いて山に満ちていた。」(同6:17)のでした。
 私たちもまた、何か問題が起こったとき、神を信じる信仰によって、私たちのまわりを神の軍隊が取り囲み、私たちを守っていてくださることを、目を開いて見なければなりません。

恐れに動かされている

 聖書の中には、恐れに関するみことばがたくさん出て来ます。それは、神様が、私たちが恐れを抱きやすいことをよく知っていて、私たちを励ますために、みことばを送ってくださったからであるに違いありません。主のあわれみに感謝します。
 たとえばイザヤ書で神様は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから」(イザヤ41:10)と私たちに命令されています。またヨシュア記では、イスラエルの民が約束の地に攻め入ろうとしたとき、民がその土地にすでに住んでいる外国人を恐れる状況の中で、神様はヨシュアに、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)と語られました。神様が「恐れるな」と命じられる時はいつも、「あなたとともにあるからである。」と励ましてくださるのです。

神を信じなさい

 聖書は「ですから、神を信じなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)と教えています。私たちが恐れに勝利するには、私たちを恐れさせようとする悪魔に立ち向かわなくてはなりませんが、その前にまず「神を信じなさい」、と言われていることです。全知全能であられる神が、私たちの味方であり、私たちを愛してくださり、守ってくださるお方であることを信じることです。そのようなお方がともにおられるので、私たちの経済は必ず満たされます。私たちの人間関係は祝福されます。私たちの病は癒されます。どんなこともあきらめないで、やる気を失わないで、最後まで成し遂げることができるのです。「神様がどのようなお方であるのか」ということを知っているので、私たちを恐れさせようとする悪魔に立ち向かうことができるのです。主に感謝します。

わたしはあなたとともにいる

 ですから、私たちは神様がどんなお方であるのか、ということに、いつも心を向けていなければなりません。それを忘れて恐れているならば、それは神様に対する不従順であり、罪であります。悔い改めなければなりません。主は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」(イザヤ41:10) と言われます。私たちは悪魔の偽りのことばではなく、私たちを愛してくださり、守ってくださる神様のみことばに聞き従わなければなりません。どんなときにも神の軍勢が私たちを取り囲んでいるのを見て、勝利の生活を歩んで参りましょう。

19.03.03 お休み

19.02.24 お休み

19.02.17 お休み

19.02.10 お休み

19.02.03 お休み

19.01.27 お休み

19.01.20 病いを負ってくださる主

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「マタイの福音書 8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」

預言の成就

 聖書は、イエス・キリストが旧約聖書に預言された救い主であることを伝えています。その誕生はもちろんのこと、主の存在やなされたことの多くが、その昔、神様が預言者を通して、あらかじめ民に対して預言というかたちで伝えられていたことでした。預言が成就したというのは、イエス・キリストこそまことの神が遣わされた救い主であるということの、宣言であり、証言です。私たちは、この方を自分の救い主であると、確信を持って信じなければなりません。

わずらいを身に引き受けた

 イエス・キリストの生涯における、苦しみは私たちの身代わりでした。地上の歩みの中では、苦しみやあつれきの中を歩まれました。わずらいや病を負ってくださいました。十字架の死は、私たちがさばきを受け、苦しまなければならないことの、身代わりとして罰を受けたことでした。
 「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、私たちから、わずらいや病を取り上げて、持って行き、自分で負ってくださっているということです。主は、信じる者の救い主として、信じる私たちのわずらいを取り上げ、病を取り上げ、ご自身の身に引き受けてくださるのです。死までも取り上げて、ご自分の身に私たちの死を負われました。十字架の悩み苦しみ、死は私たちの罪のためです。
 聖書は「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。(申命記 28:15)」とはっきりと宣言しています。すべての人は、その罪のゆえに、のろわれている存在です。そののろいは、申命記によりますと、人生の苦しみであり、病であり、死なのです。人は理由があって苦しんでいるのです。
 しかし、私たちののろいのすべてを、主は「身に引き受け」てくださるのです。主はのろわれた者となってくださるということです。十字架は罪ののろいを受けられた場所です。聖書は「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。(ガラテヤ 3:13)」と説明しています。

