23.08.20 私はいつも主を前にしています



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2023.08.20 週報.pdf

「詩篇16:8 私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。」

主を前にするとは

 ダビデは、「私はいつも主を前にしています。」と言いましたが、彼の一番の願いは、いつも主がともにおられることでした。主がいつもともにおられることを、信仰によって見ていました。彼が、敵との戦いにおいて、行く所どこにおいても勝利を収めることができたことや、あの巨漢ゴリヤテに一人で立ち向かい勝利することができたことも、主がともにいてくださったからでした。彼は、自分の能力にではなく、「主がともにおられて戦ってくださる」と主に全き信頼を寄せていた結果、勝利をすることができました。
 イエス様は弟子たちに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束してくださいました。主は、いつも私たちとともにいてくださるお方です。主は、私たちの肉の目で見ることのできないお方ですが、信仰によって、主がともにおられることを見ることができます。「主を前にする」というのは、主が私とともにおられるという事実を、信仰によって見ることです。

すべての出来事に主の働きがあるとわかる

 私たちが、いつも主を前にするとき、身の回りに起きているあらゆる出来事、また自分自身に起こるすべての出来事に、主の働き、最善がなされていることがわかります。天候や季節の移り変わりを見て、神の働きを見ることができます。世の中で起きていることを見てそこに神の働きがあるとわかります。朝、目覚める時、主が今日一日を生きる命を私に与えてくださっていることがわかります。また、暑さの中で疲れやだるさを感じて、やることが手につかなくなったり、面倒に感じてしまう中で、今自分の身に起きている出来事を信仰によって見る時に、「主は今、私にとって一番良きことをしてくださっているのだ」と、主の最善がなされていることがわかるので、主を喜ぶことができます。

主が私の右におられる

 ダビデは、「主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。」と告白していますが、「右」というのは、ここでは、「そばに立って助ける」という意味で使われています。彼は、「主がいつも私のそばに立って助けてくださる」と告白しています。私たちが揺るがされることがなく生きられるのは、主は、私の人生のすべてを安心してゆだねることのできるお方であると知っているからに他なりません。「主はこんな私を罪から救い出してくださった。そして主は今もなお、ご自分の豊かなあわれみによって私をあわれんでくださるので、私は悔い改めることができる。そして、心の向きを変えて主に従うことによって、主は、私が与える愛を持って人を愛することや、喜んで仕事や勉強をコツコツと進め成し遂げることを助けてくださる」とわかるので、安心して生きることができます。
 また私たちは、病の苦しみや、経済的な苦しみ、失敗したことや犯してしまった罪のことなど、人には打ち明けられないような思いがあっても、「主は、私に起きている出来事のすべてをご存じであられて、私のこの苦しい思いを誰よりも一番よく知っていてくださる」と知っているので、主からの慰めを受けることができます。主がともにおられるという事実は、私たちの願いが聞かれること以上の喜びとなります。

祈りが生活の中心になくてはならない

 私たちの生活に一番必要なことは、仕事が成功することや、生活の不足が満たされること、健やかでいられることよりも、何よりも、祈りが一番必要です。もし、主との交わりがなく一日を過ごすならば、私たちが神様と直接交わりを持つ部分である霊が死んでしまい、私たちは御心がわからなくなり、正しいことを行うことができなくなります。
 私たちが、主の働きに仕えていくためには、自分の力によって事を成し遂げようとする誘惑を、主によって断ち切っていただかなくてはなりません。私たちは、すぐに自分の考えや能力、過去にしてきた様々な経験に頼ろうとする傾向があったりしますが、それが砕かれて仕えることでなくては主の働きのために用いられることはありません。例えば、礼拝に参加する時も、祈って備えることが必要です。自分自身を主に差し出して、悔い改めて祈り、きよめられて御前に出る時、私たちの心は霊的に整えられ、主にだけ心を集中させることができ、御心を知ることができます。人のことや自分のことで思い煩うことからも守られて、礼拝がとても恵まれた時となります。ご奉仕をするにあたっても、正しく知恵を持って、冷静な判断をすることができますし、愛を持って仕えて行くことができるので、そのご奉仕の時間がとても恵まれた時となります。私たちは、いつも私たちのそばに立って助けてくださる主に助けられて歩んでまいりましょう。主を前にして生きる人の歩みは、決して揺るがされることがありません。(岩下 栄作)

