17.12.31 踏みとどまれた一年を主に感謝

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「ヨハネの福音書 8:31-32 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

踏みとどまれる知識を持つ

 今年も今日で終わりです。みなさんは2017年をどのように過ごされましたか。今年のテーマは「踏みとどまれる知識を持つ」でした。
 イエス様が話された、種まきのたとえを思い出してみましょう。4種類の地に種は落ちましたが、良い地以外では実りませんでした。実らなかったのは、道端と、岩地と、いばらの地です。このうち岩地といばらの地は種が芽を出します。岩地では芽を出しますが、太陽の熱で枯れてしまいます。いばらの地では、芽を出し、少し育ちますが、いばらに覆われて、それ以上育つことはできませんでした。
 これらのことの意味は、真の知識がなければ、神様のみことばを聞いて一旦は信じても、苦難や世の誘惑に負けて信仰を失う、ということです。踏みとどまれなかったということです。
 良い実を実らせることができない理由は、信じたところに踏みとどまれないことです。そして踏みとどまれない原因は、結局、知らない、つまり知識がないことなのです。
 聖書には、神様に関するたくさんの知識が教えられています。その一つ一つが、真の知識になるならば、私たちは踏みとどまれます。例えば、「神様が自分とともにおられる」ということを本当にわかっているなら、事実として体験的に知っているなら、その人は、揺さぶりがあろうとも、誘惑されようとも、踏みとどまれます。
 「必ず、神様は私を助けてくださる」「必ず、神様は私をいやしてくださる」というところに踏みとどまることができるのです。この場合、肝心なことは、踏みとどまる努力ではなくて、「神様が自分とともにおられる」ということを(静かに)知っているということだけです。これが、「踏みとどまれる知識を持つ」ということです。逆に言えば、踏みとどまれていないなら、知らないのです。

知る方法 信仰

 さて、見えない神様のことを知る方法は「信仰」です。実際、私たちは神様のことを、見ることも、触ることもできません。神様のことを知るには、神様が啓示された聖書のみことばによって、教えられる必要があります。そしてさらには、その教えを受け取らなければなりません。受け取らない人は知ることができないのです。たとえ自分の心が疑っても、反対しても、それをさえぎって、自分の意志では、これを受け取るということが「信仰」です。
 私たちは罪人です。聖い神様を知る(出会う)ことはできない存在です。それを神様は、私たちの信仰によって受け入れてくださいました。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント 1:21)」
 私たちが救われたのは、イエス・キリストの十字架が、私たちの罪の贖いのためであることを信じたからです。2000年前の主のみわざの事実を聞いただけで、受け入れました。「宣教のことばの愚かさ(信じない人には)を知識としました。ですから、何があっても、何を言われても、「私は救われている」というところに踏みとどまれるのです。聖書の様々な約束のことばを真の知識とするためには、「信仰」が必要です。自分自身が神様の御前に砕かれて、降参していなければなりません。そうあって初めて、神様のみことばを、疑いや反対を押し切って受け入れることができます。自分の心が何を言おうとも、降参している人は、迷わず神様の言われることを取る、ということです。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇 51:17)」

信仰に強さは必要ない

 ただ知ってさえいれば、誰でも揺れ動くことはありません。地球が逆回転する、と脅されても、気にもしないでしょう。そんなことが起きることはない、とあなたは知っているからです。あなたが、実際に宇宙に出て見たことはなくても、天文学者のような専門家でなくてもです。踏みとどまれる知識とはそういうことです。
 しかし、神様のことに関して、そうでないとしたら、おかしなことだとは思わないでしょうか。宇宙のことは、見たり聞いたりして、学んでその知識を得ることができます。しかし、多くの人は学ばなくても、信じているので(知識があるので)、揺るぎもしないのです。神様のことは、なぜそうはいかないのでしょうか。
 結局、私たちは、砕かれていなければ、信仰によって受け取ることができない、ということなのです。一旦は芽を出します。しかし真の知識がないならば、苦難が来れば、誘惑に遭えば、踏みとどまれません。
 私たちは信仰によって、真の知識を得ることができます。多くの人は勘違いをしています。信仰に必要なのは、信じる努力や強さだと思っています。そのような人は、踏みとどまるために努力しています。「大丈夫だ。大丈夫だ」と言い聞かせています。
 必要なことは、砕かれて素直にされた、たましいのあることです。降参していて、主の言われることに抵抗がありません。生活において、新しいみことばの知識が次から次へと教えられています。クリスチャンの人生とはそういうものです。
 岩地やいばらの地のようではなく、信仰によって、真実を知り続けていくことができるのです。常に信仰の連続です。だから「義人は信仰によって生きる。(ローマ 1:17)」のです。

17.12.24 クリスマスおめでとう 神様は私の味方

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「使徒の働き 26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』」

クリスマス感謝

 クリスマスおめでとうございます。
 イエス・キリストは、私たちの救い主として、お生まれくださいました。神様は、私たちを罪から救い出すために、御子をお遣わしになったのです。
 神様はこの世において、人類が神様から離れて、苦しんでいることに大変心を痛めておられます。なんとか助け出したい、なんとか幸せにしたい、なんとか自由にしてやりたい、と断腸の思いでおられることです。
 そこで、私たちを罪から解放するために、自らが人となり、人が受ける罰を全てその身に負ってくださいました。それが、イエス・キリストの十字架の出来事です。
 この十字架にかかるために、全く罪のない聖いお方が犠牲となる必要がありましたから、イエス様が誕生されたのです。私たちの救い主のご誕生を感謝し、神様のみわざを心からほめたたえます。

パウロの熱心

 パウロは、激しくクリスチャンを迫害しました。それは、神様を信じる信仰の熱心さからでした。ユダヤ人の多くがそうであったように、パウロも「ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」。クリスチャンを捉えては牢に入れることに熱心でした。クリスチャンが裁かれて死刑にされるときには「賛成の票を投じました」。とにかくイエスの名とクリスチャンを憎んだのでした。その理由は、イエス様がまことの神様を冒涜する者であり、それを信じるクリスチャンも神様に敵対していると、思い込んでいたからです。
 パウロは幼い頃からまことの神様を信じる環境の中で生きてきました。ユダヤの社会を代表するような、彼の家庭は模範的な家庭であり家系でした。彼は自分たちの信仰、自分たちの考え方が正しいと固く信じていました。
 イエス様が指摘されたように、ユダヤの人々は、聖書は知っていても、その真意は理解できていませんでした。聖書の教え(律法と言います)、その精神を全く履き違えていたのです。
 神様の言われることは、律法の精神は「愛」であるということです。神様を愛し、人を愛する、その動機から全ての行動をなせ、ということなのです。行動は、心の中の考えから生まれてきます。つまり、彼らは、形式的に律法を守ろうとするあまり、愛の思いのないことに気がつきませんでした。
 言っていることは正しくても、罪の体からは、当然正しい行いは出てこないことです。そんな彼らを指して「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。(マタイ 23:3)」と言われたことです。
 そのような彼らが、イエス様が現れた時、全く聖書に約束されている神の御子の顕現であることを信じることができませんでした。彼らにとっては、イエス様に反対することが、神様に熱心に仕えることだったのです。パウロもそうでした。

なぜわたしを迫害するのか

 そのようなパウロに、神様は臨んでくださいました。イエス様が直接触れてくださったのです。彼がダマスコに向かう途上、強烈な光が彼を襲いました。その光の中から「サウロ(パウロのこと)、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」という声が聞こえました。彼は、すぐさまそれが恐れ多い方の声であると感じたようです。彼はその声が神様の声であることを感じつつ、確かめるように言いました。「主よ。あなたはどなたですか」。すると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との返事がありました。この時、まことの神様=イエス様、と彼の心の中に理解がやって来ました。なんと、彼が一生懸命にクリスチャンを迫害して来たことが、神様に熱心に仕えていると思っていた行動が、神様に敵対していたことだったということを、初めて知ったのです。
 全面的に相手(クリスチャン)が間違っている、と思い込んでいましたが、間違っていたのは自分でした。「なぜわたしを迫害するのか」は、パウロにとって強烈なことばでした。私たちにとっても「なぜわたしに敵対するのか」という神様の御声が、聞こえて来ることはないのか、と身につまされることです。自分なりの考えが、神様に敵対する結果となってしまう。そう考えて、へりくだる必要があるということです。

とげのついた棒

 主のパウロに対して言われたことは「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」ということでした。いくら激しく神様に敵対しても、痛むのは神様ではなくて、パウロ自身であるということです。クリスチャンを迫害すればするほど、彼自身が傷ついていくことでありましたし、神様から遠ざかっていることでした。決して彼の望んでいる結果ではありませんでした。まさに「とげのついた棒」をけって痛んでいたのは彼の人生でした。
 神様は助け主です。私たちを助けてくださるお方であり、私たちの味方です。助けてくださる方に敵対してはなりません。祝福を逃すのは私たちですし、患うのは私たち自身です。どうしても自分の心が治められず、反発したり、怒りが鎮められなかったりしても、その行為が神様に敵対する行為であるのでは、とへりくだる必要がないでしょうか。
 いつもいつも覚えなければなりません。「神様は私の味方だ」と。「私を助けてくださる方に、私は反発しない」と。今年の一年も、私たちの味方である神様に、たくさんの祝福をいただきました。助け主、イエス・キリストのご誕生を心からお祝いいたします。

17.12.17 主を恐れる人の心にあることば

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「エレミヤ書 5:24 彼らは心の中でも、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる。』と。」

あなたは恐れないのか

 神様のユダの民に対する指摘は「あなたがたは、わたしを恐れないのか。――主の御告げ。――それとも、わたしの前でおののかないのか。(エレミヤ書 5:22)」でした。ユダの民は神様を信じていると言いながら、神様を恐れていない態度をとっていました。「そのままでは滅んでしまうよ」と、エレミヤは神様の警告のことばを伝えましたが、彼らは「そんなことはない」と安心仕切っていました。
 神様が言われているということに対して、全く信じようとはしませんでした。直接、神様が語られているとは、受け取れなかったのです。自分たちが、神様の御前に置かれているという意識もありませんでした。全く、神様を恐れていないのです。神様の御前にあることを理解していませんから、怖いとは感じていませんでした。
 神様の訴えかけは「わたしを恐れないのか」「わたしの前でおののかないのか」でした。神様を信じる者が、神様を恐れて生きる、というのが祝福です。ですから、神様は今日、「あなたは、わたしを恐れないのか」と語っておられる方であることを知らなければなりません。

主を恐れるとは

 神様を恐れることは、私たちと神様との関係が揺るぎのないものとなることです。「恐れ」はすなわち、神様を認める信仰となります。神様の真実を認めるなら、そこには神様への恐れの感情の湧き上がってくることです。
 自然が猛威を振るうとき、 私たちは、 自然に対して恐れを感じます。自然の大きな力に、如何ともし難いものを感じ、自分の無力を知るからです。しかし、その自然を造られた方が神様であり、支配されている方が神様であることを認めるなら、自然よりも神様が怖いと思うでしょう。
 人が、宇宙を眺め、その詳細と大きさは知り尽くすことができないことを知る時、恐れを感じます。しかし、その宇宙を創造主である神様が造られた、ことを認めるなら、宇宙よりも神様の偉大さを恐れるようになります。
 人体の仕組みは、複雑でその働きは誰もが認める驚異的なものです。それを知れば知るほど、全ての人が恐れを感じるのです。しかも、知れば知るほど、その仕組みが、進化などの自然現象によって生まれるわけがないことが、明らかになります。神秘的な、人知をはるかに超えた仕組みであることがわかるに従って、これらを造られた方がおられることを、認めるようになります。造り主を認めれば、体よりも生命よりも、さらにはそれを脅かす、病や危険よりも、その上に立ち、支配されている神様を恐れる思いが勝るのです。
 このように、本当に神様を恐れるなら、他の恐れは恐れでなくなります。神様を恐れる思いのあることが、神様を認めて受け入れているという関係、が確かなことを示しているのです。もし関係が薄ければ、神様の守りと恵みを受けることは、当然難しいこととなるでしょう。主を恐れない人は、自然や宇宙の脅威、病や危険の脅威の前に、恐れおののく以外すべがありません。
 ですから、神様は私たちを愛して「あなたはわたしを恐れているか」と語りかけられるのです。

さあ、恐れよう

 主の指摘は「心の中でも、こう言わなかった」ということです。それは「さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる。」ということでした。
 「さあ恐れよう」とは主を恐れる方向に向かって生きているということです。今、「恐れています」とか「恐れることができていません」とかを問題にしていません。たとえまずくとも、あるいは弱くとも、心の向きが「主を恐れます」という方向に向いているなら、その人の心の中には「さあ、私たちの神、主を恐れよう」ということばがあるのです。つまり、「主を恐れたいのだ」という思いが、その人の心を占めていることでしょう。

主を恐れる人の心にあることば

 「主を恐れよう」という人の心にはどのような思い(ことば)が溢れていることでしょうか。「主は作物の生育と実りのために、雨を降らせてくださり、収穫を守ってくださる」という思いです。これは神様の働きに対して、肯定的に同意をするということです。
 あなたが、主を恐れているなら、あなたの心には「主は必ず、収入を与え、生活を守ってくださる」と、心の中に肯定的なことばがあるのです。私たちにとって、決意をして口で言うことは、いくらでもできるかもしれません。しかし、心の中にそのことばがあるということは、一時的なことでは済みません。永続的にその思いが続くことが必要です。
 「人は考える通りの者」です。その人の心の中にあることが、その人がどんな人であるかを決定づけます。主を恐れる人は、必ずしも積極的な人ではないかもしれません。しかし、心の中ではこう言っているのです。「主は必ず、私を満たされる」「主は必ず、私を癒される」「主は必ず、この問題を解決される」と。
 人は、あなたを積極的な人、平安な人、と見るかもしれません。あなたは、主を恐れる人なのです。あなたの心には、主を恐れる告白が途切れないで続いているのです。心の中のことばが、あなたがどういう人なのかを決定づけています。

17.12.10 主の手は短いのだろうか

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「民数記 11:23 主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」