うずくまるキリスト

 私たちは、ともすれば強靭な主をイメージします。私たちの病苦しみを、その身に負いながら、ものともしないではねのけているイメージです。私たちが受けるべきのろいを、取り上げてそれを主ご自身は。打ち砕いてくださっているようなイメージです。それで、私たちの罪に勝利してくださった、と私たちは理解しているかのようです。
 しかし、実際には「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」わけです。主は私たちに代わって、わずらってくださっており、病んでくださっているのです。死んでくださっているということです。そこには、悩み苦しみの中で、私たちの代わりにうずくまっている姿があります。主は代わりにうずくまってくださったのです。ですから、私たちはうずくまらなくて良くなりました。主の身代わりに心から感謝します。

いやされて仕える

 イザヤの預言が成就したと伝えるこの聖書の箇所は、マタイの福音書が伝えることですが、ここではペテロのしゅうとめが熱病であったのがいやされたことも、記されています。彼女はいやされてすぐ、起きてイエスをもてなしたとあります。(マタイ 8:14、15)
 主は私たちののろいを身に受けてくださいます。その結果、うずくまるのは私たちではなく主であってくださいます。もはや、私たちはいやされて、うずくまらないで済むようにしていただき、主に仕える者としていただけることを感謝します。ペテロのしゅうとめが、いやされてすぐ、起き上がってイエス様をもてなしたように、私たちがいやされるのも、仕えるためであることです。これが人生の喜びです。

19.01.13 みことばという土台

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「マタイの福音書 7:24-29 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

倒れない家

 主は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです(マタイ 7:21)」と言われました。そこで、私たちはどうすれば良いのかということを、次に具体的に教えられました。それは、主のみことばを聞いて「それを行う」こと、ということです。それは、生活の土台、人生の基盤は、みことばが基準であって、みことばに従って人生を生きるということなのだということです。
 そのことを「家を建てる」ということにたとえて、教えられました。主のみことばを聞いて、「それを行う人は」、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と説明されています。その家を洪水が襲いましたが、それでも倒れなかったのです。「岩」という、たとえ洪水でも揺るがない土台の上に建てられた家だったからです。
 一方、主のみことばを聞いても、「それを行わない人」は、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」と説明されています。同じように洪水が襲いました。その家はもろくも倒れてしまいました。「砂」という、洪水には大変弱い土台、の上に建てられていたからです。ここでは、人生を「家」とたとえ、人生を生きる基礎を自分なりの「確信」とするのか、あるいは「みことば」とするのかについて、教えているのです。

人生を生きる基準

 私たちが人生を生きる基準は何なのか、ということが教えられています。あなたは、何を基準に自分の生き方を決定していますでしょうか。多くの人が、自分の確固たる基準を「確信」というものにおいていることと思います。「これで大丈夫だ」と思える考えや方法というものを見つけようとします。それで、色々なことを学んだり、身に付けたりしようとするわけです。それが社会的な地位であったり、安定した収入であったりするわけです。
 人が認めてくれる職業に就いたり、指導者の立場になったりすることです。あるいは、十分なお金があることで、人々を驚かせうらやませるようなことをすることができます。そんなことをして見せることによって、人の賛成を得たり、一目置かれる存在となれるからです。世界的な事業の展開を図ることによって、全世界の人々の注目を浴びていますし、憧れの的ともなっています。有名女優と付き合うとか、宇宙旅行を目指すとか、お金で人々の射幸心をあおり、動かそうとすることなど、お金という土台が「確信」を生み出しているわけです。
 あるいはまた、社会的な地位もお金もまだなくとも、前もって、それら地位やお金を手に入れるための「考え方」を身に付ければ、「確信」の土台を築くことができます。それで、「考え方」「思想」あるいは「宗教」というものを追求する人もいますでしょう。まず形あるものを手に入れようとするのか、それともそれを手に入れる手法を身につけようとするのか、ということです。いずれにしても、自分が納得する「確信」を手に入れたいからなのです。自分の生きる基準は、自分のうちに「確信」が持てること、となっています。
 みな、自分の人生を生きる基準は、「こうやれば幸せになれる」「これで大丈夫だ」との「確信」を土台としようとしているわけです。それを与えてくれるのが、「地位」「お金」「考え方」「思想」「宗教」などであるわけです。