23.08.13 あわれんでくださる主



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「ヨハネ5:6-9 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。『主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。』イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げ、歩きなさい。』すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」

全国聖会感謝

 先週、8月10日、11日の二日間、香川県坂出市で聖会がありました。参加してくださった兄弟姉妹に感謝します。また祈りに覚えてくださった兄弟姉妹に感謝します。台風の影響が心配されましたが、全日晴天に恵まれました。3年連続で来てくださった講師の有賀喜一先生は、90歳とは思えない迫力で、イザヤ書60章1-2節から、「神は信徒一人一人に『起きよ!光を放て!』と命じられている、その御声に応答せよ」と力強く語ってくださり、大変恵まれました。また、今回はバスで一緒に行かれた方も多くおられましたが、バスでの交わりも祝福されました。ともにいてくださり、すべてお守りくださった神様に感謝します。

ベテスダの池

 冒頭のみことばは、ベテスダの池でのできごとです。エルサレムにベテスダと呼ばれる池があって、ここには五つの回廊がついていました。回廊というのは、建物や中庭を囲むようにめぐらされた屋根付きの廊下のことです。この回廊の中に、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢横たわっていました。その池の水がときどき動き、その時に真っ先にこの池に入った人はどのような病でも癒やされるという言い伝えがあったからです。

「良くなりたいか」

 このベテスダの池に、38年も病気にかかっている人がいました。イエス様は彼が横になっているのをご覧になりました。そして、彼が長い間そうしているのを知ると、彼に「良くなりたいか。」と言われました。しかし彼は、「はい、良くなりたいです。」とは言いませんでした。「主よ、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えました。イエス様は彼に、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と言われました。すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出しました。瞬時にいやされたのです。
 たくさんの病人がいた中で、イエス様はなぜ彼に声をかけてくださったのでしょうか。聖書の別の箇所で、イエス様のところに癒やしを求めてきた目の見えない二人の人は、イエス様に「わたしにそれができると信じるのか(マタイ9:28)」と言われて、「はい、主よ(同)」と即答しました。するとイエス様は、「あなたがたの信仰のとおりになれ(同29節)」と言われて、彼らを癒やされました。それにくらべると、ベテスダの池にいたこの病人は、イエス様にあれこれと言い訳をしていて、とても信仰的には見えません。もちろん彼も心の底では「癒やされたい」と願っていたでしょう。しかし彼のことばからは、あきらめしか感じられません。しかし、主は彼に目を止めて声をかけてくださり、即座に癒やしてくださいました。

あわれんでくださる主

 イエス様が彼に声をかけてくださったのは、ただ主が彼をあわれんでくださったからです。主はあわれみ深く、人の苦しみ、心の思い煩いをすべて知っておられるお方です。彼が38年間も病気で苦しんでいたことも、「もう無理だ」と癒やしをあきらめてしまっていることも、ご存知であられました。そんな彼に、イエス様は「良くなりたいか」と声をかけてくださったのです。「あなたは本当に直りたいと願っていますか。今のままでいいのですか。本当は求めているのではありませんか。」と励ましてくださいました。そして、彼の病を癒やしてくださいました。
 私たちにも、はじめは願っていたけど、かなえられないのであきらめてしまっていること、やる気をなくしてしまっていることがあるのではないでしょうか。職場や家族の人間関係の回復、長年の病の癒やし、家族や知人の救い、また自分自身が変わりたいと願っていて、あきらめてしまったことがあるかもしれません。主はそんな私たちをあわれんでくださり、「良くなりたいか」と声をかけてくださり、癒やし、解決してくださるお方です。

癒やしを求めて生きる

 ベテスダで癒やされた人は、癒やしてくださったお方がイエス様であると知りませんでした。しかしその後、彼が宮にいるときに、イエス様の方から彼に声をかけてくださいました。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。(同14節)」と言われたのです。それは「もうこれからは、神に背を向ける生き方をしてはなりません。」という意味です。彼はもはや、自分を癒やしてくださったお方が、主イエス・キリストであられることを知って、信じたからです。
 私たちが信じる神様は、すぐにあきらめてしまうような私たちの弱さをよく知っておられ、あわれんでくださるお方です。私たちはただこのお方に信頼し、すべての重荷をゆだね、癒やしを求めて参りましょう。(鈴木千史)