主を恐れない民

 イスラエルの民は、エジプトでは奴隷となっており、その苦役に苦しんでいました。彼らは主に助けを求めて叫びました。そこで、神様は彼らをエジプトから脱出させ、約束の地に向かわせるため、荒野を旅させました。
 ところが、荒野の旅に対して、民は不平を言うようになりました。マナという食物を神様は用意してくださっていましたが、民は、ついには、それにも感謝せず「エジプトの奴隷の方が良かった。エジプトでの肉が、食事が恋しい」とさえ言うようになったのです。それは泣いて悲しむほどの様子でした。
 民は指導者であるモーセに詰め寄りましたが、モーセは自分には荷が重すぎる、と泣いて神様に祈りました。そこで、神様は民全体に肉を飽きるほど、それも一ヶ月にもわたる分量を、地面に積み重なるくらい、与えると言われたのでした。
 民の数は百万人以上いました。そこで、モーセは「そんな不可能なことができると言うのですか」と神様に言ったのです。それに対して、神様は「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と答えられたわけです。

主の手は短いのだろうか

 「手は短い」というのは、短すぎて届かないという意味です。つまり「不可能である」という表現です。ですから「主の手は短いのだろうか」とは、「神様の御手が短くて届かないというようなことがあると思うのか」と皮肉って言われていることです。
 神様は自信たっぷりに、「わたしに不可能はない」と言われていることです。自信たっぷりと言いましたが、実際は神様にとって、自信がある、なし、などということは存在しません。「すべて可能」ということ以外に何もないからです。「できない」ということの陰りもありません。神様の怒りを抑えた皮肉が迫ります。
 人が神様を信じるということは、神様の全知全能を信じるということに他なりません。そうでなければ、信じることに実質的な意味はないでしょう。もし、神様が全知全能と言えども、不確かなら、私は「そんな神は信じる必要はない」と言いたいです。私たちは、全知全能の神様を信じているのだ、と改めて確認したいと思います。私たちのこの確信が揺らぐときに「主の手は短いのだろうか」と、あえて神様は投げかけてくださっているのです。

主を恐れる

 主を恐れる者は、主の全知全能を恐れていることでもあります。主の御手の長さは十分に長く、私たちの必要のすべてに届きます。私たちの問題で主が解決できないものは一つもありません。「神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカの福音書 1:37)」
 主の全知全能の前には、立ちはだかることのできるものは、誰も、何もないのです。たとえ人であろうと、煩い、病であろうと、危険であろうと、悪魔悪霊であろうと、何者であろうと主のみ前には屈するのです。
 私たちがこの世で感じる恐れの全ては、主への恐れの前には、全て砕かれてしまいます。民にとって、恐れは荒野の生活の全てにありました。敵に囲まれ、いつ危害を加えられるかわからない恐れがありました。この単調な、同じ食事がいつまで続くのか、楽しみは永遠にやって来ないのでは、という恐れでした。果たして、目的地が安住の地であると言えるのか、という恐れでした。しかし、真実は、「主の御手が十分に長く、民の必要に完全に届く」ということだったわけです。主を恐れるなら、これらの恐れは存在し得ないことでした。

真剣に主を恐れることの快適さ

 主を恐れるというのは、恐れて何かをするということではありません。恐れて何かを考えるということでもありません。文字通り、神様を怖いと思うということです。
 民の心に、神様が怖いという思いがいっぱいであれば、彼らの心に、荒野での恐れが入る余地はありませんでした。恐れがありますから、不平不満が出てきます。「一体どうなるのだ」「一体どうしてくれるのだ」という思いが、神様に対して、モーセに対して詰め寄るという態度を生み出したのです。あるいは、諦め、嘆くという態度です。
 何かをしなければ、とか、考えを直さなければとか、を一旦置いておきましょう。それより、今、心の中を神様が怖いという思いでいっぱいにすることです。行動や、考え方は、主を恐れることの結果で変わります。
 神様が怖いという思いがいっぱいになりますと、今まで感じていた、諸々の恐れや不安が「いかほどのことか」と感じるようになります。世界が、景色が一変する思いです。この快適さを知れば、聖書の言うとおり、主を恐れることが、人生の答えだとわかります。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書 12:13)」

17.12.03 私の上に主の御霊がおられる

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「ルカの福音書 4:18-19 わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

みことばの成就

 イエス様はイザヤ書を朗読し終わると、人々に向かって「きょう、聖書のこの(上記掲題の)みことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。(4:21)」と言われました。
 「わたしの上に主の御霊がおられる」というのは、ご自分に神の御霊が臨んでおられ、ご自分が、「油注がれた」神の御子であるという宣言です。イエス様は「遣わされた」神の御子である、という宣言です。見えない神様が、見えるかたち、人となって、来てくださったのです。

福音

 イエス・キリストが「遣わされた」目的は「貧しい人々に福音を伝える」ためです。苦しんでいる私たち、あえいでいる私たち、に対して「福音(良き知らせ)」を伝えてくださいました。
 「福音(良き知らせ)」とは何でしょう。福音の内容は、「捕らわれ人」「赦免」です。すべての人は罪に捕らわれて、見えない格子のある牢獄に閉じ込められています。自由に動けるものの、自由に生きられるものの、自由ではありません。したいことができません。なりたい自分になることができないでいます。したくないことをやめることもできないのです。全くの「捕らわれ人」です。私たちの罪を赦し、釈放するという良き知らせが、イエス・キリストによって知らされました。
 また「福音」は、「盲人」「目の開かれること」の知らせです。イエス・キリストは、すべての病をいやすために来てくださったのです。そして、「しいたげられている人々を自由に」する「主の恵みの年」という良き知らせが伝えられているのです。イスラエルの社会では、50年に一度、すべての負債が帳消しになるヨベルの年と呼ばれる「主の恵みの年」があります。大解放の年です。売られていた土地や家が元の持ち主に返されます。奴隷に売られていた人が自由を回復し家族の元に帰ります。神の救いが、このような大解放というかたちで来た、というのが「福音」なのです。

私たちに注がれる油

 「油注がれる」というのは、神様の特別な選びによって召されることを言います。イスラエルの社会では「王」「祭司」「預言者」は、特別に調合された油を注がれることが、神様から選ばれたしるしでした。イエス様の場合は、神が人となられた方でありますから、神から「遣わされた」方、神の御子であられる方、神ご自身である方、という意味で「油注がれた」方なのです。ちなみに「キリスト」「油注がれた」という意味です。
 私たちイエス・キリストを信じる者は、この「福音」、「大解放の良き知らせ」によって、油が注がれるという恵みを受けます。「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。(第一ヨハネ 2:20)」
 イエス・キリストを信じる者は、誰でも御霊(聖霊)を受けますが、「注ぎの油」とは、そのことを指します。油注がれるはずのない者が、「福音」の恵みによって、神様に属する者となり、「王」「祭司」「預言者」として「遣わされ」るのです。

私の上に

 私たちは常に神様のご支配の下に置かれています。いつも神様と一緒です。よって、私たちは「私の上に主の御霊がおられる」と言うことができるのです。「主を恐れる」とは、このことを忘れないことです。いつも主を意識し、主の視線を感じながら生きることが「主を恐れる」ことなのです。
 私たちが神様を見上げているとき、私たちが思わずしてしまうことは、神様を賛美することです。まことの神様を見上げるとき、神様をほめたたえる感情以外の何物も湧き上がってきません。実際に、神様を恐れる者からは、人や状況を恐れる感情は消え去ります。
 常に主を恐れ、主を見上げ、主の視線を感じる者は、いつでもどこでも「私の上に主の御霊がおられる」と言えるのです。自分が一人でいる時も、人と話している時も、仕事中でも、授業中でも、歩いていても、車を運転していても、「私の上に主の御霊がおられる」とわかっているのです。
 特に問題のさ中にある時、心配恐れがよぎる時、病の時、そのさ中で「私の上に主の御霊がおられる」と意識できるのです。その時、問題も患いも、人も状況もみな、主のご支配の下にひれ伏していることがわかります。病であっても、イエス・キリストの御名の下にひざをかがめるのです。私たちのすることは、その中で主のなさることを見、主をほめたたえることだけです。
 「私の上に主の御霊がおられる」がゆえの、勝利の人生を味わってまいりましょう。

17.11.26 どこに生きているのだろうか

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「詩篇 56:3-4 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」

何も恐れません

 詩篇の作者(ダビデ)は、「肉(人)である者が自分に何ができよう」と告白しています。一日中、敵が自分を痛めつけ、戦いを挑んでくる状況の中で、彼はただただ「神様に信頼します」と宣言しています。
 「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」というダビデの宣言です。恐れのある時には、その恐れの中で震えおののくことではなく、悶えることでもなく、一心にその恐れがなくなることを願うことでもないのだ、ということです。
 恐れを感じることがあるなら、それが神様に目を向けるきっかけになるに過ぎない、ということです。自分のすることは、今まで以上に主に信頼することだと、思いを新たにますます主に信頼することに専念する、という決意です。
 恐れないというのは、恐れと戦って打ち勝つことではなく、主に信頼することなのです。

想像力の産物

 恐れとは、心の中の感情です。そして、それは、ことばで構成されています。感情は映像、いわゆるイメージで捉えられていますが、私たちが問題にしなければならない恐れとは、心の中に連続して存在する恐れ、すなわち「不安」です。この「恐れ」は、ことばによって支えられて、イメージが作り出されているというものです。想像力によって生まれた恐れなのです。いわば想像力の産物です。
 私たちが想像するとき、心(あるいは頭)の中で、ことばを使って想像します。もし、ことばがなければ、具体的に色々な場面を想定して、そこに起きる事柄などを想像することは、困難です。いや、できません。今、一旦ことばを使って考えることをやめてみてください。具体的な恐れは想像できないことがわかるでしょう。
 もちろん、ことばによって構成されない恐れも存在します。視覚や触覚、味覚、嗅覚、聴覚によっても、恐れは引き起こされます。例えば何か物が飛んで来る時、熱い物に触ってしまった時、何か味の異常な物を口にした時、突然強烈な匂いを嗅いだ時、突然大きな音が聞こえた時、人は恐れを感じて、自分の体を守ろうとします。この時はイメージだけで、ことばは介在しません。
 また、人間以外の動物は、ことばを持ちませんから、想像による恐れは当然感じません。敵が視界に入っていても、直接襲われる危険がないときには、平然として餌などを探しています。もちろん悩み続けるということはありません。明日のこと、未来のことを怖がっていることもないのです。
 想像はことばによることなのです。そして、そのことばを使っているのは、人間である自分なのです。

追う者もいないのに逃げる

 聖書は「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言 28:1)」と言います。悪者とは神様に信頼しない人、正しい人とは神様に信頼する人のことです。
 私たちの恐れは、大半が妄想によって生じた恐れです。恐れなくて良いことを恐れていることです。ことばによって、想像力を用いて、作り出しているのです。「追う者もないのに逃げ」回っています。どこまでも、いつまでも、です。このような恐れは、自分発であって、決して必要な恐れではないこと、をまず知らなければなりません。
 しかし、問題は、そうは言っても、その恐れが消えないので、逃げないわけにはいかない、ということなのではないでしょうか。
 この恐れにどうやって打ち勝つことができるのでしょう。「正しい人は若獅子のように頼もしい」となるには、どうしたら良いのでしょうか。

どこに生きているのだろうか

 ダビデは「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます」と告白しています。神様を信じること、信頼することとは、神様のみことばを信頼することに他なりません。彼はそれゆえに「みことば」をほめたたえているのです。何よりも、どんな思いよりも、またどんな情報、知らせよりも、みことばが慕わしいのです。みことばの語っていることが、真実であることを本当に嬉しく思っています。
 人は、神様の下に生きるか、自分の下に生きるか、そのどちらかです。両方に生きることはできません。
 人は生まれながらに、自己中心であって、自分の考えや思い、感情の下に生きています。ですから、自分がどう思えるか、感じられるか、が真実となります。自分が怖くないと感じない限り、恐れは消えることはありません。相変わらず、そこに恐れは存在しています。
 一方、神様の支配の下に生きることは、神中心の生き方です。ダビデは「神にあって」と言っています。神様のご支配の下に生き、神中心に生きています。その下では、自分の考えや感じることが真実ではないのです。ダビデはそのことを知っています。
 神中心にある真実は、みことばです。誰がなんと言おうと、自分が何と感じていようと、構わないのです。みことばの告げるところが真実なのを知っています。そして、その真実は、裏切りません。ダビデの人生においても、みことば通りに生きたら、恐れに打ち負かされたなどということは、起こったことがありませんでした。
 みことばは真実です。私たちは立ち止まって考えなければなりません。「自分はどこに生きているのだろう」と。もう自分の思いや、感じを相手にするのはやめましょう。みことばの下に生きます。

17.11.19 逃げない人生

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「創世記 1:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

恥という概念

 アダムとエバは、罪を犯したのち、裸であることを恥じるようになりました。そして、神様から逃げ回るようになったのです。罪を犯す前も裸でした。しかし、一向にそんなことを気にしたことはありませんでした。動物がそうであるように、彼らも全く恥ずかしいとは思わないで、裸のまま生活をし、そこには神様との正しい交わりがありました。決して神様から逃げて隠れるというようなことはありませんでした。
 アダムとエバの罪によって、人類に罪が浸入し、人は生まれながらにして罪人として生きるようになりました。全ての人は罪を犯したので、自分のことを恥じるようになったのです。ですから、全ての人は、いかに自分自身を隠すか、いかに自分の本当の姿から逃げるか、に汲々としているのです。
 自分を守るためには、隠すことや逃げることしかないのです。動物には罪がありませんから、自分自身を隠したり逃げたりしている動物は存在しません。人だけがありのままでは生きられなくなっています。

恥の人生からの解放

 人が罪を犯し、その結果として、神様の御支配であるエデンの園にいられなくなりました。人の恥の問題が解決されるためには、神様の御支配に生きる必要があります。神様から離れたのだから、神様に立ち返ることが必要だ、ということです。
 この問題を解決するために、主イエスは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で罰を受けてくださいました。私たちが、このことを信じて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるなら、私たちは罪の赦しをいただけるのです。つまり、罪が赦されて、神様の御支配に生きられるようになるということです。
 神様の御支配、エデンの園には罪がありません。恥もありません。私たちは、自分のありのままを恥じることなく生きられます。「これが自分であって、これが自分の人生である」とわかるのです。そして、人の思いでもなく、自分の感じでもなく、神様のみことばが真実だとわかるのが神様の御支配です。私たちはそこに生きられるのです。
 あなたは、自分のことにコンプレックスを感じているかもしれません。人もあなたのことを評価しないかもしれません。しかし、神様は「あなたは高価で尊い(イザヤ 43:4)」と言われます。罪赦されて、神様の御支配に生きる者は、何よりも神様のみことばが真実であることがわかるようになります。人でもなければ、自分でもない、神様の言われることが正しいのだとわかります。この価値観が私たちを支えます。私たちは自分を恥じることから、解放されて行くのです。