みことばという土台

 みことばは、私たちに対し、「確信」を与えるものですが、その「確信」だけでは不十分です。みことばによって、「確信」を得たからといって、土台が「岩」とはなっていないからです。「砂」の土台の一部に、石が混じっている状態です。多少は強くなるでしょうが、それでもあいかわらず土台はもろく、洪水にはひとたまりもありません。
 私たちは自分の「確信」に頼ることを捨てなければなりません。「確信」があっても、なくても、私たちは「みことば」に頼らなければなりません。
 私たちの自己中心的な「罪」の性質は、自分の「確信」を手放すことをとても嫌がります。「服従」などではなく、自分の「納得」で生きたいからです。それが罪の性質です。「全面服従」には、猛反対します。主導権を手放したくないのです。自分が主導権をもって、納得できたことだけを行動したいのです。
 しかし、主の教えは「主のみことばを聞いて、それを行うこと」なのです。これは、主の命令によって生きる、ということに他なりません。「みことば」は私たちに対する主の「命令」です。理解や納得を求められているのではなく、従うことが求められています。
 考えることから、行うこと、その他私たちが人生を生きる営みの全てが、主の「命令」によって生きなければならないのです。土台は全部が「岩」でなければなりません。主の「命令」によらずにしていることは、何一つないということです。たとえ、思いを巡らすこと、息一つすることであってもです。全部主が「せよ」と言われたからしているのです。

必要なのは権威

 人々は、イエス様の教えに驚きました。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから」です。律法学者は、聖書を詳しく調べ学んで、人々の疑問に答えます。人々が自分ではどうしたらよいかわからないことに遭遇した時など、「それは聖書でこう教えている。このように理解するべきである」などと促すわけです。しかし主はそのようではありませんでした。主の「みことば」「権威」のある命令であったわけです。つまり「した方が良い」などではなく「せよ」でした。
 私たちの戦いの相手は、人間や出来事などではありません。(エペソ 6:12)私たちの内外に働く霊的な存在です。私たちは「良くなろう」「変わろう」と、決意をしますが、それらは結局、自分の内に起こる疑いや否定的な考えによって、壊されていくのが常です。長続きしません。罪は私たちを助けることはありません。私たちを壊すのです。
 主は、悪霊につかれている人に対して「黙れ(マルコ 1:25)」と言われ、悪霊がしゃべることをお許しになりませんでした。波を鎮められるときも「黙れ。静まれ(マルコ 4:39)」と言われました。悪霊も嵐も主の権威に従ったのです。
 私たちの心が根本から鎮められ、敵の声が止むことが必要です。それらを鎮めることができるのは主の「権威」だけです。生きることのすべてが、主の「権威」ある「みことば」によって、なされていることが必要なのです。それが、主の命令を聞いて「それを行う人」であり「賢い人」なのです。

19.01.06 イエスだけ

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「マルコの福音書 9:7-8 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。 彼らが急いであたを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。
 今年のテーマとして「イエスだけ」という思いをいただきました。私たちの視点が常にイエス様にだけ、注がれ続けられますように、との願いです。

何かを見ている目

 私たちには目がついていますが、その目は、起きて開いている間は、常に何かを見ています。意識するかしないかは別にして、映像の情報は脳に送り続けられています。そして、その情報をもとに、脳は判断をしたり、考えたり、想像したりします。つまり、私たちは脳の中(心の中)でも情報を組み立てて、見たいものを見るということをしています。見たいものを見る、と言ったのは、心の中の映像はある程度コントロールして、見たい映像だけを選ぶことができるからです。
 肉体の目は、カメラのレンズのようなものですから、見えて来る情報を変えることはできません。この視覚情報を心に取り入れる段階で、他の経験や好みによる判断を加え、見たいものだけをクローズアップし見たくないものを無視する、などのことをしているのです。人は何かを見ているという点に、注目したいと思います。