23.08.06 主は私の羊飼い



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「詩篇23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」

主は私の羊飼い

 ダビデは、「主は私の羊飼い。」と言いました。それは、彼の主に対する信仰の告白でした。「主は私の羊飼いであって、私はその羊飼いに養われている羊である」という、主とダビデとの個人的な関係を表すものでした。ダビデは、「私は主のものである、主に養っていただくことなくして自分は生きて行くことは決してできない」ということを悟っていました。
 羊飼いは、羊の世話をします。羊飼いの仕事は、羊が十分に食べることができる牧草地に導き、飲み水がある場所へ導くことです。また、野獣などの外敵から羊を守るために、長い杖を持って敵を追い払います。羊は、食べ物や飲み水のある場所を探し求めたり、他の動物の攻撃から身を守ることにおいては、自分で自分を守ることができず、羊飼いに完全に依存しなくてはなりません。また、羊は群れで動いていますが、羊飼いは、中には群れから迷い出てしまう羊もいますので、いつも羊がきちんと付いて来ているかどうかを気にかけています。
 私たちもまた、羊と同じく羊飼いであられる主にまったく依存していなければ、この世において勝利ある人生を全うして行くことはできません。人前で強く見せているような人であっても、周囲から孤立することをとても恐れますし、すぐに自分勝手な考えで物事を進めてしまったりするようなものです。ですので、導いてくれる方がいなければ、正しい道に進むことはできません。

主は私たちを日々祝福へと導かれる

 ダビデは、「私は乏しいことがありません。」と告白しています。ここに彼の主に対する全面的な信頼の姿勢が見て取れます。主は、私たちを良いものに何一つ欠けることなく、満たしてくださるお方です。イスラエルの民は荒野で40年という長い旅路を歩みましたが、その間、彼らの生活は、食べる物、着る物など何一つ困ることはありませんでした。そして主は、民を約束の地カナンへと導かれました。そこは、それまでの荒野とは全く違う世界が広がっていました。緑や水が豊かにあり、小麦や果実、牛や羊などの家畜が豊かにあり、金や銀がとれる豊かな良い地でありました。主は私たちを日々祝福へと導いておられます。
 私たちの生活に起こるすべての出来事に、主の導きがあります。一日、大きな事故やケガなどなく、働いたり勉強をしたり、体を動かしたりすることができること、人と楽しく話すことができることも、主が私たちに命を与え、健やかに過ごすことができるように導いておられるからです。それだけではなく、主は私たちの心を健やかに豊かにしてくださいます。さらには、私たちがまだ見たことも経験したこともない素晴らしい祝福を与えたいと切に願っておられます。

喜んで主の導きに従わなくてはならない

 私たちが神の祝福を受けるためには、喜んで主の導きに従って行くことが必要不可欠となります。私たちが、もし主の導きに従うことがなければ、どうなってしまうのでしょうか。例えば、お金の使い方であれば、自分の欲を満たすために使うようになります。「ねえねえ、知ってる?ちょっと簡単に稼げる仕事があるんだけどやらない?」というような儲け話の誘いにいとも簡単に乗ってしまい、あとで痛い目にあうことになったりします。「そこまで欲しいとは思ってなかったけど、見たら欲しくなっちゃったから買っちゃおうかな」と、つい衝動買いをしてしまい、そんなことが積み重なり気がつくと「返せないほどの借金を作ってしまった」ということにもなりかねません。 私たちが主の導きに従うことから離れてしまうと、自分の欲や利益のために考え行動するようになってしまい、今取るべき最善の行動を選ぶための、冷静かつ正しい判断ができなくなってしまいます。主は、「今持っているもので満足しなさい。(ヘブル13:5)」と言われます。また、「求めなさい。(マタイ7:7)」とも言われます。主は私たちの必要を知っておられます。そして一番良きタイミングで、豊かに惜しみなく与えてくださるお方です。私たちはこのことを信じて、日々主から語られる御声、みことばによって導かれ、今私たちになされている主の導きに喜んで従ってまいりましょう。