神様に自分を差し出す

 私たちが神様の御支配に生きて、するべきことは、自分勝手に生きることではなく、神様のみ前に自分を献げて生きることです。人に自分を差し出すことには抵抗があります。自分に自分自身をあからさまに明らかにするには、深い心の傷が苦しみが私たちを襲います。居ても立っても居られないでしょう。できる限り、恥を隠して生きてきたことですから。
 神様を信じて、神様に自分自身を明け渡した者は、神様のみ前に、いくらでも自分自身を明らかにして、差し出すことができるようになります。神様を信頼する心が生まれます。
 しかし、そのためには、自分自身という現実から、逃げない覚悟が必要です。自分に面と向かうということです。聖書は「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ 4:7)」と命令しています。
 あなたを自由に操りたい悪魔は、あなたが自分自身に面と向かうことを嫌がります。神様を信じる者が、面と向かうと、悪魔は逃げ出さなければなりません。あなたの内に住むイエス・キリストを見るからです。ですから、絶対に面と向かわせないように、あなたを脅します。私たちはそのような脅しに屈しないで、自分自身を、そしてその背後に影響を与えている悪魔に対して、面と向かうことです。

心を開いてくださる主

 私たちが面と向かうなら、あとは神様が全てをなさってくださいます。主は私たちの心を開いて、みことばが真実であることをわからせてくださいます。おそらく、あなたは、みことばが真実であることを知ってはいたでしょう。しかし、感情の領域までそれが染み渡っていることではありませんでした。頭ではわかっているけれど、本気で生きられない、ということです。
 主が心を開かれるようになると、みことばがそのまま真実であることがわかります。「あなたは高価で尊い」。「これは人の目にでもなく、自分の目にでもない、真実な変わることのない神様のことばだ」とわかるあなたは、自分の尊さに目覚めるのです。神様のみ前にあって、恥はありません。「高価で尊い」のですから。これが私たちの、誰も侵すことのできない、セルフイメージです。

17.11.12 さあ向こう岸へ渡ろう

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「ルカの福音書 8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。」

自分丸という船

 イエス・キリストを信じる者は、新しく生まれた者です。また、信仰によって「新しく生まれる」とは、私たちが自分の内に主を招き入れて、新しく出発することです。
 そういう意味で、私たち自身は、一そうの舟です。今までは、自分しか乗っていませんでした(自分以外のやかましい声の存在があったという人もいるでしょうが)。そこへ、イエス様が乗ってくださったのです。主が乗れる舟となったことを感謝します。
 主が十字架に身代わりとして死んでくださり、私たちが信じて、聖い者とみなされました。聖ければ、主がお住まいになることができます。信じた私たちは、神である主が、舟に乗っていただくことができる者、とされたのです。

み声によって始まった

 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたみ声を聞いて舟を出した弟子たちのように、私たちもまた、「わたしを信じて、ついてくるか」という主のみ声を聞いて、自分丸を出帆させたのです。
 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」という主のみ声は、主が主導権を取り、主の先導によって、舟を進めていくことを意味しています。決して、私たちの先導によってではなく、私たちの行きたいところへ主を連れまわすのではなく、主を主の言われるところへお連れするのが、私たちの役目です。主は「向こう岸」と言われています。「向こう岸」を目指さなければなりません。
 私たちの役割は、主をお乗せして、主の望まれるところへ、お運びすることなのです。主がエルサレムに入城されたときに、主をお乗せした子ロバのように、喜びあふれて、主をお乗せしてお運びしなければなりません。

向こう岸とは

 主が言われた「向こう岸」とは、私たちの人生においては、どこを目指すことなのかを考えてみましょう。「向こう岸」とは、こちらから反対側の岸のことです。私たちの人生の現状における反対側です。今とはまったく正反対のこと、とはどんなことでしょうか。
 もしあなたが今患っているなら、その反対側はいやされている状態のことです。自分の病気や体調不良が完全にいやされていることを想像してください。今と全く正反対の健やかさがあなたの生活をおおっているのです。
 もし、あなたが経済的に苦しんでいるなら、その反対側は満たされ豊かにされている状態のことです。経済が正常にコントロールされ、健全な経済があなたの生活基盤となっています。あなたは経済活動において、誠実な歩みをしているでしょう。
 もしあなたが家庭家族に悩んでいるなら、その反対側は家庭の平安と充実です。あなたの家庭は平安です。夫婦の関係、親子の関係がいやされています。あなたは家庭において、自分の立場としての役割を十分に果たしているはずです。
 人間関係に悩んでいても、人生に悩んでいても、その反対側は全てがいやされ、解決されている、という状態のことです。あなたの心は人々への愛で満ちあふれています。人生のやりがいと平安を感じて生活しているはずです。

もとより望むところ

 このように「向こう岸」を考えてみますと、それはイエス様が行きたいと言われたところではありますが、私たちがもとより行きたいと望んだところではないでしょうか。人生の中で、一度は反対側のようなところに行きたい、あるいはなりたい、と考えたことがあるでしょう。
 ところが、望んでも得られない現実の前に、いつからかあきらめる気持ちが支配してしまいました。たまには、思い直して「向こう岸」を目指すのですが、その努力の辛さに、引き合わないと考え、また元の岸に戻って波打ち際で遊んでいることです。
 私たちの役目は、主をお連れすることです。そして、主が行きたいと言われているところは、私たちも行きたいところです。「向こう岸」を目指すのになんの反対もありません。今までは、自分一人の航海で、舟を操りあぐねてきたことでした。しかし、今は神である主を、主の行きたいと言われる「向こう岸」へお連れすることが自分の役目です。
 この航海自体が楽しく嬉しいことです。嵐を沈められる主が乗っておられることです。この船は決して沈むことがありません「向こう岸」を目指して進んでいる今日が楽しいのです。
 主をお乗せして、主の先導で「向こう岸」を目指して、ただ主をお運びすることに徹していれば、人生に間違いはないのです。必ず「向こう岸」に着きます。「向こう岸」もその途上も、この上なく嬉しいところなのです。

17.11.05 お助けください

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「詩篇 44:26 立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。」

お助けください

 詩篇の作者は、弱り果てた状況の中で、神様に向かって「お助けください」と懇願しています。考えてみますと、この「お助けください」ということばは、簡単には、神様相手に真剣に言えることばではありません。というのは、まず、神様が自分の窮地を助けることができる方、であると信じる信仰がなければならないからです。奇跡をもって不可能を可能にしてくださるとの信仰が必要です。
 ある外国人の女性がイエス様に、自分の娘から悪霊を追い出してくださいと懇願する話が聖書に出てきます。その時、この女性は「イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』(マタイ 15:25)」と言いました。このことばには、女性の信仰がこもっていました。そのときイエス様は、イスラエルの人たちを優先しなければならないことを理由に断りました。しかし彼女は、イスラエルの人たちのおこぼれで娘は癒されるから、と訴えました。イエス様は言われました。「『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、「娘はその時から直った(同28)」」のでした。

不信仰な「お助けください」

 「お助けください」とただ言うくらいは誰にでもできるでしょう。しかし、真剣に神様に訴えるということになると、信仰がなければ、その訴える熱意も尻すぼみになってしまうことです。
 てんかんの病を持つ息子の父親が、イエス様に願い出たときにも「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ 9:22)」と言っています。この父親には、イエス様が必ず癒してくださる、という信仰がありませんでした。ですから、言い方が少しトーンダウンした感じになりました。「ただ、もし、おできになるものなら」という言い方です。幸いこのときには。主はこれを戒められました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです(同23)」。これを聞いて、父親は、悔い改めて、再度言い直しました。「信じます。不信仰な私をお助けください(同24)」。不信仰な「お助けください」を主は受け取られないということです。

後ろめたければ

 主に対する確信がなければ、真剣には言えないことだけでなく、自分に後ろめたい気持ちがあれば、「お助けください」はさらに言えないことばとなります。自分が「その恵みにあずかる資格があるのか」という思いのことです。
 「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記 19:2)」とあるように、神様のみこころは、私たちが聖いことです。もちろん私たちは聖くないでしょう。そのような私たちの身代わりのために、主は十字架にかかられました。私たちは聖くなることができなくても、聖くありたいと願わなければなりません。その願いが、主イエス・キリストの十字架の贖いを通して、受け入れられるのです。できないことは赦されるでしょう。しかし、しようとしないことは赦されないのです。
 救われたいと思う人は、信じようとします。だから救われます。救われたくない人は、信じようとはしません。望まない人は、救われることはありません。私たちはできない者です。しかし、できるようになりたいと、願わなければなりません。
 「願わない」という主を侮る思いが、心のどこかに潜んでいるなら、つまり、私たちの心に主のみこころに沿いたいという思いがなければ、私たちは後ろめたくなります。
 みこころを願っている者は大胆に願い出、願っていない者すなわち侮っている者は、後ろめたくなることです。後ろめたければ、真剣には神様に「お助けください」とは言えなくなります。

生まれる真実味

 神様は真実な方です。「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記 32:4)」私たちも真実でなければなりません。言うこと行うことに、心が伴っているということです。
 詩篇の作者は、打ちひしがれそうな状況の中で、必死になって主に訴えました。自分の訴えが真実であると。
 詩篇44を初めから読みますと、作者の訴えの根拠が説明されているのがわかります。
 1 主は先祖たちに奇跡をもって答えてくださった。2 私にも同じように以前には答えてくださった。なのに今は答えてくださらない。3 私は何も悪い心を持っていません。神様にはわかるはずです。
 という内容です。もちろん神様には私たちの知り得ない理由がありますから、私たちはへりくだらなければなりません。その上で、後ろめたいところがなければ、大胆に「お助けください」とお願いすることができます。
 神様は真実ですから、私たちの真実な訴えに、必ず答えてくださいます。

17.10.29 治めるべきである

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「創世記 4:3-8 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」

憤ったカイン

 弟アベルと兄カイン、二人は神様へささげ物をしました。兄カインは地を耕す者でしたから、地の作物を、弟アベルは羊を飼う者でしたから、子羊を、それぞれ神様へささげたのです。
 ところが、神様は、弟アベルのささげ物は受け取りましたが、兄カインのささげ物は受け取られませんでした。理由ははっきりとは書かれていません。が、カインの場合は「地の作物から主へのささげ物を持って来た」とだけ記されている一方、アベルの場合には「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」と記されています。
 カインの場合は、神様に対する恐れの思いが希薄だったのだと思われます。つまり、ささげ物に心が伴っていなかったということです。それで、神様は「正しく行なったのであれば、受け入れられる」と言われたのです。

治めるべきである

 憤ったカインは、怒りを鎮めることができません。おそらく、この苦々しい思いは、カインにとっても好ましいことではありませんでした。できれば、このような怒りは捨てたかったことでしょう。しかし、慰めてくれなければ、あるいは神様が思い直してくれなければ、鎮まることはありませんでした。
 私たちも、同じような憤りにさいなまれる時、この荒れた心が嫌で「鎮めてください。平安をください」と祈るのではないでしょうか。しかし、主は、このような憤る人に対して「自分で、治めるべきである」と言われるのです。
 その理由は、原因が、人の「正しくない行い」によって起ったことだからです。カインの場合、彼の「正しくない行い」が起こした結果であるとの、主からの教えがありました。ですから「治め」るとは、彼が「自分のしたことは正しくないことだから、当然だ」と受け入れることです。さらには、その結果を変えようとするなら、アベルのように正しくささげようと、やり直しをすればよかったことです。
 いずれの選択であっても、つまり結果に甘んじるか、それともやり直して結果を変えるか、すべて自分でできることだったのです。それが、自分の憤りを「治め」ることでした。私たちもまた、自分で「治め」なければなりません。納得して甘んじるか、あるいは、やり直して受け入れてもらうか、ということです。

主に向かって激しく怒る

 聖書は「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(箴言 19:3)」と教えています。私たちが生活に滅びを招くのは、私たちの愚かさが原因であるのです。しかも、そうでありながら、神様に向かって激しく怒っていることです。自分の不遇を嘆いたり、やけを起こして、やる気を失い、放り投げたりしていることがよく見られる光景です。
 カインの場合も、自分の愚かな行為が招いたことでした。そして、その怒りを神様に向けたことです。彼は、自分の心の正しくないことを感じておりました。ですから、面と向かって「私は正しく行ったではないですか」とは主張できません。しかし、苦々しい思いは、如何ともしようがありません。そこで「顔を伏せて」目も合わせず憤っていたことです。
 おそらく、心の中には「受け入れてくれてもいいじゃないか。これくらいなぜダメなんだ。なぜアベルのは受け入れるのに、私のは受け入れてくれないのだ」という思いがあったことでしょう。それでも、薄々自分の言っていることは正しくない、と感じていますから、顔を上げることができないで、憤り続けているのです。

心が伴わないなら

 もし、私たちが主の命令に対して、ただ行為をするだけで、そこに心がともなっていなかったら、どういうことになるでしょうか。ささげ物にしても、ただ言われるからささげているだけ、となっているなら、どうでしょう。ささげないということの後ろめたさからは逃れることができるでしょうが、ささげることの最低限しか果たしていないことです。
 主のみこころは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。(ローマ 12:1)」です。聖いからだとは、当然、聖い心が伴うことです。また「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ 5:24)」とも言われていることです。このことは、ささげる人の心に罪の思いが潜んでいてはいけない、ということです。正しく行いたいことです。たとえ心を正しくすることが困難であっても、少なくとも、正しい心を目指す思いがなければなりません。神様はどれだけ時間がかかっても、私たちをその方向に導かれます。
 せっかくささげても、神様に受け取られていないなら、惨めなことです。ささげても受け入れてもらえない、奉仕をしても受け入れてもらえない、祈っても受け入れてもらえない、のは惨めなことです。祈っても、その祈りに手応えがない、という経験はありませんか。
 私たちは、自分で「治め」なければなりません。