心の目

 このように私たちの心の内部で起こっていることを考えますと、まるで心の中に目があるような働きであることがわかります。心の中の目も常に何かを見ているわけです。しかし、心の中の映像は、その人自身にかなりの影響を受けますから、同じような生活をしていても、人が心の中で見ている映像は、かなり違うものであることと考えられます。長時間その人が見続けているもの、それがその人の人となりを作り上げています。
 心配をする人、恐れる人は、心の中に色々な心配する事柄を見続けています。失敗したくなくて、怒られるのを避けたくて「失敗したらどうしよう」「怒られたらどうしよう」と、見続けている事柄が起きないようにと強く考えます。その見ている心配の事柄が、その人の性格を作り上げているのです。そのような特徴が、他の人の目には「あの人は自信のなさそうな人」「怖がりな人」などと映るわけです。そのような特徴が、その人が見ている心の絵によって作り上げられているわけです。
 失敗や恐怖に限らず、私たちには「怒り」もありますし、「失意」といった感情があります。いつも何かに不満を感じイライラしている、あるいはいつも心にやる気がなく、人生そのものが面白くないと感じている。人生に喜びをもって目指すものがない、という場合もあるでしょう。これらも全て、私たちの心の目が見ているものが、作り上げているものです。私たちは見るものを変えなければなりません。

イエスだけ

 今年のみことばは「自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」です。冒頭に、心の中でイエス様だけを見続けたい、と申し上げました。聖書は「彼(イエス)の言うことを聞きなさい」と言っています。人生の答えは、イエス・キリストであることを信じます。
 私たちの人生における苦しみ、問題、は私たちがイエスの言うことを聞かないで生きた結果だと、考えさせられます。心の中の映像が、イエス様だけ、あるいはイエス様のみことばによって作り上げられたものというわけではなかったりするからです。なんと自分勝手に色々なものを見続けていることでしょうか。改めて考えさせられます。
 そこで「イエスだけ」を掲げて、この一年イエス様を見続けて、イエス様の言われることを聞き続けて、みことばの確かなことを味わって行きたいと思うのです。
 レビ記26章には、神様の並々ならぬ、私たちを祝福するとの決意が、あふれています。「わたしに従うなら、あなたは祝福される」との主のみ思いです。これは決して誇張ではありません。事実なのです。また何かの間接的なたとえでもありません。直接的な主の約束です。神様は約束を違えるようなお方ではありません。間違っているのは私たち自身です。
 心の中でイエス以外のものを見続けている、イエスの言うことだけを聞こうとしていない、ということが自分を苦しめているのだと、気づかなければなりません。

立ち返る

 心の中に見ているものが「イエスだけ」で他のものは何も見えない、ということでありたいと願うのです。実はレビ記26章のみことばに、昨年暮れ、突然迫られました。このみことばがすべての人生の答えであるとわからされたという思いです。
 旧約聖書には、イスラエルが主のみことばの存在に気付き、驚きをもって改めて、主に立ち返ったことが幾度か記されています。おそらくその時の彼らの驚きが「聖書にこんなことが書いてある」と目が開かれる思いで、みことばを見出したことでしょう。その時の彼らの驚きは、今の私のようでなかったかと思うほどです。
 見るべきものを見ていると思いつつ、実は見ていないことに気がつきました。人生の答えは複雑ではありません。罪の性質は複雑な答えを見つけたがります。自分がわかるとか、悟るとか、したいと思いたいわけです。そうではありません。簡単なのです。自己中心の想いを捨てて、主に従うということだけなのです。ですから、ただ「イエスだけ」です。

2019年 テーマ
「イエスだけ」

マルコ 9:8
自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。