主について行く

 羊である私たちがすることは、羊飼いであられる主について行くことです。それは、私たちが主のみことばだけが正しいと知っているので、「主は私を必ず祝福へと導いてくださる」と信じて、素直な心でみこころを行なっていこうとすることです。今どんなに乏しく感じる状況に置かれていたとしても、主は私たちを放ってはおかれず、豊かな良い地へと導いてくださいます。主に生活のすべてをゆだねてまいりましょう。(岩下 栄作)

23.07.30 信じるなら神の栄光を見る



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「ヨハネ11:40 イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」

告別式

 先日、佐尾山里枝姉妹が99歳で天に召されました。愛する姉妹を亡くしたことは、ご家族にとってはもちろんのこと、私たち教会員にとっても無念であり寂しいことであります。しかし悲しみの中にあって、また必ず天国で姉妹と再会できることが、私たちの大きな慰めです。生前の姉妹は、いつも喜んで神様を讃美し、家族を誘ってお祈りされていたそうです。告別式は、参列されたご身内の方々に神様の愛を証しする、すばらしい機会となりました。神様が福音の働きに姉妹を用いてくださったことを、感謝いたします。残されたご家族の平安のために、また救いのために謹んでお祈り申し上げます。

ラザロの死

 冒頭のみことばは、イエス様がラザロの姉妹のマルタに言われたことばです。イエス様が弟子たちとヨルダン川の向こう岸におられたとき、ベタニアのラザロが病気にかかっていることを聞きました。イエス様は、彼と彼の姉妹のマルタとマリアを愛しておられましたが、すぐには出かけずに、そのときいた場所に二日間とどまられました。それから出かけようとされましたが、実はこのときにはもうラザロは死んでいました。そのときイエス様は弟子たちにはっきりと「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場所に居合わせなかったことを喜んでいます。(ヨハネ11:14-15)」と言われました。イエス様は彼らの信仰の益となるために、わざわざベタニヤ行きを遅らせたのでありました。イエス様がおいでになると、ラザロは墓の中に葬られて、すでに四日たっていました。それは彼が完全に死んでいることを意味していました。

信じるなら栄光を見る

 イエス様が来られたと聞いて、マルタはイエス様を出迎えに行きました。そして「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(同21節)」と言いました。するとイエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります(同23節)」と言われました。しかし彼女は、これを終わりの日のよみがえりの約束と取りました。イエス様はさらに、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。(同25-26節)」と尋ねられました。マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。(同27節)」と言いました。しかし、イエス様が墓をふさいでいる石を取りのけなさいと言われると、彼女は、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。(同39節)」と言いました。彼女は信仰告白したにもかかわらず、主がラザロをよみがえらせてくださることを信じることができませんでした。イエス様は彼女をたしなめて、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」と言われたのです。そして天の父に感謝の祈りを捧げられると、大声で、「ラザロよ、出て来なさい。(同43節)」と言われました。すると死んでいた人が、手と足を長い布でまかれたまま出てきました。ラザロはよみがえりました。
 イエス様は死人をよみがえらせることのできるお方です。ラザロのよみがえりの奇跡は、イエス様が神様から遣わされた救い主であること、またいのちを与える権威をお持ちであられることを証しするしるしでありました。

永遠のいのちの奇跡

 私たちは生まれながらの罪人であり、自分の背きと罪の中に死んでいた者でした。神様は聖いお方ですから、罪人を受け入れることはできません。罪ある者は神様にさばかれて、永遠の滅びにいたる定めにあります。しかし、神様はそんなみじめな私たちをあわれんでくださり、愛してくださったゆえに、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださいました。そして、ただイエス・キリストを信じるだけで罪赦されて、永遠の滅びから救い出され、永遠のいのちを持つことができる道を備えてくださいました。主は「信じるなら神の栄光を見る」と言われましたが、これほどの大きな奇跡はありません。

神を信じることの幸い

 マルタとマリアのところに来ていて、イエス様がなさった奇跡を見たユダヤ人の多くが、イエス様を信じました。しかし、イエス様が神であることを信じない者もいたのです。
 イエス・キリストを信じる者は幸いです。信じる者は救われて、死の恐れから完全に解放されて生きることができます。神様のみこころはすべての人が救われることです。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(ヨハネ6:40)」。神様はすべての人に救いの手を差し伸べておられます。私たちの愛する家族や友人が、その主の愛の手を握り返すことができるように、そしていつの日か天国で必ず再会できるように、日々福音を伝えて参りましょう。(鈴木千史)