17.10.22 最後の手段というのか

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「マルコの福音書 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 :26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 :27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 :28 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである。 :29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 :30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、『だれがわたしの着物にさわったのですか。』と言われた。 :31 そこで弟子たちはイエスに言った。『群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも「だれがわたしにさわったのか。」とおっしゃるのですか。』 :32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 :33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 :34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』」

長年の苦しみ

 ここに出てくる女性は、12年という長い間、出血の病で苦しんできました。おそらく婦人科の病であると思われますが、激しい痛みがあったようです。当然、貧血気味であったろうし、その症状は、不安で、不快で、苦しいものでしたでしょう。普段は、家で床に伏していなければならず、働くことはもちろん、日常生活もままならない状況であったに違いありません。
 とにかく癒されることを求めてきました。持っていた財産というものは全て、医者代や薬代に費やしてきました。しかし、一向に良くならなかったのです。長年にわたり医者から治療代、薬代などを請求され、とにかく一向に良くならないのに、お金だけ取られるというような状況が続きました。その挙句、お金を使い果たしてしまいましたから、もう誰も助けてくれないという有様でした。さらに、悪いことに、どんな治療をしても却って悪くなって行ったのでした。

イエス様との出会い

 このような状況の中で、イエス様の噂を聞きました。彼女の心には、このお方の「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」という信仰がわきあがってきたのです。イエス様が通られるという情報を聞くと、苦しい体を起こして、通りに出て行きました。進んで御前に出る勇気はありません。群衆に紛れて機会を伺いました。混み合う人々の隙間から、そっと手を伸ばして、イエス様の衣の裾を触ったのでした。なんと、その瞬間彼女の体に力が伝わって来て、彼女の病巣に変化が起きました。瞬時にでした。激しい痛みが止まったのです。同時に出血が止まりました。はっきりと癒されたことがわかりました。そればかりでなく、力が流れ出て彼女に伝わったことが、イエス様自身に強く感じられたのです。当然、群集がひしめき合っているのですから、イエス様の着物に触れている人はいくらでもいます。しかし、力が流れて伝わったのは、この女性にだけだったのです。イエス様は、このことを「あなたの信仰があなたを直したのです」と説明しています。

全てを剥ぎ取られて

 思えば、イエス様との出会いは、彼女にとっては、全てを剥ぎ取られた末の出来事でした。財産のあるうちは、人も親切に助けてくれました。医者も希望を持たせる良いことを言ってくれました。進んで、薬や治療方法を紹介してくれる人もたくさんいたでしょう。彼女は、そういった人や話に、全面的に頼って来ました。医者の指導に従いつつ、健康になるための食事や体に良いことをして来たことです。治るために一生懸命だったに違いありません。そして、そこに希望を持って来たのです。
 しかし、全てが剥ぎ取られました。もはや頼るものは何もありません。頼るものがあるうちに、イエス様のことを聞いていたら、彼女は、どうしたかと思うのです。「お着物にさわることでもできれば」という思いは、彼女のやっとの思いを表しています。最大の勇気を奮って起こした行動です。おそらく、まだ余裕のあるうちには、起こすことができなかった行動かと思うのです。他の人と同じように、イエス様を見物するようなことはあったでしょうが、このお方に賭けよう、などとまでは思わなかったと思います。それが、全てが剥ぎ取られた末、できたことでした。

最初からの手段

 もとより、イエス様に頼るというのは、最後の手段ではありません。信じる者には、最初からイエス様に頼るという手段しかありません。この女性にとっても、病の最初から、イエス様に頼れば、癒されたことです。長い苦しみは必要ありませんでした。ただイエス様が女性の前に現れてくださったのは、この時が最初でした。この最初の出会いに、すでに全てが剥ぎ取られていた彼女に、信仰がわきあがったことでした。
 よく「祈るしかない」とか「後は祈るだけです」とかのことばを聞くことがあります。手を尽くして、その最後に残された手段が、祈ることということのようです。祈りは最後の手段ではなく、最初からの手段です。もっと言えば、初めから終わりまで、この手段しかないのです。
 このことに気づくために、私たちは全てを剥ぎ取られる必要があるのでしょうか。そうではないでしょうが、全てを剥ぎ取られることは、主からの恵みです。そうしてやっと、最初からの手段に気がつくのですから。
 私たちは初めから、祈ること、という特権を持っていることを知りましょう。全てを剥ぎ取られていなくても、全てを剥ぎ取られたのと同じ信仰を持って生きて参りましょう。この女性のようにすがれるのです。

17.10.15 強くしてくださる方によって

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「ピリピ人への手紙 4:11-13 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

強くしてくださる方によって

私たちは通常、自分が、将来あるいは今、強くなって、何かを成し遂げたいと考えます。それは言い換えれば、「強くなった自分によって」ということです。ですから、私たちの祈り、願いは、「どうかそのためには、私を強くしてください」ということになります。「そうすれば、私はどんなことでもできます」ということです。このときの主導権は、私たちにあります。神様が私たちの召使いのようになっていることです。アラジンの魔法のランプを思い出してください。ランプをこすると、巨大な召使いが現れ、願いを叶えてくれるという物語です。このときの主導権は、ランプを持っている人にあります。もし、私たちが主導権を自分に持って、神様に祈るなら、このアラジンのランプと同じようなことになっているのではないでしょうか。ここには自己中心の問題が潜んでいます。神様は私たちを強くすることのできる方です。しかし、みことばが教えていることは、私たちを「強くすることができる方によって」ということです。「強くなった私たちによって」ではないでしょう。あくまでも主導権は、不可能のない神様にあります。私たちを「強くしてくださる方によって」どんなことでもできるのです。

どんな境遇にあっても満ち足りる

さて、私たちが強くされるとは、どんなことを言うのでしょうか。掲題のみことばによりますと、パウロは「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と伝えています。彼は「どんな境遇にあっても満ち足りることを学び」、どんな状況であっても、勝利したということです。このことから教えられることは、強さとは「満ち足りること」であるということです。ピリピの人たちに、パウロの働きを助ける心が、再びよみがえってきたことをパウロは喜んでいますが、「乏しいからこう言うのではありません」と述べています。そしてさらに「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。(同4:17)」と説明しています。ピリピの人たちが助ける信仰を持つようになって、霊的に祝福されるから、喜んでいるということなのです。むしろ、彼からすれば「貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」ということなのであって、いつも満ち足りているから、不自由はない、ということなのです。強さとは「どんな境遇にあっても満ち足りること」です。

富む中で満ち足りる

富む中で満ち足りることは、私たちに容易に理解できそうです。しかしながら、いかに富んでいたとしても、満たされない心が存在する場合があるのではないでしょうか。経済に満たされているのに孤独な人がいます。家族関係、人間関係において、満たされていない人もいます。将来に怯え、平安がない人もいます。富む中で満ち足りることは、考えてみれば、容易ではありません。主は、私たちを「強くしてくださる方」です。「満ち足りる」とは、心に平安があり、希望と喜びがあることです。私たちを「強くしてくださる方」だけが、私たちを満ち足らせるお方です。

乏しい中で

さらに強いとは、乏しい中で、満ち足りることです。聖書は「自分の給料で満足しなさい(ルカ 3:14)」と教えています。さらに「衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ 6:8)」「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい(ヘブル 13:5)」と教えています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だから(Ⅰテモテ 6:10)」満ち足りることができないでいることです。もし私たちが乏しさの中で「満ち足りる」「秘訣」を学んだなら、私たちは強いのです。そうであれば、私たちは「どんなことでもできるのです」。満ち足りているから、自由です。平安と希望と喜びが、私たちの主に信頼する信仰を強固に支えます。今「満ち足りる」ことが、強さの「秘訣」なのです。

17.10.08 祈り続ける

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「ルカの福音書 11: 8-10 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

真夜中のたのみ

 イエス様が、祈ることを教えるために、お話しされたたとえ話です。あなたのところに、友達が訪ねてきました。遠いところから、やっとの思いで訪ねてくれました。お腹も空いていることだろうから、おもてなしをしたいところです。ところがあいにく、パンを切らしていて、友達に食事を出してやることができません。そこで、近所の知り合いである別の友達の家へ行き、「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。」と頼んでみました。案の定、知り合いは、戸を開けもせず家の中から、「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」と断ってきました。当然のことです。迷惑をかけているのは、重々承知です。しかしながら、遠くから訪ねてくれた友達を放って置くわけには行きません。
 イエス様は、話を続けます。近所の友達は、友達だからと言う理由では、願いを聞いてくれないかもしれないでしょう。しかし、しつこく、聞いてくれるまで「『頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与える』のではないでしょうか」と、言われたのです。このことは、求め続けることの必要性を教えるために話されたことです。

求め続けなさい

 イエス様は「頼み続けるなら」の話に続いて「求めなさい」「捜しなさい」「叩きなさい」と言われました。これらの命令は「続けなさい」ということです。マタイの福音書7章7節にも同じみことばがありますが、そこには「続けなさい」と書かれています。主のみこころは、私たちが一回きり祈ることではなく、祈り続けることです。
 また、主は「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」不正な裁判官のたとえ(ルカ18:1-8)をも話されました。やもめの訴えに対し、最初は取り合わなかった不正な裁判官も、うるさくてしかたがないから、とこの女のために裁判をしてくれる、という話です。失望しないでいつでも祈り続けることが、必要です。

祈り続けなさい

 いかがでしょうか。あなたは、かなえられるまで、祈り続けることをしているでしょうか。一つのことを祈り出して、それが叶えられるまで、祈りたいものです。
 長年祈っているという人もいるでしょう。しかし、ここでの祈り続けるとは、あるいは求め続けるとは、時々の祈りの繰り返しのことを言うのではありません。少し祈り続けて、進展がなく、しばらく忘れていて、また祈る気になって祈る、そんなことを続けていませんでしょうか。
 祈りは聞かれます。一旦祈り出したなら、それが何日かかろうとも、何ヶ月でも、何年でも、聞かれるまで祈り続ける決意を持って取りかかることです。それが、主のみこころです。
 たとえ、間を置いて祈るにしても、祈りは絶え間なく進展していく勝利の過程です。主はその祈りの中で、私たちに必要なことを答えてくださること、たとえば私たち自身が変えられていくこと、あるいは少しづついやされていくことなどが起きるのです。

主の約束は真実

 瞬時に聞かれ、瞬時に癒されることは、大変嬉しいことです。しかし、主が、続けなさい、失望せずにいなさい、と命じているのは、それが私たちに必要だからです。失望せずに祈り続けましょう。
 聖書に書かれていることは真実です。私たちはそれを信じ抜かなければなりません。劇的な癒しがあります。そして、緩やかな変化が完全になるまで続くいやしがあります。いずれも主のなさってくださることです。私たちのすることは、ただ主に信頼し続けることです。

17.10.01 主よ 今助けてください

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「詩篇 22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。」

将来、自分が成長すれば、できる?

 私たちは、今の自分が成長して変われば、何かができるようになると考えます。今、自分にはこのことをする勇気がないけれど、将来勇気が持てる自分になれば、一歩踏み出せる、と考えたりすることです。このようなことはたくさんあるでしょう。今の自分は、とても人に意見する立場にないが、将来自分が変わって人も認めてくれるような立派な自分になれば、十分に人に意見をすることができ、人も聞いてくれるようになる、というようなことです。
 そして、神様はきっと、私を成長させてくださる、私を変えてくださる、と考えるのです。だからそのように祈るわけです。このようなことは、一見良いことのように思います。しかし、このことは、とても危険なことであると、お話ししたいのです。
 将来、自分が成功すれば、それが主の栄光となる、そうすれば、私は主をあかしすることができる、と考えたことはありませんか。将来、人が一目置くような、大きな成果を果たし、誰もが自分を違った目で見るようになり、自分の言うことに耳を傾けてくれる、そのようになったときに、私は堂々と神様を語るのだ、と思っている人は多いと思います。これのどこがいけないのでしょうか。

いったい誰に信頼しているのか?

 このような考え方をよく吟味してみますと、私たちが、将来の良くなった自分なら何かができると考えていることは、私たち自身が、将来の理想の自分(やがてはそうなれるだろうという自分)に信頼していることだ、ということがわかってきます。将来の成長した自分が道を切り拓いて行く、と考えているわけです。私たちが信頼すべき私たちの主イエス・キリストはどこに行ったのでしょうか。
 もちろんそこには反論が予想されます。私は、私を変えてくださる主に信頼しています。私の主はここにおられます、と言われるでしょう。しかし、主に信頼するとはそういうことでしょうか。聖書のどこにも、神様が人を成長させて、それから、その人の成長を通して、何かをなされたなどという記述は出てきません。
 人を成長させて、ある働きをさせたということはあります。ヨセフは、苦難の人生を歩ませられて、結果、エジプトの王に次ぐ地位に就き、神様はその成功したヨセフを用いて、ヤコブ一家を救われました。しかし、ヨセフは日々主に信頼したのであって、自分の将来に期待したわけではありませんでした。
 ダビデは、主によって王に相応しい器として訓練され、やがては全イスラエルの王となりました。彼も同じように、毎日主に信頼して生き、その結果王となったわけで、決して、自分が王になったら主の働きがもっとできるなどと考えたわけではありませんでした。
 私たちは、自分ではなく、主に信頼しなければなりません。将来の成長し、成功した自分なら何かができる、と考えるのは全く主に信頼していない姿勢だと知りましょう。
 今より成長し立派になった自分だとしても、それは神様以外の者ですから、偶像への信頼であることを知りましょう。そこには自己中心が依然として存在し、悪魔が喜ぶ状態であるのです。
 私たちがわかることは、このような考え方をしている自分は、今までを振り返って、一向に実を結んでいない、ということではないでしょうか。神様は偶像を信頼する考え方を祝福されることはありません。