23.07.23 土の器に過ぎない



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「Ⅱコリント4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」

宝を土の器に入れている

 パウロは、「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。」と言いました。「宝」とは、福音のことです。福音は、イエス・キリストを信じるなら救われるという良き知らせです。私たちはイエス・キリストを信じて罪の中から救われました。私たちが信じることができたのは、神様が私たちに、イエス・キリストは神の御子であり、まことの救い主であることを理解させてくださったからです。キリストを知った私たちの心には、今もその宝が入っています。パウロは、私たちは土の器であると言いました。土の器はとても弱く、もろいものです。ちょっとした衝撃で簡単にひびが入ったり、割れてしまったりします。そんな弱い土の器に宝が入っている理由は、キリストを信じた人が救われるという福音の「測り知れない力が神のもの」であることが明らかになるためです。

器は運ぶために使われる

 器の役割は、運ぶことです。中身の物を運ぶために使われます。神様は、この土の器を用いて、私たちの心を照らしている福音という宝が、家庭に、職場に、学校の友達に、社会の中で明らかにされることを願っておられます。私たち一人ひとりが、主に仕え、福音を届ける役割を担っています。そのために必要なことは、私たちが行く場所のどこででも主を礼拝することが大切です。礼拝は、教会に来る日曜日にだけなされるものではありません。私たちの信じている神様は、私たちの行くところどこにでもおられるお方です。朝、会社へ行く通勤の途中、電車の中で、また職場で机に座って仕事をしているとき、また家に帰ってソファーに座ってくつろいでいるとき、どこでも神様を礼拝することができます。神様を礼拝するとき、私たちは、自分の関心や、人が自分のことをどう思っているかという関心から離れて、神の言われることに耳を傾けることができます。「寄り添ってあげなさい」と言われるので、人の話を聞いてあげて、自分がその人の居場所となってあげることができます。また、「思いやってあげなさい」と語られて、その人と同じ気持ちになって思いをくみ取ってあげられるので、その人に今必要な、適切な言葉を主から語られて伝えてあげることができます。そのようにして、私たちは、キリストの栄光を人々に運び、届けるために用いられたいと思います。

器は目立ってはいけない

 しかし、土の器である私たちが立派な器になろうとしたり、目立ってしまうと、中に入れている福音という宝が、神からのものであることが明らかになりません。私たちはこれまで、世の価値観で生きてきましたので、救われた今もなお、無意識のうちに、出来る自分、価値ある自分になることを求めたり、周囲から賞賛されることを求めてしまうことがあるかもしれません。そうなると、神の栄光は、私たちから現れなくなってしまいます。
 では土の器である私たちは、どうすればいいのでしょうか。器を磨いたり、器をよく見せようとしたりするのではなくて、キリストを知っていること、福音という宝を入れていることを誇りましょう。それは、神様がどんなお方であるのか、私にどんな良きことをしてくださったのか、という神の素晴らしさを明らかにすることです。「私は主に愛されている。この主の私に対する愛は、いつでもどんな時も変わることはなく、主は私を決して見捨てることのないお方であられることを私は知っている。主は、私にいつも善きことしかなさらないことを私は知っている。主は私が罪を犯した時、悔い改めて祈る時には必ず赦してくださる方であることを私は知っている。主は私が助けを求める時には必ず助け出して、私を守ってくださることを私は知っている。」というように、主の素晴らしさをほめたたえてまいりましょう。

土の器に過ぎないと知るとき、神の栄光が現れる

 私たちが、「自分は土の器に過ぎないのだ」と自覚する時、私たちを通して神の栄光が現されます。周りの人から、「あの人はいつ会っても、何か楽しそうにしているし、ゆとりを感じる」とか、「いつも私のことを思ってくれているし、理解してくれている、あの人からはそんな愛を感じる」とか、「あの人は、いつ会っても喜んでいる姿を見るけど、それはきっと、あの人が信じている神様がそうさせているに違いない。私にはない何かを持っている。私もあの人のようになりたい。あの人の信じている神様のことを知りたい」と思われるようになったり、そんな言葉を耳にすることになったりします。神様は、「私」という土の器を用いたいと願っておられます。私たちは、福音の光が、この土の器を管として人々に届けられることを願いつつ、主に仕えて行きたいと思います。(岩下 栄作)

23.07.16 生きた本当の信仰



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「ルカ17:5-6 使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増し加えてください。』すると主は言われた。『もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に[根元から抜かれて、海の中に植われ]と言うなら、あなたがたに従います。』」

生きた本当の信仰

 イエス様は弟子たちに、人が「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。(ルカ17:4)」と言われました。弟子たちはとてもできないと思ったので、「私たちの信仰を増し加えてください。」とお願いしました。すると主は、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」と言われました。イエス様のおことばの意味は、「信仰において大事なことは、強いか弱いか、大きいか小さいかということではなく、生きた本当の信仰かどうかということです。本当の信仰さえあれば、不可能なことは何もありません。(ルカ17:5-6 現代語訳聖書)」ということでした。からし種はごく小さな種です。そして桑の木は、根が深く広く張ることで有名な木です。からし種のように小さくても、それが「生きた本当の信仰」であるならば、頑丈な桑の木が抜かれて海に移されるほどの、力強いわざをすることができるというのです。つまり、自分に罪を犯す人を一日に七回も赦すことができるのだ、ということです。

主人としもべのたとえ

 では、「生きた本当の信仰」とはどんな信仰でしょうか。弟子たちが理解することができるように、イエス様は続けて「主人としもべ」のたとえ話を話されました。(同17:7-10)「しもべ」は雇い人ではなく奴隷のことです。しもべは一日外で仕事をして帰ってくると、自分が休む間もなく、まず主人のために食事を準備して給仕します。そして、主人の食事が終わってから自分の食事をとります。奴隷ですから当然のことです。ほめられたり、ねぎらわれたりすることはありません。
 同じように、神様と私たちの関係も、主人としもべの関係であるということです。神様は創造主であられ、この世のすべてのものを支配しておられます。私たちは造られた者に過ぎません。ですから当然神様に従うべきです。そう聞くと、何か縛られているような、窮屈な感じがするかもしれませんがそうではありません。私たちは、造られただけでなく、神様によって罪から救われた者です。神様は私たちを「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ(使徒26:18)」てくださいました。救われる前、私たちは、神様に背き、自分勝手な考えで生きていたために失敗し、苦しんでいました。しかし救われた今は、神様の支配の中で、神様のみことばに従って、感謝と喜びにあふれて生きるようにされました。「生きた本当の信仰」とは、神様のしもべとして、従順に従う信仰のことです。

不可能なことは何もない

 イエス様は、「本当の信仰さえあれば、不可能なことは何もありません。」と言われました。私たちが自分勝手な考えを捨てて、神様に従順に従おうとするところに、神様は自由に働くことがおできになるからです。
 私は救われる前、愛することをまったくしようとしない者でした。「愛してくれないなら、愛してあげない」という態度をずっと続けてきました。ですから頭の中はいつも人をさばく思いでいっぱいで、何をしていても集中できませんでした。救われて、みことばを聞くようになって、はじめて自分の心の中にある思いが罪であることがわかりました。しかしすぐに変わることはできませんでした。それでも礼拝で、また聖書で、「愛しなさい」と語られる神様のみことばを聞き続ける中で、「こんな自分を愛してくださる神様を喜ばせたい、だから何とか愛したい。」と願う思いを神様が与えてくださいました。そうして、家族との人間関係が正されていき、また教会の交わりの中へ入っていくことができるようになりました。今も何かができているとはとても言えませんが、それでも心の中に「愛したくない」という思いがわいてくると違和感を感じ、すぐに立ち返るように変えられています。いつでも「愛したい」と願う者に変えられたことは、神様が成し遂げてくださった奇跡です。神様に従おうとすれば、不可能なことは何もありません。

神様に服従しなさい

 私たちは救われても相変わらず罪人であり、神様のみことばを一つも守ることのできない者です。しかし、みことばに従おうとすることならば誰でもできます。「一日に七回赦しなさい」と言われたら、無理かもしれないと思っても、「はい、主よやってみます」と言わなければなりません。そうすれば主が助けてくださいます。自分ではとても成し遂げられないことができるようになります。しかしもし、いつまでも従おうとしないならば、神様に「私はあなたの助けは必要ありません。自分で考えた通りにしたいのです。」と言っていることなのだ、と気づかなければなりません。私たちが服従するのは、何よりも神様を喜ばせたいからです。みこころを行おうとする者を、神様は必ず守り祝福してくださいます。(鈴木千史)