今、主に信頼せよ

 私たちに主の助けが必要なのは、今、ではないでしょうか。イエス様のみ前に進み出た人はみな、今直ちに助けてほしい、と願い出たことです。今、あわれんでください。今、いやしてください。そのような願いだったのです。
 あなたに主の助けが必要なのは、まさに今、ではないでしょうか。今、平安が必要です。今、希望が必要です。今、自由が必要です。今、安きが必要です。今、主の助けを求めて、主が答えてくださることを求めて祈ることです。今、喜びに満ち溢れているでしょうか。今、平安でしょうか。今、健やかでしょうか。今、満たされているでしょうか。今、希望に燃えているでしょうか。もし、これらのことが、満たされていないなら、あなたが自分では、これらのことを満たすことはできないでしょう。であれば、今、主の助けが必要なのです。
 主に信頼することは、今の自分のままで、今できることです。そして、今、しなければなりません。私たちは、一生の間、常に、今、主に信頼し続けて生きるのです。それは、いにしえの信仰の有志たちが、常にしていた生き方です。その積み重ねで、将来にも当然実を結ぶことになるでしょう。しかし、その実は、私たちに与えられる祝福であって、その実によって何かを成し遂げるのではありません。その時点でも、主の助けによって、何かを成し遂げることになるのです。
 将来においても、今、主よ助けてください、と私たちは言うのです。一生、主に信頼し続けられることが、喜びではありませんか。

17.09.24 神の国の到来

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[ルカの福音書 17:20-21 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」]

神の国の到来

 神の国とは、神様の支配のことです。イエス・キリストを信じる者には、神様がやって来てくださり、神様の支配下に置いていただくことになります。私たち信じる者の人生は、今までの暗闇の支配、悪魔の支配から解放されて、光である神の支配に置かれました。
 イエス様がここで言われたことは、神の国が見えるかたちでやって来るのではなく、見えないかたちでやって来るということです。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とは、イエス・キリストを信じるなら、その人の心のうちにイエス・キリストの御霊が住まわれて、御支配を始められるということです。「神の国」とは神様が王である国のことです。神様が支配されるところは、神の国です。私たち信じる者の心の内側は、神様が支配されていて、そこは、信じない人とも違うし、この世とも違うのです。神様がおられ、働かれているのです。つまり、天国です。
 しかし、私たちの信仰を通して神様は働かれますから、神様の御支配を認め、神様に支配されることを歓迎しなければなりません。復活されたイエス・キリストが私たちのうちにおられるのです。

私たちにわかること

 目で確かめることのできない神の国の到来ですが、この神の国についてわかることを確認してみましょう。
 まず、1 神様の御支配が私たちのうちにある、ということがわかります。私たちがイエス・キリストを信じ「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」というみことばを信じるなら、自分のうちには神様の御支配が始まっている、ということが信仰によってわかります。
 私たちが、イエス・キリストを信じてから、私たちの心は神様の御支配の影響を受けています。「こんなことをしていてはいけない」「こうするべきだ」など、信じる前にはなかった影響を受けているのです。私たちがそれを無視すれば、その影響は薄くなります。私たちが歓迎すれば、その影響は濃くなり、私たちは神様の働きに感謝するようになります。
 そして、次に私たちにわかることは、2 神様の御支配は、私たちの周りの現実の出来事が含まれた支配であることがわかります。私たちは、この世と離れて生きているわけではありません。神様は、私たちの観念の産物ではなく、実在される復活の主です。厳密に言うと、神様は天地の主ですから、全世界を支配されいています。ですが「神の国の到来」ということに関して言えば、神の国は私たちの中に訪れているわけです。そして、私たちの中に訪れているということは、私たちの周りの出来事も、私たちの存在とともに、神の国の支配に置かれているとわかります。
 さらには、この神の国の支配には、3 神の国における私たちの姿勢、つまり神の国に対する私たちの反応があるわけです。私たちの態度のことです。
 まとめますと、「神の国の到来」という事実についてわかることは、1 信じる者に神様の御支配が始まっていること、2 その支配は、信じる私たちの周りに起こる出来事に及んでいること、3 私たちの反応も、神様の御支配に置かれていることです。

すべてを喜ぶ

 私たちは「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ 5:16)」と命令されていますが、神の国の支配にあって、神の国が訪れているという現実、すべての出来事、自分自身のうちに起こる感情、これらすべてを神の国の到来の結果として、喜ばなければなりません。神様は、これらすべてを御支配され、ことをなされているのですから。
 すべてのことを主に差し出そうではありませんか。まず、神様の御支配に置かれていることを喜びましょう。そして、すべての出来事は、自分に神の国が到来した、結果として起きていることだと、すべての出来事を喜びましょう。さらには、自分の心に起きている感情が、辛く惨めで、怒りと不安に満ちているとしても、喜びましょう。すべては主の御支配の中で起きていることです。主はこれらすべてを支配されているのです。主は必ず、これらを益として導かれて行くのです。
 苦しみの現実と、それにうろたえている自分の思いと、それらがあるなら、そのまま主の御支配に差し出しましょう。閉塞感のある現実と、希望の持てないこの思いと、それらがあるなら、そのまま差し出しましょう。ここは神の国なのです。その支配下にすべてを置かなければなりません。神の国では、すべてのことにおいて、私たちは必ず勝利するのです。
 すべてを差し出して、出来事も、心にあることも、神の国にあることを心から感謝し、喜んでいることです。私たちは、私たちの王である神様に心から信頼します。

17.09.17 神の国は力にある

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「第1コリント人への手紙 4:20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。」

神の国の福音

 イエス様の宣教第一声が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ 1:15)」でした。誰でも、イエス・キリストを信じる者に、神の国が到来すると言われたのです。私たちは、イエス・キリストを救い主として信じて救われますが、その恵みは、将来の天国の希望だけではありません。福音、よき知らせは、神の国が到来し、私たちがこの地上にあっても、神様からの奇跡の恵みを受けるということなのです。
 イエス様は「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。(ルカ 11:20)」と言われました。イエス様がそこにおられるなら、神の国がそこにあるということです。
 神の国とは、神が王である国のことです。イエス・キリストこそ、まことの神であられ、王であられる方です。この方がおられるということは、そこが神様の支配下にあるということです。イエス・キリストがそこにおられるなら、そこは天国なのです。天国ならば、神様の奇跡の働きが当然のごとくそこにあるのです。

信じる者とともにおられる主

 よき知らせは、誰でもイエス様を主と信じるなら、イエス様がその人とともにいてくださるという知らせです。あなたが、イエス様を信じるなら、他の方を待つ必要はありません。他のものを求める必要もありません。そこには神の国の働きがあるのです。
 主が働きをされているそのうわさを、獄中で聞いたヨハネは、弟子たちを遣わして、主に質問をしました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか(マタイ 11:3)」。このことは、ヨハネのつまずきでした。主は次のように答えています。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです(同 4-5)」。「私のしているわざを見なさい。これこそ神の国の到来です。見てわかることではありませんか」と言われたことでした。
 イエス様を信じる者とともに、イエス様はいてくださっておられます。私たちは別の方を待つ必要はありません。もし、他の方、他のことを求めるなら、それはつまずきであると戒められていることです。ですから続いてイエス様は「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです(同 6)」と言われています。主がおられるなら、神の国がそこにあるという信仰を、私たちは持たなければなりません。

あらゆるわずらいからの解放

 イエス様は、弟子たちを街々に遣わしましたが、そのとき次のように述べられています。「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい(マタイ 10:7)」。「天の御国が来ましたよ」と人々に知らせなさいということです。そして、そのことをあかしするために「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい(同 8)」とも、命じられたのです。
 天国に行くことができるということはもちろんですが、この地上においての、わずらいからの解放がよき知らせなのです。天国(神の国)が来たとは、この世においての、病や死、悪霊からの解放がやって来たということです

神の国は力にある

 パウロの宣べ伝えている福音について、色々と反対の意見や間違った福音を主張している、思い上がった人たちがいたようです。その彼らに対して、パウロは「神の国はことばにはなく、力にある」と言います。理屈の説明による議論の優劣を競っても、虚しいことだ、ということです。実際に神の支配がそこに到来してなければ、福音と言っても、ただの人の考えにすぎません。イエス・キリストがそこにおられて、天国のわざが行われていてこそ、福音です。ですから「神の国はことばにはなく、力にある」と力説していることです。
 イエス様がともにおられます。主は見えないけれども、主のなされるみわざは見ることができます。主がここにおられるあかしとして、主は御国の奇跡のわざを示してくださいます。このことを信じる信仰を持って、まず私たちがその恵みを受け、さらにそれをあかししてまいりましょう。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と、私たちは命令を受けているのですから。

17.09.10 生ける水の川

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「ヨハネの福音書 7:37-39 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

復活の主の約束

 イエス様は、十字架に死なれ、墓に葬られ、そして三日目に復活されました。その後「四十日の間、彼ら(使徒たち)に現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され(使徒 1:3)」ました。
 そして、主は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです(使徒 1:4-5)」と命じられました。そこで、彼らは、一緒に集まった120人とともに、祈って待ちました。それは、10日間にわたりました。その結果、一同の上に聖霊が降り、そこから教会の働きが始まりました。
 この出来事は、掲題のみことばの約束の成就でした。イエス・キリストを「信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」という約束です。イエス様が「栄光(十字架に死なれ、復活され、昇天される)」をお受けになり「御霊」が注がれたのです。
 イエス様が、大声で言われた時は「まだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」のですが、今は、信じる者には、御霊が注がれるのです。

生ける水の川

 私たち人間は、罪人であり、自分を正しくすることができません。誰でも、前向きに、希望に溢れ、喜んで、前進して行きたいと思います。健やかで、愛に溢れ、平安であり、充実した日々を送りたいと思います。しかしながら、自分をコントロールすることができません。人や環境のはざまで、押しつぶされ、前向きな思いは、いつも、恐れや怒りで破壊されてしまいます。このような事実に、すべての人が悩んでいます。心の渇きとは、これらのことが満たされないことです。これは「たましいの渇き」です。この渇きは、全人類の共通の問題でしょう。
 聖書は、これらの敗北は、私たちが神様から離れているからであると説明します。私たちは、神様から離れては、何もできないのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ 15:5)」
 そこで、主は、信じる私たちに「生ける水の川」を与えるために「御霊」を注いでくださるのです。信じる私たちが、聖霊(御霊)を受ける時、心の奥底から喜びが湧きあがります。ビジョンに燃えるようになります。罪意識とさばきの恐れから解放され自由になります。これこそが、私たちが欲していることです。
 そして、この御霊は「生ける水の川」となって、私たちの「心の奥底から」「流れ出るようになる」のです。「生ける水の川」は、尽きることがありません。一生の間、その人を潤します。
 水は低いところを探し求めて、周りを潤して、流れて行きます。信じる者は誰でも、この「生ける水の川」によって、たとえ再び渇きを覚えるようなことが起きても、いやされ、潤されていくのです。これが「御霊」の働きです。

渇いているなら

 さて、この約束はイエス・キリストを信じ、渇いている者、つまり求める者に、与えられるとみことばは教えています。私たちは、主の助けを必要としています。イエス・キリストは、復活され、今も生きて働いておられるお方です。2000年前にこの地上を歩まれたときと同じように、今も同じように働いておられます。今も同じように病を癒し、悪霊を追い出し、同じように奇跡を行われる方です。今は、信じる者のうちに働き「生ける水の川」を流れるようにされ、人をいやし、解放されるのです。
 人は、是非とも復活の主に出会わなければなりません。そして、出会うことができるのです。主の十字架と復活は、そのために成し遂げられました。
 信じるなら、渇いて主との出会いと主の働きを求めなければなりません。渇いて飲むこと、それが私たちのするべきすべてのことです。

17.09.03 天の御国は近づいた

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「マタイの福音書 10:7-8 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

宣べ伝えなさい

 イエス様は、弟子たちに対して「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい」と命令されました。そしてさらに「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい」と命令されました。この働きは、もとよりイエス様ご自身が始められたことでした。主は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ 1:15)」と宣べられて、数々の奇跡のわざを行なって行かれました。そのみわざは、神の国(天国)がここに来ている、ということのあかしとしてなされたことでした。ルカの福音書において、主は「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです(11:20)」と言われ、イエス様のみわざこそ、神の国の到来であることを、明言されました。
 つまり、福音、よき知らせとは、イエス・キリストのここにおられること、と宣言されているのです。イエス様は、私たちの助け主として、地上に来られ、苦しみの中にある人たちが、イエス様によって、助けられ、解放されて行ったことでした。
 弟子たちは、イエスの名を帯びて、神の国の到来を宣べ伝えました。そして、イエス様の名によって、イエス様がなされるわざを行なって行ったのでした。

復活の主を宣べ伝える

 イエス様は、十字架につけられ、墓に葬られ、三日目に復活をされました。そして、弟子たちをはじめ大勢の人々に現れてくださり、ご自身が生きていることをあかしされ、天の御国について教えられ、天に昇られました。天に昇られる前に主は「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(使徒 1:8)」と言われました。主を救い主と信じる者は、主の弟子であり、主の「証人」であるのです。
 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかし(使徒 4:33)」しました。彼らは復活の主の「証人」でありました。「イエス・キリストは、まことの神であり、復活して今も生きており、信じる者とともにおられるお方である」という知らせが福音です。そして、その知らせを伝え聞いた私たちは、信仰によって主を受け入れました。その結果、今、私たちは、御霊として存在される主に出会うことができます。まさしく復活して生きておられる主に出会うのです。

イエスがともにおられるから

 主がともにおられるところが天国です。そして、そのしるしとして、主のなされたわざがなされることです。復活の主に出会うという体験を、私たちはするのです。ですから、「私は復活の主に出会いました」ということを「証人」としてあかしをすることになります。
 また、ここ(信じる私たち)に天の御国が来ているので、主がなされたいやしと解放のわざがなされるわけです。これは、主ご自身が約束された、主のあかしの働きです。
 私たちは、是非とも、復活の主に出会うという体験、そして、ここに御国が来ているという体験、をしたいものです。ある人にとっては、主にお会いするという体験が、劇的な形で起こることでしょう。ある人にとっては、静かな、心の中の明確な確信という形で起こるでしょう。いずれであっても、復活して今も生きているまことの神様との出会いを果たしていることです。
 そして、その喜びゆえに「キリストは今も生きている」と伝えることになります。そのとき人に伝えることばは「天の御国(天国)が近づいた」と言うことです。あなたの知らせを聞いている人に、近づいていることです。そして、その人が受け入れれば、その人にも天の御国が訪れることになります。その人もまた、イエス様とともに人生を歩む体験をして行くわけです。