23.07.09 みことばを大胆に語る



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「使徒4:29-31 主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。』彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」

ペテロとヨハネは、みことばを大胆に語った

 ペテロとヨハネは、生まれつき足の不自由な人を、イエスの名によって祈り、その人をいやしました。生まれてから40年以上もの間歩けなかったその人は、立ち上がり、喜んで神を賛美しました。その様子を見た周囲の人たちは驚きを隠せませんでした。ペテロとヨハネは、その駆け寄って来る民に対して、「この人が治ってここにいるのは、私たちの力ではなく、イエスの名がこの人をいやしたのです。」と力強く語りました。その様子を見ていたユダヤの指導者たちは、二人を逮捕しました。二人は大勢のユダヤの指導者たちの前で尋問を受けますが、その場においても、ペテロは聖霊に満たされて語りました。「この人が治ってここに立っているのは、あなたがたが十字架につけたイエスの名によることです。この方以外には、だれによっても救いはありません。」と大胆に答えました。指導者たちは、今後一切イエスの名によって語ることを禁じ、脅した上で二人を釈放しました。二人は、指導者たちから言われたことを、自分の仲間たちに伝えます。それを聞いた彼らは、一同で祈り始めました。その祈りが冒頭のみことばです。彼らは、迫害を恐れることなく、むしろ大胆にみことばを語りました。それを可能にしたのは、彼らが聖霊に満たされていたからでした。

みことばを大胆に語ることが私の使命である

 私たちも、キリストの弟子として、みことばを大胆に語りたいと思います。イエス様やその弟子たちによってなされた奇跡のみわざは、この時代だけのことではなく、今も現実にその奇跡がなされることを私たちは信じます。私たちは、その働きを主から任されていることを自覚しなくてはなりません。神のみことばの約束、また主が私たちのためにしてくださった事実を、私たちの口を持って人に語らなくてはなりません。
 みことばは、「わたしは主、あなたをいやす者である。(出エジプト15:26 新改訳第三版)」と約束しています。ですから私たちは、家族や兄弟姉妹に対して、「神はあなたの病をいやされます。」とはっきりと宣言しなくてはなりません。みことばは、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。(ローマ10:13)」と約束しています。ですから、私たちは人に対して、「あなたが今、『イエス・キリストは私の救い主です』と、信じ受け入れるならあなたのすべての罪は赦され、救われます。」と言わなければなりません。また、神様が私たちにしてくださった良きことがたくさんあります。「私はイエス・キリストに出会ってこんなにも変えられました」という恵みの数々があります。それを家族や友達、また兄弟姉妹に対して積極的に証ししていかなくてはなりません。それを告げることが、私たちの責任であり使命です。

みことばを語ることを恥じていないだろうか

 しかし、もし私たちが家族や友達、職場の人たちとの間で、福音を語ることをためらう思いがあるとしたら、福音を恥じているか、みことばを本当には信じていないのではないかと問われることです。福音を伝える時、人から拒絶されることを恐れたりするかもしれません。まだ何も話していないのに、「話をしても、どうせ言い返されて終わるだけだろう」と考えたり、「私はまだ聖書のことを十分に理解していないから、確信を持って言うことができないし」と考えていたりするかもしれません。私たちは感情に頼ってはいけません。みことばを口で告白することは、「神様、あなたの言われることは真実です。」と主に対して賛成の意を表すことです。今自分が、何の働きも出来ていないと感じていても、神がおられるとは思えなくても、神に愛されていると感じなくても、神のことばは真実であり、私たちにしてくださったこと(十字架のあがない)は変わりようのない事実なので、自分の感情を無視して、みことばを口に出して言わなくてはなりません。そのために、恐れを取り除こうとしたり、人間的な方法に頼ろうとするのではなく、何よりも私たち自身が聖霊に満たされることを求めていかなくてはなりません。

今出来ることから始める

 まず、今出来ることから行動を起こしてまいりましょう。イエス様が湖の上を歩いて来られた時、舟に乗っていたペテロに対して、「来なさい(マタイ14:29)」と言われました。ペテロは、信仰を持って舟から出ました。イエス様だけを見つめて、一歩踏み出すことができました。私たちも、イエス様だけを見つめて舟から出て一歩踏み出すとき、超自然的な働きをすることができると信じます。そのためには、まず私たちが口を開いて語り始めなくてなりません。私たちを通して、主の素晴らしい奇跡のみわざがなされることを信じます。(岩下 栄作)

23.07.02 主の計画こそが実現する



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2023.07.02 週報.pdf

「箴言19:21 人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」

主の計画こそが実現する

 生活している中で、私たちはいろいろと計画を立てます。朝、今日一日の計画を立てて、「これと、これと、これをしよう」とメモする人は多いと思います。また人生設計をします。若い人であれば、「どんな仕事に就こうか、何歳くらいで結婚しようか。」などと考えるでしょうし、年配の人であれば、「老後はこんなふうに暮らしたい」などと考えたりすると思います。しかし聖書は、「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」と教えています。私たちの計画ではなく、主のご計画だけが実現するのだと言うのです。
 「主の計画こそが実現する」ということは、今起こっていることは、主の計画が実現していることなのだとわかります。住んでいる場所も、配偶者や家族も、与えられている仕事も学校も、そのほかのいろいろな環境も主の計画が実現しているということです。また、今生活の中に起こっている問題があるならば、それも主の計画が実現しているということです。

主のご計画は祝福

 「主の計画」は、どんなご計画でしょうか。それは私たちを祝福する計画です。神様は、この世のすべてのものを造られ、主権をもって働いておられます。神様の知らないところで起こっていることは何一つありません。そして、神様は私たちを愛してくださっておられます。神様が私たちを愛してくださっておられることは、イエス様の十字架を見ればわかります。主は、罪ゆえに滅びる運命にあった私たちのために、イエス様を地上につかわしてくださり、人の罪の身代わりとして十字架につけてくださいました。そして、イエス様を信じる者の罪をすべて赦してくださり、神の子どもとしてくださいました。そこに神様の愛がはっきりと示されています。
 神様が主権を持っておられ、しかも私たちを愛してくださっておられるのですから、私たちの日常生活の中で起こるできごとは、すべてが祝福です。私たちの目には良いことには思えなくても、なぜ起こっているのかよくわからなくても、「あなたのために、そのことが起こらなければならないのだ。」と主は言われます。ですから、どんな問題の中でも、私たちは心を騒がせることなく、神様のなさっておられることを静かに受け止めることができます。

ダビデは静かに去った

 ダビデは自分の子供であるアブサロムが謀反を起こした時に、王の権力で力づくで阻止しようとはしませんでした。すべては神が起こされていることとへりくだって受け取り、エルサレムを静かに去って行きました。ダビデは自分の罪を自覚していました。彼はアブサロムが求めていたにもかかわらず、長い間息子との関わりに面と向かうことをしていませんでした。この謀反の原因は自分にあるとわかっていたのです。彼は、「もし神が私を王位から退けられるならそれに従うしかない。神のご意志に反しては王であることはできない。」とわきまえていました。そして、「もし神様が自分をあわれんでくださるならば、もう一度エルサレムにもどることができる」と信じていました。そうして、自分を主張することなく、主の御手に自分の身をお任せしました。
 神様はダビデの信頼に応えてくださり、アブサロムの助言者であったアヒトフェルのすぐれた作戦を退け、ダビデがアブサロムの元へ送っていたフシャイの作戦を採用させました。アブサロムは討ち取られ、神様は再びダビデをエルサレムに戻してくださいました。神の計画こそが実現します。

主の御手に身を任せる

 人生の中では、「一生懸命計画していたのに、その通りにならなかった。」ということが起こります。すると私たちは、それをなんとか取り戻そうとしたり、策をめぐらして、自分の思い通りになるように仕向けようと心を騒がせる者です。しかし、「主の計画こそが実現する」と知るならば、ダビデのように、起こっているできごとを静かに受け止めることができます。私たちは神様の御思いを完全に知ることはできませんが、できごとの中で、神様の御声に耳を傾けることができます。神様はあなたが気づかない罪を知らせるために、今のできごとを起こされているのかもしれません。悔い改めることができることは何よりの祝福です。
 主は神様に心を向けて歩もうとする者を、必ず祝福してくださいます。ですから私たちは、私たちの信頼に応えてくださる神様の御手に身をお任せして参りましょう。(鈴木千史)