心の問題ではなく

 イエス・キリストを信じる信仰とは、単に、心の問題のことではありません。心のありようのことでも、考え方が前向きになることでも、心構えのことでもありません。また、行いに関することでもありません。実際に、今も生きている主に出会うことの体験です。
 考え方や、行いに影響は受けますが、それは学んで、変えていくことというより、出会った結果、変わってしまうからです。聖書にあるイエス様に出会った人々のように、主に出会って変えられない人はいません。イエス・キリストに出会うことこそ、人が人生の苦しみから解放される唯一の道です。
 復活して今も生きている主は、私たちが実際に出会うことのできる方です。主との出会いを求めて参りましょう。

17.08.27 神の国の福音

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「第一コリント 人への手紙 15:3-7 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」

初代の教会が宣べ伝えたこと

 初代教会のクリスチャンたちが宣べ伝えたことは「あかし」でした。それは、イエス・キリストが十字架に死なれて、三日目に復活をされたという、キリストが今も生きているということを、あかししたのでした。
「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(使徒の働き 4:33)」 パウロは「最も大切なこと」として、イエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪の身代わりであるという事実、確かに墓に葬られたのだという事実、そして三日目に復活されたという事実、使徒たちに現れてくださったという事実、その他多くの信じる者に現れてくださったという事実、を伝えました。初代のクリスチャンはイエス・キリストが、復活されて、今も生きているまことの神であること、をあかししたのでした。

イエス様のなされたこと

 イエス様は、神様が人となってくださった、まことの神の御子であられる方です。イエス様がこの地上にこられた目的は、人として、私たちと同じように歩んでくださるためでした。人としての歩みを経験してくださいましたから、私たちの弱さを知っていてくださる方です。そして、罪の誘惑の世にあっても、決して罪を犯さないで、勝利の人生を歩んでくださいました。 さらに、イエス様が人となってくださった目的は、十字架の上で、私たちの罪そのものとなって裁かれてくださったことでした。罪のない方が、私たちの身代わりとして死んでくださったのです。 確かに2000年前に、十字架に死なれ、墓に葬られました。そして、三日目に確かに復活をされました。イエス・キリストこそ、今も生きている、まことの神であられます。今も2000年前と同じように、生きて働かれているのです。

イエス様の伝道の働き

 イエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ 1:15)」と言われ、宣教の働きを開始されました。それからすぐさま、弟子たちを召し、神の国のあかしとしての奇跡のわざをなさって行かれました。悪霊につかれた人を解放し、病の人をいやし「神の国はここに来ているのだ」とあかしされました。 イエス様は、12弟子を選ばれましたが、そのとき「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ 10:7-8)」と言われました。そして、さらには「別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしに(ルカ 10:1)」なりました。イエス様が始められた、神の国の福音を宣べ伝える働きを、弟子たちに継承させるためです。 神の国が「あかし」として伝えられることが、イエス様のしてくださったことで、それを弟子たちに教え伝えられたのでした。

神の国とは

 イエス様は「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます(マタイ 24:14)」と言っておられます。「すべての国民に」「あかし」として、伝えられなければならないのです。「福音」とは「神の国は近くなった」という「よき知らせ」なのです。マタイの福音書の単語を数えるだけでも「神の国(御国)」が52回です。「十字架」は16回、「悔い改め」は7回です。これを見ても「神の国」の重要性がわかりますし、「福音」の本質は「神の国」であることがわかります。イエス様の教えは「神の国」についてでありましたし、たとえ話もほとんどが「御国」についてでした。 イエス様が弟子たちに命令されたのは①「『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい」「病人を直し」「死人を生き返らせ」「らい病人をきよめ」「悪霊を追い出しなさい」です。 神の国が来るとは、神の霊による力ある働きがなされることであることがわかります。主が言われた宣教の具体例が、この世においての、病、死、らい病、悪霊からの解放であるのです。

継承されるイエス様の働き

 イエス様が始められた神の国の福音のあかしが、力ある聖霊の働きによってなされ、それが弟子たちに継承され、さらにはイエス・キリストを信じるすべての者に継承されることが主のみこころです。 私たちが信じたイエス・キリストはどういう方なのかあかしをしなければなりません。「私たちの罪のために死なれたお方、三日目に復活されたお方、今も生きて神の国の到来をあかしされるお方」であることを私たちはあかしするのです。そのあかしに、主の奇跡の働きが伴うことを心から感謝します。主ご自身が私たちのあかしが本当であることを、あかししてくださるのです。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。(マルコ 16:17-18)」

17.08.20 キョロキョロするな

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「ヘブル人への手紙 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

キョロキョロするな

 先週の月火と聖会に参加しました。多くの兄弟姉妹の参加を心から主に感謝します。また、都合で参加できなくて、祈ってくださった方、ありがとうございました。
 聖会の中で、皆さん大変恵まれたことと思います。心に強く残ったことがおありかと思います。ある人は「腹を決める」ということばに動かされました。ある人は、献身の招きに応答しました。全員の方が、何かをいただいたと思います。
 私は講師の先生のメッセージの中で「キョロキョロしないで」ということばが強く心に響きました。私は結構キョロキョロして、周りを気にしているのではないか、と思ったのです。本日のみことばは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ですが、自分はイエス様から目を離していることはないか、と問われたことです。イエス様を見上げていないことはないつもりです。しかし、イエス様だけを見続けているのか、と言われると、そうではない気がするのです。人の批判や評判をとても気にする思いが依然として存在しているのかな、と考えさせられました。「依然として」というのは、そのことは以前にきっぱりと縁を切ったことがあったからです。

十字架だけを目指されたイエス様

 イエス様の地上に来られた目的は、十字架で死なれるためでした。その途上、どんな妨害があっても、苦しみがあっても、恐れがあっても、まっしぐらに十字架に向かわれ、その苦しみに耐えてくださいました。
 私たちは、十字架のみわざを成し遂げてくださったイエス様から目を離さないでいなければなりません。イエス・キリストだけが答えなのですから。イエス様は「信仰の創始者であり、完成者」です。
 私たちはイエス様を通して、イエス様のみわざにあずかる人生を歩むことができます。見えないイエス様が、私たちとともにいてくださり、2000年前と変わらない、イエス様の働きに助けられるということです。イエス・キリストを信じる信仰を通して、私たちは、今日も同じように、弟子たちが見た、悪霊を追い出し、病を癒し、必要を満たし、自然を動かされる、イエス・キリストのみわざを見ることになります。
 もし私たちに敗北があるとするなら、イエス様から目を離した瞬間があるから、ということではないでしょうか。

教会成長論文

 もう10年以上も前になりますが、教会成長研修があり、そこで2年間学びました。その時の講師の一人に、佐藤先生がおられ、お世話になったことがあります。最終の論文のチェックにおいて、佐藤先生からの励ましを受けたことを、思い起こしました。
 私の考え方は、日本のキリスト教会の平均的なものから離れた、ユニークなものだったと思います。それに対して、先生は「これについて、直してはいけない。このまま行きなさい。他の教会と同じになろうとしなくて良い」とコメントしてくださり、大変励まされました。
 私の心には「同じでないと非難される」という恐怖があり、当時新参者であった私は、なるべく非難されないように、と気を使って他の教会や先生方のやり方、考え方について、色々と学んでいました。しかしながら、自分の神様から与えられたビジョンがありましたので、大胆に論文にしたためたのでした。ところが思いもよらぬ、反応に感激をしたわけです。
 私のそれまでの働きは、はっきりしていました。周りの助けを求めないで、イエス様だけを仰いで、主の助けだけで進んで来たのでした。ただ、人が救われる、人が解放される、人がいやされる、これらのことだけに一生懸命でした。
 この働きを人に知ってもらうことは考えず、ただ主だけを仰いで、やって来たのです。しかし、論文によって、人に積極的に知らせることになりましたから、いくばくかの不安があったものです。そんな時に、先生の励ましは私を奮い立たせました。
 「どんな批判、中傷、攻撃があっても、決してそれと戦わず、屈せず、必要があれば悔い改め、すべてを肥やしにして、成長するべきだ」と言われたことばは、そのままその論文に加えて、完成させました。また、その何年かのちには、5年をかけて博士論文にも挑戦しましたが、あの時の支えが、学位取得に向かわせたのでした。

新しい未来に向かって

 先生の教会は、震災によって流浪を強いられ、全く未知の土地で再出発をすることになりました。そのとき、何十人かの教会員とともにそこに移り住み、宿泊施設、教会堂、などを次々と建てていく時、困難な中にも主の奇跡があり、不思議と道が開かれていったようです。
 そのとき、同じように先生の心にも「周りの人々の反対に遭うのではないか」などの恐れがあったようですが、全く心配していたことは、起こらなかったということでした。
 「神様が用意してくださる未来に向かって、人間の弱気、半身、などをどこかで振り切って、覚悟を決める必要がある」とメッセージの中で語っておられました。まったくその通りだと思います。このことは実に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」ことによってのみ可能だと思います。キョロキョロするなと、改めて教えられました。
 主だけを見続けて、信仰によって歩んでまいりましょう。

17.08.13 見えていないのですね

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「ローマ人への手紙 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

本当の幸せ

 多くの方の考え方や振る舞いを見る時、ああこの人は見えない世界が見えていないのだな、と感じさせられます。見える世界だけを見ている人の生き方は、一見幸せそうに見えても、決して本当には幸せではありません。どんなに充実しているように見えても、いつどうなるかと、戦々恐々としているものです。多くの人々に囲まれて幸せそうであっても、実際には心許せる人がいなくて、孤独であったりします。人の注意を引き付けるために、一生懸命です。どんな人でも、隠れた悩みがあり、心の闇があります。周りにはそれを隠して生きています。人間とはそういうものです。
 聖書が教えるように人は罪を犯したので、神様から離れています。神様から離れた人生に、本当の幸せはありません。常に恐れが付きまとうのです。そして、多くの人は、見える世界しか見ませんから、見える世界に幸せを求めようとします。
 そのようなことから、クリスチャンであっても、世の中で楽しんで生きている人を見ると、羨ましく思うのです。そこに魅力ある人生の答えがある、かのように錯覚してしまいます。そこで、ついつい世に調子を合わせてしまうことになってしまうのです。
 見えない世界に本当の幸せが示されています。それを見ることができていないことが、これらのことの根本原因です。あなたは、見えない世界のことが見えているでしょうか。

神様がおられるという幸せ

 神様が見えているでしょうか。どうしたら見えるのか、すでにお話ししてきました。見えない神様の世界のことは、神様からの啓示である聖書が、教えています。イエス・キリストを通して、神様を知ることができること、信じる者とともにいてくださること、信じる者のうちに住んでいてくださること、などがみことばによってわかります。これらのみことばをそのまま受け取るのが信仰です。信仰によって、私たちは見えない神様を見ることができるのです。
 私は神様に愛されているのだ、この方の子どもなのだ、この方がうちに住んでおられるので、この方と心の中で会話をして生きていけるのだ、ということが信仰によってわかります。自分の味方であり、不可能のない、奇跡をもって答えてくださる方と人生を歩むことができるのです。
 さらに、この方とだけの会話がうちにあり続けることが本当に幸せです。敗北は、まず心の中から始まります。今までは、他の何者かとの会話がありました。そいつは破壊者であり、私たちの敵です。常に私たちを恐れさせ、私たちを壊します。私たちの味方ではありません。励ましたり、助けたりしないのです。こんな者との会話がなくなり、まことの神様との会話だけに生きられることが、本当に幸せです。世の中の人は、こんなことを全く知りません。見えていないのです。あなたはどうでしょう。

目標があるという幸せ

 「何のために生きるのか」は、悩む者の問いかけの必須項目です。あなたもそう考えたことがあったのではないでしょうか。今やっていること、今生きていることに充実感がない。充実感が欲しい。やりがいが欲しい、生き甲斐が欲しい。どうすれば、何をすれば、それらが得られるのか。あるときは、求めて、やけになる。人に反抗し、世に反抗し、ハケ口を求めて生きるようになる。そのようなことが、一般的な人々の反応です。そこには、神様に向けている怒りがあります。「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(箴言 19:3)」
 見える世界だけしか見えていませんから、そこから生まれて来るものは、敗北でしかありません。良くて人との比較による勝利です。勝ち組あるいは負け組などのことばが使われています。みんな、見えない世界が見えていないのです。
 この世界は、神様の栄光を現すために造られました。人は神様の栄光として造られています。人を見れば、創造主である神様の素晴らしさがわかります。私たち人間は、神様の栄光を現すために生きています。私たちが主に従い、あるいは主に使われて、多くの実を結ぶ時、周りの人々の口をもって、天の父なる神様がほめたたえられます。「この人をこんなに祝福したのは、彼らの神様である」と、周りの人々の口が言うことになります。神様が栄光を受けるのです。私たちが、見えない世界の神様を見て生活しているので、周りの人には私たちの祝福の原因が、私たちの信じている神様によってである、と明らかなのです。
 見えない神様の世界を見て生きるなら、人生の目的は神様の栄光である、と明確にわかります。

同じ方向を見る人がいるという幸せ

 世の人々は、私たちが、世の人々と同じような愉しみに走らないので、あるいは付き合おうとしないので、不思議に思い、また悪口を言う場合があります(1ペテロ4:4)。そのような時、えてして私たちは、人に調子を合わせようとしてしまいます。仲間外れになることを恐れるのです。あなたは、見えない世界が見えているでしょうか。
 あなたの目の前にいる、世の人々は、神様がこよなく愛している人です。神様は、滅んで行かせたくないと思っています。そして、彼らは満たされていません。戦々恐々としています。心に怒りや不平不満が渦巻いています。もっと深刻なことは、自分で自分をどうすることもできない霊的な問題で苦しんでいます。本当は愛したい、本当は打ち込みたい、本当は成長したい、本当は高い志に生きたいのです。
 あなたが見えない世界を見ているなら、そのようなものはみな持っています。人々は、あなたの持っているものを欲しがるはずです。その時、あなたは彼らにそれらを与えられるのです。世と調子を合わせないなら、です。見えない神の霊的世界を見て生きているなら、です。
 あなたの周りにいる人は、あなたが愛すべき人ではあっても、あなたに影響を与える重要な人ではありません。あなたが彼らにとって重要な人なのです。彼らがあなたを必要とするのです。
 あなたにとって、重要な影響を与えてくれる人は、見えない神の世界を見て生活している兄弟姉妹です。あなたが、見えない世界を見ようとしているなら、彼らは同じ方向を見る人々です。見えない世界を見て生きるなら、同じ方向を見る人がいると言う幸せがわかります。

毎日良くなっていくという幸せ

 この世においては、取り返しがつかないという問題が存在します。そこで、人々は心機一転し、過去を忘れて新しく生きようとします。また、一度悪くなったものは、良くならないと考えています。そこで、人間関係にしろ、経済にしろ、健康にしろ、これ以上悪くしないために、ここで食い止めることが最善と考えます。食い止められることは、それはそれで感謝なことです。どんどん悪くなっていくことが、現実だからです。
 しかし、見えない神の世界はその状況において何を教えているでしょう。私たちは、地上を歩まれたイエス様と一緒に生きることができます。イエス・キリストは昔も今も変わりません。奇跡をもって答えてくださいます。私たちは、主に全面的に信頼することができるのです。見える世界は、自然の法則の世界です。しかし、見えない世界には超自然の働きが繰り広げられています。
 悪くなることを食い止めることのみならず、さらに良くなっていくことを期待できるのです。主は「よくなりたいか(ヨハネ 5:6)」と言われています。
 見えない世界を見て生きているなら、超自然の神様の働きは、いとも自然に、見える世界に現れて来るのです。あなたの信仰を通してです。
 「見えていないのですね」と言ってあげられる人になりましょう。

17.08.06 信仰によって見えない世界を歩む

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「Ⅱコリント 5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

見えない世界に目を留められる

 私たちは、見える世界と見えない霊的な世界の両方に生きる者です。見えるものだけが全てであるという人もいますが、私たちは、見えない霊の世界、精神的な世界があることを信じています。
 ほとんどすべての人が、なぜ自分は存在するのか、なぜ人間は他の動物と違って特別な存在なのか、などを考えます。人生の意味を見出そうとして、多くの人は、悩んだ経験を持っています。
 そのような迷いや苦しみの中から、多くの人が、イエス・キリストを信じて救われてきました。私たちは、見えない霊的な心の世界に、安らぎを求め、希望を求めて、そこから救われたのです。
 見えない世界の神様の存在とその働きを信じました。罪の赦しと、神様との和解が、霊の世界で実現しました。今、神様に受け入れられ、神様の子どもとされています。これらは、見えない霊の世界の事実です。
 救われた私たちの特権は、見えない霊的な世界に目を留められることです。救われる前は、見えない世界の中で迷いや恐れは感じることはあっても、見えない世界の中に希望を持つことは難しいことでした。しかし、今は、見えない神様の約束を信じ、天国への希望を持つことができるようにされています。見える世界と見えない世界の両方に生き、しかも、勝利して生きられることです。
 見える世界の出来事だけが事実ではなく、見えない世界の出来事こそ、事実であることを知っているのです。そこで、私たちは、見えない世界にこそ目を留めるのです。

信仰によって

 見えない世界の出来事を知る方法が信仰です。クリスチャンは誰でも「見るところによってではなく、信仰によって歩」みます。
 見えない霊的な世界のことを知るのは、私たちの想像力などではありません。たとえば、そう思えるとか、そう感じるとかのことではないのです。ある人たちは、神様がおられることを「感じる」ことや、神様がしてくださると「思える」ことが信仰だと思っています。しかしそうであれば、感じることも思えることもなくなった途端に、信仰もなくなるでしょう。
 見えない世界のことは、私たちの感覚によって決まるのではありません。見えない霊的な神様の世界のことは、私たちにわかるものではありません。一生懸命に、感じること、理解できることを訓練して、わかるようにはならないのです。
 見えない世界のことは、神様からの啓示によってでなければ、わからないのです。神様からの啓示とは、人の側からの求める努力によってのことではなく、神様から提供される情報によってということです。神様が示してくださらなければ、人には何一つその真実はわからないということです。

みことばが教えること

 それでは、啓示はどのように私たちに与えられるのでしょうか。それは、聖書のみことばによってです。みことばは、見えない神の霊的な世界の事柄について、教えています。
 たとえば、神様はおられることを教えていますし、神様が私たちを愛していることを教えています。神様が最善をしてくださっていることを教えていますし、神様のみこころは私たちが祝福されることだと教えています。神様は奇跡をもって、私たちの祈りに答えてくださる方だと教えていますし、私たちが心を合わせて祈るなら、必ず聞いてくださることも教えています。
 みことばによって、見えないけれども、目の前に、神様の導きと戦いの繰り広げられていることを知ることができます。
 信仰とは、それら神様の示してくださっていることを受け取る方法のことです。信仰は、神様の教えてくださることを受け取る決意のことです。私たちが感じること、思うことに左右されることなく、神様が言われるから真実である、と決意し受け入れることです。
 そうすることによって、感覚によってはわからない霊の世界の事実を見ることができるのです。見えない神様を見ることができます。見えない神様のみこころがわかります。神様が何をなさってくださるか、将来に起こる勝利の出来事をあらかじめ見ることができます。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」

神様に敵対しないことが祝福

 神様は私たちの味方です(ローマ 8:31)。味方をしてくださる方に反抗していませんでしょうか。見えない霊の世界の啓示に対して、不平不満の態度で応答しているなら、神様に対して反抗していることです。
 神様は「わたしはあなたをそこに置いた」と言われていないでしょうか。「なぜ、見るところによって、生きようとするのか。信仰によって見よ」と言われていないでしょうか。
 信仰によって見えない世界を見るなら、そこには勝利が繰り広げられていることがわかるのです。もし、見えない世界で、神様に敵対しているなら、見える世界で敗北しているのは当然のことではないでしょうか。

17.07.30 見える世界と見えない世界

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「ヘブル人への手紙 11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

見える世界と見えない世界

 私たちは見える世界と見えない世界の両方に同時に生きるものです。このことは、見える世界だけを信じる人たちには、全く理解できないことです。唯物論者は、見える世界の現象だけを真実とみなし、見えない世界の働きについては、全く否定します。
 しかし、聖書が教えていることは、見える世界と見えない世界があるということです。見えない世界とは、どんなことを言うのでしょうか。神様は霊であって、見えません。しかし、神様は存在されるお方です。見えない神様やその働きを知るための手段は、「信仰」です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです(ヘブル 11:6)」。信仰によって私たちは、見えない神様と霊の世界のことを「悟るのです」
 見えない霊の世界の働きには、3種類のものがあります。まず、神様は霊です。そして、私たち人間も霊的な存在です。見える肉体に見えない魂(心)を入れています。さらには、魂の奥に、イエス・キリストを信じて、いのちを得た霊(神様と交わる働き)があります。そのほかの霊的な存在は、悪霊と呼ばれる、神様に反抗し、人間を汚そうとする悪い霊です。このような見えない霊の存在があるのが、見えない霊の世界です。私たちは、見える世界にいながら、同時に見えない世界にも生きているのです。

見えるものは見えないものから

 本日のみことばは「見えるものが目に見えるものからできたのではない」と言います。見えるもののすべては、見えるものから生まれてきたものではない、ということです。言い換えるなら、見えるものは、見えないものから生まれている、ということです。
 この世の、見える世界に存在するすべてのものは、見えない霊の世界によって、生み出されている(造り出されている)のです。すべての人は、神様によって造られました。宇宙や自然も神様によって造られました。建物や道路や、衣服や道具は、どうでしょう。この世にあるすべての原材料は、神様によって造られ、準備されました。そこには、物理や化学の法則があります。これらもみな、神様が造られました。人はこれらの材料や法則を用いて、ものを生み出しています。人に創造の仕組みを与えたのは神様です。
 人が心に想像するものは、この世に形をとって現れます。人間に心を与えたのは神様です。この能力を持っているのは人間だけです。動物にはありません。たとえ、人間が新しくこの世に造り出したように見えるものでも、すべてはみな、見えない神様の働きによるものです。すべての見えるものは、見えない神様の世界から出ているのです。
 見える世界と見えない世界の、両方に同時に生きる私たちにとって、両方の世界が、大変密接な関係を持っていると悟らなければなりません。見えない世界の出来事が、見える世界に影響を与えているのです。霊の世界で起きたことが、見える世界に現われるということです。

霊の世界の説明 聖書

 イエス様が十字架につけられて三日目によみがえられた、というのは見える世界の出来事です。歴史の書物や人の証言によって知ることができます。では、このとき見えない霊の世界では何が起こっていたのでしょうか。イエス様は、私たちのために、身代わりとなって、十字架の罰を受けてくださいました。信じる者に神様の赦しの道が開かれたのです。このような霊的な勝利が、見えない世界でなされたのですが、このことを、私たちは聖書によって知ることができます。誰でも、ただ主を信じるだけで救われます。
 聖書は、私たちが見えない霊の世界で、どう生きるかを教えています。そして、私たちの霊的な反応が、見える世界にそのまま影響を持って現れてくるのです。
 「信じます」と告白した者は、罪が赦されます。そして、神様の子どもとなり、神様との交わりが始まります。霊の世界のこの出来事が、見えるこの世の私たちを新しくします。誰でも罪の責めから、本当に解放された人生を送るようになります。
 また、神様の働かれる宮として、神様の奇跡を見せられることになります。私たちが、霊的に「信じます」と応答したからです。聖書の求める要求に対して、私たちは素直に応答しなければなりません。でなければ、私たちの人生に良い影響が現われることがないからです。もし「信じません」と言うなら、霊の世界で神様の赦しは実現していませんし、神様の子どもともなれていません。この見える世界で、どんなに頑張っても、罪から解放された自由な生き方はできませんし、神様に愛されていることもわかりません。

「はい」は「はい」

 イエス様は「あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイ 5:37)」と言われました。ともすれば、あなたは「信じます」という告白をしたものの、「私にはその資格はない」とか「私にはふさわしくない」とかを言うようなことはないでしょうか。この見える世界に起きている、私たちの反応は、見えない世界で、どう応答しているかが現れているのです。
 あなたは、明確に「はい。信じます」と応答しているでしょうか。「はい。私はあなたに愛されています。嬉しいです。」と応答しているでしょうか。それが霊の世界の出来事として、信じて受け入れているでしょうか。この見える世界の自分が、どう感じていようと、何を思っていようと、関係なく、霊の世界の出来事が真実であるとして、まず霊の世界で、素直な応答をすることが必要です。
 霊の世界の信仰による応答がスタートであると悟りましょう。もし、自分の迷いや、不甲斐なさ、なげきがあるなら、見えない霊の世界で、自分が神様に反抗していることを悟ることです。

17.07.23 心を注ぎ出す祈り (9)私は十字架につけられた

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「ガラテヤ人への手紙 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

イエス・キリストを信じる

 だれでも、イエス・キリストを信じるなら、その人は新しく生まれた者(2コリント 5:17)です。私たちが、イエス様を救い主と信じるとき、明確に起きる二つのことがあります。ひとつは、死ぬということ、もうひとつは、新しく生まれる、ということです。
 私たちが、イエス・キリストを救い主と信じて受け入れるとき、私たちは「キリストとともに十字架につけられ」たのです。十字架につけられるとは、十字架によって裁きを受け、死刑になる、ということです。
 霊的な意味で、このことは信じた瞬間に起りました。霊的な事実だということとは、見えない霊の世界で、本当に起こったことだということです。つまり、神様の前には、真実であって、それゆえに、私たちの罪は実際に赦され、神様の子どもとされているのです。単なることばの上のことや、私たちの思い込みのことではなく、事実であることを知りましょう。
 霊的な神様にとって、そして霊的な神様を信じる私たちにとって、見えない世界のことだけれども、まぎれもない事実なのです。私たちはこの事実によって、裁かれない存在となりました。確かに、瞬時に罪が赦されて神様に受け入れられました。この霊的な事実は、信じる誰もが知っているのです。

キリストともに十字架につけられ

 そして、そのことをもう少し詳しく説明すると、信じた私たちは「キリストとともに十字架につけられました」ということなのです。このことが、霊的な事実として、私たちの身に起こりました。霊の世界で、私たちは死んだのです。それゆえに、死んだ者は裁かれませんから、私たちは律法から解放された、と言われているのです。
 死んだ者を裁く者はいません。もはや過去の罪は何一つ残っていません。私たちは死んだ者です。そうは思えないという人も、実際は自覚がないだけで、霊的には、死んだことは事実なのです。自覚を持つか、もう一度信じ直すか、です。決して、死のうとしてはいけません。どんなに頑張って、自分に死のうとしても、イエス・キリストを信じる以外には、霊的に死ぬことはできないからです。十字架につく以外にはないということです。
 クリスチャンとは、イエス・キリストに人生を明け渡した者で、そのとき、イエス・キリストとともに十字架につけられたのです。

新しく生まれた

 イエス・キリストを信じるときに起きる、ふたつ目のことは、キリストが三日目に復活されたように、信じた者はキリストの復活に与ることです。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ 6:5)」
 霊的に死んだ私たちが、復活させられるとき、新しい存在として生まれます。このことを新生と言います。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント 5:17)」
 誰でも、イエス・キリストを信じて、新しく生まれますが、新しく生まれた私たちは、以前の私たちではありません。以前の私たちは死にました。「古いものは過ぎ去」ったのです。新しく生まれた私たちは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という存在です。新しい私たちは、イエス・キリストと不可分であり、キリストとの合体が私たちです。私たちは、このような新しい存在なのです。

新しい存在として生きる

 私たちが信じる前に生きていたところは、この世でした。そして、信じた今もなお、同じこの世に生きています。つまり、信じる前も、信じた後も同じ環境の中に、同じように生きています。何も私たちの周りが変わったことはありません。人も、環境もです。しかし、確実なことは、同じ環境の中で、私たちは新しい、ということです。
 イエス・キリストと不可分の存在として、前と同じ水の中につけられています。同じ状況の中に置かれているのです。私たちは、この環境の中で、イエス・キリストとともに生きていくのです。この世という環境の中で、私たちの内側は、神の国なのです。
 以前と同じように、弱さを抱えた自分がいます。情けない自分がいます。そして、同じように困難な状況に囲まれています。問題があるでしょう。しかし、この困難な中をキリストとともに、キリストとの合体の自分で、神の国を内側にいただきながら、生きていくのです。いや、生きていかれるのです。
 私たちの自分に対する見方が変わりました。もはや、自分を頼りにする必要は無くなりました。自分が弱くとも、自分ができなくても、関係がありません。そんな私たちと、キリストが合体です。不可能のない方と結び合わされるなら、不可能は無くなります。
 周りの困難な環境が、同じなのに違って見えます。輝いて見えるのです。同じ景色なのに、輝いているのです。

この世に生きる意味

 救われた私たちが、すぐ天国に行かないで、この世に生きる意味は「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって」、今度は勝利して生きるためです。「キリストがこの世を生きるなら、見よ、このようにして生きるのだ」と主の栄光をあらわすのです。
 新しく生まれた者は、すべてを主に注ぎだして祈る者です。新しい自分は、すでに神様と一体不可分の存在です。無視して恵みを損なってはいけません。

17.07.16 心を注ぎ出す祈り (8)形を変えた恵み

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「詩篇 119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」

人間の本質 わがまま

 聖書は、人は罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることができない、と教えています。そして、そのような私たちが神様の恵みによって、救われたのだ(ローマ 3:23-24)と教えています。
 人間が生まれながらの罪人である、ということですが、罪の本質をわかりやすくいうと「わがまま」ということです。人間は元来、自己中心です。自分を中心として、自分なりに生きたい、と願っている「わがまま」な存在です。
 英語で罪のことを「sin」と言いますが、「S(南)」と「N(北)」の真ん中に「I(自分)」がある、のが罪だ、とたとえている人もいます。語源としては、正しくないようですが、わかりやすい説明です。世界の中心に、自分がいる、と誰もが考えているのではないでしょうか。
 利害を考えるときに、自分が不利にならないように、一生懸命です。悩んでいるとき、落ち込んでいるときも、自分一人が世界の中心で苦しんでいるように、感じたりするものです。常に自分中心に世界を見ますし、自分に関係のないことには、あまり関心を払いません。ましてや、自分を犠牲にして、人に与えるなどということは、とても自発的には考えにくいものです。
 そのような私たちに対して、主は、与えなさい(ルカ 6:30-35))と教えておられます。

聞く耳を持たない

 そのように、本質的にわがままである私たち人間は、自分のしたいことが最優先で、人の意見や願いなどに、聞く耳を持たないものです。イエス様は、放蕩息子のたとえ(ルカ15章)を話されました。息子は、聞く耳を持たないで、自分勝手に家を出ましたが、何もかも失って、惨めな状況になったときに、はじめて「我に返った」のです。
 生前贈与を受けて、家を出ていきたいと願う息子に対して、おそらく父親は、その危険性を諭したことでしょうし、父の願いは息子が家で幸せになってくれること、とその思いを伝えたことでしょう。しかし、息子は聞く耳を持ちませんでした。町に行って、一旗あげたい、という自分のしたいことが最優先でした。
 そんな彼は、やがて湯水のように自分の財産を使い果たしてしまいました。お金のあるうちは、人々も良くしてくれました。友達にもなってくれました。しかし、お金の切れ目が、縁の切れ目でした。誰も彼のそばにはいなくなりました。おりしも、あたりは飢饉に襲われました。人々は、自分の食べ物を確保するのに精一杯で、彼に恵んであげる余裕はありませんでした。ですから、彼は食べるものにも困ったのです。ものを乞うことさえできない、苦しい空腹が続く状態でした。

我に返る

 そんな彼が、ある人の世話で、豚の世話をすることになりました。豚の餌であるいなご豆をさえ、食べたいと思うほど空腹でした。食べようとしたのかもしれません。そのとき、彼は「我に返った」のでした。彼の脳裏によぎったことは、父の家では雇い人でさえ豊かに暮らしている、ということでした。「いったい自分は何をやっているのだろう」と彼は思いました。初めて、今まで考えもしなかった、自分の真実の姿、父の思い、家の祝福されていること、などを見始めました。「我に返った」のです。
 彼が、自分のしたいことにしがみついている間は、決して見ることのなかった、自分と自分を取り巻く周囲の真実の姿でした。お金があるうち、あるいはお金を失っても、まだ余裕のあるうちは、考えもしなかったことです。起死回生を願い、何とかしようと、頑張っているうちは、見る勇気のなかった真実の姿です。何となく、自分が間違ったのではないか、と感じながらも、それを認め、やり直すことはできないことでした。
 そんな彼が「もう逃げないで、罪を認め、雇い人で良いので受け入れて、と父に言おう」と決意しました。「我に返った」からできたことでした。

出発点に戻る

 息子は、父の言うことを聞きませんでした。父のことを思いやる心を持ち合わせませんでした。彼が自分の人生を歩む決断をしたのは、すべて自分の考えから出たことでした。
 彼が、放蕩している間も、父は彼のことを思い、祈り、忍耐を持って待っていてくれました。息子が、父に謝り、父の家で、父の言うことを聞いて生きようと決意するためには、彼が苦しみの人生を歩む必要がありました。苦しみにあったからこそ、我に返ることができたのでした。
 彼は、出発点に戻る決意をしました。しかも、さらに身を低くして、雇い人の一人で良い、とさえ言いました。そんな彼を待ち受けていたのは、父の恵みあふれる、あわれみ深い対応でした。彼に最高の身なりをさせ、宴会まで開いて祝ってくれたのです。出発点に戻った彼は、これからは父のもとで、父の言うことを聞いて、生きて行こうと心から思ったことでした。彼の心は「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」という本日のみことばそのものだったのです。
 私たちは、神様の恵みによって生かされています。そこから離れるようなことがあれば、あらゆる出来事を用いて、私たちを、我に返してくださるのです。苦しみは、形を変えた神様の恵みに他なりません。苦しみの中でも、心を注ぎ出す祈りの中で、私たちは、我に返るという、恵みを受けるのです。この苦しみがあればこそ、です。

17.07.09 心を注ぎ出す祈り (7)求められる顔の輝き

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「出エジプト記 34:29-35 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」

モーセの顔の輝き

 モーセはシナイ山で神様と語り、山を降りてきました。その時自分では気が付きませんでしたが、彼の顔は光り輝いていました。それも人々が彼を恐れて直視できないほど、光っていたのです。それで、彼は普段は、顔におおいをかけ、神様に出会う時には、それをはずしました。
 モーセの顔が光を放ったのは、シナイ山に登った時だけではありませんでした。彼は、神様からの語りかけを聞くために、荒野で宿営の外に会見の天幕を開き、そこに入って行きました。それで、モーセの顔はいつも光り輝いていました。会見の天幕から出てくるたびに、モーセの顔は光を放っていたのです。モーセは、顔と顔とを合わせるように神様に祈りました。神様の栄光に触れて、彼の顔は光り輝いていたのです。

輝いているだろうか

 モーセの顔の輝きの話を聞くと、果たして自分の顔は輝いているだろうか、と考えさせられます。あなたはいかがでしょうか。顔の輝き具合というのは、自分ではあまりわからないものかも知れません。人から見た時に、どう映っているでしょうか。
 顔の輝きというのは、顔だけの問題ではなく、それは内面からほとばしり出てくるものでしょう。つまり心の中に何があるか、心の中が光り輝いているか、の現れです。それは全体の雰囲気となってほとばしり出てくるものではないでしょうか。
 一度だけ、松山の教会に行っている時に、思わず言われたことがあります。「輝いていますね」。その時、特段何か良いことが起こっていたわけではありませんでしたので、意外な評価に戸惑いました。今思い起こしてみれば、「いつも喜んでいなさい」のみことばに夢中になっていた頃だな、と思わされます。周りには、生活や仕事には、苦難が溢れている。そういう中で、心は主にあって喜んでいる。そんなときでした。
 いつもそうなっていたいな、と今更ながらに、考えさせられます。

どのような時に輝くのか

 モーセは、顔におおいをかけましたが、そのおおいは、神様に出会う時には、はずしました。さらには、そのあと、神様から言われたことを人々に伝える時にも、顔のおおいは外されていました。しかし、そのほかの時には、顔におおいをかけていたのです。
 モーセの顔はいつも光り輝いていましたが、神様に祈る時、また神様のことばを人々に語る時、にはそのままおおいをかけないで、光を放っていました。普段の生活の場では、顔におおいをかけ光を抑えていました。
 私たちが光り輝くことができるのは、どのような時なのか教えられます。神様に祈る時、また神様のことを語る時、みことばについて語る時、そのような時に私たちも光を放つのです。日常の生活の中に、これらの時間がいかに多いかによって、私たちの人生は光り輝くのだ、ということです。輝いている理由、輝いていない理由、がわかります。

心を注ぎだして祈る

 モーセの顔が光り輝いていたのは、主と顔と顔とを合わせて、祈り、主の栄光を浴びていたからです。顔の輝きは、主の栄光の反映でした。ですから、祈りの部屋から出てくる時には、さらに光り輝いたのです。そして、その栄光を民は、主を恐れるように恐れました。モーセは主の栄光を放ちながら、民に主のみことばを語りました。民は、恐れつつそれを受け取りました。
 顔の輝きは、私たち主を信じるものに求められるものです。そして、それを手に入れる方法は、栄光の輝きである主との交わり以外にはありません。心を注ぎだして、何者にも邪魔されることなく、語り合い、交わることなのです。
 自分の奥まった部屋に入り、心注ぎだして祈りましょう。自分の心が主と出会い、喜びあふれるまで、祈ることです。

「マタイ 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

17.07.02 心を注ぎ出す祈り (6)み心を知る楽しさ

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「マタイの福音書 13:19-23 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

みことばがみこころ

 みこころ、つまり神様のご意志のことです。みこころは、すべて、みことば、つまり聖書のことば、によって知ることができます。
 みことばは、読めばわかるわけですが、それだからと言って、みこころを知ったということではありません。たとえ、みことばを暗記して、スラスラと言えるようになったとしても、みこころを知ったということにはならないのです。
 私が何を言いたいかというと、みこころは、みことばに現されてはいますが、その文字の背後にある神様の「お気持ち」、を知ることがさらには必要なことなのです。
 例をあげて説明しましょう。たとえば、神様が私たちを愛している、ということが聖書の多くの箇所に書かれています。このことで、誰もが、神様は私たちを愛してくれているのだ、とわかります。しかし、これだけでは、十分に神様のみこころを理解したとは言えないことなのです。
 たとえば、あなたは愛されていると聞いて、とても嬉しい気持ちになりました。神様に愛されているなんて、嬉しくてまさに有頂天。しかし、その思いがいつまでも消えないで、一生続いている、なんてことになっているでしょうか。そんな反応を見せる人にはあまりお目にかかったことがありません。
 聖書によれば、神様の愛は、私たちが飛び上がるほど嬉しく、しかも私たちの喜びは消えない、というほどのものなのです。であれば、そうなるために、みこころをもっと知りたいと私たちは思います。

神様の愛の大きさ

 あなたは愛されているとわかりました。しかし、どのように愛されているのでしょうか。神様は、文字どおり、あなた個人を指して「わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言われています。あなたは、個人的に愛されているのです。
 どれほどの愛し方を神様はなさっているのでしょうか。あなたの身代わりに、御子を犠牲にして十字架につけるほどの、犠牲の愛をもって、あなたを愛しています。なぜなのでしょう。神様は「あなたを失いたくない」と叫んでおられます。それほどあなたが大切なのです。
 「神様の愛の思いが変わることはないのだろうか」「こんな私が愛されるのだろうか」と思いますか。安心してください。神様は変わることのない方です。天地が造られる前から、あなたのことをご存知であり、あなたに対する愛は変わることがありません。あなたが信じる前も、信じてからも、罪を犯していても、悔い改めても、変わることのない愛であなたを愛し続けてくださっています。この先、あなたがつまづいたとしても、変わりなくあなたを愛し続けてくださいます。
 ただ、あなたが悔い改めれば、喜ばれますし、あなたが罪を犯せば悲しまれます。しかし神様のあなたに対する愛は変わらないのです。愛についてのみこころは、これで終わりではありません。まだまだあげることができます。紙面が足りないほどですが、ここではこれくらいにします。

壊されている

 ここで、一つ問題があります。あなたは、以上のようなことは、おそらく初めて聞いたことではないでしょう。以前にも、一つ一つのメッセージを喜びをもって受け取ったことでしょう。しかし、その喜びと、メッセージの真実味は、長続きしなかったのではないでしょうか。あなたの心の中に、壊す働きがあるのです。
 もし壊されていなければ、一つのみことばのメッセージを聞いたあの喜びと神様の真実味は、消えることなく続くのです。
 神様の愛に関するご意志の一部を知りました。そして、さらにその次のみことばによって、愛に関するご意志の一部を知って、神様の愛がどんどん大きく確かなものと理解できたはずなのです。
 ところが、最初に聞いた時の喜びが薄らいでいき、その次のみことばによって、また回復し、ついでその喜びも薄くなって行く、このようなことを繰り返して来たのです。
 何が起こっているのでしょうか。あなたの心の中に、神様以外との会話があるからではないでしょうか。私たちは、神様との会話の中に生きられるようにされました。ところが、もう一人の自分という存在や、その他の何者かとの会話が、心の中に確かにあるうようです。破壊する敵がいるのです。

主との会話の中にあるなら

 私たちの心の中に、主との会話が常にあるなら、神様のご意志に対する理解やその喜びが、壊されることはありません。私たちの心の中で、主との会話がなされているなら、そこに悪魔は入り込むことはできません。
 あなたが一旦知ったみこころは、新鮮な理解を持って、あなたの心に留まります。それらが積み重ねられて行くのです。主との会話の中にあるなら、あなたの理解は邪魔されることはありません。
 しかし、神様との会話の中にあるなら「その気になれない」「感じない」「わからない」など、否定的、投げやりな思いが支配することはなくなります。あなたは邪魔されることなく、どのような状況にあっても、その時のみこころを、すでに知っているみことばを積み重ねて、理解するのです。つまり、あなたは自分自身で、自分を建て上げることができているということです。
 心注ぎ出す祈りは、神様との会話は、このようにしていけば良いのだ、ということを確認させてくれます。あなたは、それを心の中に持ち込んで、(神様との会話によって)「考えるとはこういうことなのだ」「思うとはこういうことなのだ」「感じるとはこういうことなのだ」と確認できるのです。みこころを知れば知るほど、楽しくなります。

2019年 テーマ
「イエスだけ」

マルコ 9:8
自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。